第一夜 散髪と引っ越し③
舞香は酒にめっぽう強く、新年会や忘年会のヒロインだった。同期たちに引けを取らないほどのずば抜けたコミュニケーション能力を持ち、上司たちを酔いつぶすほどの飲ませ上手である。当然、彼女は上司たちに気に入られる。俺は烏龍茶片手にせっせと幹事や司会に回る。その姿が情けなく映っていたのかもしれない。
最初は彼女も「今どき、飲み会とか古臭い悪習よねー」と言っていた。しかし、結婚を見越して一緒に過ごす時間が多くなるうち、彼女はたびたび不満を漏らすようになった。
「居酒屋に行きたい」と言われても、俺は定食屋を選ぶ。焼肉屋でも一切酒を頼まず、飲み放題をつけてもソフトドリンクだと元が取れないので、俺が嫌がる。そういった具合に、お互い地味なストレスが積み重なり、舞香は外食を嫌がるようになった。しかし、それもあからさまな態度ではなく「また今度ね」とやんわり断られるような。
そんなぬるい時間が長く続き、とうとう別れる方向に差し掛かった。話は舞香から持ち出された。そして、彼女はいろいろと理由を言った。
「そろそろ潮時」だとか「次の仕事、見つけたから」だとか「引っ越しもしなきゃだし」と、本音を言わずにあれこれ並べられた。
だから、つい怒って責めると、彼女もまた苛立ち紛れに言ったのである。
──だって壮助、酒が飲めないから。
「いやいやいや、酒が飲めないから別れるとか意味わかんねぇし! 人生棒に振って、バカなやつだなぁ! あーあーあ、もったいない。六年が無駄じゃねーかよ、くそが。なんだったんだよ、この時間……あー、何もかもめんどくせぇ」
聞くに堪えない呪詛を一人きりの部屋で繰り返す。あれよあれよというまに、荒れに荒れに荒れまくった。生活はかなり乱れ、なんとか仕事は休まずにいられたが、業績は思い切り下落していった。舞香がいなくなった後は、少しだけ調子が戻ったものの、信頼はそう簡単に回復しない。
俺はついに酒を手に取った。居酒屋に立ち寄るようになり、しかし、一杯飲み終わる前にすぐにつぶれて眠ってしまう。気がついたときには深夜を回り、苛立ちと不甲斐なさでしょぼくれて、数時間かけて自宅にたどり着く。そんな生活をすること一ヶ月──ある夜、俺は妙な男に出くわした。
その日は、かなり具合が悪かった。胃の中がもんどりうっていて、頭もぐらぐらする。無理して焼酎を飲んだからか、いつまで経っても酔いが冷めなかった。店を出てからのことは全然覚えていない。気がつけば公園のベンチで寝かされていた。
「あ、気が付きましたね。おはようございます。気分はどうですか?」
額に濡れたハンカチがあった。品の良さそうな、若干高い声質の男の言葉が降り掛かってきた。
途端に激しい吐き気を思い出す。俺は顔をそむけた。しかし、うまく吐けなかった。咳き込めば頭痛に襲われる。頭の奥が危険な痛みを発し、思わず呻いてしまう。いつもこうだ。後悔しているのに、また明日も飲むんだろう。本当にバカバカしい。
「あららら、随分と飲んだみたいですね。若いからって、あんまり飲みすぎないでくださいね。中毒になると若い人でも死にますから」
「すいません……ご迷惑を」
「気に病むことはないです。嫌なことがあったら、お酒に頼ってしまうのは人間の性です。太古の昔からそうなんですよね。人間は学びませんから」
慰めているのかけなしているのか分からない言葉である。
俺はようやくその人の姿を見た。優しそうな垂れ目で、温和な男。歳は五十代か、いや、もっと若いかもしれない。しかし長老じみた達観さと落ち着きがあり、会社にいる上司たちとは比べものにならない。介抱してくれたというだけで好感を持っていることも含むが、絶対に善人であることは保証できる。
その男性は黒いハットに、同色の裾の長いジャケットを着ていた。シャツとループタイがシックで、身なりがかなりいい。こうして改めて描写すると、彼はやはり堅気じゃないのだと思う。
「水を飲んでください。君、
彼はペットボトルの水を差し出しながら言った。この時、俺はなんの疑いもなく水をもらってごくごく飲んだ。この気持ち悪さを一掃してくれるならいくらでも水を飲みたい。だが、すぐには浄化してくれない。さながら酒は毒だった。赤ん坊のようにむせては、水を飲むのを繰り返す。そんな俺の背中を男は優しくさすってくれる。
本当に惨めだった。そうしていると、いつの間にか口が勝手に話した。
「すいません。もう酒は飲みません。ていうか、もともと飲めない体質で……彼女に振られて、バカみたいに落ち込んでて。六年ですよ。六年付き合ったのに『酒が飲めないから別れる』って、そりゃないでしょ。俺が悪いんです。ぜんぶ」
言葉も話もちぐはぐだったが、男は真剣に聞いてくれた。
「なるほど。それはさぞつらいことでしょうね」
「つらいです。だいぶ、きてます」
「うんうん。大丈夫です。すぐに忘れますよ。人生はまだまだこれからなんだから」
「でも、多分、もう無理です。彼女、すごく好きだったんです。結婚しようと思ってたんです。これを逃したら、もう二度となかったのに。バカなのは俺の方です……もう、死ぬしかない」
「あららら。これはかなーり参ってますね……後悔してますか?」
「してます。しまくりです。後悔しかない」
俺は水を飲んだ。急いで飲んだせいで喉が破裂しそうなほど痛む。どうにか体の中へ流し込み、荒く呼吸を繰り返していた。すると、男は何やら思案げに唸った。
「お酒、飲めるようになりたいですか?」
「え? あぁ、うーん。どうかな。ぶっちゃけ、酒は嫌いだし……でも、舞香のことを忘れたくなくて、いつのまにか酒に頼ってて。あ、舞香っていうのは、元カノなんですけど」
「舞香さんを見返したいですか?」
「そうですねぇ……まぁ、そんな機会はもうないけど。でも、酒が飲めたらよかったのになぁって思いますね。この体質が憎いです」
俺はペットボトルを握りつぶした。すると、横にいた男はおもむろに俺の肩を叩いた。ベンチから降りて目の前に立つ。
「では私に任せてくれませんか? もしかすると、お酒が得意になれるかもしれません」
「えぇー? そんなことできるんですか?」
「はい。私、こう見えて、催眠術師なんです」
「催眠術師……へぇぇ……」
感動はかなり薄かった。そんな俺に、自称催眠術師が笑いかける。帽子を深くかぶり、唐突に手のひらを俺の眼前に掲げた。すると、俺の目は彼の手のひらに釘付けだった。そこには目玉の模様が描かれている。
「あなたは、お酒が飲めるようになります。絶対に。飲める。飲めるようになる」
この暗示に、意識が遠くなっていきそうだった。いや、酒の影響が強かったに違いない。
やがて、目を覚ましたら自宅の布団に入っていた。慌てて会社へ行く支度をする。そんな忙しい時に、ふと卓上を見やると、白いシンプルな名刺が置いてあった。
「ふぁんとむ
あの奇妙な男の名か。本当に催眠術師だったのか。そして、あの出来事は夢ではなかったのだと認識する。
いくらか毒素が抜けていて、それでも仕事に集中できるはずがなく、残業を済ませて帰路についたのが二十一時。他人に介抱してもらったことが恥ずかしかったので、居酒屋に行く気にはなれず、コンビニに立ち寄って缶チューハイを数本買った。
家に帰って、テレビをぼんやり眺めながらプルタブを起こす。
「ジュースみたいなもんだ、こんなの。甘ったるさで、あの苦いアルコールも忘れられる。よし」
アルコール独特のあの苦味が舌をひりつかせるから、酒の味そのものが嫌いだった。ビールなんて飲めたもんじゃない。焼酎なんざ後味も良くない。芋はとろとろしていて、舌触りが気持ち悪いとさえ思う。日本酒はまだ試してないけど、あれを「うまい」と言える自信はまったくもって皆無だった。
俺は意を決してチューハイを含んだ。レモン味。本当にレモンかと疑うほど甘い。が、舌をひりつかせるあの苦味を一切感じなかった。
「あれ?」
二口目。やっぱりあっさり飲める。
「んん?」
三口目。いつもならここで一気に酔いが回るはずだ。それなのに、あのムカムカとした感覚がない。頭も痛くない。
「おかしいな……」
そこで、俺はようやく思い出した。ふぁんとむ境の言葉を。
──あなたは、お酒が飲めるようになります。絶対に。飲める。飲めるようになる。
「マジかよ、ふぁんとむ境」
卓上に放っていた名刺を掴む。この質素な明朝体の文字が、なんだか光を帯びているように思えた。
もしかすると、彼は酒の神様だったのかもしれない。
***
「えぇー……それ、大丈夫な話ですか? やばいのに引っかかってません? 財布とか取られてないですか?」
時は深夜〇時、
吉田くんは動揺し、引いた目つきで俺を見た。
「やばいよねー……でも、これがなんにも
「でも催眠術でしょ? 胡散臭いなぁ」
「でも、そのおかげで酒を克服したんだよ……嘘みたいな本当の話」
「まぁ、喜多屋さんが嘘つく意味も分かんないから本当なんでしょうけど。酒が飲めなかったのはよく伝わりました」
俺の渾身の情景描写はかなり説得力があったようだ。中学の時の漫画家志望も、頑張ればうまくいったのかもしれない。
すでに缶ビールは空で、手持ち無沙汰だった。一方、吉田くんはすっかり酔いが冷めていた。
「ふぁんとむ境……聞いたことないです。有名な人ですか?」
「いや、これがネットをさらっても全然引っかからないんだよねぇ。年齢も多分、思っているよりもだいぶ上かもしれないし……また会えたら聞いてみたいんだ。お礼もかねて」
だが、あれきり一度も出くわさない。あの公園がどこだったかも思い出せないので、こうしてたまに公園を見れば気になって立ち寄ってしまう。
「酒、飲めるようになって良かったですか?」
吉田くんが訊く。俺は少し考えた。
「うーーーーん……まぁ、悪くはないかな。浪費している罪悪感はあるけど、荒れてた時期に比べれば量も減ったし、適度に摂れてるから良かったのかもしれない」
素直に「良かった」とは言えないのは、まだ心が回復していないからだと思う。そんな俺を、吉田くんは冷やかすように笑った。
「ま、喜多屋さんが酒飲めなかったら、今日という日はなかったわけだ……話せて良かったです。なんか、文字打つよりも人と喋るほうが気が晴れますね」
「職場には相談できる人、いないの?」
訊くと、彼は荒れた手をひらひら振った。
「うーん。こういうのって、同じ職場で働く人にこそ相談できないっすよ。もっともらしいアドバイスされて、なだめられて終わるから。あ、いや、先輩たちはみんないい人なんですよ。でも……」
言いにくそうに目を伏せる吉田くん。言わんとすることは分かる。
先輩からのアドバイスはもちろん、今後の自分の肥やしになるものだ。その内容の質が良くも悪くも。それで納得できたらいいが、できない場合は心の中がくすぶってしまう。そして、この感情を先輩に訴えても「まぁ、そのうち慣れていくよ」と言われて完結させられる。
だから、やりきれない。
「いい人たちなら良かったよ。職場には味方がいた方がいいから」
「ですね……うまくやっていきます」
そう言いながら彼は、俺をちらっと見る。
「喜多屋さんは、大丈夫ですか?」
「え?」
思わぬ問いに驚く。言いよどみ、考える。そして、へらりと口を緩めて言う。
「大丈夫だよ。仕事なんて、絶対続かねぇって思ってたけど、これでも意外と続いてるし、人間関係も言うほど悪くないし」
つい、見栄を張った。
仕事の相談はできても私生活を相談できる相手なんて、もういない。
「そうですか。じゃあ、安心です」
吉田くんは安堵したように肩を落とした。そして、大きくのけぞってベンチの背にもたれる。見上げると、夜闇にぽっかりと月が浮かんでいた。今日は満月だ。
「なんか、こういうのも楽しいですね」
「こういうの?」
「こうやって、人と話すの。ネットでは容易に近づけても、リアルじゃなかなかできないでしょ。道端ですれ違う人に話しかけるって、結構ハードル高いじゃないですか。それを自然とできてるのが、なんだか無性に笑えて」
そう言って、彼は気を許したように足を組んだ。そして、おもむろに缶を開ける。まだ飲むのか。もう五本目くらいじゃないか。
彼の胃腸と肝臓の強さに呆れていると、俺の腹がそろそろ限界を告げた。ぐうっと訴えてくる。そろそろ晩飯を入れなくては。
「吉田くん、俺、そろそろ帰るよ」
「あー、そうなんですね……」
少し残念そうに言われる。これならつまみの一つでも買っておけば良かったなと後悔した。
「君も早く帰りなよ。職質されないように」
「これ飲んだら帰りますよ」
「空き缶は持って帰るんだよ」
「もちろんです。外飲みのマナー、基本中の基本ですよ」
吉田くんは調子よく言った。これだけで、なんだか友達になれたような気がし、俺は少しだけ心が踊った。いや、実はかなり嬉しかった。
確かに、ネットでは容易に人と繋がれて便利だ。一方で、こうしたリアルな視界での繋がりはとても希薄だと思う。
一夜限りの友達、もしくはこれから先もなんだかんだ会うかもしれない友達。そういうものが出来るのかもしれない。
俺はベンチから立ち上がり、片手を上げた。
「じゃ、また」
そう言うと、彼も
「はい、また」
ひらひらと手を振って見送った。
***
朱馬地区は九つの町で形成されている。東井川公園は、俺が住む
七階建ての灰青色のマンション。五〇三号室が俺の家。1LDKの一室は一人で住むには広く、家賃光熱費も少し厳しくなってきた。夏のボーナスで持ち堪えられたとしても、冬まで凌げるかは微妙なところ。
だから、俺も引っ越すことにした。
玄関を開けるとまず迎えるのは、積み上げたダンボール。その脇に大きな指定ゴミ袋。掃除が行き届いていない廊下を行き、真っ先に洗面所へ。洗濯物の山を無視してシャワーを浴びる。ささっとすべて済まして、リビングに行き、ソファに座ってテレビをつけてから俺は、再び洗面所に戻った。
ワイシャツの胸ポケットに入れていた吉田くんの名刺だけを持ってリビングへ行く。明かりの下で見れば、ミントグリーンの爽やかでおしゃれなデザインだった。名前の裏には店の地図が記載されている。どうやら、引っ越し先の方面に店がある。
俺はボサボサの前髪に目をやった。
「そろそろ切るか……」
引っ越しが先か、散髪が先か。スマートフォンからカレンダーを開いて考える。
……再来週、引っ越しが終わった後に行ってみよう。そう決めて、俺は吉田くんの名刺を財布の中に仕舞った。
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