第二夜 日出台の怪人たち
朱馬地区、日出台公園にてアシカ屋とその後輩に出会う
第二夜 日出台の怪人たち①
彼女にふられたということ、住み慣れた場所を離れるということ、髪を切りに美容院に行くこと、そのどれもが一大イベントに思える。また、酒が飲めるようになったというのは、他人にとっては小さなことでも、俺にとっては人生を左右する重大なイベントである。
引っ越し当日。
家具家電はなるべく持って行き、写真立てや本棚、服や雑貨、ぬいぐるみ、いつ買ったのか分からない雑誌を思い切って捨てた。そして、セミダブルのマットレスも捨てた。
しかし、枕だけは捨てきれずに新居へ持っていく。さすがにこいつだけは捨てられない。俺は枕が変わると寝られないタイプだ。
引越し業者には頼まず、仲のいい会社の先輩、原さんと一年後輩の
「またなんか困ったら遠慮なく言ってくれよ」
原さんはぽってりした頬を愛嬌たっぷりにほころばせた。
いや、さっき市田くんに聞きましたけど、奥さんとケンカしたから気まずくて家にいられなかったんですよね──なんて言えるわけがなく。
「ありがとうございます。お世話になりました。車まで出してもらって」
「いや、いいんだって。今日はちょうどヒマだったし、いい運動になったし。後輩サービスも捗って一石二鳥って感じ」
家族サービスと同等な響きだな。まぁ、悪い人じゃないし、言葉に裏なんてないんだろうけど。
そうして原さんは調子よく笑い、大きなバンに乗り込んだ。
「市田くんもありがとう。せっかくの休みにごめんね」
「今度メシ奢ってくださいね。楽しみしてます!」
とても澄んだ瞳でそう言われたら苦笑を返すしかなかった。こっちもこっちで、ちゃっかりしている。
「原さーん、家まで送ってくださいよー」
そう言って市田くんは長い背を折り曲げるようにしてバンに乗り込んだ。
エンジンがかかる。原さんが窓を開け、俺に向かって片手を挙げた。
「んじゃ、あとは頑張れよ」
「はい、ありがとうございました!」
原さんの脇から市田くんも顔を出して手を振る。俺も振り返し、とりあえず車が去るまで見送った。
夕方。
元々住んでいた
「メゾン
ある程度の家具家電の設置は済んだが、洗濯機はまだ繋げていない。冷蔵庫は明日、一人暮らし用のものが届く予定だ。ほかには着替えと布団、収納ボックスが無造作に転がっている。
ある程度、片付けてカーテンを取り付けたところで、さすがに足腰が限界を迎えた。今日は朝からずっと荷運びをしている。疲れた。
明日、美容院に行こうかなと思って十一時に予約したけど、行けるかどうか不安なところだ。寝過ごさないように気をつけないと。
事前に買っていたシンプルな時計を電池で動かす。時刻はすでに二十時を回っていた。
「うわあ、やっちまった。もうこんな時間か……」
綺麗なフローリングに座り、とりあえずぼーっとする。
腹も減ったし、何か買いに行こう。俺はスマートフォンで地図アプリを開いた。前に住んでいた場所からさほど遠くはないが、土地勘がないので最寄りのコンビニを探すのもアプリ頼みだった。
Tシャツの上からジージャンを羽織り、外に出る。さっそく夜風に煽られながら、俺はチラチラとスマホの画面を見ながらコンビニを目指した。
新しい町──日出台は全体的に
信号を待つ意味もないほど、車が通らない。そんなほぼ無人の夜道を行き、コンビニへたどり着いた。すぐさま惣菜コーナーへ行く。
「新作……」
ぽつんとしらすパスタが置いてある。バター醤油味。うまそうだ。こういう「新作」やら「季節限定」に弱い。迷いなくパスタを選び、ふとドリンクコーナーに目を向ける。ペットボトルの緑茶か、炭酸ジュースか。いや、今日はせっかくの引越し祝い。一本……いや、二本だ。しかも、アルコール度数九パーセントのストロング系にする。三五〇ミリリットル、レモン味とプレーン味(プレーンってなんだ?)の二種類を掴み、そのままレジへ。パスタは温めてもらう。
再び外へ出て、俺は気分よく夜の町へ赴いた。明日のことはすっかり忘れていた。
先ほど、アプリでちらりと見えたのだが、このコンビニから少し歩いた場所に公園があるらしい。「日出台公園」は「東井川公園」とは違って遊具があった。山みたいに組まれたロープの何かがある。今どきの子ども達って、こんなので遊ぶのか。どうやって遊ぶんだ。すると、ナゾ遊具の近くに「あそびかた」という看板があった。
「……あ、ジャングルジムか」
なるほど。鉄の骨組みの代わりに柔らかいロープになっているのか。納得。ということは、ここは普段は小さい子どもが使っているのだろう。今は、肝を冷やすほど静かだが。
公園の周囲には懸垂用の鉄棒や、逆上がりをするジャンプ台まである。とても小さいキリンやゾウの遊具もある。これ、なんて名前なんだっけ。子どもの頃、好きでよく使っていたはずなのに正式名称は知らない。すぐにスマホで調べる。
「へぇぇ、スイングっていうんだ。なるほど」
一つ賢くなった。
懐かしさを感じながら俺はベンチを探した。ここはフェンスがなく、開放的な空間だった。生け垣の近くに背もたれのない黒い鉄製ベンチがある。では、今宵はここで一人酒飲みでもしようか。
パスタを脇に置き、酒の缶を手に取る。甘くないレモン味のチューハイを飲んでみたかった。普段、手に取る五度のものに飽きてしまっているところだ。
プルタブを起こす。なんとなくワクワク。
「では、喜多屋荘助、引っ越し祝いに乾杯!」
小さく呟き、恥ずかしくなって笑い、一口含む。
おぉ。おぉぉーーー! 確かに甘くない。噂のとおり一発目からガツンと強い炭酸とアルコールが鼻にくる。喉を通る痛みにびっくりしつつ、でも後味はすっきり爽やかなレモン。しかし、炭酸が強い。いや、アルコールか。どっちだ。
「ふぅ」
思わず唸る。一口だけで、すでに血の巡りが良くなってきた。こころなしか、胃の中がポカポカしてくる。
その高揚のままパスタをかきこむ。バター醤油の味が強い。しらすときざみ海苔をうまくからめて食べる。そして、酒を飲む。最高だ。レモンを選んで正解だった。とにかく飲むと食べるを繰り返し、手が止まらない。
時刻は二十一時を指そうとしている。誰もいない街灯の下で、遊具を眺めながら飲む酒は、なんだか言い知れぬ背徳感がある。これはクセになりそうだ。
そんなことを考えていると、すっかりパスタがなくなってしまった。酒はまだ残っている。それからは、静かにゆっくりと喉へ流した。
酒が飲めるようになったとは言え、この度数の高い酒には敵わない。気分が良くなってくる。だが、これはあくまで外飲み。羽目を外すのはもってのほか。ただただ静かに飲酒を堪能するのみ。
そう思っていた。
だが、
「んなーっ! 誰じゃい、アタシの特等席に勝手に入り込んだ不届き者は!」
背後から鋭い声が聴こえた。一気に全身が震え、すぐさま背後を見る。そこにはキャップをかぶった髪の長い女性と、彼女の腕を抱える作業着姿の男性がいた。どちらも同世代に見える。男の方が若く見える、ような。いや、そんなことはどうでもいい。
明らかに酔っ払っている女に怒鳴りつけられているという状況に、俺はものすごく焦った。ベンチから立ち上がる。
「すみません!」
なぜ謝らなければならないのか。そんなことを考える暇はない。
「あー、すいませんねー、この人、酔っ払ってるんで気にしないでください」
男が苦笑しながら言った。
「ヴァカタレがっ! 酔っ払っとらんわい! つーか、シバオ。見ろ。こやつ、酒を飲んどるぞ。アタシの城で酒を飲んどる!」
女がへべれけに言った。
俺はすかさず酒の缶とゴミを持った。これはもう帰ったほうが良さそうだ。気配を消そうとしていると、シバオと呼ばれた作業着男が豪快に笑った。
「わっはははっ! はいはい、そうっすね。あ、そうだ。先輩、せっかくだし、この人と一緒に飲みましょうよ。俺、酒買ってきますんでー」
すると、女はニヤリと舌なめずりした。
「ほっほぉー。なるほど。シバオ、たまにはいいこと言うじゃないか……よし、気に入った。おい、そこのおまえ」
「はい」
反射的に返事する。と、女は怒気を消して下手くそなウインクを飛ばしてきた。
「アタシに付き合って」
これを別のシチュエーションで、海辺で美人に言われたら一発で落ちる自信がある。しかし、現実は夜中の公園で、酒臭いへべれけ女から威圧的に言われている。悲しい、と言ってしまうとこの人に失礼なのだが、テンションは急降下するものだ。
そして、俺はいつだって弱腰なので、
「……はい」
断れるはずがなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます