第四夜 無駄な時間③

 それからすぐにジメジメとした梅雨がやってきた。ジャケットが鬱陶しい。冬場は寒さのあまりに「早く夏になれ」と願うのだが、いざ夏本番がくると「早く冬になれ」と苛立ってしまう。呆れるくらい自己中心的だ。

 劇的な日常が楽しそうだと言ってくれた鳥飼さんには申し訳ないが、このひと月は仕事に追われる日々で劇的さはなかった。オーガニック食品を扱う会社だが、季節の変わり目のとくにこの時期はサプリや飲料水の販売に力を入れている。飲みやすいハーブ茶などを取り扱い、これがかなり売れる。実質的な繁忙期であり、もれなくノルマは達成。しかし原さんに比べたらまだまだで、売上に貢献しているかと言われれば微妙なところだ。手応えはいつだって感じられない。

 そうして残業三昧の日々を送っている。

「あー、帰りてぇ」

 日が暮れた会社の外を見ながら原さんが言った。缶コーヒーを片手にこちらへやってくる。

 今は来るな。雑談している暇はないのに──と、これみよがしに売上伝票を作っているも、原さんは俺の横にやってきた。

「やる気なくなっちゃったー。疲れたね、喜多屋くん」

「ですねぇ」

 俺はパソコンの画面から目を離し、諦めた。

 原さんの雑談タイム開幕。こうなったら終わるまで付き合わなくちゃいけない。

「奥さんがさぁ、たまには早く帰ってきてよーって言うんだよ。でも、俺だって仕事があるし、帰ったら帰ったで小言ばっかり言われるしさぁ」

「いいじゃないですか。誰かが待ってる家って。俺には贅沢にしか聞こえません」

「いやいや、そんないいもんじゃないって。帰っても自分の時間はないから」

「そりゃ、お子さんいるなら大変でしょうね」

「まだ小さいからなぁ」

「いくつでしたっけ、息子さん。二歳?」

「来月で三歳」

 そう言いながら、原さんはスマートフォンを見せてきた。

「今日の息子。かわいいでしょー」

 原さんにそっくりなまんまるでパンパンな頬で笑顔を向ける男の子。原さんは朝、毎日息子さんを保育園に送ってから会社に来ているので、その写真はいつも保育園の門で撮影される。

「フォルダがえげつないことになってそうですね」

「そうなんだよ。毎日撮るとデータが重くて重くて」

 なんだかんだ言いつつ、子煩悩なんだよなー、この人。一人息子がかわいくて仕方なく、最近は流行りもののおもちゃを買おうか迷っているらしい。ただ、奥さんに内緒で買おうとしているので、それは阻止しなくてはならない。やんわりと「奥さんにも相談したほうが」と言い続けているものの、この調子じゃ来月の誕生日に勝手に買ってそうだ。やれやれ。充実してそうで大変うらやましい。

「んじゃ、もう仕事切り上げたらどうです?」

 俺は時計を見やりながら言った。現在、二十時。子供の就寝時間は想像がつかないので、適当にそれだけ言っておく。すると、原さんも時計に目をやった。

「そうだなぁ……喜多屋は帰らないの?」

「俺は待ってる人がいないので、もうちょっとやります」

「そっかぁ。ほどほどにしとけよ」

「はい」

 よし。これで邪魔は入らない。うまくかわせたことを喜ぶ。原さんはいそいそと帰り支度を始めた。

「じゃ、おつかれさーん」

「おつかれさまでしたー」

 そう声をかけて、俺はちらっと隣の席を見た。

「──おい、市田くん。存在感を消さないでくれないか」

 ここまでずっと息をひそめて仕事をしていた市田くん。彼は画面から目を離さずに言った。

「だって、原さんの雑談、マジで絶妙なタイミングで始まるし……余裕で二時間べらべら喋るでしょ、あの人。帰るの、十時になっちゃいますよ」

 そう言いながら超高速でキーボードを叩いている。そして、ひときわ大きくエンターキーを押す。彼は天井を見上げて勝利のガッツポーズをした。さながらランナーズハイのよう。

「ふぃー。終わったぁ……しかし、うまいこと乗せて帰らせましたね。さすが喜多屋さん。あざっした!」

「ふん。君も早く腕を上げたまえ」

 冷やかすように言うも、声はかなり疲れていた。

 よし、俺はまだ終わってないからな。さっさと片付けてしまおう。


 市田くんが帰ったあと、まだ部署内に残っていた他の社員に挨拶をして会社を出た。

 時刻は二十一時ちょっと前。空は曇りで、黒い背景に灰色の雲が浮かんでいた。星が見えないくらい湿気が漂い、目がぼやける。信号機の明かりも目に負担がかかりそうで、それでもスマートフォンを見る。信号待ち。

 結局忙しさにかまけて料理なんて出来ていない。道具も百円ショップで買ってみたが、使わずじまいだ。もったいなく感じつつ、スーパーに寄って半額、その上からさらに半額のシールが貼られた惣菜を無造作に取る。その際、酒類コーナーを通りがかった。

「くっ……」

 ダメだ。明日も仕事あるじゃん。疲れた体にアルコールを注ぐのはまずい。

 これは最近知ったことだが、度重なる残業でストレスのあまりに深酒したら翌日、二日酔いになった。久しぶりに感じるムカムカと頭痛に悩まされたばかりだ。催眠術が解けたのかと一抹の不安がよぎったが、どっこいそんなことはなく週末の飲酒は絶好調である。

「いや、でも……少しだけなら」

 並ぶビール缶を見やる。

 すると、後ろから「すいません」と声がし、俺は慌てて飛び退いた。迷彩柄のTシャツとカーゴパンツの男性。ちょっと伸びた髪の毛を一本に結んでいる。その横顔に覚えがあった。

「あっ」

 思わず声を上げると、彼はこちらを怪訝に見た。そして、目をこらす。

「あれ。どうも」

 向こうも俺に気が付き、疲れた顔をパッと笑顔に変えた。深見さんだった。

「奇遇ですね、こんなところで会うなんて」

 言いながら、彼はビールの缶を取った。

「奇遇ですね。今、帰りですか?」

「えぇ、思ったよりも仕事が長引いて。喜多屋さんも仕事帰りですか。お疲れさまです」

 そう柔らかく言い、彼はもう一本のビールを取って俺に差し出す。迷いなく受け取った。

「あれからもうひと月ですか。早いですね。結局、あれっきりでしたね」

 彼は人懐っこく言った。この流れは、なんだか覚えがある。話を聞いてほしそうな原さんの顔と重なり、慌ててかき消す。

「そうですね。志熊さんからは何度か連絡きましたけど、最近はパッタリなくなって」

「彼女、飽きっぽい人ですよね。加苅さんからよく聞いてます」

 ラフな格好からは想像できないほど柔らかな口調で言う深見さん。そんな彼に、俺はつい訊いた。

「そう言えば、加苅さんとはどうなりました?」

「えっ」

 深見さんがキョトンとする。すかさず、俺は「あっ」と焦った。

「これ、言っちゃいけないやつだった、かも……?」

「え、いや。いいですよ。知ってましたから」

 そう言って、彼は楽しそうに笑った。そして、すすっとレジへ向かう。え、待って。そこで話終わるの? そんな逃げ方って、ズルくない?

 俺は気になって後を追いかけた。深見さんはセルフレジでさっさと買い物を済ませた。俺も慌てて買い物を済ませる。

 深見さんは俺をチラリと見て、笑いながらスーパーを出ていった。その後を追いかける。と、店の前で深見さんがのんびりと待っていた。怪しく不敵な笑みを浮かべて。

「話の続き、気になります?」

「……気になります」

「じゃ、ちょっと付き合ってください」

 惣菜とビールを掲げて、そんな風に言われる。

 この人、わざとやってるな。悔しくなる。恨めしく思いつつ、俺は深見さんの後を追いかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る