第六夜 ゾンビたちの憩い②
だが、そう意気込んでいる時に限って、彼女と出会うことはない。それが俺の運の悪さである。会いたくない時に出会い、会いたい時には出会わない。
いや、俺は別に、彼女に会いたいわけではない。
本来なら、いつでも誰に会ってもいいように身だしなみくらいは整えるべきなのだ。だって、昔はこんなふうに部屋を散らかしたりしなかったし、家にこもってコンビニ弁当を食べることもなく、舞香とよく出かけていた。俺はもっとアウトドアな男だったということを、ふと思い出した。
「なるほど……話はだいたい分かりました」
この遠回しな言い訳に、美容師の吉田くんが腕を組んで頷いた。
今は散髪の順番待ちで、俺は吉田くんを捕まえて話をしている最中である。
「じゃあ、かっこよくなろう、喜多屋さん。そんなんじゃ、絶対モテない」
「いや、だから、モテたいわけではないんだよ……」
「何スカしたこと言ってんですか。素直になりましょう。ほら、その鳥飼さんに『喜多屋さん、かっこいい!』って言ってもらいましょう。そんで、ついでに夜飲みすればいいじゃないですか」
吉田くんはほうきを腕に挟んで、偉そうに言う。入社してもうしばらく経つからか、かなり店に馴染んでいるようで何よりだ。
「ついでに夜飲みって……深夜の公園で?」
「そうそう。ほら、佐原さんと飲み歩いてるんでしょ? ちょいちょい話聞いてますよ。そのうち、俺も混ぜて欲しいなーなんて」
なんでも筒抜けか。この町は本当に恐ろしいくらい怪人に侵食されている。
でもまぁ、その助言はありがたくいただこう。頭の片隅くらいには置いといてやる。
「ちなみに、その人の連絡先は知ってるんですか?」
「え……」
訊かれて、間抜けな声を出してしまった。俺は、鏡の向こうでぽかんとアホのような顔をした自分を見た。
「知らないんですか?」
吉田くんが「信じられない」とばかりに手を口に当てて驚く。
「し、知らない……いや、でも勤務先の名刺はもらったよ」
「勤務先のアドレスじゃ意味ないでしょ。喜多屋さん、しっかりしてくださいよ」
「だから、俺は別に彼女のことをどうしたいとか思ってないから!」
慌てて言うと、なんだか小っ恥ずかしくなった。すると、背後から「吉田くん」と女性店員の穏やかな声がする。しかし、裏には「何やってんの」というような威圧を感じてしまい、なぜか俺まで寒気がした。
油売りに徹していた吉田くんは、すごすごとその場から離れた。
また、これと同じような話を市田くんにもしたのだが、同じような答えが返ってきたのである。
その週は市田くんと訪問の仕事が重なり、二人でいつものように喫茶店でサボったり、ファストフード店で遅めの昼食をとったり、遠い営業先へ行く道すがら、ダラダラと適当な雑談が捗った。
そのなりゆきでお盆休み期間の話になり、市田くんはかなり前のめりに食いついてきた。
「そりゃ、絶対的にチャンスでしょ。ちょっとあの子かわいいなーと思った時が狙い目です。当たり前でしょ。ぼーっとしてたら、どこぞの誰かに
「いや……だから、なんでそう恋愛に結びつけるんだよ」
「いいや、これは恋ですね。紛れもなく恋! 喜多屋さん、頼みますよ。しっかりしてください」
市田くんは資料を脇に挟んで偉そうに言った。
まったく、なんでどいつもこいつもみんな、そうやって偉ぶるのだろうか。俺を見下しているのだろうか。
まぁ、市田くんはしばらく調子に乗らせてあげようと思う。
彼はなんと、あの修羅場を乗り越えて、莉央さんとまた穏やかに同棲生活を送っているらしい。ズルズル引き伸ばしているだけではないかとも思うが、俺だって六年間ズルズル引き伸ばして舞香と半同棲した挙句、木っ端微塵に振られたのでなんとも言えない。
盆休みが明けた後の市田くんは、なぜだか燦然と輝いていた。新しいワックスを試したからか、それとも先月の営業成績が良かったからか、はたまた彼女といよいよ結婚でもしようかと話をしているのか、真偽の程は定かじゃない。
「それで、その鳥飼さんってどんな人ですか? かわいい? 芸能人で言えば、誰に似てます?」
「誰かを芸能人で例えるの、嫌いなんだよなぁ」
俺は苦々しく言う。
単純に、芸能人を知らないことが主な理由ではあるが、どこどこの誰それに似ている、なんていうのは相手に失礼ではないかと思うのだ。
これに、市田くんはブスッと唇を尖らせた。
「はー、そんなこと言って、オレには教えないわけですね。いいですよ、オレも最近のニュースを教えてやりませんから」
「最近のニュース……ワックス変えた?」
「そうそう! 新しく変えてみたんですよ〜って、なんですか、それ。ちっせぇニュースですね。バカにしてます?」
尖った毛先を見る俺の目の前で、ノリツッコミを披露する市田くん。不機嫌な顔になったので、俺は明後日の方向を見た。
「えーっと、じゃあ、先月の売り上げが良かった……じゃないな。ごめんって。そう怒るなよ」
市田くんの元気な眉が平坦になったので、慌ててなだめた。
「莉央さんとうまくいってんだろ。俺は分かってるんだよ」
「その言い方、なんか原さんっぽくて嫌だなぁ……でも、惜しいっす」
市田くんはしかめた顔を苦笑に変えた。さりげなく原さんをディスり、俺にまで流れ弾を当てたことは水に流してやろう。
「まさか、結婚するってことは、ないよな?」
笑いながら訊いてみると、市田くんはにっこり微笑んだ。
そこにすべての答えが詰まっている。悟った俺は、思わずのけぞった。
「え? うそ、マジで?」
「マジです。あ、これ、社内ではまだオフレコで。とりあえず籍だけ入れることになりました」
市田くんはニヤリと笑って人差し指を口に押し当てた。
いつまで経っても甘え坊な末っ子キャラだと思っていた彼が、まさかまさかこんなにも早く決断を下すとは夢にも思わない。
俺は「お、おめでとー」としどろもどろに、それだけ言った。
そんな感じで、なんとなくショックではあった。いや、実にめでたいことなんだけれど、素直に喜べないのは俺の器が小さいせいなのだろうか。
だって、あの梅雨の修羅場から、こんな光の速さで結婚を決めるなんて、夢にも思わないじゃないか。一体、彼の心境にどんな変化があったのだろうか。
会社に帰ってから、デスクでいろいろと細々した書類整理や領収書を集めているも、どうにも上の空だった。集中できない。
このなんとも言えない感情の症状を教えてほしい。誰かと共有したい。社内でオフレコなら、社外はいいのだろう。そんな勝手な判断をし、俺は無意識に深見さんへメッセージを送った。
すると、わずか十秒ほどで既読がつき、返事がきた。暇なのだろうか。
【なるほど。喜多屋さん、焦ってますね】
あんな駄文で、よくこの感情を読み取ってくれたな。
焦ってるのか……まぁ、確かに、焦っているのかもしれないけれど。
【誰でもいいから、まずは付き合ってみるってのは?】
いやいや、深見さんならできるかもしれないだろうが、弱腰で小心者の俺にそんな器用さがあれば舞香と別れたりしてない。
【分かりました。今日、会社終わったら、
俺の心の中を見透かすように、深見さんはサラリとした文章で提案してきた。
***
「はーん。それで、うちに来たと。なんだか流されるようにフラフラしちゃって、喜多屋くんも大変なのねー」
レジでスマートフォンを眺める
向島書店の東側レジにて、俺は鞄を抱きかかえたまま突っ立っていた。深見さんは現れない。かれこれ二時間は待ちぼうけを食らっている。
「仕事、忙しいんじゃないかなー?」
「でも、返信は早いよ」
「なんかね、会社のパソコンからトークメッセージ送ってるっぽいよ。だから、返信だけは早い。あ、これは
志熊さんが口角を上げて言う。その目はあまり笑っていない。もう夕方だからか、疲労が顔に出ている。俺の前だからか、気を抜きすぎではないだろうか。
俺はスマートフォンをポケットに仕舞った。深見さんをアテにするのも、確かになんだか奇妙な話である。まぁ、友達(と言ってもいいのか?)だから、そんなたわいない相談くらいしてもいいのだろうか。
大人になると、どうも人に遠慮してしまうようになった。子供の頃なら、すんなりと遠慮なくくだらない相談をしていただろうに。
志熊さんもだらしなく仕事しているわけだし、俺は何気なく、店頭に並べられた新刊コーナーを見つめていた。人気作家の本、話題の啓発本、どこそこの文学賞受賞作、ネットでバズっているという文芸書籍などなど。
「あ、ねぇ。
志熊さんが唐突に訊いてきた。
「古代先生? 有名人?」
「ミステリー作家、古代
「ふーん……ミステリーは読まないからなぁ」
「あっそ。知らないならいいわ」
すぐに引き下がられる。どうやら、彼女は俺の怪訝な表情を瞬時に読み取って、話題を広げようとはしなかった。
悪かったな、文学に疎くて。そう思っていると、店の入り口から見覚えのある小柄なメガネ女子が入ってきた。
「こんにちはー」
ふんわりと柔らかな笑顔で入ってくる彼女は、俺を見ていない。真っ直ぐにレジにいる志熊さんへ手を振って駆け寄った。
「おぉ、噂をすればなんとやら。お疲れさん、鳥飼ちゃん」
「もう聞いてくださいよー。今日も課長からやいのやいの言われてクタクタで……って、うわぁ! 喜多屋さん!?」
横にいた俺にようやく気がついたようで、鳥飼さんは目をまんまるにして飛び上がりながら驚いた。なんだか申し訳ない気分になってくる。
「どうも」
「どうも、こんにちは。あ、いや、こんばんはですかね……すみません、気がつかなくて」
その悪気ない一言が、地味に刺さる。
「いえ、全然。いいんですよ……」
「加刈さんから呼ばれたんですけど、新作の話ですかね? 仕事バタバタ終わらせて来ちゃいました」
彼女は「えへへ」と照れ臭そうに笑った。
……なるほど。
これは、おそらく深見さん経由で加刈さんへ伝わり、鳥飼さんと俺を引き合わせるべく、彼女を直接向かわせたという。実に分かりやすい御膳立てだ。
深見さんのあの笑顔を思い出し、なんなら「この前のお返しですよ」とか言いそうな軽妙な口調を脳内で想像できてしまい、俺は持っていたカバンで頭を打ちつけたい気持ちになった。
「加刈ならもう帰ったよ」
志熊さんがあっさり言う。彼女は何も知らされてないのか、それとも俺のこのパニックを悟ったか、異様な淡白ぶりを見せる。
「だから、もう二人で帰りなよ。どっちももう用事がないんでしょ。ここに溜まるの禁止。分かった?」
そう言って志熊さんはスマートフォンで口元を隠しながら「おっほっほっほ」と雅な笑い方をした。目元がニヤニヤと曲がっており、かなり不気味だった。
それから、鳥飼さんも俺も気まずいまま店から追い出されてしまい、結局帰り道も同じなので、並んで帰ることとなる。
深見さんには、市田くんの結婚の話しかしていない。鳥飼さんの件については一言も言ってないのに、なぜか見透かされている。
もしかして、彼らも実は裏で繋がっているのではないだろうか。思えば、深見さんも市田くんもサンマート仲間である。俺の預かり知らん場所で繋がっている可能性は十分に高いと思われた。しかも、これをナイスアシストと見るか、余計なお節介と見るかは、現時点では計りかねる。
というのも、俺と鳥飼さんは酒が入ってないとまともに会話ができないのだということが、この三十分の道のりでよくよく分かった。彼女は、ひたすらに周囲を気にしているし、俺は俺で話すネタもなく、地味に緊張している。
どうにも長く沈黙が続き、気がつけば駅の方面へ足が向かっていく。せっかく中心街に来たというのに、どこにも遊びにいかず、さっさと帰るのはもったいない。
そう思っていると、どこかからかふわりとスモーキーな香りが漂ってきた。居酒屋から焼き鳥のにおいがする。ちょうど夕食時だし、せっかくなら飯でも誘ってみようか。
「……どこか、食べに行きます?」
すると、鳥飼さんはあわあわと手を振って恥ずかしそうに言った。
「い、いえいえいえ! そんな、だって、どうしてそうなるんですか」
「いや、だって……ここで会ったのも偶然だろうし、なんとなく言ってみただけです。気にしないでください」
偶然なわけがないのだが、そう言ってごまかすしかなかった。
多分、今までになく晴れやかな笑顔を向けたに違いない。心の中はかなり土砂降りだったが、断られてしまえば、もうどうすることもできないので、次の手なんて考えていられない。
いや、そもそも。俺は彼女とどうにかなりたいわけではない。が、これを逃せば、たくさんの各方面から
周囲が勝手に盛り上げようとするシチュエーションはよく目にするし、これがきっかけで恋が始まるというのも定番ではある。が、やつらは盛り上げるだけ盛り上げて、その後の責任などとってくれないのだ。そう考えると、恋のキューピッドというのはかなり無責任なお節介でしかないと思う。
断られて拗ねているから、こんなことを考えているわけだが。
「明日、仕事なので……今日はお酒飲まないでおこうと決めてるんです。ごめんなさい」
俺のしょぼくれた肩に気がついたのか、鳥飼さんが焦ったように言う。
「あ、そっか。そうですよね……平日に飲む社会人って、俺らの世代じゃあんまりいないのか」
「多分、そうだと思います。あ、でも、お腹は空いたのでコンビニでご飯を買おうかなーって思ってますよ」
「だったら、定食屋とかうどん屋でもいいし、店に入って飯でも」
「……あー、なるほど」
鳥飼さんは周囲に目を向け、うどん屋を見つけて唸った。
さっきからかなり警戒しているように見える。
「あ、あの、嫌ならいいんです。それに、そういえば、鳥飼さんだって彼氏くらいいるでしょ。変な誤解しないでくださいね」
焦って早口で言い、これがかなりの失言だとも思い、さらに焦って「あはははっ」と意味もなく笑った。
すると、鳥飼さんはキョトンとした目を向けてきた。
「彼氏? いませんよ」
「あ、そうですか……」
「この前、そういう話したじゃないですか」
「そう、でしたね……いや、でもあれから結構経ってるし、この数ヶ月で突然結婚を決めたりするヤツもいるので」
「結婚って、どうしてそう話が飛躍するんですか」
鳥飼さんは興味深そうに顔を覗き込んできた。対し、俺はやはり恥ずかしいので目を逸らしてしまう。
「いや、俺の後輩がね、彼女と別れる寸前だったのに急に結婚決めたんですよ」
「あらぁ、なるほど……それで、喜多屋さんは焦ってるわけですね」
「焦ってませんって」
「あ、分かりました! それで私を誘おうとしてるんですね? 誰でもいいから、知ってる人に当たってみようと」
「違います。そんなんじゃないです」
思わず強気で返すと、鳥飼さんは目を瞬かせた。そして、視線を下へ落としていく。
「あー、そうですよねぇ……すみません、調子に乗りました」
いや、待って。そんな風に反省されたら、こっちが申し訳なくなるし。
て言うか「はい、そうです」って答えた方が良かったのか? 全然わからん。
心の首をかしげていると、鳥飼さんは手近な店を指さした。
「じゃ、ここにしましょう」
「えっ? ここ……ですか?」
そこは、大手チェーンの牛丼屋だった。
なんかもっとこう、あるだろう。何もこんな、ひしめき合ったカウンターで、かわいげもない牛丼を食わなくたって。
ここは繁華街であり、ファストフード店は多いが、ちょっと小道に入ればおしゃれなレストランや食事処がある。
どうにも釈然としないでいると、鳥飼さんはいたずらっぽく言った。
「私、牛丼屋さんって一人で来られないから、男性と一緒に入るのがちょっと憧れだったりするんです」
はにかむと、小さなえくぼができる。夕方の賑やかな繁華街の片隅で、そんな彼女を見ていると、それまで考えていたものが急激に吹き飛んで、笑えてしまった。
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