第七夜 残骸
黒隈町、古傷に胸を焦がす。そして……
第七夜 残骸①
多分、ずっと笑顔のままだったと思う。変なことを言った覚えはないし、普通だった。普通を装えていたはずだ。そして、彼女を無事家まで送り届けて、俺も無事、家にたどり着いた。その間、やはり熱は上がっていたし、頭も痛くなり、しばらく玄関でうずくまっていた。
「あっぶなかったぁ……」
変な気を起こす前に帰れてよかった。そう言えば、持っていた紙コップがいつの間にか無くなっていたが、多分、帰り際の鳥飼さんが「私が捨てておきますね」と言っていたような気がする。
家についてから、俺は冷静にここまでのことを振り返っていた。それができるだけ、だいぶマシになってきたように思う。
恥じらう乙女のように、しばらく顔を覆ってそのまま玄関先に寝転がった。
「あー、もう、だから流されてんじゃん。周りに言われるまま好きになってんじゃん。しっかりしろよぉ」
そうだ。なんで結婚するのかって話で「周りに言われるから」とか「そういう自然な流れ」だとか「流されてるのでは」とか、そういう話をしていたんだった。完全に、すべての項目をクリアしていく自分の意思の弱さに幻滅する。
「そもそも、鳥飼さんは結婚願望ないって。うん。そうなんだよ。多分、恋愛も興味ないんだろうし。ましてや俺なんかに好かれたってさぁ、迷惑なだけだろ。そうだよ。そうそう」
言いながら虚しくなってきた。それはそれで悲しいじゃないか。なんか、こう、秘密を共有し合う仲なのに、脈なしって、そんなのないだろう!
分かったよ。認める。俺は鳥飼さんが好きなのかもしれない。まだまだきちんと確かめないといけないが、漠然とそう思う。酔いのせいにしたくない。
だから、余計に安心している。いや、もう本当に危なかった。あのまま酔いに任せていたらと思うと背筋が震える。
「俺は犯罪者にはなりたくない」
そんなアホみたいな結論が出て、ようやく起き上がった。起きると一気に血流が早くなり、また頭痛がきた。小さなハンマーで打たれたように痛みが走る。尾を引くわけでもなく、ただ通り過ぎていくだけなので、あの催眠術はまだ解けていないはずだと思った。でも、もしかすると解けかけているのかもしれない。ふぁんとむ境はこの催眠術の効力がいつまでなのか、説明していなかった。
その時、ふとあの土偶の言葉を思い出した。時間がない──すなわち、この催眠術の効力が残りわずかしかないということではないか。
「って、なんであのおっさんが分かるんだよ、そんなこと」
金田一耕助も裸足で逃げ出すほどの名推理だと思ったのに、むしろ裸足で踏みつけられそうなくらい安直な思いつきでしかなく、自分の頬を平手打ちした。
そうして痛い羞恥心に悶絶していると、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが音を鳴らした。トークアプリの通知音だった。
画面を見ると、もうすぐ深夜十二時。時間の進みというのは本当に速いもので、やはり時間泥棒が存在しているのだと考え、スマートフォンを取り出した。
【鳥飼です。ちゃんと帰れました?】
デジタル時計の下に、鳥飼さんのメッセージがあった。アプリを開かずとも読み取れる短い文章なのに、慌てて起き上がって姿勢を正してスマートフォンの画面に指を滑らせる。手汗のせいで思うように画面が開かない。親指を突くようにアプリを開くと、無意識に鼻息が荒くなった。
「はい、問題なく。無事帰りました」
口にしながら文字を打ち込んでいく。打ち終わって送信でき、少しだけ安堵する。
しかし、返事がすぐにきたので、肩がびくりと上がる。
【具合はどうですか?】
「あ、はい、全然大丈夫です。ご心配なく。鳥飼さんは大丈夫ですか?」
【私は大丈夫です。良かったです。安心しました〜】
そして、彼女はホッと胸を撫で下ろしたヒヨコのスタンプを送ってきた。かわいい。
ほっこりしていると、鳥飼さんがまたメッセージを送ってくる。
【早く休んでくださいね】
そう言われてしまうと、会話の終了を宣言されたようになり、俺ももう「はい、おやすみなさい」としか返せなくなった。すごい。こちらに気を使わせず、心配しながらも会話を切り上げようとするとは。実に妙技な腕前だと感心してしまう。鉄壁じゃん。
俺は素直に「おやすみなさい」と返した。心配されっぱなしじゃダメだ。さっさとシャワーを浴びて寝よう。
ネクタイと外し、シャツを脱いでズボンを下ろす。靴下をつま先から引っ張って、目の前の洗濯機につんのめりかけたその瞬間だった。やや時間を置いて、メッセージがきた。
【喜多屋さんって、酔ったらかわいいですね】
酔ったらかわいいですね? うん? んんんっ?
彼女の笑顔を思い浮かべながら、彼女の声でその言葉が脳内でぐるぐると巡っていく。
「どういうこと……?」
なんだよ、その感想。感想なのか? ここから、なんて返すのが正解なんだ?
彼女は何か期待しているのだろうか。それとも、俺を茶化しているのだろうか。かわいいとはなんだ。女性が言う「かわいい」は幅が広すぎて分からない。これは、社交辞令の「かわいい」か、それとも単純に「かわいい」のか、女子特有の口癖的な「かわいい」か。
いや、ダメだ。分からん。俺がひねくれているような気がする。
シャワーを浴びながら考えていると、忘れていた頭痛がよみがえってきたので、意味もなく温度を下げる。
早く寝よう。もう考えるのはやめよう。返事も当たり障りなく「そんなことないですよ」とでも返しておこう。
だが、少し頭が冷えてしまえば、なおさら彼女の言葉の裏を読もうとしてしまい、布団に入ってもずっと返事に困っていた。
そして、気がつけば朝がきていた。
寝落ちしていたにも関わらず、深く眠れていないようで、体のあちこちが痛かった。頭痛も治っていない。俺の体はいつの間にこんなナイーブになってしまったんだろうか。
***
「新展開きたー!」
翌日、原さんのウザ絡みを回避するため、市田くんと休憩室で長々と昨夜の話をしたら、思いっきり冷やかされた。自販機でジュースを買おうとしていた女性社員がビクッと肩を上げ、俺は市田くんをたしなめる。
「静かに! 大声で騒ぐなよ!」
「いやでも、いいじゃないっすか。真冬みたいな喜多屋さんに春到来! おめでとうございます!」
あの夜のことは胸にしまっておこうと思い、酒の勢いで危なかったことだけは伏せている。それなのに、この喜びようである。俺は腑に落ちなかった。
「こっちの問題なのに、なんで君がそんなに楽しそうなんだよ」
「だって、オレだってちょっとは後ろめたかったんですよ。あの修羅場を見られたし、なだめられるし、あとで莉央さんにお礼しといてって言われたし」
「お礼……されてないんだけど」
何ももらってないなぁと首を傾げていたら、市田くんはため息をついた。
「まぁ、物がいいなら物でも今度渡しますよ。あーあ、いい仕事したと思ったのになぁ」
しょんぼりと言う彼に、俺は顔をひくつかせた。まさか、あの助言(とも言い難いあのプッシュ)をお礼にするつもりだったのだろうか。今度は俺がため息をつく番だった。
すると、市田くんはニヤニヤと笑いながら俺の腕を肘で突いた。
「じゃあ今日は一緒にサンマート行きましょうよ。お祝いの酒でも奢らせてください」
「ちょいちょい言い方が雑なんだよなぁ……まぁ、いいけど。じゃあ、鳥飼さんも呼んでみようかな。せっかくだし」
「お! いいじゃないっすか! オレも会ってみたい!」
市田くんはやたらテンション高く言った。その瞬間、彼のスマートフォンに何やら通知音が鳴った。
「ん? 噂をすれば、店長……」
「店長?」
「はい。あ、あらら……風邪ひいたらしいです」
残念そうな口ぶりに、俺も肩を落としてしまう。どうりで昨日、閉めるのが早いと思った。あの双子たちのどっちかが風邪でも引いたのか。それとも両方引いたのか。だとしても、とても大変だろう。
市田くんのスマートフォンを覗く。文面はこうだった。
【件名:かぜひいた。
やっぱり風邪引いたから、誰でもいいので薬買ってきてください。子供の面倒も見てほしい】
「これ、店長が風邪引いてますね」
げんなりと言う市田くん。俺は空いた口が塞がらなかった。
そう言えば、俺は鳥飼さんに返事をしていなかった。「かわいいですね」のあと、どう言ったらいいものか悩んだ挙句にスルーしてしまっていた。時間が空いてるし、向こうもそれきり連絡ないし、改めてきちんとしたメッセージを送ってみよう。とにかく、市田くんが「呼べ」というので呼ぶしかない。面倒半分、彼女と近づく口実ができて嬉しさ半分。浮かれる気分を抑えながら「昨日の今日で申し訳ないんですけど、よかったら今日、サンマートに行きませんか」と送った。すると、返事は「はい。大丈夫ですよ!」と元気そうで、俺は無意識ににやけていた。
彼女は仕事が終わり次第向かうとのことで、俺たちは先に店まで行くことにした。店長の様子が心配なこともあり、真っ直ぐに母屋へ向かう。
「店長ー、大丈夫ー?」
市田くんが勝手口を勝手に開けて入った。さながら実家に帰るかのごとく。
「お邪魔しまーす」
俺も旧友の家に遊びに来たかのように自然と入っていく。
すると、居間のソファで渇ききった熱さましのシートを貼った店長がぐったりと寝ていた。
「店長、かなり弱ってますね」
市田くんが俺に向かって言った。
「子供たちはどこに……?」
俺は周囲を見渡した。ロボットや人形、ぬいぐるみ、レール、ブロックなどなどがごちゃごちゃと放置されたまま、これらの主人である双子がいない。
「あいつらは保育園」
店長が弱々しい老人みたいな声で答えた。むっくりと起き上がる店長は、朝からずっと着替えてないと思しき灰色のズボンとTシャツ姿だった。
「というわけで、子供の迎え頼んだ」
「どういうわけで!?」
思わず俺がツッコミを入れると、市田くんが「はいはい」と慣れたように、テーブルの上に置かれた保護者カードを取った。どうやら、店長はたびたび誰かにお迎えを頼むことが多いらしく、その際は手作りのラミネート加工された「保護者代理」を証明するカードを持って行くらしい。俺の知らないシステムがある。というか、市田くん、そんなこともやってたのか。ちょっと見直したぞ。
「喜多屋さんも行きます? あ、でも鳥飼さんが来るからダメっすね。じゃ、オレが行ってきまーす。店長のこと頼みました!」
そう言って、俺の返答も待たずにさっさと出ていく市田くん。手慣れている……会社でもこれくらいテキパキと働いてほしいものだ。
残された俺は、ソファでぐったりする店長の様子を窺った。どうしたらいいんだろう。そう思って、とりあえず買ってきた風邪薬を店長の頭に置いてみる。すると、彼は弱々しく受け取った。そして、俺の表情を読み取ったかのごとく、鼻をすすりながら言った。
「まぁ、別になんもしなくていいよ。片付けしてくれたら助かるけど。ほら、その辺のおもちゃ、あの箱にぶち込んでくれたらいいから」
「ガッツリ指示してるじゃないですか……いや、いいんですけどね」
言われるまま、おもちゃを箱に入れる。鳥飼さんが来るまでには色々と落ち着いていたらいいなぁ。て言うか、こんな状態の店長と会わせるのはどうなんだろう。一応、簡単に説明はしているのだが……そもそも、こんな時でも奥さんがいないのはどうなんだ。一度ならず二度までも、釈然としないので口が勝手に言葉を紡ぐ。
「店長」
「んー?」
「奥さん、連絡した方がいいんじゃないですか?」
「んー……まぁなぁ」
ここでも店長ははっきりしない。俺は呆れてため息をついた。
「こういう時、市田くんも莉央さんも、他の人も連絡つかなかったら困るでしょ。俺もいますけど、捕まらない場合あるじゃないですか。奥さんいるなら、二人で頑張るとかそういう話し合いはできないんですか」
すると、店長は不機嫌そうに頭を掻いた。そして、軽く咳き込みながら言う。
「その手があったな」
思わぬ返答に、俺はずるっと絵に描いたようにずっこけた。
「でも、やっぱ嫌だ。だって、あいつ、怒るし」
かと思いきや、店長はまたソファに寝転んで不貞腐れた。
「世話が焼けるなぁ! 子供じゃあるまいし、しっかりしてくださいよ! 二児の父でしょうが!」
「うるさいなぁ! 嫌だっつったら嫌だ!」
店長はクッションを抱きしめて駄々をこねた。そして、今度は重く咳き込む。あぁ、もう。本当に世話が焼ける。これじゃあ、イクメンを自称する原さんの方が数百倍マシに思えてくる。だいたい、なんでおっさんの世話をしなきゃいけないんだ。そう思いつつ、俺は背中をさすってやった。店長はソファの下に置いていたイオン水のペットボトルを取り、ごくごく飲んだ。少し落ち着く。
「はー、しんどい。年取ると、風邪が治りにくくなるんだよなー」
「じゃあ、なおさら気をつけてくださいよ。ほら、奥さんにも連絡して。別にいいじゃないですか。今日は帰ってきてくれなくても、話し合いをしようとそう連絡すれば」
「うーん」
歯切れが悪い。店長はなおも渋る。そのまま寝転び、不貞腐れているのか背中を向けられてしまった。俺はその寂しそうな背中に向かって喝を入れた。
「子供たちのためにも頑張ってくださいよ。やっぱり両親揃ってる方が安心すると思いますよ」
「そんなん、おまえの主観だろ。うちの何が分かるっていうんだよ。実際、子供もあいつに懐かねぇし、あいつも好きなことやってた方がいいんだ。それでうまく回ってるんだから」
店長はボソボソと反論した。
うまく回ってないくせに何をとぼけたことを言っているんだろう。
俺はおもちゃを回収しながら、どうにか店長の奥さんを呼び戻す方法を考えた。しかし、名案は浮かばない。結局、店長の心次第だと思う。妙な意地を張ってないで、さっさと「助けて」と連絡すればいいのに。苛立ちからか、ただひたすらにそう思っていた。
うちは両親が揃っているから、片親の子の気持ちは分からない。でも、どっちかが欠けると寂しいと思う。子供の視点からしか言えないのが歯がゆいところではあるが、あんな小さな子供たちがそう思わないはずがない。お母さんに懐かないから、お母さんが帰ってこないというのはただの大人たちの事情だし、奥さん側の問題だし、それを解決しない店長にも問題がある。そこまで考えて、頭の中でため息をついた。
正義感だろうか。それこそ俺の主観的な考えであり、この家族には適用されないのだ。それは一体なぜなんだろう。
思考が停止する。と、スーツのポケットからスマートフォンの通知が鳴った。
この状況を打破してくれるかもしれない女神、鳥飼さんがやってきた。
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