第七夜 残骸④

「私たち、もう潮時だよ」

 そう言った時、彼女は俺の胸の中にいた。

 夜──何時だったか覚えちゃいないがそこそこ深い時間で、飲み会の帰りになだれ込むように家について、俺は酒の匂いだけで酔っていて、舞香はさらに酔っていて。

 化粧を落とす前に舞香が「ちょっと休憩」と言ってベッドに寝転んだから、そのまま俺も倒れ込むようにして仰向けの彼女に覆いかぶさった。そこからはただ自動的にいつもの順序で進めて。そういうことはよくあったのでとくに気にしてはいなかった。なんというか、息をするのと同じようにごくごく自然だった。

「潮時って何?」

 舞香がそんなことを言い出したのは、しばらくしたあとだった。どっちも疲れてグダグダで、そういう時の彼女は途中で拒むことがあった。それがこちらの苛立ちを煽ることを、彼女は知ってか知らずかのらりくらりとかわすのだった。

「そのまんまの意味……私から言わせないでよ。ねぇ、もう分かるでしょ」

「分かんねぇよ。なんだよ、不満があるなら言えよ」

 はっきりしないからまた苛立つ。なんでそんな簡単なことも分かんねぇんだよ。

 舞香はダイニングから漏れる蛍光灯に当てた白い肩をすくめた。

「……言わない」

「なんだよ」

 俺は呆れて鼻で笑った。

 彼女は察してくれと言わんばかりに無言を貫く。自分はキレイでいようとして、はらに溜めてる毒物じみた何かを吐き出そうとはしない。言えよ。言ってくれよ。言葉で、お前の口で、俺のダメなところ、不満なところ、嫌なところ、何がどうどこが悪かったって。俺を傷つけるくらいのことを言えよ。何がダメだった? 教えてくれよ。直すからさ。なるべく努力するから。

 でも、舞香は言わない。相手が傷つくと思っていることは絶対に言わないようにする。空気を読んで「いい女」でいようとする。いい人のフリをする。いや、善人だよ、舞香は善人だ。悪意を抱えることすら悪いことだと言わんばかりに純粋で、誰かに八つ当たりするような人じゃないし、もしくは俺が抱える不満も「自分のせいだ」と言って真剣に悩むくらい他人思いで優しい。優しすぎるから、俺に対する不満を吐き出すことを躊躇っている。分かってる。分かってるけど。

 彼女の内側に触れれば触れるほど、これから身に降りかかる不幸を認めたくなくて、矛盾を抱えつつももっと彼女の温度に近づこうとする。

「別れたい、の」

 静かな夜の中、舞香は喉を絞るようにそう言った。

 思えば彼女の肩はとても冷たかった。布団をかけずにそのままだったからかもしれない。


 今日はあの夜に似ていると思った。ジャケット一枚でも十分か少し冷えるかそんな時期で、でも酒が入ってるからシャツの下は少し汗ばんでいて、眼球の奥が重い。

 舞香の家は鳥飼さんのマンションからそう遠くはなく、起伏のある道沿いにあり、あからさまに人通りの少ない場所にあった。住宅街である。こんな夜中じゃ静かだし、ガラの悪い連中も避けて通る狭い道の中にあった。まぁ、それ以外の連中にはおあつらえ向きなくらい尾行しやすいだろうが。

 マンションは八階建てで、街灯とエントランスの明かりだけで周囲の輪郭が分かる。俺は周囲を見渡し、マンションのエントランスに入って舞香の部屋番号を呼び出した。六〇二。

 コールのあと、舞香の戸惑ったような「はい」が聞こえ、俺はぎこちなく「喜多屋」とだけ言った。すると、返事もなくマンションの中へ通された。小綺麗だが築年数はそう若くなさそうなエレベーターに乗って、灰色の廊下を通って見知らぬ玄関の前に立つ。インターホンを鳴らすと、すぐに舞香が玄関の戸を開けた。

「荘助……」

「……よお」

 気の利いた挨拶が思いつかず、好きな子のクラスに来た男子みたいな挨拶になってしまう。

 それでも舞香は俺の姿を見るなり安堵たっぷりに頬を緩めた。

 久しぶりに見た彼女は灰色のパーカーと、部屋着に降格されたと思しきワイドパンツ姿で、完全にすっぴんだった。劇的に顔が変わるほどではないがどことなくやつれているよう。舞香はいつも化粧を落として寝て翌朝にシャワーを浴びる。俺の知らない場所に行っても同じルーティンで生活していることに、なぜだか安堵した。

「大丈夫か、舞香」

「うん……今はね、ちょっと落ち着いたの」

 そう言いつつも目は悲惨なくらい腫れ上がって赤いし、涙のあとが頬を走っている。舞香が玄関に上がり、俺はそのままでいた。

「上がって」

「いや、でも」

「いいから上がってよ」

 今までにないほど強情で、言うことを聞かなければ泣かれてしまいそうな気配があった。

 玄関を上がってすぐキッチンがあり、左側に洗面所らしきドアがある。

「お邪魔しまーす……」

 前の家とは違って横に広く、物も少ないと思ったらキッチンの奥にある洋室がまぁまぁの荒れ具合だった。コンビニで買ったと思しき弁当の空容器が無造作に袋に詰められており、テーブルには化粧水や整髪剤の代わりに発泡酒の空き缶やワインのボトルが並んで置かれている。洗濯物も出しっぱなし。

「片付けてないの。ごめんね、時間がなくて」

「あ、うん……」

 部屋の治安が俺とあんまり変わらないのだが。そりゃ家事が大得意ってわけではなかっただろうが、掃除や洗濯なんかはこまめにする人のはずで、だらしない俺を叱ったり自然と片付けてくれたりする。会社の机も整理整頓されてて、きちんとしていたイメージだ。

 異様だと思った。そして、俺の傍に立つ彼女からほんのりとアルコールの香りがする。

「舞香、どうしたんだよ」

「……うん、いろいろあって。取り乱しちゃった」

 その言い方はなんだか付き合いたての頃のような甘さがあり、しかしあの頃よりも艶めいている。酔っているのは明らかだが、酒に強い舞香がここまで泥酔するのはやはり異様だと思う。

 俺は警戒しながら訊いた。

「いろいろって? 仕事、うまくいってないのか?」

「うん。仕事ねぇ……ほんとダメだねぇ」

 そう言って、彼女はその場にしゃがみ込むと、キッチンマットの上にぺたんと座り込んだ。

「舞香、お前、飲み過ぎだろ。いくら酒に強いからって」

 俺もしゃがんで彼女の顔を覗き込む。

 すると、舞香はしゃくりあげて泣き始め、俺は思わずその場で尻餅をついた。

「えぇぇっ、なん……おい、舞香」

 えっくえっく、と喘ぐように泣き出す彼女の顔はぐしゃぐしゃで子供みたいに無垢だった。こんな風に泣く彼女を見たことがない。タガが外れたように舞香は泣きじゃくった。

「落ち着いたんじゃないのかよ」

 対する俺は優しい言い方ができない。理由が分からないので慰めようがない。顔を伏せて涙を拭うも意味がなく、舞香の目はどんどん赤くなっていく一方だ。俺は膝立ちになり、舞香に触れようと手を伸ばす。少し躊躇うも、体は自然と舞香を抱きしめた。後頭部を掴んで引き寄せたら、彼女もそれが当たり前のように俺の中に体を埋める。

「ごめんね、壮助」

「いや、それはもういいって」

 何に対しての「ごめん」なのか、何に対しての「もういい」なのか無意識に出てくる言葉の意味を考えていられるはずがなく、しばらく舞香が落ち着くまでそのままでいた。その間、彼女は「もうやだ」とか「疲れた」とか「やめたい」とか切れ切れに訴える。仕事がうまくいってないのだと先ほど言っていたが……

「失敗した」

 背中をさすっていたら、いきなり舞香が静かな声で言い出した。

「失敗?」

「うん。仕事でね、失敗したの。そしたらね、上司から言われたの」

「なんて?」

「君、大したことなかったね」

 舞香は鼻声に憎しみを込めて言った。

 他社の営業部長から熱心に誘われていて結局引き抜かれていったわけだが、入社してすぐに大きなプロジェクトを任されてしまい大口の取引に失敗した。そんなところだろう。舞香の上司は勝手に期待し、勝手に失望したのだ。残念ながらこういうことはよくある。まぁ、それでへこむほどの精神なら、俺や会社を捨ててまで新天地へ行こうとは思わないだろう。彼女なりに大きな覚悟をしていたはずだ。

「上司の発言はいいのよ。私が失敗したから」

 舞香は顔を上げて居住まいを正すと、鼻をすすりながら言った。

「私、孤立してるの」

「……孤立?」

「そりゃ急に入ってきて新しいプロジェクトリーダーです、って言われたらみんな嫌に決まってるよね。プレッシャーもあったし、嫌がらせもあったし。でも、それでもさ、私は頑張ったよ」

 酔っているからか、怒っているからか、泣きじゃくったあとだからか、支離滅裂に子供っぽく言葉を並べていく。

「頑張ったんだもん……ここまでくるのに、時間かかったし、あの六年を無駄にしたくなかったし。それなのに、全部おしまい。そう考えたらね、私の人生安いなぁって思って」

 そして、自分の言葉に失笑する。

「私、なんのために生きてるんだろうね。仕事するために壮助と別れてまでさ、何バカなことしてんだろ……」

 俺の名前が出てくると、無条件反射でドキッと胸の奥が爪弾く。

「……舞香」

 恨み言を吐くのも舞香らしくない。目の前にいる女は一体誰なのかと動揺しつつ、俺はこわごわ話しかけた。

「なんで俺と別れた?」

 静かに訊けば、彼女はビクッと肩を震わせて俺を見た。その目は上司や同僚に抱く憎しみも含んであった。「なんで分からないの」と責めるかのようで、確実に矛先がこちらへ向くのが分かった。

 だから、こう言うしかない。

「俺が酒飲めないから?」

「……バカじゃないの」

 とんだ暴言が返ってくる。

「そんなことで別れるって、私の六年バカにしてるの?」

「それは、俺もそう思いたかったよ」

 あんな適当な理由で別れるなんて、俺の六年を返せと言いたいくらいだ。

 いつしか俺は彼女の人生から途中下車させられていた。その原因はなんだったのだろう。新しい会社で頑張るために、俺を連れていけなかった理由はなんだ。

 舞香は口元を歪ませて「ふふ」と自嘲気味に笑い、項垂れた。垂れ落ちた長い前髪の下からポツリとつぶやく。

「……私が、つらくなっただけ」

 そこには、あの別れようと言っていた夜の舞香はどこにもなく、俺の望み通り肚の底にあったものをぶちまけようとする意思があった。情けなく怯んでいると、舞香は顔を上げずに言葉を続ける。

「荘助って向上心がないからすぐに諦めるし、それなのに、私に対しては『俺より越えるなよ』って感じで接してくるでしょ」

「そんなことない」

「そんなことある。カラオケの点数とかね、荘助よりうまく歌っちゃダメだし、ゲームもそう。私が勝ったら不機嫌になるし」

 聞いてみればなんとも程度の低いものだった。そんな風に接したつもりはないが、これが積み重なれば確かにつらいかもなと思うが、俺の中にある意地が抵抗した。

「そんなことないって」

「あるの! 自分じゃ気づいてないだけで、そうなの!」

 すぐに遮られ、口をつぐむ。

「あなたはいつも自分が私より劣ってるって感じたら不満に思うの。だから……酒が飲めないのも理由の一つなのかもね。食事でも荘助を気遣う自分が面倒になったの。仕事変えたら少しはマシになるかと思ったけど、でもこれ以上一緒にいるのも面倒で……だから、」

 だから別れたのか。彼女の言い分だけ聞いていれば、俺は本当にしょうもない男だったが、それが自分なのだと言われてもピンとこなかった。誰か違う人の話をしているんじゃないかと疑ってしまったが、舞香から見た喜多屋荘助という人間はそういうヤツなのだ。

「……そっか」

 あれだけ傷つけろと願っていたくせに、いざ言葉の刃を浴びたらあまりのむごさに放心してしまう。

「俺は別に、舞香を見下してたつもりなかったんだけどな……でも、それこそ言い訳になるよな」

 なんて答えたら正解なんだろう。しかし、どう釈明しても彼女には届かないんだろうなと思えば言葉の無力さに歯がゆくなる。

 すると、彼女はなぜか俺の首に手を回してぎゅっと抱きしめてきた。

「ごめん……傷つけちゃった」

 何がなんだか分からず、そのままでいる。つんと香るアルコールを嗅いで思い出したが、そう言えば舞香は泥酔していたんだった。

「私、いい人でいたかったの。私が勝手に劣等感持ってただけ」

「ふうん……」

 でも、俺と一緒にいるのがつらいんだろ。だから終わらせたんだろ。

「それならそうと言ってくれよ」

 俺は舞香の肩に顔を埋めた。口調が幼くなり、どうしても甘えてしまう。すると、舞香も母親のように頭を撫でて慰めてくる。

「ごめんね。でも、そう言ったら荘助『じゃあ直すから』って言ってズルズルしちゃうでしょ」

「うん。そうかも」

「そうだよ。だから言わないことにしたの。最後は私が悪者になろうと思ったの」

 それもまた自分を正当化しようとする言葉だなと思ったが言わないでおいた。キレイなままでいようとする舞香に腹が立つも、この状態が妙に居心地良くて振りほどけない。

 なんだよ。これだけ時間が経って、散々彼女を悪者にして、悩んで、いろんな人と出会って新しい生活に足を踏み出そうとしていたのに結局は元に戻りたいのか。

「……かっこわる」

 ボソッと彼女の肩に言葉を埋めた。舞香は聖母みたいに「ん?」と訊き返す。「ううん」とそっけなく返すと、舞香は俺の頬をやんわりとつねった。昔みたいに。

 こいつも俺がノコノコやってくると手のひらを返して優しくする。ろくに話そうとせず一方的に突き放しといて、心細くなって呼び出してみたら元カレが未練タラタラだから喜んでいる。アホらしい。それなのに、このドラマみたいな再会のせいで場の空気に飲まれているから。どっちも。

 嫌だな、こういうの。

 そう思いながら、なんとなくキスをした。困ったことに彼女の口は重たいワインの味がし、否が応でも鳥飼さんの持っていたワインサワーを思い起こさせる。

 あれだけ鳥飼さんには触れたくても触れられなかったくせに、舞香が相手ならいともたやすく触れられる。そういう安っぽさが相応な気がして、余計に嫌だった。そして今、鳥飼さんの顔を思い浮かべてしまうのも最低だった。

 もう一度ついばむように唇を通わせると、唐突に頭の中で大きな目を描いた手のひらが浮かんできた。

 パチンと、どこかで軽い音が鳴る。その瞬間、眼球の奥に溜まっていた眠気が脳へ達し、そのまま目の前が暗くなった。

「荘助?」

 この感覚はあれだ。よく知ってる。

 混濁する意識の中でぼんやりと思いつく。

 体も元に戻ってしまったのだと。

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