第八夜 そして、新しい夜へ

朱馬地区、日出台公園にて最後の宴会を開く

第八夜 そして、新しい夜へ①

 物語のお姫様は、王子のキスで呪いや魔法が解けて幸せになる。めでたしめでたし。

 しかし、現実はそううまくいかないもので、そもそも俺は姫ではないし舞香も王子ではないので根本が間違っているのだがこの例えは秀逸だと思う。

 思えば夢のような時間だった。一生体験できない世界がこの数ヶ月間俺を支えていたのだと考えると、俺と酒はかなり相性のいい関係だったんだと思う。

 仕事帰りに五〇〇缶のレモンチューハイを購入し、一口飲む。たった一口飲んだだけで顔や腕が真っ赤になり頭がぼうっとしてくるが、ダメ元でもう一回チューハイを喉に流し込んでみた。

 あぁ、ダメだ。体の循環が悪くなっていく感覚がし、酒を見るのも嫌になってきた。残った酒をシンクに流す。つんと香るアルコールが今や悪臭に思えて仕方ない。

「……参ったな」

 汚いキッチンに手をついて呟いた。なんか呟いておかないとこの動揺の行き場がなかった。

 そもそも催眠術の力で酒が飲めるようになるって、どう考えてもファンタジーだろ。酒が飲めない体質ってさ、アルコールの分解ができないからそうなのであって、催眠術ごときに体のつくりまで変えられたみたいじゃん。だから元に戻ってよかったんだよ。今まで通り酒が飲めない人でいればいいじゃん。生活に困ることはないんだし。

 そう思っていると、夜の公園で会った人たちのことが脳裏によぎった。夜の公園で酒を飲むことで出会えた縁。あれも嘘になってしまうのだろうか。もしかすると、ここまですべて俺が見ていた夢だったんじゃないか。あの人たちは俺が作り出した妄想で、現実では出会ってなくて知り合いでもなんでもない架空の人物──いや、市田くんは違うけどさ。

 気づけば床にしゃがみこんでいた。頭が鈍い痛みを発し始め、胃の中がなんだか異物を感知したみたいにグルグルと警告している。あの気持ちいい酔い方ではなく、すぐ横になりたくなるような、すべてどうでもよくなっていくような怠さが押し寄せてくる。まだ着替えてないのに。いいや、もうこのまま寝てしまおう。鈍痛が引くまで休憩──と思ったらテーブルに放置したスマホからメッセージの通知が入った。

 重たい体でリビングまで這っていき、スマホの通知を見る。深見さんだった。その名前に驚き、慌ててスマホを落としてしまう。

「あぁっ、くそっ」

 悪態をついてスマホの画面を改めてつけると充電が切れた。

「……おーい」

 呆れた笑いが口から飛び出し、ノロノロと布団の脇にある充電器をスマホに挿す。焦れったく待って電源を入れ、画面のロックを解除してメッセージアプリを起動した。

【こんばんは。ふぁんとむ境について、ちょっと分かったことがありました】

 なんとタイミングがいい。

「何が分かったんですか……っと」

 訊いてみると、すぐに返事が返ってきた。

【今はどうやら営業のお仕事をしているようで、この町にはいないそうです】

 俺は項垂れ、そのままテーブルの角に額を押し付けた。

「そっかぁ……」

 でも深見さんとの繋がりは妄想じゃなかった。それだけで心が少しだけ救われる。

 しかし、すぐに鳥飼さんの顔を思い出してしまい「やっぱり嘘であってくれ」と考える。別に鳥飼さんと付き合っているわけじゃないが、どうにも罪悪感が働く。

 放置していた返信をどうするか悩むこと数十分、思い切って飲みの誘いを入れてみた。


 ***


 翌日、仕事が終わった後、待ち合わせ場所の「富久ふく亭」に深見さんが現れた。引き戸を開けて顔を覗かせる彼の顔を見て、俺は店員より先に手を挙げた。駆けてくる店員に深見さんが俺の方を指差して「連れです」と告げてさっさと俺の横に座る。カウンター席に並ぶと、店員が手早く深見さんにおしぼりを差し出した。

「すみません、遅くなって。ちょっと繁忙期に入ったもので、残業してました」

 彼はからし色のTシャツとジーンズという格好で、俺はいつものようにスーツ。しばらく和やかに近況を言い合う。

「加苅さんは元気ですか?」

「あぁ、はい。おかげさまで。なんか、最近はお気に入りアニメの二次創作に熱を入れてますね。今度、オンリーイベントがあるようで」

「へぇ」

「あ、もしかして進展の方を聞きたかった感じですか? 順調ですよ。最近、ようやく二人で旅行にも行けたし。箱根にね。あー、会うと分かってたらお土産買ってきたのに」

「いえいえ、お構いなく……あ、深見さんビールですか?」

「あぁ、はい。喜多屋さんはもう頼みました?」

「はい。烏龍茶を」

 俺は脇に置いていた烏龍茶のジョッキを見せた。

「ウーロンハイではなく?」

 深見さんが茶化す。俺は力なく笑った。

「そのことについて、ちょっと相談が」

 とりあえずビールとつまみを頼み、次に店員が来るまで俺はどう切り出そうか悩んだ。深見さんは所在なく厨房の方をぼんやりと見つめる。モクモクと立ち上る煙は焼き鳥のいい匂いがし、食欲を煽るよう。この煙と一緒にビールを飲めたらすごくうまいだろうなと考えるも、ただただ虚しさを感じるだけだった。

 ビールが届き、ついでに枝豆とたこわさ、チャンジャといった小鉢がカウンターに並ぶ。それらを取りやすい場所に配置し、改めて「お疲れさまでした」と言って乾杯した。

「そう言えば、今日は公園じゃなくて良かったんですね」

 深見さんがあっけらかんと言う。

「あー……まぁ、公園だとほら、あのエアコン怪人がいつどこから現れるかわからないんで」

 前回、深見さんと公園で飲んだときのことを苦々しく思い出しながら言うと、それがどうやら茶化しているように聞こえたらしく、深見さんは愉快そうに笑った。

「確かにねぇ……ということは、佐原に聞かれたくない内容ですか。もしかして、催眠術が解けたとか?」

 鋭い言葉に俺は素直に顔をしかめた。

「そうです……」

「え? 本当に? うわー、まさか当たっちゃうなんて」

 そうして深見さんは「僕こういうのよく当たるんですよねぇ」となんだか嬉しそうに言った。しかし、すぐに笑いを引っ込めてビールを一口飲む。枝豆に手をつけてモグモグ食べながら彼は落ち着いた声で言った。

「なるほど、それで『ふぁんとむ境』の居場所が知りたいわけだ」

「それもありますけど……催眠術をもう一度かけてもらっても、いいのかどうか」

「いいんじゃないですか? あんなに楽しそうに酒を飲んでたじゃないですか、喜多屋さん。僕もまた喜多屋さんと一緒に酒飲みたいし」

 ものすごく簡単に言ってくれるな。でも、そう言ってもらえることに悪い気はしない。

 深見さんのビールはまだ焼き鳥が届いてないにも関わらず、もう半分ほど減っている。対し、俺のジョッキは全然減らない。枝豆をモグモグ食べてどこから話そうか考える。そうしているうちに、ベーコン巻きと椎茸、焼きトマトといった串ものが運ばれてきた。そのあとにすぐエビと砂ずりがくる。

「焼き鳥を串から外して食べる人、どう思います?」

 深見さんが訊く。

「うーん……まぁ、人それぞれじゃないですか? 俺は面倒なんで上司と行く以外ではそのまま食べますけど」

 素直に答えると、深見さんはなんだか含むように笑う。

「え、なんですか?」

「いえ、別に。僕も同じ意見だったので」

「なんだよ……なんかの心理テストかと思った」

「意味のない思いつきですよ。それで、どうして催眠術が解けたんですか?」

 そう言うと深見さんはビールを飲み干して、店員におかわりを頼んだ。俺はトマト串を食べ、ビールが来るまで待った。そうして本題に入るまで時間がかかる。だって、シラフで話すのはなんだか恥ずかしい。こういう話こそ酒が必要だ。

 深見さんのビールが届いて、焼き鳥も頼んだものが揃い始めてから俺はようやく重たい口を開いた。

「……催眠術が解けるような前触れは、実はちょっと前からあったんです」

「ほう」

「多分、最初にあの土偶に会った時、変なことを言われて……時間がない、と」

「時間がない……それで?」

「そこからですね。まぁ強い酒を飲む機会があったのもその頃からなんですが、ある夜、鳥飼さんとハブ酒を飲む機会があって」

「ハブ酒……」

「はい。泡盛にハブを漬けた酒です」

「それはわかります」

 深見さんが眉をひそめながら言うので、俺は苦笑いして鶏ももをかじった。

「そんで、鳥飼さんとちょっといい空気になって」

「おぉ」

 深見さんの相槌の声が上ずる。俺は勢いに乗り、そのまま淡々と続けた。

「でもその時、少し具合が悪くなったんですよね。酒のせいか、催眠術が解け始めてたのか分からないんですが……んで、この前、また鳥飼さんと夜の公園で酒を飲もうとしたら、元カノから連絡がきて」

 深見さんはビールをゴクリと飲んだ。もうずっと静かに話を聞いている。

「元カノがなんか荒れてて、心配だったので駆けつけたら、まぁいろいろあったようで。すごく泣いてて。あいつがあんな泣くの今まで見たことなかったし……それで、流れでキスしたら、催眠術がそこで一気に解けちゃって」

 もうここまで言っていて、自分でもなんだが意味がわからなかったし、何を話してるんだと思う。幸い店が繁盛しているからガヤガヤとにぎやかで、俺の声は深見さんにしか聞こえていないようだった。深見さんはビールを飲み、頬杖をついた。少し目が据わっている。

「なるほどねぇ……」

 そう言うと、彼は鶏皮をかじった。パリパリとしっかりした歯ごたえを感じながらゆっくりと咀嚼し飲み込むと、彼は突然顔を伏せて噴き出した。

「あー! 今笑った! いやもう、マジでバカみたいだとは思いますけどね! こっちは真剣に話してんだから!」

「はいはいはい、分かってる分かってる。でも頭で想像してみたらおかしくて……なんだその状況って感じですよね」

 そう言われてしまえばそうなのだが。俺も笑うしかなく、肩を落としてしばらく笑った。

「あー、なんだよその状況。ドラマじゃあるまいし」

「て言うか、流れでキスしたら催眠術が解けるって。どういうシステムなんですか、それ」

「そんなのこっちが聞きたいですよ!」

 俺は烏龍茶をがぶ飲みし、残っている焼き鳥をパクパクつまんだ。塩辛さを烏龍茶で一掃し、今度はタレ味のつくねをかじっていると、深見さんが残念そうに言った。

「それにしても、鳥飼さんとうまくいってた感じなのに、なんで元カノのとこに行っちゃうかなぁ、喜多屋さん」

「それに関しては大いに反省してます」

「まだ未練があったんですねぇ」

 その言葉が重く伸し掛かってくる。そんな俺の横で深見さんはビールをぐいっと煽って、軽く言った。

「でも、最後までしなかったんですねぇ……あ、すいませーん、おかわりください」

「キスした時に酔いが回って意識飛んだんで、それどころじゃなく」

「ふふっ……うん、はいはい、ごめんって。もう笑わないように努力する」

 もう何回笑われればいいんだよ! 合間合間に茶化されると話が進まないじゃん!

 ビールが届き、俺も烏龍茶を頼む。あぁ、レモンサワー飲みてぇな。シラフで話す内容じゃないんだよな、本当に。

「ちなみに参考までに聞きたいんだけど、その今の状態で酒を飲んだらどうなるの?」

 深見さんが話を変えた。俺が恨めしそうにドリンクメニューを見ていたので、気を利かせてくれたのかもしれない。

「二日酔いみたいな具合の悪さが一口目でくる感じですかね……俺の場合、すぐ顔に出るんですよ。赤くなるし、頭も痛くなるし。無理に飲んだら吐くし」

「あー、それは飲まないほうがいいですね。なおのこと佐原に見つかったらマズイ」

 佐原さんに見つかった時には最悪、死を覚悟しなければならない。相手が深見さんで良かったと本当に思う。

 すると、深見さんがふいに宙を見上げた。真面目な声で言う。

「そもそも、ふぁんとむ境が喜多屋さんに酒が飲める催眠術をかけたのは、元カノさんを見返すため……だったんですよね?」

「はい……」

 そこまで言われて、俺もハッと気がついた。顔を見合わせ、多分お互いに同じことを思いつく。先に深見さんが口を開いた。

「ってことは元カノさんの荒れ具合を見て、喜多屋さんの心が満たされたんじゃないんですか? それが催眠術の解除につながった、みたいな」

 そうかもしれない。いや、催眠術に詳しくないからわかんないけど、何かしらの解除方法みたいなのがあったのかもしれない。それこそおとぎ話でいう呪いの解除に似たもので……不可解ではあるが、その可能性は考えられる。

「あの時、俺、確かに舞香の様子を見て変な感じになったんですよね……あ、舞香って元カノです。あいつも俺がいないとダメだったんじゃん、って思って。でも、あのままズルズルいってもいいことはなかっただろうけど」

「そうですねぇ……そういう関係も頭ごなしに否定はできないですけど、喜多屋さんが元カノさんと曖昧な関係を続けたくないのなら、きっぱり縁を切るほうがいいでしょうね。流れでキスするくらいだし、その場合ってもう歯止めが効かなくなるし」

 俺がまたツッコミを入れようと中腰になったので、深見さんは慌てて早口に言った。

「だからまぁ、いいタイミングで催眠術が解けて良かったですね」

「う、うーん……良かった、のか……釈然としないんですが」

「いい方に解釈しましょうよ。で、鳥飼さんには説明したんですか?」

 そのサラリとした言葉を聞いて、口に入れていたぼんじりが喉につまりかけた。

「えぇっ? やっ、だってそんなの、言えるわけないでしょ!」

「酒飲めなくなったこと、言わなくていいんですか?」

「元カノとキスしたから催眠術解けましたって言えるわけないじゃん!」

 思わず声を荒らげるも、深見さんはキョトンとした顔でこっちを見る。おい、なんでその反応なんだよ。

「別にキスくらい……鳥飼さんとはまだ付き合ってないんだし、元カノさんにももう気がないってわかったんなら良くないですか? それに、鳥飼さんにそこまで詳細に話さなくてもいいし、そのあたりはぼかして」

 そう言うと、深見さんが呆れたようにため息をついた。一方で俺は神妙に眉をひそめる。

「でも……」

「不誠実? 喜多屋さん、その年齢としで考え方がピュアというか……そんなことでいちいち悩んでたら次にいけませんよ」

 やれやれと言わんばかりに笑うので、俺は顔をしかめるしかなかった。俺の重い悩みが軽い息で吹き飛ばされていく。

 鳥飼さんに説明……真実をぼかして説明したとして、それって結局は彼女に嘘をつくことになるし……て言うか、俺は鳥飼さんに会う資格ないし。でも、会いたいって思ってしまう自分がいる。酒も飲めないくせに。

「いやぁ、喜多屋さんって真摯なんですねぇ」

 深見さんは俺を買いかぶってるし。何も言わずにいると、彼は困ったように「うーん」と唸った。

「清廉潔白から始まる恋愛って理想ではあるけど、現実はそううまくいかない。そういうもんですよ。キレイなものを目指すのは一見いいことだけど、それってつまり自分の裏側から目をそらすってことで、現実逃避なんじゃないかと僕は思うんですよね」

 深見さんが真面目な声で言うので、俺はしかめていた顔をゆるめた。

「でも、本当のことを言ったら彼女を傷つけてしまうかもしれないし、自分が傷つくかもしれない。そういうふうに考えてる時点で喜多屋さんは優しいし真摯だなって思いますよ。僕なんて、汚れまくってるし、開き直ってるし、まず自分の気持ち優先だし」

 フォローしてもらうと余計に自分の情けなさを感じる。でも、悪い気はしない。深見さんは照れ笑いを浮かべてビールを飲んだ。

 俺も烏龍茶を飲み干し、ドリンクメニューを見た。そして店員を呼ぶ。

「すいませーん、ノンアルコールビールください!」

 すると深見さんが嬉しそうに「おぉ、いいですね。飲もう飲もう」とテンションを上げる。

 それからはもうただただ酒を飲み、気がつけば閉店間際まで話し込んでしまった。

 鳥飼さんについては、ひとまず保留ということで。


 しかし数日後、この件は強制的にかつ可及的速やかに解決しなくてはならなくなった。

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