第八夜 そして、新しい夜へ③

 月見酒と言いながら全然月を見ていない。そんな宴会から乱暴に背中を押されて追い出され、夜の町を歩いていた。

 二十一時の住宅地は静かなもので、マンションと戸建てが均等に並ぶゆるやかな坂を上り、平らな道に出る。裏通りに出れば、古風な文房具屋やペットショップ、小さな地元の印刷屋などがシャッターを下ろして息をひそめている。コンビニの灯りだけが元気で、俺はふと立ち止まり、光の中へ引き寄せられるようにして入った。

 ドリンクがズラッと並ぶ大きな冷蔵庫のところへ行き物色する。ついこの間まで酒のコーナーに行くのが楽しみで仕方なかったのに今となっては目に毒でしかなく、切なさが勝ってしまう。

 あ、新商品出てる。水色のラベルが涼やかで爽やかだ。淡い氷のような背景にオシャレな書体で「ジントニック」と書かれている。

 しばらく迷ってそれを手に取り、イオン水も一緒に購入した。ビニール袋は買わずに手で持ったままコンビニを出て夜道を歩いていく。途中にある乗り捨てられた自転車を横目に見ながら街灯の下をいくつか越えていくと、鳥飼さんのマンションまで来ていた。

 あぁ、来てしまった。みんなから背中を押してもらった勢いでここまで来たが、なんて言えばいいのやら。そもそも今から呼び出すのは迷惑じゃないだろうか。日を改めるか。でも手に持っている酒が冷たくて、なんだか俺を急かしているよう。

 酒とイオン水を脇で挟み、スマートフォンを出して思い切って彼女の電話番号を押す。

 1コール、2コール、3コール……出てくれない。時刻は二十一時半ジャスト。もう一度耳に押し当てるも、まだ電話のコールは鳴っていて諦めようかなと考え出した。その時、ブツッとコールが途切れ、緊張がわずかに緩み安堵していると、電話の向こうから怪訝そうな声が聞こえた。

『はい……』

 鳥飼さんの声が耳の奥まで浸透する。

『喜多屋さん? どうしました?』

「あ、いえ……えーっと……あの、その、」

 まさか出てくれるとは思わなかった俺はオロオロとうろたえてしまい、意味もなくその場をぐるぐる回った。ふぅっと息を吐き、電話の向こうで待っている鳥飼さんに話しかける。

「あの、鳥飼さん」

『はい……』

「いつものところで、酒、飲みませんか?」

 出てきた言葉は驚くほど落ち着いていてなめらかだ。対し鳥飼さんは驚いたようにしばし黙り込んだものの、勢いよく答えてくれた。

『すぐ行きます!』


 公園で待つこと数分、足元をそそくさと歩く一匹の野良猫を目で追いかけていると、その先に鳥飼さんがいた。猫と出くわした彼女は驚き「うわぁ」と声を上げて猫を脅かす。

「あぁ、びっくりした……すみません、お待たせしまして」

 彼女は風呂上がりだったのか、淡い水色のロングパーカーとスキニーという格好で現れた。髪はしっとりとしていて余分な力が抜けている。髪を下ろすと肩まで切りそろえられたボブヘアなのだと知り、思わずゴクリと唾を飲んだ。

「急に呼び出してすみません」

「いえ。あの、すっぴんなのであまり見ないでほしいんですけど……」

 恥ずかしがる鳥飼さんはメガネの下、口元あたりを手で隠しながら近づいてきた。片方の手には俺と同じ酒を持っている。

「あ、それ、新商品ですね」

 思わず指摘すると、彼女は朗らかに「はい」と答えた。

「ジントニック。私が喜多屋さんに教えたお酒です」

 彼女はそう言いながら俺の横に座った。右の髪の毛を耳にかけ、ジントニックのプルタブを起こす。俺も緊張気味にプルタブを起こす。あ、ダメだ。指に力が入らず開けられない。

「喜多屋さん、大丈夫ですか? 私、開けましょうか?」

 そう言われると意地になり、大丈夫ですと答えてしまう。あ、開いた。あーもう、今からこんなことでどうするんだ。

 何も知らないであろう彼女はチラッと俺を見て、酒が開いたことを確認したらうつむき加減に缶を向けてきた。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまです……」

 俺も慌てて缶を向け、乾杯する。コンッといい音がした後、彼女はぐいっと酒を喉に流し込んだ。俺も一呼吸置いて飲む。

 舌が痺れるようなアルコール。その後にくるライムの香り。炭酸が強くて思わず涙が出そうになる。とても辛い酒だと思った。前に飲んだ時はそうじゃなかったのに。ラベルをよく見たら度数が七%だった。

 そんな攻撃力の高い酒に唸っていると、鳥飼さんがよそよそしく話し始める。

「喜多屋さんに急に呼び出されるなんて、珍しいですね。あ、そうでもないか……店長さんのお家に行った時は、まさか看病しなきゃなんて」

「その節はどうもご迷惑を……」

「楽しかったので大丈夫ですよ。それに、もう会えないのかなぁって思ってたから、今日のお誘いはとても嬉しいんです」

 鳥飼さんは上機嫌に笑った。一方で俺は緊張で喉が干上がっている。もう一口酒を飲むも、脆弱な体がすぐに警告を発し始めたのに気がついた。

 ぶっ倒れるその前になんとしても彼女に言わなければならない。

「喜多屋さん、大丈夫ですか?」

「えっ」

 パッと顔を上げると彼女の顔が近い。鼻の頭にあるそばかすがいくつあるのか見えるほど。

 俺にすっぴんを見せたくないくせに積極的に顔を覗き込んでくる。

「顔が赤いです。熱でもあるんですか?」

「え……あ、いや、これはー……」

 俺は目をしばたたかせ、あわあわとうろたえ、意味もなく宙を見上げ、がっくりと首を落として、不甲斐なくごにょごにょと答えた。

「……鳥飼さん、俺、催眠術が解けました」

「えっ」

 彼女は息を飲んだ。

「催眠術が解けた……っていうことは、今、喜多屋さんはお酒飲めないってことじゃ?」

「すみません。俺、酒が飲めなくなりました」

「それなのにこんな度数の高いお酒、飲んじゃダメじゃないですか! 何やってるんですか、喜多屋さん!」

 彼女は声を上げて、俺の手から酒を取り上げた。

「具合、大丈夫ですか?」

「大丈夫です。たった二口ですよ。余裕です」

「そんな顔真っ赤にして、余裕なわけがないでしょう。もう、どうしてそんな無茶を……」

 なんだかとても怒っている。情けない俺は脇に置いていたイオン水を開けながら口答えした。

「だって、鳥飼さんと最後に飲んだ酒があれじゃ、嫌だから」

 すると彼女は目を見開かせて黙り込んだ。

 俺はイオン水を開け放し、ごくごくと喉に流し込んで息をついた。どうしても今夜、彼女と酒が飲みたかった。あんな終わり方したくなかった。彼女に初めて教えてもらったジントニックを一緒に飲みたかった。こんな形じゃなく。

 寂しい風が吹き、俺と彼女の間を通り抜ける。それが去った後、足元の枯れ葉がカサカサと擦れ合いながらどこかへ消えていった。すると、鳥飼さんは自分の酒を一口飲んでため息をついた。

「それじゃあ、もう終わりなんですね……」

 その声にはかなりの重怠さが含まれている。

「こうして酒を飲むのは、もうできなくなります……」

 俺は申し訳無さでいっぱいになり、大きく息を吐き出した。ペットボトルの口を閉め、その上に額を置く。

「そっか……寂しいな。せっかく喜多屋さんと仲良くなれたのに」

「ごめんなさい」

「そんなに謝らないでください。喜多屋さんが悪いわけじゃないんですから」

「いいえ、俺が悪いんです。俺のせいなんです」

 ここで懺悔しても意味がない。次の言葉をただひたすら考えたが、どの面下げて告白すりゃいいのか……。

「それって、もしかして元カノさんとヨリを戻すからってことなんですか?」

 先に口を開く鳥飼さんの声は妙に明るげだった。酒をぐびりと飲んでチラッと俺を見る。

「ヨリを戻すって、なんで……?」

「だってあの日、元カノさんのところに行ったんですよね? 喜多屋さん、血相変えて行っちゃったし、着信の表示がチラッと見えてて」

 そう言って彼女はすぐに酒を飲む。俺はドギマギとしながらも内心ホッとしていた。まさか深見さんが鳥飼さんにも俺の秘密を喋ったんじゃなかろうかと本気で疑ってしまったのだが、どうやら違ったようだ。今度、彼には何か奢ろうと思う。

「彼女とヨリを戻すつもりなんてありませんよ」

 きっぱりと言い放つと、彼女は呆けたように俺を見た。

「え?」

「この催眠術が解けたのも、俺が元カノとのことをきっぱり終わらせたからなんです。まぁ、そのせいで鳥飼さんやみんなと酒が飲めなくなるのは悔しいし寂しいけど」

「そうなんですか……」

 彼女は静かに言った。缶を見つめ、足元ではかかとでグリグリと地面に穴を開けている。

「私もすごく寂しいです。もう喜多屋さんとこうしてお酒が飲めないなんて」

「それについてなんですが……」

 言葉を切る。緊張がじっとりと背中を伝い、持っているイオン水を握りしめてしまう。気持ちはかなり急いている。酔いのせいか、心臓の鼓動がかなり速くて煩わしかった。

「……鳥飼さん。俺、まだまだ鳥飼さんと一緒にいたいです。一緒にこうして話をしたいです。もっと話をして、ずっとこうしていたいって思うんです」

 困ったことにスマートな告白ができなかった。本当に俺は情けなくてかっこ悪いヤツだと思う。伝わらなかったらどうしよう。断られたらどうしよう。どうしようもない焦燥に駆られていき、彼女が答えに迷っているのを認識し、ますます焦る。

 鳥飼さんはジントニックを一気に飲み干した。「っはぁ」と息継ぎし、胸元をトントン叩いている。慌てて飲んだからか、炭酸が喉に詰まったらしい。

「鳥飼さん? 大丈夫ですか?」

 今度は俺が心配する番で、顔を覗き込むと彼女は目をそらしてしどろもどろに言った。

「それは……あの、私は、えぇっと、喜多屋さんの心の寂しさを埋める感じの、そういうポジションでいてほしいってことでしょうか?」

「ん? え? 何、どういうこと、それ?」

 言葉の意味がわからず首をかしげると、鳥飼さんは視線を泳がせて「だ、だからー、えーっと」と落ち着かない。足元の穴はかなり深く掘り進められている。

「その、私は喜多屋さんにとってどういう存在なのかなぁと。身の程知らずなのは重々承知なんですが、私は喜多屋さんの元カノさんの代わりにはなれないと……」

「何言ってんですか」

 俺は思わず体をひねり、鳥飼さんの肩を掴んだ。

「あぁ、もう……だから、俺は鳥飼さんのことが好きなんですよ。元カノとか関係ない。鳥飼さんのことを一番に考えたいし、一番大事にしたい。これからずっと鳥飼さんのことだけを思い続けたいんです」

 一息に言うと頭が真っ白になり、体の中がグルグルとかき回されるような感覚に陥った。おい、ここで酔いが本格的に回るのはダメだろ。しかし体はいうことを聞かず、肩を掴む力がぐっと入ってしまう。ビクッと肩が跳ねたので、慌てて離れた。

「すみません。酔いが回って」

「ううん……大丈夫です……いや、でもあの、私……どうしよう」

 鳥飼さんは顔をうつむけた。俺から取り上げたジントニックを触る。そして、こちらを心配そうに見るも困惑のあまりどうにもできなそうだった。

「へ、返事は……すぐにはいらないので。ていうか、俺なんかに好かれたって迷惑でしょうし……」

「迷惑じゃない!」

 その声はかなり食い気味だった。手元にあったジントニックが危ない傾き方をし、慌てて手で止める。同時にホッと胸を撫で下ろし、ようやく緊張が解けた俺たちは不思議と自然に笑い合った。

「これ、私が飲んじゃってもいいですか?」

「え? でも、俺、口つけちゃいましたよ」

「いいんです。私も喜多屋さんのこと好きなんで」

 そうサラリと言うと、彼女はジントニックの缶を引き寄せて笑いながら飲む。

「え、待って、ほんとに?」

 体を傾けて回り込むも、彼女はサッと俺から背を向けてしまい、キューッと酒を喉に流し込んでいく。なんて意地悪なことを。焦れったく待つも、彼女はさらに俺から距離を取っていき、なぜかベンチの端っこまで移動してしまった。

「鳥飼さん」

「………」

「ちょっと、いつまで飲んでるの?」

 さっきの言葉、もう一回聞きたいんですが。

 焦れていると、彼女はもう意地悪をするのはやめて缶を太ももに挟んだ。ただこっちに帰って来るつもりはなく、少しだけ声を張り話を始める。

「私、喜多屋さんから〝さよなら〟を言われるんだと思ってたんです。元カノさんとヨリを戻して、そのうち結婚しちゃうんだろうなぁって。だから、こんな展開を想像してませんでした」

 そう言って、彼女は景気よく酒をぐいっと煽る。もう飲み干してしまう。最後の一滴が彼女の喉へ流し込まれていき、空っぽの缶が脇に置かれる。

 俺は座ったまま彼女の近くに移動した。そんな俺に気づかず、彼女は夜空を見上げながら名残惜しそうに言う。

「だからもう喜多屋さんとの時間も終わってしまうし、こんなことならいっそ始まらなければよかったと思って。お酒を飲むのはできなくなっちゃうけど、でも……そっか、まだ隣にいられるんだ、私」

 その言い方はとても穏やかで優しく、不安から解放されたかのよう。ほんのりと漂う爽やかなアルコールが彼女をまとい、ふわふわと甘やかな雰囲気を醸し出している。

「ね、喜多屋さん。私、まだ隣にいていいんですよね」

 そうして俺の方を向き、少し驚くも顔をほころばせて笑う。その笑顔に触れたいと思うから、もう一歩近づく。

「隣にいてください」

 しっかり言うと、彼女は「はい」とくすぐったそうに笑いながら答えた。蛍光灯の灯りで、彼女の目尻が少しだけ濡れていることに気が付いた。

 時刻は深夜になろうとしている。酒はもうないのに、この時間はまだまだ終わりそうな気配はない。

「それで、どうやって催眠術が解けたんですか?」

 ふと訊かれ、俺は明後日の方角を見つめた。すると顔を覗き込まれるので、しばらく風見鶏のように方向を変える。その応酬に呆れた彼女はやや声を低めて言った。

「喜多屋さん?」

「……それはノーコメントで」

「あ、やらしいことしたんですね! だから頑なに教えてくれないんだ!」

「なんでそんな発想に!」

「はぁー、じゃあほんとなんですね。やだ、最低」

 致命傷レベルのボディブローが正確に決まり、俺は頭を抱えた。

「あーもう……鳥飼さん、酔ってます?」

 指の隙間から彼女を見ると、月の下で満面な笑みを見せてきた。

「酔ってません」

 でも、頬が紅潮しているのが分かる。俺は手の中で呆れて笑った。

 酒飲みはみんなそう言うんです。


 ***


 長い長い夜を過ごし、ようやく自宅まで帰ると、あの野良猫がアパートの階段に佇んでいた。

 限りなく深い夜はいずれ明けてしまう。それはさながら酒の一滴を惜しむような感覚に似ていて、ほんの少し切なくなる。

 夜の使者のごとく振る舞う猫が顔を洗い、悠然とその場に寝そべるので、俺は頭をひと撫でした。猫をまたぎ、夜に背を向けて家の中へと潜る。

 そうして、新しい夜に備えるべく明日を待つ。

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