第五夜 夏の魔物③
時刻はすでに十九時を回ろうとしている。しかし、話はさらに泥沼化していきそうな気配である。俺はそわそわとし、店長も店を閉めたそうにウズウズしていた。
「……莉央さん」
やがて、市田くんがモゴモゴと言い出す。
「俺、今回は納得いかないよ。今回ばかりは、俺に非はない」
まさかここで煽ってくるとは思いもしなかった。命知らずめ。
俺は「おい、市田くん」と声をかけたが、それを店長に止められた。
なんだか真剣な顔をしているが、この人にはおよそ表情という概念がないのだと、この短時間で把握している。だが、空気は先ほどよりは冷えており、喧嘩もそろそろ最終局面をむかえているのだと察した。
ともかく見守っておく。
「俺、莉央さんのこと好きなのにさ、そうやって急に怒られると、どうしたらいいか分かんない」
「智、あんた、あたしの横に何年いるんだよ。なんで分かんないんだよ」
「いや、そりゃあ、何年一緒にいてもさ、分からないことは分からないし……それに、逆にずっと一緒にいると、考えてることがどんどんズレてってるような気がして、分かんなくなって」
「じゃあ何? あたしが悪いっていうの?」
「……ほら、そうやってまたすぐ怒る。その言い方、ムカつくからやめてって言ったよね」
市田くんの機嫌も悪くなっていく。事態はますます最悪な方へ向かっている気がし、俺はいてもたってもいられない。しかし、市田くんにかける言葉も、莉央さんを咎めることもできない。
この状況、ちょっと前の俺と重なる。
「とにかく、俺は別れたくない」
市田くんの結論に、莉央さんは納得がいかないらしく、返事をしなかった。椅子から立ち上がり、俺に小さく会釈すると、彼女はレジから出ていく。
どうにも後味の悪い幕切れだった。
「店長、喜多屋さん」
市田くんが疲れた声で言う。
「すみませんでした」
「お、謝れるなら偉いぞ。成長したな、市田」
店長が冷やかしたっぷりに言った。これに、市田くんはまるで子供のように不貞腐れた顔をした。その様子がなんだか、兄弟のように見える。
それから店長はタバコを灰皿に押し付けて、母屋の方へ向かう。
「ちょい待ってな。寝かしつけが終わったら、一杯やろうぜ」
そう言って店長は猪口を傾ける仕草をし、ゆらっと母屋へ入っていく。
すると、どうにも気まずい沈黙が流れた。
「………」
「………」
時刻はすでに十九時を過ぎ、やがて二十時となっていく。外は雨が降っており、ふと莉央さんのことが気になる。足場の悪い夜道に女性を一人で帰すのは、男三人もいて気が利かないのではないか。しかし、俺が行くのは絶対違う。
「……彼女、追いかけなくていいのか?」
訊くと、市田くんは壁にもたれて、ため息をついた。
「どうせ、向かいのコンビニに行ってるからいいんですよ。いつもこうなので」
「向かいのコンビニ……」
そう言えば、ここのお向かいさんは二十四時間営業の大手チェーンコンビニエンスストアだったことを思い出す。地図上ではそう書いてあったのだが、サンマートの圧倒的な空気に飲まれて全然見ていなかった。
「あっち、店長の奥さんがマネージャーやってるコンビニだし、友達も働いてるので、逃げ場になってるんですよ」
「なるほど……いや、それでもよく分からんが」
「俺と莉央さんは、サンマートのバイトでした。高校生の頃から世話になってます。で、向かいのコンビニで働く友達も、サンマートの元バイトで。要するにこの辺一帯は俺たちの実家みたいなものです」
その説明に、俺はようやく納得した。
そして、この修羅場に巻き込まれる人は他にもいるらしいことが分かった。
て言うか、店長の奥さんもコンビニで働いているのか。亭主と二人三脚ではなく、大手で働く方を選んでいる。そして、どちらかというと稼ぎ頭のようであることまでが窺える。一体全体どうして、この寂れた個人商店の店長と結婚したのかは、なんだか話が長くなりそうなのでそのうち聞くことにしよう。
「ということは、市田くん。君は莉央さんと付き合いが長いわけか……え? 今年、いくつだっけ?」
「今年、二十五です。莉央さんは一個上なので、二十六ですね。あ、もしかして、誕生日プレゼントが気に食わなかったのかな……」
喧嘩の理由というのは、そもそもが単純な失敗の積み重ねが原因で引き起こされる災いである。怒りの熱が蓄積され、いつか急に、なんでもないその日に大爆発を起こされるわけで、まぁ、その理由であるこちら側としては、怒らせないように気をつければいいのだが。いかんせん、そういうわけにもいかない。その都度、言ってくれなきゃ分からないものだから。
そんなことをふんわり考えていると、店長が欠伸混じりに戻ってきた。
「よーし、やっと寝たー……」
「お疲れさまです」
俺はなんとなく声をかけた。すると、店長は「うん、ありがとー」と憎めない笑顔を見せた。なんだ、優しく笑えるのか。いや、これはただの疲れなのかもしれない。なんにせよ、さきほど思ったことは訂正しよう。
「さて、酒を飲もう。こういう時はな、酒でも飲んで忘れちまえ」
「忘れたらダメじゃない?」
市田くんが苦々しげに言う。すると、店長は彼の頭をコツンと小突いて、明るい店の中へ向かった。
やがて、ガラガラと表のシャッターを閉める音がしてきた。しばらく待っていると、店長が「おーい」と俺たちを呼ぶ。売れ残りの食品を回収し(と言っても、ほとんどゼロに近かった)、酒コーナーのところで物色している。その背中に近づく。
「何飲もっかねぇ」
「なんでもいいよ。あ、でも、喜多屋さんは酒飲めないんでしたよね」
「え? あ、いや、今日は……付き合うよ」
言いよどむ。けど、この誘いを断れなかった。そもそも、俺は酒を買いに来たのだ。
案の定、市田くんは目を丸くして驚いた。
「えぇ? あれぇ? どうしたんですか? 喜多屋さんが酒を飲むって、天変地異の前触れじゃん」
「君は俺をなんだと思ってるんだよ」
調子に乗る市田くんは、「てへっ」と笑う。まったく、生意気な後輩だ。
「よし、これにしよう。今日はこれの気分だ」
後ろでバカなことを言っているのも構わず、店長はのんびりと酒を選んだ。
「純米大吟醸、辛口。切れ味抜群。これは美味いな」
「辛口かー」
市田くんが怖気づいた。俺も「辛口」という言葉にわずかながらビビる。すると、店長はニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「こういう時は刺激が必要だろ」
「しかも日本酒ですか。冬に飲むイメージなんですけど」
俺も茶化すように笑う。と、店長は眠たそうな目をカッと見開いた。
「日本酒は冷が美味い」
そう断言されては、頷かざるを得ない。
「まぁ、市田はともかく、喜多屋くんは無理にとは言わんよ。でも、うちに来たってことは美味い酒を求めにきたわけだろ? だったら、店長オススメの酒を飲んでみた方がいい」
理屈は分かるのだが、こちとら酒飲み初心者である。が、店長オススメの美味い酒は間違いなく美味いに決まっているので、素直に喉がゴクリと鳴った。
店を完全に閉めた後、母屋の方へ上がらせてもらった。昔ながらの家って感じで、床や壁は古い。居間とダイニング、台所が全部繋がっていて、ふすまが仕切りのような役割を担っているようだが、全部取り外されている。こころなしか、家の中はおじいちゃん家みたいな白檀のにおいもする。広い和室とリビングが繋がっていて、台所だけは割と新しく、切り場とコンロ、シンクが縦長に広がっていた。
店長の子供たちは和室に敷かれた布団でスヤスヤ眠っている。そこには黒い仏壇があり、おじいちゃん家のにおいの正体が分かった。二人をどうにか起こさないよう、俺たちは静かに台所の方に集まっていた。台所の水場はシンクではなく、水色のモザイクタイルであり、本当に古い家なんだなと実感する。
店長は酒瓶と不揃いな猪口を三つ用意して、俺たちを縁側に呼んだ。しかし、雨が降っているので、雨戸は締め切ったままにしておいた。
「天気が良ければなー。月見酒ができるんだけどな、ここ」
店長がしんみりと言った。そして、酒をとっくりに注ぐ。トクトクと瓶から溢れ出る酒は、月明かりではなく、蛍光灯の明かりで白い光を放っていた。
「はい」
店長がまず、俺に猪口を渡した。そして、とっくりから酒を注ぐ。片手におさまるほどのそれは、深緑色に塗られていた。陶器のひんやりと滑らかな感触が妙に手に馴染む。
次に市田くんにも渡していき、最後に自分の猪口に酒を注ぐと、店長は「それじゃ、どうぞー」と気の抜けた号令をかけた。
どうぞ、と言われたからには飲むしかない。市田くんは一口、ぐいっと煽った。続けて俺もビビりながら口に含む。
最初は、水を飲んでいるのかと思った。けど、舌の中心に酒が流れ込むと、急激に強い酸味が訪れた。思わず「んんん?」と喉の奥で声が出てしまう。が、そんな悠長に怯えている場合ではなく、酒は味を変えた。フルーツっぽい甘みと、柔らかな舌触り。ゴクンと喉に送ると、微弱な痛みと爽やかな香りが一気に落ちていく。
「……そう言えば、俺、日本酒飲んだの初めてです」
思わず言った感想がそれだった。
市田くんが横であんぐりと口を開けている。
「喜多屋さん! 大丈夫ですか? 無理してないですか?」
「え? あ、うん。大丈夫だよ」
「喜多屋さんが飲んだのって水じゃないんですか? だって、おかしくないですか? ビール一滴で酔う喜多屋さんが、十五度もある酒を飲んで正気でいられるわけがないのに!」
「つくづく君は俺をなんだと思ってるんだよ……」
これ以上騒がれても面倒だ。あとでちゃんと説明しよう。
市田くんは、俺の猪口をひっつかんで嗅ぎ、勝手に一口飲む。「あ、酒だ」と呟き、不思議そうに首をかしげていた。
「それよりも、市田くんのことだよ。どうするの?」
喉に送った酒がパチパチと弾け飛ぶのを感じながら、俺は話を蒸し返した。すると、市田くんはたちまち元気をなくし、こころなしか不機嫌そうに自分の猪口を傾けた。
「……別れませんよ。て言うか、いつものことだし。莉央さんは、ああやって突然怒るし。ただ普通に会話してただけですよ。昔から気性が荒いし、人使いも荒いし、口も悪いし、足癖悪いし」
「まぁ、花島はそうだよなー」
店長がケラケラ笑った。
花島莉央さんというのが、市田くんの彼女の名前か。やっぱり、付き合いが長いらしい空気があり、俺はやはり部外者でしかなかった。まぁ、他人の恋路をどうこう言う筋合いはないし……でも、なんというか。
市田くんには幸せになってほしいなぁ、という謎の願望があって、どうにもほっとけなかった。
そんなわけで、ついぶっきらぼうに言ってしまう。
「そうやって、彼女に甘えていると、いつか本当に捨てられるからな」
「喜多屋さんみたいに?」
「……あぁ、そうだよ。ある日突然、家財道具全部片付けて『引っ越しの準備したから』っつって、消えるんだから。市田くんには俺みたいになってほしくないんだよ」
言っているうちに、だんだんと納得していく。あの苦くてつらい記憶を口にすると、あの時の自分と彼女の感情が見えてくる。俯瞰的に、あの場面を見つめているような気になる。
あぁ、そうか。俺は、いたたまれないだけなのか。
「でもよー」
唐突に店長が言う。
「甘えるところって言えばさ、もう女のとこしかなくない? ……って、おいおい、そんな顔するな」
俺だけでなく市田くんからも白い目を向けられた店長は、心外そうな顔をして猪口を傾けた。
「いや、だってそうだろ。気張って仕事して、大してありがたくもない上司の話とか愚痴とか聞いて、それでもニコニコ笑ってさ。感情殺して一日の大半過ごして、そんで、疲れて帰ってくるわけだろ。毎日毎日必死にさ」
どうやら、会社での生活をほとんどを市田くんから聞いているような節があり、やはりこの人は市田くんにとって、家族に近いものなのかもしれないと思った。そして、なんだか俺までしんみりしてしまい、視線を酒に戻す。
「それでも、向こうは満足しねぇんだよな。まったく、あいつらは俺たちのダメな側面しか見てないし、見ないんだ」
店長はうんざりと言った。こちらもなかなか重厚な歴史が見て取れた。そんな風に彼女のせいにできたらいいんだけど、そう思えないのは年齢のせいなのか。ジェネレーションギャップってやつなんだろうか。
戸惑って横の市田くんを見ると、彼はそうでもないらしく、同意するように薄く笑っていた。
「まぁ、そう簡単に人は変われないからなぁ」
「そのとおり。いくら頑張ったって、認めてくれる人はほんの一握りだし、あくせく頑張ってもほとんどが無駄に終わる。だったら、ダメなままでいようぜ。そしたら、向こうも勝手に呆れてくれる」
「でも、そしたらまた『別れる』って言われるんじゃ……意味なくないですか?」
思わず俺が訊く。それは答えを欲する子供のようだった。
これに対し、店長はクスクス笑って雨戸に背を預けた。
「花島の言う『別れる』は、市田への嫌がらせなんだよ。わがままかな。あいつも仕事大変だから、甘えてんだよ」
「……な、なるほど」
「ただ、俺たちはあいつらのストレスのはけ口じゃない。だから、ぶつかるし、ぶつからなきゃ先に進めん。そこで本当に縁が切れるっていうんなら、その時は腹をくくるしかねぇよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は口の中が急に渇いていくような気がした。酒を飲んで潤す。強い芳香と刺激のある痺れが心に効く。
そう言えば、俺は舞香とぶつかっていなかった。舞香も遠慮してしまうタイプだし、強く言えない。それは逆にお互い強情っぱりなだけだった。そうしてどんどん無関心になり、なんとも後味の悪い幕切れになったのだ。
「なんでこっちが腹くくる前提なんだよ。それはそれで納得いかないなぁ」
市田くんが子供っぽく言った。その言い分には、俺も賛成だった。
でも、本当なら全力でぶつかった方が良かったのかもしれない。関係が壊れてしまうのが怖かったから、言いたいことも言えずにいたんだろう。お互いに。
もっと、ちゃんと向き合っていたら良かったのに。
──いつまでこうしてるつもり?
──これからどうするの?
──もういい。何も言わなくていいから。
何が正解だったのかは本当に分からない。思い出すと、喉がチリチリと痛んだ。
すると、店長はとっくりを傾けて、自分の猪口を満たした。一口ゆっくり飲んで、ふぅっとため息をつく。
「市田、おまえは本当にダメなやつだなぁ」
「店長に言われたらおしまいだよ。あーあ、こんな大人にはなりたくなかった!」
「まだまだ先は長いぞー」
そう言う店長の声は深く静かで、その目はどこか遠くを見ていた。
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