第六夜 ゾンビたちの憩い④

 魔女は水を紙コップに注いで、炭酸水に変えた。コンビニで買ったと思しき粒氷入りのプラスチックカップから、紙コップにいくつか氷をざらっと流してくれる。そして、その上からハブ酒の瓶を傾けて注ごうとする。

「あぁっ、待って」

 なんとなく怖気づき、声をかけたら、すんでのところでハブ酒が瓶の口で留められ、俺はホッと胸を撫で下ろした。

 魔女は不服そうに唇を尖らせた。

「大丈夫よ。おいしいんだから」

「でも、蛇じゃないですか」

「毒は抜いてあるし、心配ないわ。まぁ、飲んだらいろんなところが元気になるかもしれないけどねぇ。んふふふっ」

 魔女は愉快そうに笑い、俺の心の準備が整わないうちに酒を注いだ。その瞬間、甘い南国フルーツのような香りが立つ。

 鳥飼さんはさっそく魔女の横に座り、紙コップを受け取っている。俺も差し出されるまま受け取った。少量のアルコールだが、香りだけで酔えそうなくらい強い。炭酸で割っているからか、無色透明だった。しかし、コップを傾けると、光の加減で周囲の緑に染まる。不気味だ。ハブが浸かっていた酒でもあるので、余計に緊張する。

「はい、それじゃ、かんぱーい」

 魔女は上機嫌に紙コップを掲げた。彼女が持つと、安い紙コップさえ魔女の酒杯に見えてしまうのが不思議である。俺たちも戸惑いながら後に続いた。

 不気味な緑の下で見るハブ入りハブ酒だが、蛇の姿さえなけりゃ構えることなく好奇心で飲めそうな酒である。香り豊かな甘さがふわっと鼻の奥へ抜けていく。甘いのだろうか。俺は甘いのは苦手なんだが。でも蛇が浸かっている酒であり、さらに甘いとくりゃ、何がなんだかよく分からない。嫌な味だったらどうしよう。

 鳥飼さんを見ると、すでにぐいっと飲んでいた。慌てて俺も、意を決してちびりと飲む。

「……ん?」

「……んん?」

 俺と鳥飼さんはほぼ同時に唸った。

 味が分からない。もっとこう、毒々しい臭みが濁ったような味を甘みでごまかしたようなんじゃと思っていたのに、全然そんなことはない。しかし、鼻へ抜ける香りが手伝い、甘みを感じている。まぁ、でも……飲みやすい。

 一方、魔女の方はというと、先ほどまでの妖艶さとは打って変わって「ぷっはー!」といい飲みっぷりだった。

「びっくりするほど飲みやすい」

 鳥飼さんが言い、また一口飲んでいく。おいおい、そんなに飲んで大丈夫か。

「あ、でもやっぱりアルコールきついですねー……ふふふっ」

 すでにほろ酔いのようだ。

「はい、酔い覚ましのお茶。これさえあれば、どんな飲んだくれゾンビもたちまち人間に戻るんだから」

 魔女から差し出される小瓶を、鳥飼さんは苦々しく受け取った。しかし、すぐに笑っているので陽気なようで何よりだ。

「鳥飼さん、ほどほどにしときなよ」

 俺が言うと、彼女は「えへへ」と照れ臭そうに笑った。その笑顔があまりにも無防備だったので、急にアルコールが回った気がした。

 顔が熱い。やっぱり度数が高いんだよ、この酒は。炭酸と酒の強さで、俺の喉が悲鳴を上げている。

「ちなみに、お二人さんは恋人?」

 魔女が楽しげに訊く。

「いえ、違います」

「違います違います」

 俺が言ったあと、鳥飼さんも慌てて言った。すると、魔女はキョトンとした。

「えぇー? 違うのー?」

「なんでそんなに残念そうなんですか」

 すぐさまツッコミを入れると、魔女は上機嫌に言った。

「だって、お似合いなんだもん」

 彼女は左手でVサインを作ると、カニのハサミのように、ぱにぱにと合わせる。この人、絶対最初から酒入れてただろうな、なんてことをぼんやり考える。

 それに、魔女っぽい様子がだんだん抜け落ちていき、キャラ設定が崩れかけている。案外早く酔いが周りやすいタイプなのかもしれない。

「あーあ、若い子たちの恋路を追いかけるのこそが生き甲斐なのに……知り合いの子がようやく結婚するらしいのよ。はぁー……長かったわ、あの子たちも」

 感慨深く言う魔女の頬が紅潮する。俺と鳥飼さんは互いに目を合わせずに、魔女の方だけを見ていた。

「小学生からの幼馴染みで、なかなかこれがくっついたと思ったら喧嘩して別れてさぁ。まぁ、そういうのも含めて、人間の恋模様は楽しいんだけれど。結婚してゴールインしちゃったら、物語終了。だから、新しい物語を探しているのよ」

「でも、結婚してからも物語は続きますよ」

 すかさず鳥飼さんが言った。

 すると、魔女はキザったらしく「チッチ」と舌を鳴らして指を振った。(この仕草からして、確実に俺らと同世代ではないと見た)

「結婚して続くのは、物語じゃなくて現実。やっぱりね、結婚してから見えるものって違うのよ。それまで許容できたことが許せなくなったり、我慢したり我慢したり我慢したり……」

 なんだかいろいろと溜め込んでいるようだ。魔女はぐいっと紙コップを傾け、酒を一気に飲み干した。

「でもまぁ、悪いことばかりじゃないのよ……うん、そうそう。悪いことばかりじゃないけど……後悔しちゃうかもしれないね」

 魔女は哀愁たっぷりに言うと、ニコニコと笑って俺たちを見た。

「でも、あなたたちなら大丈夫ね。いいオーラが見える。そのご縁を、いつまでも大事にしておくのよ」

 そう言って、彼女はハブ酒の瓶を持ってベンチから立ち上がった。

「じゃ、今日の宴会はここまでにしましょう。きっとまた会えると思うわぁ」

 そんな謎の言葉を残して、妖艶な魔女は荷物を持つと、夜闇に溶けるように消えていった。


 突然参加させられ、突然終わった魔女の夜宴サバトから、俺たちは夢から醒めたかのように紙コップを持ったまま、公園から出た。

 俺はまだ残っている酒をちびちび飲みながら歩く。鳥飼さんはすでに飲み終わったらしく、手の中で紙コップを弄んでいる。

「結婚かぁ……」

 酔いが回っているのか、鳥飼さんの独り言が大きい。

「そう言えば、喜多屋さんの後輩さんも結婚決まったんでしたよね」

「あ、うん。そう……急に決めちゃって、本当に大丈夫なのかなー、あいつは」

「別れる寸前だったのに結婚決めたって言ってましたっけ」

「そうそう。そうなんだよ。それこそ、あそこのサンマートで大乱闘してたのに……」

「大乱闘って。そこまで仲が悪いのに復縁したってことですよね。すごいなぁ……一周まわって仲がいいのかもしれませんね」

 鳥飼さんはのほほんと笑って言った。

 いや、あの大喧嘩を見てたら笑えないって。

 そんなことは言えず、紙コップの中の酒を飲む。顔はずっと熱いままだ。

 まぁ、でも、市田くんと莉央さんの仲は俺らが想像するより深いものなんだろうし、あのもだもだ甲斐性なしの市田くんが腹をくくったくらい、莉央さんとずっと一緒に居たいわけなんだよな。

「ずっと一緒に居たいから結婚するんですかね」

 俺はついそんなことを呟いていた。

 すると、鳥飼さんは真面目に考えて言った。

「うーん……どうなんでしょう。結婚って、それこそ魔女さんが言ってたように、現実が続くわけですよね。いいことだけじゃなく、悪いことも一緒に、ずっと共にって言うか」

 そのフレーズに既視感を覚え、俺はすぐに結婚式のテーマソングを思い出した。

「私、結婚願望ってあんまりないんですけど」

 ふわふわと甘い結婚式ソングを頭の中で歌っていたら、鳥飼さんがズバッと言い放ったので驚いた。だが、俺の驚きに関わらず彼女の話は続く。

「でも、最近はいつまでもそんな風じゃダメだよなって、思う時があるんです。ただ、不安なだけなんですよね。選ばれたいけど、選ばれたくないっていうか……だから、訊いたんです。友達が結婚した時に」

「なんて?」

「どうして結婚したのー? って。そしたら──」

 こう言ったそうだ。

 ──結婚して家庭を持つのが自然だと思ってたし、それが普通じゃない?

 と。

「あー、でも、それは分かる。二十代後半にもなってくると、上司や先輩から結婚しろって言われるし、親からの圧力もすごいし。それが自然な流れだと思ってたとこはある。できるだろうと思ってた」

「へぇぇ。男性も、そういうのあるんですねぇ」

「ありますよ。まぁ、彼女の圧も感じてましたし……言われなくても気づいてんだけど、その、まだ準備とか、できてないからそのままズルズル」

 酔いのせいか、かなり口が滑っていく。

 鳥飼さんを見ると、彼女は道の向こうを真っ直ぐ見つめていた。

「あ、その、これは一般論だからね。俺の話ではなく」

「取り繕ってももう遅いですよ。やけに実感がこもってました。ふふふっ」

 なぜか笑ってるし。

 まぁ、気を悪くしてないのなら良しとするか。て言うか、彼女に取り繕う意味ないし。無駄に意識するな。

 咳払いして気を取り直す。

「確かに、周りから急かされて、彼女作って結婚する……って、思ってたけど、現実はそううまくいかない。一歩が踏み出せなくて、このぬるい生活のままがいいなって、思っちゃうんですよ」

 それが甲斐性なしだと責められる原因にもなるんだが。

 でも、その方が楽だ。そして、その生活に慣れすぎて、このままずっと続くもんだと思うのだ。それが浅はかでバカな考えだってことに気がつくのは、失ってからだった。

「うーん。そうですかぁ。確かに楽ではありますよね……結婚したら、姓を変えるのだけでも大変らしいですし」

 鳥飼さんは、ぽやっと笑って言う。俺が言いたいことが伝わってないようで、ついついツッコミを入れてしまう。

「いや、そこ? うーん、まぁ、そこも大変なのは分かるけど……」

「でもまぁ……結婚したいなら、彼女さんの方から喜多屋さんを引っ張って、結婚の話を進めても良かったと思いますよ。だって、男性からプロポーズなんて時代でもないんですし」

 ぽやぽやしているかと思いきや、鳥飼さんは現実主義者なのだろうか。俺でさえ思いつかなかったことを突いてくる。まったく、目からウロコだった。

「……待てよ。ということは元カノは、そもそも俺と結婚したくなかったってこと?」

 顎に手を当てて考えて言うと、鳥飼さんが「もう」と手を焼くように目くじらを立てた。しかし、すぐにふんわりと笑う。機嫌のいい唇に目がいってしまい、とても困る。そう思っていると、彼女は妙に明るげに言った。

「もしかすると待っていたのかもしれませんね。ほら、私たちって結構、周囲からの『普通』ってやつに慣れすぎてますし……周囲に言われるから結婚する。家族を作る。それが本当に自分の意思なのかどうなのか……まぁ、そんなことを考えているから余計に恋愛まで結びつかないんでしょうね、私は」

 そう言って、彼女はため息をついた。

「かく言う私も、待つタイプなんだと思います。やっぱり、小さい頃から王子様に憧れて育ったものだから。でも、待つだけで、本気で人を好きになったことはありませんし、一人で生活するのに慣れて、その方が楽だと思っちゃって……子供なんですかね、私たちって」

 悲しそうでもなく、面白くもない、そんな真顔の彼女の言葉に、俺はなんとも返せなかった。しかし、最後の言葉を頭の中で反芻していたらツッコミを入れずにはいられなかった。

「〝たち〟って……俺も仲間に入れてる?」

 このしんみりとした雰囲気に飲まれないよう、ついおどけて訊くと、彼女は目を瞬かせて俺を見上げた。

「違いました?」

「ちが……くない、か。うん。おっしゃるとおりです」

 言いくるめられた感じになってしまい、苦笑して酒をぐっと飲み干した。

 やっぱり喉にくる。一気に飲めば、酔いも回っていく。あぁ、強いぞ、この酒は。そのくせ飲みやすいからいくらでもいけるし……もう残ってないけども。

 ないと分かったら、欲してしまう。一滴も無駄にしたくない。

 そうして首を傾けて惜しみ、真正面に戻したその時、急に頭がくらっとした。すぐに額を抑えて立ち止まると、鳥飼さんがハッとして顔を覗き込んだ。

「喜多屋さん、どうしました?」

「あ……いや……大丈夫」

 すぐに笑顔を作ると、心配そうな顔をする鳥飼さんから目が離せなくなった。酒のせいだろうな。顔だけじゃなく、全身がポカポカと熱い。頭を振ると、懐かしい痛みを思い出す。これは、酒が飲めなかった頃に散々痛めつけられたものに似ている。

「喜多屋さん、本当に大丈夫ですか? すみません、私がお酒飲みたいって言ったから、無理させちゃいましたよね?」

 鳥飼さんが慌てふためく。せっかく機嫌よく酔っていただろうに、俺のせいで醒めてしまっているのがとても申し訳なくなった。

 あぁ、これ知ってるなぁ。無理に飲まされて、潰れた後にみんなが顔を覗き込んで焦るやつ。やばい、喜多屋が潰れた。誰だよ、こんなに飲ませたやつ。お前が無理に飲ませるからだろ。飲めないなら飲めないって言えよなー。そしたら、無理に飲ませないのに。ごめんな、喜多屋。

 だから俺も謝って、遠のきそうな意識の中でも笑ってみせる。

 体が覚えている罪悪感のざわつきからか、悪い酔いへ飲まれずに済んだ。なんとか踏みとどまって顔を上げると、鳥飼さんの顔があまりにも小さくて、なぜだか無性に撫でたくなった。

 もう一度頭を振って、目頭をおさえて、両手の下からゆっくり呼吸して、気を落ち着かせる。すると、この痛みもさほど悪くないなと思えた。

「本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫。気にしないで。あの酒、強いけど美味かったし。全然大丈夫だから、そんな顔しないで。ね?」

 何を言ってるのか、正直よく分からない。喉が渇いたな、と関係ないことを考える。あ、ダメだ。かなり酔っている。

 鳥飼さんを見ると、彼女はますます顔を引きつらせていた。まずいことを言ったつもりはないが、なんとなく不安になったのでもう一度笑いかける。

「ほら、帰ろう。明日も仕事でしょ? いや、しかし暑いなー……暑い暑い。ネクタイ緩めようかな。はぁ、ほんと、暑い」

 首元を緩めていると、彼女は目を伏せた。暗がりで表情がよく分からない。

「喜多屋さん……はい、そうですね……帰りましょう。帰って、早く寝ましょう」

「ん? うん。そうだね。早く寝よう」

 もう痛みもないし、むしろ気が緩んで仕方ない。それに、やたら暑い。早く帰ってシャワー浴びて、ガンガンに冷えた部屋で寝たい。冷たい布団に寝転んだら気持ちいいだろうな。布団のことばかり考える。

「喜多屋さんって……」

 一歩後ろで鳥飼さんが言ったので、俺は立ち止まって振り返った。

「ん?」

 すると、彼女は肩を上げて口を結び、また顔をうつむけた。

「い、いえ……あの、本当に無理しないでくださいね? 気分が悪くなったら遠慮なく言ってください」

「心配しすぎ。大丈夫だってば。確かに、さっきはくらっとしたけど、今は平気だから。ね?」

「う……ん、はい。分かりました。はぁ……」

 鳥飼さんのため息の理由はよく分からない。でも、そんな彼女を見ていると、ふわふわと心地よくなり、表情が緩むし、体温が上がるし、動悸もするから良くないなと思った。

 酒のせいなんだろうか。体質が元に戻りかけているのだろうか。そんなことをふと考える。

 催眠術の効力は、いつまでなんだろう。そんなことを、ふと考える。

「……まぁ、いいか。今は」

「え? なんです?」

 鳥飼さんが早足で回り込んでくる。

 顔を覗き込んでくる彼女の瞳は、みずみずしく濡れていて、とても綺麗だ。

「鳥飼さん……」

「はい」

 鳥飼さん、と言ったあと、なんて言えばいいんだ? なんで、こんな至近距離で話しかけたんだ?

 自分の行動が本当によく分からない。意味不明だ。でも、久しぶりに高揚する。こう、なんて言ったらいいんだか……甘やかで楽しい、しあわせな心地になれる。

 これは、本当に酒のせいだろうか。

 俺は鳥飼さんの肩を掴んだ。すると、彼女は目を瞬かせて硬直する。そんな彼女を脇に移動させた。

「えっと、通れないから、そこにいると。ほら、鳥飼さん家までもうすぐだよ」

「あ、はい……」

 彼女は少し安堵し、早足で自宅マンションまで向かった。俺もその後ろを追いかける。

 大きく息を吸うと、少しだけ熱が下がる。このまま冷めていってくれと思う反面、醒めるなと願う自分もいて、それからはもう気の利いた言葉が出てこずに、ただひたすらと夜道を歩くだけだった。

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