第五夜 夏の魔物④

 夜がゆっくり更けていく。雨の音はいつの間にか小さくなっていて、店長が雨戸を開けたときには、すでに時刻は二十三時へ差し掛かろうとしていた。

 時間はどんどん消費されていく。俺は一体、どうしてこのコンビニで長居をしてしまっているのか。酒と冷やし中華を買いに来ただけなのに。

 結局、市田くんはそれからも悩み続けていた。そして、悩むのに飽きたら、店長に「今日、泊めて」と頼んでいた。

 そう言い出したと同時に、この静かな宴もお開きとなる。

 帰りがけに、店長から「今日は悪かったな」と大して悪びれもしない声で言われた。

「まぁ、市田くんは後輩ですから」

「あんたみたいな先輩がいてよかったよ。あいつ、甘えん坊だし、そのくせ頑固だし、お調子者だしよ。迷惑かけるとは思うが、よろしくな」

 ぶっきらぼうに見えて、意外と情に厚い人なのかもしれない。

 俺はこの憎めない店長が、市田くんや莉央さんにも慕われる理由がほんの少しだけ分かった。まぁ、みんな素直じゃなさそうだし、憎まれ口叩き合いながら仲良くしてるんだろう。

 ちょっと羨ましくなり、なんだか素直に笑えなかった。ぎこちなく会釈し帰ろうとするも、店長は開けたばかりの酒瓶を包みに入れて、俺に渡した。

「次もまた気が向いたら寄ってってくれ。これは、お詫びに持って行きな」

「え、でも……さすがに、いただくのはちょっと」

「いいから、いいから」

 店長はいたずらっぽく笑う。

「うちの嫁には内緒にしてくれ」

「いや、店長の奥さん見たことないし……」

「そっちのコンビニでうっかり口滑らさなけりゃいいから。はい、じゃ、またのお越しをー」

 俺の背中をポンと叩いて外へ締め出す。

 しかし、一升瓶である。金も払わずにもらうのは申し訳ない。困っていると、店長は手を振って戸を閉めた。

 俺は返却を諦め、帰路につくしかなかった。

 それにしてもこの酒は確かに美味かった。全身がポカポカとあったかい。

 雨上がりの夜道は、足元が鬱陶しいもので、近道を行くことにした。この道をぐるっと行くよりも、公園を突っ切って行けば、いくらか横着できる。思わぬ土産もあることだし、何より一升瓶は重たい。

 そんな感じで、深夜の公園を横切る。

 ここは公衆トイレの明かりが不気味で、赤い光を放っていた。雨と土のにおいの中に下水くささも混じる。公園を囲うようにして植わっている木がざわざわとさざめき、次第に早足になった。

 そんな時である。

 出口付近で、リヤカーを引く巨漢の男がのっそりと横切った。

 こんな夜更けにリヤカー? いや、そもそも、こんな町中でリヤカー? この現代においてリヤカーで移動する人を見たことがないので、俺はリヤカーにしか目がいかなかった。

 だから、その男が俺をじっと見て立ち止まっていることに気が付かなかった。

 俺とリヤカー男の間に風が何本か通った頃、男がふと呟いた。

「……時間がない」

「え?」

「時間がないぞ。あんたの時間、最近早まってきてやしないかい」

 俺? 俺に言っているのか?

 周りを見回すも、俺しかいないようであり、ようやくこの現場の異様さに気がついた。そして、言い知れぬ恐怖が背中を伝っていき、ほろ酔いだったのに一気に冷めてしまう。

 俺は後ずさった。リヤカー男からただならぬ気迫を感じ、その圧倒的不気味な気配に怖気づく。

 すると、今しがた通ってきた公園の入口付近から「ブォン!」と車のエンジン音が響いてきた。キュルキュルとタイヤを鳴らし、円柱みたいな黒いバンが凄まじい勢いで停車する。

 一体、今度はなんなんだ!?

「喜多屋さん!」

 車の運転席から若い男が俺を呼ぶ。

「早く! こっちに来い! 乗れ!」

 あまりにも切羽詰まった様子でなおも叫ぶのは、

「柴雄くん!?」

 いつもの作業着姿ではない、黒スーツに身を包んだ丸福柴雄だった。

 俺は迷わずバンまで走った。リヤカー男はただただじっとこちらを見ているだけで、翳った顔からどんな表情をしているのかまったく分からない。

 ざわめく木に煽られてバンに乗り込み、助手席で息を切らし、反射的にシートベルトを締める。すると、同時に柴雄くんが荒っぽくアクセルを踏んだ。

「し、柴雄くん……あれはなんだ? って言うか、めっちゃタイミング良くない?」

「なんか見覚えある背中だったので、追ってみれば。やばかったっすねー。もう少しで土偶の餌食になるところだった」

 公園から遠ざかると、柴雄くんは緩やかにハンドルを切った。

 土偶──夏休みの夕方、リヤカーで貸し本屋やってるおっさん……あれか!

「ちなみに、あの土偶に遭ったら、何されるの?」

 訊くと、柴雄くんはケラケラ笑った。

「さぁー?」

「さぁー? って。知らないの?」

「んー、まぁ、遭ったらヤバいなぁとは思いますね。普通に怖いじゃないですか」

「いや、怖いけども! でも、よく分からんのに、怖がっても意味ないし……じゃあ、なんで俺を助けたんだ?」

「カッコイイかなって」

 柴雄くんはあっけらかんと答えた。

「いや、前からやってみたかったんですよねー。映画みたいに車から『乗れ!』って言って助けるやつ」

 ただやってみたかっただけ──!

 その単純かつ明快な理由に、俺は空いた口が塞がらない。

「……柴雄くんさぁ、土偶のおじさんのこと、勝手に怪人にしてんじゃないのか? 失礼だろ」

「まぁまぁ。そういう細かいことはいいじゃないっすか」

 柴雄くんは豪快に笑って、車をゆったりと走らせる。

 俺はもう何も言えず、抱えている一升瓶の口に額を乗せた。

 あの土偶──俺に向かって何か言っていたな。

 時間がない、だっけ? 俺の時間が早まっているとか、なんとか。

 どういう意味だろう。

 なんとも不吉で不穏な言葉をかけられたことに気がつき、ふと背後を見やる。なんだか、あのおっさんが追いかけてきているような焦燥に駆られた。

 しかし、再び窓を打ちつけるような雨の中に、あの大きなシルエットはどこにもない。

 やはり、あれは怪人の類なのかもしれない。そう思わずにはいられなかった。

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