第四夜 無駄な時間②
今、何が起きているんだろう。
鳥飼さんは肩を上下させ、傍らにある小さな公園を指していた。フェンスの先に、遊具のない大きな木とその周りを囲うベンチがある。マンションと閉まった飲食店に挟まれた名もなき公園。
俺は照れ隠しに意地悪を言った。
「その誘いは……もうちょっと早く、違う人にするべきだったんじゃないですか。例えば、同僚の男性とか」
すると、彼女は額に手を当てて顔をうつむけた。分かりやすくがっくりと肩を落とす。
「おっしゃるとおりです……」
「ごめんなさい、気を悪くしたなら」
「いえ。そう言ってもらえたの初めてなので、むしろスッキリしました」
そう言う彼女は、すっきりとした笑顔を見せた。それまで見えなかった白い歯が、やけに鮮明に脳裏へ残る。
彼女はポテポテと公園の中へ行き、とても気を許したようにベンチに座る。俺も続いてベンチに座った。
俺は瓶を彼女に向けた。すると、彼女も缶を小さく掲げる。
「じゃ、飲み直しに乾杯」
「乾杯」
今さらになって恥ずかしがる鳥飼さんを冷やかしながら、俺は酒を一口含んだ。確か、リキュールだったな。夜空に透かせてラッパ飲みする。スッキリした炭酸が口の中に弾け飛ぶ。
「どうですか?」
自分が選んだからということもあってか、鳥飼さんは怪訝そうにこちらを見ていた。俺は率直に言った。
「思ったより、甘くないですね」
「甘いの苦手でしたよね」
「うん……これは、すごく飲みやすい」
度数も高くないから、アルコールを感じにくい。それもあって、二口目もすすんだ。一方、鳥飼さんもぐいぐい飲んでいる。そして「ほぅ」と一息ついた彼女は、声音を落として言った。
「隠したいのは理由があって」
「ん? 酒豪ってのを?」
「酒豪じゃないんですってば。普通です。でも、なんというか……その、いつストッパーが外れるか分からないから、怖いんですよね」
「ストッパー……でも、酒ってそのストッパーを外すためにあるんじゃ?」
言わんとしていることがいまいち分からない。俺の問いに、彼女は苦笑した。
「ううーん……気が許せる相手ならいいんです。でも、わたしはわたしにすら気を許せないから、難しいんです。それにやっぱり、お酒の場だからって上司や先輩に失礼なことはしたくない。だから、バリケードみたいな嘘をついちゃう。それが癖になってるんですよね」
「でも、それって自分がしんどいだけじゃない? 一回きりならまだしも、会社の飲み会とかだと延々と嘘をついたままで居続けなきゃいけないし」
そう言いつつも、この言葉がかなりのブーメランであることに気がついた。俺も今、まさしく同じ状況である。結局、同僚には酒を克服したという話をしていないのだ。
鳥飼さんは「ですよね」と寂しげに呟いた。そんな彼女がいたたまれないので、俺は酒瓶の中を睨む。どうせ一回きりの縁。もしかしたら続くかもしれない縁。この境目が曖昧で、酒もうまく混ざりあったこの瞬間なら、俺も嘘偽りなくいられるような気がする。そう勝手に解釈し、俺は意を決してあの話を始めた。
「実は急に酒が飲めるようになったのは、理由があるんです」
「え?」
脈絡のない話に鳥飼さんが面食らう。それに構わず、俺は不敵に笑って続けた。
「俺、ものすごい下戸だったんです。でも、彼女に振られて……荒れて、嫌いな酒を飲みまくってぶっつぶれて。そしたら、催眠術師に出会いました」
信じられないような嘘みたいな話を、改めて口にするとバカみたいに笑えてくる。
以下略。
それから公園で美容師に会ったり、怪人たちに出くわしたり、志熊さんに出会って騙されたり。引っ越してからの俺は私生活の方が忙しい。こんな話を、彼女は真剣に聞いてくれた。時折、噴き出していたが、それでも冷やかさずに頷いて聞いてくれる。
「その話、どうしてさっきしてくれなかったんですか? 絶対盛り上がったのに」
鳥飼さんが腹を抱えながら笑い、息も切れ切れに言った。対し、俺は真剣に反論する。
「さすがにできるわけないよ。無理無理。恋のキューピッドが、こんな意味不明なネタを投下するわけにいかないでしょ。事故って大スベリしたくないし」
「スベるわけないじゃないですか! でも、確かに恋のキューピッドがする話じゃないですね……インパクトが、大きすぎて。ふふっ……催眠術師にエアコン怪人って……うふふふ」
「ほんとだって。信じてないなぁー? ほんとにいるんですって。会えば分かる」
「分かりました。信じます。そういうことにしましょう」
絶対信じてない。こうなったらあの日出台公園まで引っ張って行きたい気分にすらなる。あの怪人に会えば彼女も笑っていられなくなるだろう。それはちょっと気の毒だけど。そんな俺の企みに気づいたか、いないのか彼女は笑いながら言った。
「会ってみたいような、みたくないような。あ、でも、その美容室なら知ってます。ちょっと気になってたんですよね」
「シャンプーが苦手な美容師さんがいるから気をつけてね」
「シャンプーが苦手って、美容師として大丈夫なんですかね」
「まぁ、そのうち慣れると思いますよ。そのうちカットもしてくれるかもしれない」
「めげずに頑張って続けてほしいですよね」
「うん。そうですね」
そんなことを言っているうちに、鳥飼さんはビールを飲み干した。
無駄に時間が流れていく。取り留めのない話でも、まだ続けたくなる。でも、話題が一旦途切れたらどうしたものか迷っていく。彼女は二缶目を開けた。最後の一本もここで飲む気らしい。俺は半分ほど飲み干した酒瓶を何の気なしに回した。ちゃぽん、と軽い音がする。
「鳥飼さん、気さくで話しやすいですね」
思わず言うと、彼女は飲んでいたビールを噴き出しかけた。慌てて口を塞ぐ彼女は俺を恨めしく凝視した。
「えっ、嘘! そんなわけないでしょう?」
「いやいや、何言ってるんですか。でなきゃ、こんな時間まで二人で飲んだりしませんよ」
「それは……そうですね。でも、気さくって。加苅さんたちほどじゃ」
「加苅さんと志熊さんのは参考にならないし、そこまでのレベルじゃないけど」
思わずツッコミを入れると、彼女は茶目っ気たっぷりに笑った。
「あははは。ですよねぇ」
「今ちょっと安心した?」
「んー、多少は」
「あんな酒豪たちと一緒にしてほしくない?」
「そんなことは思ってませんけど……でも、ああなれたらいいなって思うこともあれば、なりたくないって思うこともありますね」
彼女は迷いながら言った。その気持ちはなんとなく分かる。だからこそ、一歩引いたところで羽目を外さず嘘をつくことを選ぶわけで。でもそれは、日常生活におけるバリケードに過ぎなくて。例えば、SNSアカウントを匿名にしているような感覚で。この鉄壁を自然と身に着けている。
その壁を一つ壊した気分に陥り、俺はわずかに怯んだ。
「そう言えば、喜多屋さんって二十八歳なんですか?」
おもむろに彼女が訊いた。その問いがあまりにも突然で、俺は素直に驚いた。
「え、はい。よく分かりましたね」
「だって、志熊さんと同級生ですよね」
「あ、そうだ……」
「わたし、三つ下なんです。二十五歳」
「へぇぇ。どうりで腰が低いと思った。若いですね」
「いやいや、三つ違いじゃないですか」
「でも、中学も高校も入れ替わりの世代ってことでしょ。この差、微妙に気になるんだから」
「社会に出れば、そんな差は些細ですよ」
鳥飼さんは不敵に笑った。あ、もしかして酔ってる、のか。さっきよりもふんわり柔らかで、こすればすぐにでもいろんなことを話してくれそうな、そんな緩みを察知する。
「あー、じゃあ、吉田くんよりも二つ上なんだ。美容師の吉田くんね。あ、柴雄くんと同い年ですね」
「柴雄くんって、エアコン怪人の後輩さん?」
「そうそう。家に滑り台設置したり、エアコン自転車を作っちゃう変態整備士」
「ひどい肩書きですね」
俺のふざけた言葉に、彼女は盛大に笑った。
「ちなみに、加苅さんと深見さんは三十歳です。同い年なんですよ。早く付き合ってしまえばいいのに」
流れるように他人の個人情報を暴露していく鳥飼さん。その感じが危うく思うも、やはり壁がまた一つなくなった気がした。すると、胸の奥が急にもさもさとし、俺は酒瓶を口につけた。そして、唐突に脳内が冴え渡る。
「鳥飼さんって、酔ったら口が軽くなるんですね」
言ってみると、彼女は両目を開かせた。実に分かりやすい。
「あ、やばい……」
口を抑え、急に焦りだす。
「なるほど。だから、羽目を外したくないわけか」
「バレましたね……喜多屋さん、全然酔ってないですね。なんか悔しい」
「俺も酔ってますよ」
普段の酒量をはるかに越えている。ゆっくり飲むことで思考を回しているだけに過ぎず、きっと家についたら何もしたくないし、すぐに寝てしまうだろう。
時刻はすでに深夜一時。とっぷり更けた公園は空気が冷たい。ふいに、鳥飼さんがくしゃみをした。
「寒くなりましたね」
「はい……でも、もう少しで飲み終わるので」
彼女は強情に言い張った。試しに、俺は自分のジャケットを差し出してみる。
「使います? 汗臭いけど」
「じゃあイヤです」
「そうっすか……」
あっさり断られ、俺はいさぎよくジャケットを丸めて脇に置いた。
「ちなみに、元マネージャーの割に、同僚の男性は誘えないんですね。ここだけがちょっとよく分からないです」
思いついたことを言ってみる。今ならなんでも喋ってくれそうだから、失礼ついでに深堀りしてみる。と、彼女は「あー」と感心しながら空を見上げた。
「確かにそうですね」
「それも無意識?」
「ですね……どうしてだろう?」
鳥飼さんは不思議そうに首をかしげた。自分のことなのに分からないのか。大丈夫なんだろうか、この人。
「鳥飼さんって、ほぼ無意識に生きてるんですね」
「まぁ、自分を意識して過ごす余裕があまりなくて。おろそかになっちゃうんですよ。だって、自分なんて別になんの取り柄もないつまらない存在なので」
急に卑屈なことを言い出す。が、声の調子は軽い。
「そんな風に言わなくても」
「わたし、喜多屋さんみたいに劇的な日常を過ごしてません。いつも同じ時間に起きて、いつも同じとこに行って、同じことをして、帰って寝ます。それだけです」
「うーん。それが普通じゃないかなぁ。むしろ、俺の身の回りが急におかしなことになっただけだし」
「でも、楽しそうです。いいなぁ……」
彼女は足を投げ出して言った。時間が経って広がった髪の毛の隙間から、無表情がチラリと見える。その顔に既視感を覚え、俺は残っていた酒を飲み干した。
すると、彼女はパッと顔を明るくさせて言った。
「そろそろ帰りましょうか。すみません、こんな時間まで付き合わせて」
彼女はビールを持ったまま立ち上がった。まだ残っているんだろう。それを持ったまま、公園を出ていく。俺もその後ろをついていき、隣のマンションまで見送る。
「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
鳥飼さんも同じように言い、しばらくその場に立ち尽くす。ここでも俺を見送ろうとする。無意識か。
「いいから、早く入って。風邪引くから」
そう言って追い立てると、彼女はハッとして苦笑した。
「すみません。じゃ、お先に」
ようやく動き出す彼女はオートロックを解除し、エントランスの中へ消えた。それを見送り、俺も歩き出す。
「……なんか疲れたな」
つい言葉が漏れる。別に彼女が嫌で言ったわけじゃない。あの無邪気で無駄に楽しかった時間が惜しくもある。が、素直に浮かれられない。その正体が分からない。
冷えた夜の中を歩く。道の脇に乗り捨てたような自転車を見やり、道路標識を何気なくぼんやり見つめて家路を静かに行く。まだ慣れない道路に差し掛かり、アパートまでひたすら無言で、脳内さえも無言のままでたどりついた。
そして、誰もいない部屋に電気をつけて、唐突に気がつく。
「──あー、そっか」
鳥飼さんの仕草、あの気の使い方、話の合わせ方、空気を読んで笑って、優しくも突き放してくれる程よい心地の良さ、それらすべてが舞香とダブって見えた。
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