第九夜 かぎりない深更
第九夜 かぎりない深更
それは穏やかながら澄んだ春の夜空のことだった。一周ほど季節が巡り、いろんな出来事も巡っていった。日常は相変わらずだったが、それでも以前よりはいくらかうまくやれているような気がする。
だから、こんなことでいちいち悩むんじゃないと自分に言い聞かせているものの一向に足が動かない。
ここは大きな広場のような公園で、桜の木を囲むように置かれたベンチと街灯だけの空間。その一角に俺はぽつんと座り込んでいた。スプリングコートのポケットに入れた小さなケースを開け閉めし、うーんとうだうだ考えている。
すると、暗がりから人が現れた。軽快な足取りでやってくるその人は夜なのにハットをかぶり、トレンチコートをなびかせて歩いてくる。見覚えのある男。この日をどれだけ待ち望んだことか。
俺は立ち上がって、その人の前に進み出た。
「こんばんは、境さん」
声をかけると、彼はとても驚いた様子でその場に固まった。
「えぇっと……どこかでお会いしましたかね?」
彼は街灯の下で困惑気味に眉をハの字に曲げているが口元は緩んでいる。
「何をとぼけたことを言ってるんですか。『ふぁんとむ境』さん、俺のこと忘れたんですか?」
思わず拗ねたように言うと、彼は優しく頷いてこめかみを掻いた。
「いやぁ、その名で呼ばれるとくすぐったいですねぇ」
「自分で名刺渡しといてよく言いますよ」
俺は呆れて笑うと、元いたベンチに座った。ふぁんとむ境も腰を下ろす。
「どうして私がここに来ると?」
「最近、こっちに戻ってきたという情報をもらったんで、時間がある時にここで待ち伏せしてたんです」
偶然この公園を見つけた時、俺は飛び跳ねて喜んでしまった。うっすらと記憶に残る公園と一致したのだ。ちょうど一緒にいた光美ちゃんがドン引きするほどで、すぐさまあらゆる方面へ知れ渡った。相変わらず俺にプライバシーはないが、もう慣れてしまっている。
「そうですか……ここでしたっけねぇ。君を助けたのは、もう一年くらい前になるんでしょうか」
ふぁんとむ境は品良く笑うとしみじみ呟いた。
「はい。あの時、あなたに助けてもらってからいろんなことがありましたよ」
「ほう。そうですかそうですか……その後いかがです?」
彼は何やら含むように言う。俺はお礼を言いそびれたと思いつつ、流れるように言葉を返した。
「催眠術は解けました。去年の秋頃に。元カノとはもう会ってませんし、何をやってるかは全然知らないですけど、問題なく過ごしてます……ただ」
「ただ?」
すかさず聞き返される。俺は唇を舐め、一呼吸置いて言った。
「酒が飲めなくなったのはちょっと寂しいですね」
「あらら、それは残念。それじゃあまたかけてみましょうか? 催眠術。今度はかなり強力なのを」
なんと、それは魅力的。しかし首を横に振る。ふぁんとむ境は袖をめくりあげようとしていたが、キョトンとこちらを見た。
「なぜ?」
すぐさま問われ、俺は言葉に詰まった。うーんと考え、言葉をひねり出す。
「なんて言うか……酒のおかげで縁ができたのはとてもありがたいことでした。でも、酒がなくてももう平気なんです」
そうきっぱり言って彼を見やる。ふぁんとむ境は終始笑っており、不気味さはどこにもない。それなのになぜだろう。俺はあの真夏の夜に遭った畏怖を思い出している。
「……あの、つかぬことを聞きますが、境さんって酒飲めなかったりします?」
「どうしてですか?」
「あ、いや……なんとなく、そう思って」
俺は自分でも何を言っているのかよく分からなくなった。仕方ない。話を変えよう。
「ちなみに、あの催眠術って本当に催眠術だったんですか? 人間の体質を変えられるなんて魔法みたいじゃないですか」
すると、彼は「あはは、魔法ですか」と愉快そうに笑い、前かがみになると真面目な顔つきをした。
「私は大したことはしてません。でも夜というのはなかなかどうして不思議なことも起きますし、きっと夜の使者がイタズラをしたのかもしれません。そういうことにしておきましょう」
なんとも他人事のように言うと、彼はポケットからペットボトルの水を出した。それを開けるも口をつけずにいる。
「君は今、幸せですか?」
ふと問われ、俺は拍子抜けした。
「……幸せ、です」
「じゃあどうして迷ってるんです? そのポケットの中にあるものをずっと触ってますけど」
俺は慌てて一歩下がった。対し、彼は不敵に微笑んでいる。なんでもお見通しか。俺はポケットに忍ばせた指輪ケースを出した。
「えーっと。まぁ、結婚したい人がいるんですけど、なかなか勇気が出ないんです。なんて言おうかと」
「そんなの簡単です。結婚してくださいと言えばいいんですよ」
「だからそれがどうも難しくて……そんなストレートに言えたら苦労しません」
付き合う時はいろいろと周りに迷惑をかけてしまったので、プロポーズくらいはきちんとカッコよくやりたい……と思っているのに。妙に力んでしまい、なかなか言い出せずにいること早一週間。人はそう簡単には変われない。
「それじゃあ、みなさんの知恵を借りましょうよ。あのアシカ屋さんや店長さん、印刷会社の彼なんかとても親身になってくれそうです」
「そうなんですけどね……俺が何かすると全部筒抜けになっちゃう厄介な町なんですよ、あそこは」
「では、素直になれる催眠術でもかけましょうか? 時間は待ってくれませんよ、喜多屋さん」
ふぁんとむ境がまたも袖をめくろうとする。俺はそれをやんわり断る。ポケットに指輪ケースを滑り込ませて意を決した。
「分かりました。その助言を参考にします」
俺は所詮カッコのつかない男だ。だったらストレートに当たるしかない。難しく考えるのもやめてさっさと帰って話をしてみよう。
しかし、俺はまだ動かなかった。時刻は深夜〇時。今から光美ちゃんの家に行っても迷惑なので明日に持ち越しだな。そう思い、俺は目の前の影を見つめた。俺の細い影と、ふぁんとむ境の大きな影。さっきからなんとなく気がついていたものの言葉にするのが怖くてやめていたのだが、もう我慢の限界だった。
「……あの、境さん」
「はい」
「あなた、土偶ですよね?」
すると、彼はゆっくりと俺の方を見た。細められていた目が大きく広がる。
「ほう、土偶ですか……そう呼ばれているらしいことは気がついてましたが、面と向かって言われるのは初めてです」
「体型が全然違うし雰囲気も違うけど、それは催眠術か何かで変えてるとか?」
息を詰めて訊いてみると、彼は柔和に微笑んだ。
「体型はね、肉襦袢を着るんです。雰囲気はそうですね……確かにあれは催眠術によるものです。皆さんが怖がるよう催眠術をかけて歩いてるので。いやぁ、まさか見抜かれるとは」
俺の勘が冴えていることにも驚愕だが、彼の正体が土偶だったとは今年一番の驚きである。いやもう、心臓がバクバクしちゃうくらいビビっている。だって、さっきも俺の交友関係とかすべて知ってたし、酒も飲めなそうだし。思えば思うほど、ふぁんとむ境=土偶という式が出来上がっていくし。目的はなんなのだろう。聞きたいけど聞けない……怖いから。
「えーっと、以前にも助言してくれましたよね。時間がないと」
「しました。催眠術の効果を確かめたくて、あの格好のまま近づいてしまい申し訳ないです。いいネタになると思って始めたことが都市伝説になっちゃって参ります」
「いえ……」
俺は頬を引きつらせてそれだけ答えた。
うわぁ、久しぶりにきたよ、この感じ。確かに今は深夜だし、変な人を相手にする時間だもの。そりゃあんたも怪人だろうさ。そこまでは言えず。シラフでこういう会話するのきついなぁと思いつつ、久しぶりの感覚に思わず笑った。すると、彼もクスクスといたずらに笑う。
「しかし今日はいい夜ですね。こんな日にお酒が飲めないのはとても残念です」
「ですね……酒、また飲みたいなぁ」
「だからまた催眠術をかけてあげますよって」
そう言うも彼は、俺の顔を見てか袖をめくろうとはしなかった。代わりに持っていた水を掲げる。
「仕方ないですね。今宵はこれで乾杯しましょう」
そして彼はスッと立ち上がり、夜空に向かってこう言う。
「君たちの限りない親交に乾杯」
高らかな声につられるように、俺もエア盃を掲げた。
「乾杯」
不思議な縁が広がる深夜の公園にて、今宵もまた新たな親交が結ばれる。
【完】
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