第七夜 残骸③
子どもたちが泣き疲れて眠ってしまうと、夫婦の時間が訪れる。
咳き込む亭主の背中をさする魔女こと紗弓さんは、あの夜見せた妖艶で優しい魔女そのものだった。
そもそも、酔っぱらいの介抱を買って出るほど世話好きなお節介なのだから(名目上は公園の管理ではあるが)旦那のだらしないところを放っておける気質じゃないはずだ。
帰り際、紗弓さんは玄関口で俺と鳥飼さんへ申し訳無さそうに言った。
「ごめんなさいね。いろいろとお世話になったようで。いやぁ、アタシの勘はやっぱり当たるわね。また会えそうな気がしていたのよ」
確かに彼女は前回、俺たちにそう言った。
「旦那の異変には気づかないのにねぇ」
そうやって水を差すのは呆れた顔をする市田くんだ。これに対し、紗弓さんはケラケラと笑い飛ばした。
「そばにいる人ほど、この勘が鈍るのよねぇ」
「便利な勘ですねぇ」
「うふふ、そうね」
そうして紗弓さんは笑顔のままで市田くんの額を思い切りデコピンした。痛みに呻く市田くんを俺と鳥飼さんは哀れみの目で見下ろしておく。
「ともかく、君たちには感謝してるわ。ありがとう。おかげで、帰りにくかった家に帰ることができたわ」
「帰りにくかった?」
紗弓さんの言葉に、鳥飼さんがキョトンとした目で訊く。俺も首をひねる。すると、紗弓さんはぎこちなく口の端を伸ばして笑った。
「子どもたちと喧嘩したあとだったのよ……あの子たち、パパっ子なんだもの。アタシの言うことなんかひとつも聞きゃしないから、怒って『ママ、もう帰ってこないからね!』って言ったきりだったの」
俺は開いた口が塞がらない。
「それで帰らなかったんですか?」
鳥飼さんも驚愕の声を上げる。一方、呻く市田くんは「そんなこったろーと思った」とブツブツ言っている。
「うん……ちょうど出張も決まってたところで、本当に帰れなかったのよ。ざっと三ヶ月ほど。たまーに着替えを取りに行ったり、様子を見に帰ってきてたんだけどね、夜中にこっそり」
気まずそうに言う紗弓さん。鳥飼さんは苦笑いしたが、俺はどうにも笑えなかった。
「子どもたち、あんなに泣いてましたよ」
「うん、わかってる。本当にかわいそうなことをしちゃった……母親失格だなぁ。だからね、アタシには家庭って向いてないのよ」
自分に対して辛辣な評価をする紗弓さんに、俺はもう何も責めることはできない。それは市田くんも鳥飼さんも同じのようで、かける言葉が見つからなかった。まるで喉に蓋がついてしまったように何も言えなくなる。
そんな無音の中、紗弓さんの後ろから背後霊のように立つ店長の姿が見えた。
「いつまで喋ってんだよ。おまえら、明日も仕事だろ。さっさと帰れ」
なんだか学校の教師みたいな叱責である。でもその言葉がなければ、俺たちは動くのも気まずくてどうしたらいいかわからなかった。思い思いに「お疲れさまでしたー」と声をかけ、道に出た頃にはすでにとっぷりと濃い夜であり、わずかに白む街灯の下まですごすごと移動した。
「……それじゃ、オレはここで。喜多屋さん、がんばれ!」
市田くんがスーツのジャケットを肩に引っ掛けながら爽やかに言う。もともと別方向なのだから、気を回して二人きりにさせてあげたみたいな言い方をしなくていいんだよ。そんな意味も込めて俺は市田くんに手を振った。鳥飼さんがぺこりとお辞儀する。
「お疲れさまでした」
その声を背に、市田くんは軽薄に手を振って夜の道へと消えていった。
さて、二人きりになってしまった。低空テンションのせいで、心なしかお互いに話の切り出し方や歩き出し方まで躊躇っている。
「喜多屋さん」
なんて話しかけようかと考えていたら先手を取られた。
「……ちょっと、飲みませんか?」
酒を傾ける仕草をする鳥飼さんがはにかむ。その控えめに大胆なお誘いに、俺は溜まっていたものを逃がすように噴き出した。
コンビニで三五〇ミリ缶を一本ずつ買い、鳥飼さんと初めて二人きりで酒を飲んだ名もなき公園に行く。彼女が左側に座り、俺が右側に座った。プルタブを起こし、プシュッと小気味いい音を鳴らして缶を開けると、俺のハイボールが爽やかな香りを放った。パチパチと弾ける炭酸の粒が缶の中で暴れまわる。一方で鳥飼さんは赤玉ポートワインをソーダで割ったサワーを開けており、
「それじゃ、お疲れ様でした」
鳥飼さんがおずおずと両手で缶を持って美酒を掲げる。俺も同じくハイボール缶を掲げて「コンッ」と乾杯した。同時に口をつけ、同時にゴクリと一口飲む。
つんと独特なウイスキーの香りとソーダが口いっぱいに広がっていく。味はなんだかアルミっぽく、レモンがほのかに輪郭を浮かばせたあとは強い炭酸が喉を刺激した。
「はー、おいしい」
鳥飼さんが気持ちよく声を上げる。
「今日はつきあわせてすみません」
俺は太ももに置いた缶を揉みながら言った。
「いえいえ、子どもたちもかわいかったし、店長さんも魔女さんも仲直りできて良かったです。こちらこそ、誘ってくださってありがとうございます」
「迷惑かと思ったんだけど、そう言ってもらえたら安心です」
俺はハイボールを一口含んだ。
「あ、そう言えばカレー、お口に合いました?」
鳥飼さんが訊く。
「あ、はい。めっちゃうまかったです。誰かの手料理なんて久しぶりで」
「そうですか、良かったぁ」
彼女は嬉しそうに笑うと機嫌よくサワーを一口飲む。酒のおかげか、彼女が抱いてそうだった気まずさは払拭されたように見えた。対して、俺はいまだに気分を引きずっている。たった一口で酔えるはずもない。
「店長と紗弓さん、仲直りできたんですかね……」
「できたでしょう。あんな風に自虐を言っちゃう紗弓さんに、店長さんがあとでこっそり『そんなことない』って言ってましたもん」
鳥飼さんの横顔が笑うので、俺は両目を瞬かせて彼女を見た。きっとアホみたいに口を開けた俺に、鳥飼さんはクスクスと笑う。
「そうだったらいいなっていう妄想です」
「なんだ……」
俺の知らない間にそんな心温まるシーンがあったのかと思ったら。鳥飼さんは悪びれることなく笑い続けた。
「でも、そうだと思います。だって、あんな絶妙なタイミングで出てくるんですもん。店長さん、紗弓さんにベタ惚れじゃないですか。絶対なんとかしてくれますよ」
妙に強気で押し通す。ベタ惚れか……それは間違いない。
「紗弓さんが言ってること、実は私もちょっと分かるんですよ。家庭に向いてない、母親失格、そんな風に自分を責めちゃう気持ち、わかります」
そして、彼女は慌てて「子供いないですけどね」とおどけた。
「だから気軽に『わかる』なんて言えないですし、あの場では言えなかった。でも、想像はできます……それに私も小さい頃、母から『もうお母さんやめる』って言われたことあって……」
そこまで言って彼女はサワーをごくごく飲んだ。それはなんだかうっかり漏らしたことをごまかそうとするような素振りだった。
なんとなく彼女が言わんとしていることがわかり、俺は「うーん」と長く唸った。
「ああいう大人になるまい、と思ってしまう自分が情けない」
思わずそう呟いてハイボールをぐいっと煽る。
完璧になれないのは十分わかっているが、きれいなものを目指したがるから始末に負えない。
そんな俺の言葉に鳥飼さんは「そうですねぇ」としみじみ答えた。彼女がどんなシチュエーションで幼い頃、母親から「もうお母さんやめる」と言われたのかは聞かないでおく。
「私も周りの人達を見て『ああはなるまい』と思っちゃう質です。たぶん、その考えも間違いじゃないんだけど……どうにも柔軟になれない自分が嫌なんですよね。あ、私って器が小さいかもって思っちゃう」
その言葉に、俺はようやく頬を緩めた。
「俺たち、似たもの同士ですね」
「ふふふ、今さらですか? 私は最初に喜多屋さんと飲んだ時からそう思ってましたよ」
「そっか……」
俺はもう一度ハイボールをぐいっと煽った。照れ隠しだった。
とっくに青春は過ぎたはずなのに、思考はいつまでも子供じみている。でも、俺たちはもう酒を飲んでも咎められない大人だ。いつからか誰かと挨拶する時には決まって「お疲れ様」と言ってしまうくらいごく自然に大人だった。
そうして純真を
もし、この思考が理想の大人に進むことができるなら、それは一体どんなクエストをクリアした時なんだろう。恋愛? 結婚? 子供が生まれて、家を買って? それとも出世した時? もしくは起業して軌道に乗って高額納税者になった時とか。はたまた死ぬ時か。
人生のターニングポイントをいくつか考えてみても俺が俺であることはどうやっても変えられそうにない。そして、まったく想像がつかない。
「喜多屋さんって、いい旦那さんになりそうですよね」
ふと鳥飼さんが言った。驚いて彼女の横顔を見つめる。まったくこちらを見ずに、ふわふわ心地よく笑う彼女は缶の中身を気にしている。
「子供ともうまく付き合えるし、面倒見がいいですし、こうして真剣に考えて悩むことができる」
「そ、そうかな……」
俺はずんと重たいものが心に伸し掛かる気分に陥った。きっと、ハイボールが胃に溜まっているせいではない。
「そうですよ。喜多屋さんはとても優しい人だから、すぐに彼女も見つかって結婚できると思います。あ、でも結婚しちゃったらこうしてお酒飲めないですね……」
「そう、だね……」
今、唐突に彼女を抱きしめたい気持ちに駆られる。でも、それができないのは自分に自信がないからだ。明確にわかる。自信がない。そんな人間じゃないんだと言いたい。喉がむず痒い。
だって、そんな人間なら舞香にふられるわけがないんだから。酒が飲めるようになったのも、あの変な催眠術師のおかげだから。そして、酒が飲めないままだったら俺はもっと腐りきっていたはずだから。
辛いハイボールを飲み干すと、炭酸のせいで余計に喉の中が痒くなった。
その時、急に俺のジャケットでスマートフォンが震えた。何度も呼び出すように震えるスマートフォンはおそらくメールでもメルマガの通知でもない。
「電話か?」
この場にそぐわない素っ頓狂な声を出して、俺は内心「助かった」と思いつつスマートフォンを取り出す。しかし、表示を見てすぐに胃の中がひっくり返りそうになった。
南舞香という文字を鳥飼さんに見られないように隠す。彼女をちらりと見ると「どうぞ」と苦笑いしている。俺は小さく会釈して立ち上がると、鳥飼さんから背を向けて電話に出た。
「もしもし……」
おそるおそる声をかける。
しかし、返事は一向に聞こえてこなかった。
「もしもし?」
もう一度、今度は強気に言ってみる。すると、電話の奥ですすり泣くような音が響いてきた。
『壮助……』
「どうした?」
『ごめん、壮助。こんな時間に電話して……えっと、ごめん』
しきりに謝る舞香の声はとても震えている。どうして俺に電話したのか、自分でもわかってないような響きがあった。舞香が泣くのは滅多にないから、俺も気が動転していたのかもしれない。
「今、どこにいる?」
考える前に口が動いていた。舞香はしゃくりあげながら「え?」と聞き返した。そのやり取りに苛立ちを覚え、俺は低い声で早口に言った。
「今、そっちに行くから。どこにいるんだ」
すると、彼女は素直に自分が住んでいる家を教えた。
「わかった、すぐ行く」
そう投げやりに言って電話を切る。ジャケットのポケットにスマートフォンを滑り込ませ、ひとつため息を落として、持っていた缶を握りしめた。
「急用ですか?」
鳥飼さんがそっと訊いてくる。俺はくるりと振り返るも、まともに目を合わせられなかった。
「すみません、急用です」
「そうですか……じゃあ、行ってらっしゃい」
鳥飼さんはまだ残っているサワーを両手で握りながら言った。それを目で確認してしまうと、俺の口の中がやけに酸っぱくなっていく。
「鳥飼さんも早く家に帰ってくださいね」
居たたまれないので言うと、彼女は「わかってます」と穏やかに答える。そんな動かない鳥飼さんの前を通り過ぎるも、甘い葡萄の香りはしなかった。
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