第一夜 散髪と引っ越し②

 困ったことに先客がいた。砂場の近くが通りの死角だったので、そこへ向かったらばったり出くわした。さっそく、俺の一人酒タイムが呆気なく砕け散る。

 無骨な銀色の大きなリングピアスをつけた白い薄顔の青年。歳は二十代前半か。華奢に見えるのは、オーバーサイズのカーディガンを着ているからだろう。

 彼は俺と同じ缶ビールを片手にベンチを占領していた。足を組んで、さながら玉座のよう。しかし彼は、俺の登場に驚いて肩をビクつかせた。

「どうも……」

 いたたまれないので声をかけて笑いかける。すると、彼も「ども」と小さく会釈した。サラサラで質のいい髪の毛は蛍光灯の灯りで銀色に染まっていた。

 そんな彼は占領していたベンチを少し開けてくれた。そうなれば、もうお邪魔するしかない。俺は静かに彼の隣に座った。

 缶ビールを開ける。プルタブを起こしたら、タップタプの液体が顔を出す。それをじっくり見るまでもなくすぐに喉へ流し込んだ。なんとも言えない苦味のあとに酸味、あとを引く甘み。味なんて別にどうでもいいが、酒が飲めるようになった今はじっくり堪能する。

 うまい。

「っはぁー」

 思わずため息が出た。しまった。今のおっさんっぽい。隣に座る彼がまた肩を上げているのが目の端で窺えた。そして、フッと軽く噴き出す。

「なんか、コマーシャルみたいなため息出しますね」

「え?」

「ほら、俳優とかが出てるビールのコマーシャル。あれ、無駄に溜めて、さもこのビールが極上な飲み物ってアピールしてるじゃないですか。お兄さんもそんな感じっす」

 お兄さん、という言葉にたちまち好感が持てる。俺もつられて笑った。

「考えたことなかったな……確かに、言われてみればそうかもしれませんね」

「でしょー? 演出だってのは分かるんですけどねぇ……ノリがオーバーで、共感できないんですよねぇ」

 言葉は辛辣だが、思ったよりも愛嬌のある青年だ。一気に話しやすい空気が広がる。

 俺も調子に乗って話しかけた。

「酒、飲み慣れてるんですね。いつもここで飲んでるんですか?」

「いや、そうでもないですよ。人並みっす」

 彼は手を振った。袖から覗く手がわずかに荒れている。

「仕事でちょっとうまくいかなくて、ダラダラして流れ着いたというか。明日休みだし……まぁ、いろいろあって」

 そう言って彼は薄顔をしょっぱそうにしかめた。

「SNSに感情ぶん投げるのもいいんですけど……て言うか、そうしたけど気が晴れなくて」

「あー、ある。分かります、それ」

「フォロワーさんは優しいから反応くれる人もいるし、そしたら今度は妙な罪悪感が湧いちゃって。情けないなー、俺。みたいな」

 彼の言葉は、俳優がコマーシャルでため息をつくものよりも遥かに共感ができた。

「仕事してるんですね。どんな仕事ですか?」

 俺は訊きながら、酒を口に含んだ。すると、彼はあっさり答えた。

「美容師です」

「うぉぉ……美容師……なるほど、確かに。言われてみれば、それっぽい」

 思わず驚く。夜の下では本来の髪色が分からないが、色素が薄いことは分かる。しかし、動画投稿者やミュージシャン、アパレル店員と言われても納得できる風貌でもある。

 彼ははにかみながら、ジーンズのポケットに入れていたと思しき名刺入れを引っ張る。寒色系の爽やかな地に、白い文字で名前が書かれている。その横には彼の顔写真も。

 差し出されたので受け取る。俺はしょぼついた目で名刺を見つめた。

「美容室オーガスト、美容師、吉田よしだ星路せいじ……へぇぇ。俺、美容師さんをこうして生で見たことないから、なんだかレアに思っちゃう。すごい」

「いやぁ、入ったばかりの新人ですよ。入社前から研修してたのに、いまだに慣れなくて」

「へぇぇ」

 俺は名刺を何度も裏返して見た。今年入ったばかり、ということはやっぱり二十代前半くらいか。若い。同じ二十代と言えど、二十八と二十歳くらいじゃ住む世界も視界も違う。

 俺は吉田くんの名刺を胸ポケットに入れ、カバンに入れていた自分の名刺を出した。

喜多屋きたや荘助そうすけ、さん……株式会社OLIVE.EARオリーヴァー……どんな会社なんですか?」

「オーガニック食品を扱うメーカーです。サプリとか飲料水も売ってます。規模はそこそこだし、人手は足りないし、後輩はすぐ辞めるし、まぁ、普通の平凡な会社ですかね」

「そこの営業部なんですね。営業の仕方、すごく興味があるんですけど」

「いやいやいや、俺の営業力、ほんと底辺だから」

 すかさず言った。思わず口調が砕ける。しかし、吉田くんは気にする素振りなく、ただ残念そうに缶ビールを飲んだ。

「ふーん、そうですか。うーん」

「お役に立てなくて申し訳ないです」

「いやぁ、でも喜多屋さんって人が良さそうな顔してるし、笑顔も完璧だし、そうは見えないんだけどなぁ。話しやすいし」

 生意気なのに絶妙に嬉しい言葉をかけてくれる。俺は照れ隠しにビールを口に含んだ。すると、彼は何やら悟ったように小さく言った。

「社会って厳しいっすね」

「厳しいですね……今日なんてね、お気に入りの弁当屋が値上がりしてました。それがかなりショックだったな。ほんと、世知辛い」

「あー、なんか分かるかも。地味に痛いですよねぇ。月末が近づくにつれて、残高がごっそり減ってるし、そういう地味な痛手がストレスになる時あります」

 吉田くんは哀愁たっぷりに言った。そして、ビールを一気に煽る。「ぷはっ」と小さく息を吐き、吉田くんは前のめりになった。

「なんだか、疲れてるようですね」

 思わず言うと、吉田くんは額を揉んだ。彼の脇を盗み見ると、空き缶がいくつかあった。度数の高い酒もすでに空らしく、思ったよりも彼は酔っているらしいことがようやく分かる。

「喜多屋さん。初対面の人にこんなこと言うのもなんですけど、めっちゃ話しやすいんで、ちょっと話を聞いてもらってもいいですか?」

 酔いに反して、彼はかなり誠実に言った。その真剣な目から逃げることはできず、俺はビールを飲む。彼みたいに一気には飲まず、大事にちびちびやっているのがなんだか弱腰だなと自嘲しつつ。

「俺でよければ、どうぞ」

 すると、吉田くんは安堵したように小さく笑った。そして、ポロポロと語り始める。

「美容師って、新人はだいたい掃除かタオルたたみか、先輩美容師のヘルプなんですけど、そこはまぁ良くて。問題は、シャンプーなんです」

「シャンプー……」

 俺はオウム返しに言った。何を隠そう。俺はそもそも美容室に行かない。数ヶ月前まで必要がなかったからだ。その話は今はこの場に関係ないので回想を省く。

 美容室──そう言えば、カット前にシャンプーをしたりするんだっけ? 何しろ最後に行ったのがいつだったかも覚えていない。そんな俺に構わず、吉田くんは悩ましげに言った。

「俺、シャンプーが壊滅的に下手なんです」

「えぇ……」

 それは、美容師にとっては致命的なのではなかろうか。よく分からないけれど。

「お客さんにシャンプーできるようになるのは、テストに合格してからなんですけど、先輩相手にシャンプーやって練習したりするんです。で、合格はしたんですけど……いざ、お客さんにやってみたら全然ダメで。俺、本番に弱いタイプなんですよ。専門の頃もコンテストでいつも惜しいとこまでしかいけなくて」

「そうなんだ……コンテストがあるんだ。知らなかった」

 美容界のことはさっぱりだ。しかし、誰しも苦手な分野というものはあるものだ。

「今日、やらかしました」

「どんなやらかしを……?」

 思わず神妙に訊く。いくら美容に疎い俺でも嫌な予感はした。吉田くんが無表情になって言う。

「力が弱すぎたんです。お客さんがかなり、そりゃあもうかなり不機嫌だったんすよ……何回も確認したんですけど、そのたびに『弱い!』『全然ダメだ!』って、言われまくりました。相手は常連さんだったんで、余計に言葉がきつくて」

「どんだけ弱かったんだ……」

「泡を撫でているだけだって」

 俺はなんと慰めたらいいか迷った。あまりに共感ができず、どうにも困る。素人のアドバイスほど無益でしかないことを俺はよく知っている。迷っているうちに、吉田くんは自嘲気味に笑った。

「あー、いや、こんな話しても分かんないっすよねぇ」

「まぁ……」

 正直に唸ると、吉田くんは手のひらをヒラヒラ振った。

「カットもそうなんですけど、シャンプーはまぁ、お客さんの気分や機嫌とか、頭皮の状態とか、あとは癒やしとか、そういうのも込みの重要なサービスなんですよ。だから、余計に緊張するんです」

「なるほどねぇ」

 素直に感心してしまう。シャンプーって奥が深いんだな。と、思いながら俺は新卒の頃の記憶を引っ張り出していた。

 自分の無力さが嫌で嫌で、どうにか早く一人前になりたくて余計に失敗する。でも、意外と二年目からはそこそこのことはこなしていた。たまに顧客の理不尽なクレームに悩まされ、そもそも相手の態度が悪いだとか、クレームを入れる方の精神が分からないと陰で愚痴を垂れて、ストレスのはけ口に夜通しゲームをして、土日はずっと際限なく寝て、食べて、寝て。いつの間にか、あの純粋な〝がむしゃら感〟を失っていた。それは大人になった証なんだろうか。それとも腐っただけなのだろうか。

 俺はビールを飲んだ。半分は減っただろう。もう一口飲む。空きっ腹の胃袋に流し込んでも、まったく酔えないから不思議なものだ。さて、この一生懸命な若者になんと言ったら良いのだろうか。

 偉そうなことは言えないし言いたくない。そして、ひらめいたのがなんとも気休めであり、弱腰な俺らしい言葉だった。

「吉田くん。今度、君の美容院に行ってみるよ」

「え?」

 吉田くんは目をしばたたいた。曲げていた背中を伸ばして俺を穴が開くまで見つめる。

「え? なんで? どうしてそうなったんですか?」

「いや、そこは『マジっすか! めっちゃ嬉しいです!』って言うところだと思う。格好つかないでしょ」

「えー……まぁ、それを自分で指摘するのはかっこ悪いっすねぇ」

 冷静なツッコミが返ってきてしまい、俺は苦笑いでごまかした。すると、吉田くんも気が抜けたように笑う。その声がだんだん大きくなる。それでもなお、この公園は静かだった。

「でも、嬉しいです。まだカットはできないけど、ちゃんと頑張るんで、その時は指名してください」

「指名……え、美容院ってそういう感じなの? なんか、エロい」

 頭の悪い感想を放ってしまった。何度でも言うが、俺は美容に疎い。オーガニック食品を売っているにも関わらずだ。

 突然緊張する俺に、吉田くんは訝しげに眉をひそめた。そして、何かを悟ったように膝を叩く。そして、愉快そうに笑った。

「あー、もしかして、喜多屋さんって美容院じゃなくて床屋派ですか?」

「ううん。ただ単純に行かないだけ」

「え、それなのに、きちんとしてますよね。自分で切る派ですか?」

 吉田くんは自分の前髪をハサミで切るような仕草をした。それをも僕は否定する。

「いいや、不器用だから無理……」

「あ、分かった。彼女にやってもらってるんだ。いや、違うな。もしかして奥さん?」

 その勘ぐりに、俺は笑顔をさっと消した。吉田くんもすぐに察し、気まずそうに目をそらす。その目が俺の左手薬指に移るのを感じた。

「あー……違うんですね。すいません、調子に乗りました」

「いや、いいんですよ、全然……というのも、まぁ、初対面の人に言うのもなんだけど……俺、二ヶ月前に彼女と別れたんだ」

 吉田くんの言う通り、俺は彼女に髪を切ってもらっていた。六年も。だから、美容院なんて行かずとも身なりは整う。別に俺から彼女にせがんだわけではなく、彼女がとても世話焼きだったからだ。

 吉田くんは口を覆い、慌てふためく。目から上だけしか見えないのに「やべぇ」という感情にあふれていた。

「すいません、地雷踏んで……あ、でも、俺も最近はすっかりご無沙汰です。気になる人はいるんですけど、全然振り向いてもらえないって言うか」

 慰めとも言い難い、吉田くんの言葉は俺の分厚い心に響かなかった。

 しばらく、気まずい沈黙が俺たちの間を流れていく。

 砂場の向こう岸に長いポールがある。その天辺に時計が堂々と鎮座ましましていた。現在、二十三時目前。思ったよりも長々と話していたものだ。

 公園は夜から深夜へと移り変わる。だが、お互いにベンチから立ち上がろうとはせず、この微妙に緩やかな心地を崩せずにいた。

「──なんで別れたんですか?」

 この際、無礼講だと開き直ったのか、吉田くんが訊く。いたたまれずに訊いたとも言える。

 俺もまた、その言葉を待っていたとばかりに口を開いた。

「俺が酒飲めないから、だって」

 今や、テッパンの自虐トークネタである。これに食いつかない野次馬はいない。

「酒が飲めない?」

 吉田くんは素っ頓狂な声で言った。

「え? でも、全然飲めてるじゃないですか」

 あぁ、そうか。

 今まで下戸アピールしていたせいもあり、「喜多屋荘助は酒が飲めない」というのが周囲の一般常識だった。しかし、今の俺は堂々と深夜の公園でビールを片手に若者の話に耳を傾けている。酔いが顔にも出ず、口調もしっかりしているので、吉田くんにとっては意味不明だろう。

 ちょっとだけ迷う。この話をしてもいいものか。でも、ここしかないんじゃないか。ここで話さずにして、いつあの不可思議で妙ちきりんな体験談を披露するという。それに好都合なことに相手は酔っているじゃないか。

 俺は前のめりになり、真剣な風を装って厳かに言った。

「吉田くん。ちょっと、この話に付き合ってくれるかな?」

「はぁ……」

 吉田くんも空気に飲まれて真剣な顔つきになる。

 では、少しの間、俺の話を聞いてほしい。

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