番外短編〜とある誰かのエピソード〜再

鳥飼光美

夜に沈む。そして想う。

 夜に沈む。そして想う。

「行かないで」って言えたらどんなに良かっただろうかと。

 手に持ったワインサワーが缶の中でパチパチと弾けている。それが分かるほど静かな夜の公園。公園と言ってもベンチと木があるだけの小さな広場で、私のマンションはすぐ隣にある。だからいつでも帰れるんだけれど、どうにも足が動かなかった。

 彼が困った顔で去った数十分前が、なぜかやけにチクチクと私の心を刺激する。

 多分、元カノさんのところに行ったんだろうなぁ。着信の表示、チラッと見えたもん。それらしい名前が見えたから、私も何も言わずにいた。「急用です」なんて、ぼかして焦る彼の顔を思い出し、ワインサワーをこくっと飲んだ。そうして、彼と話した数十分前のことを思い返す。

 あぁ、私ってば、なんであんなこと言っちゃったんだろう。

 ──喜多屋さんって、いい旦那さんになりそうですよね。

 そう言ったら彼は顔を強張らせて困っていた。話の流れから、自分たちの将来について考えることが多くなり、ついついそんな話を振ってしまった。お酒が入ると調子に乗ってしまうのが私の嫌な癖で、でも彼の前なら大丈夫かなと少し油断していた。変だな、たった五%で酔うなんて。

 私、喜多屋さんには嫌われたくないのに、わざと困らせるようなことを言ってしまう。願望が遠回しに口から飛び出して、回りくどくて嫌になる。面倒な女かもしれない。そう見えてしまうかもと心配になってしまうのも嫌で、なんとわがままで扱いにくい人間なんだろうかと自分でも呆れてしまう。

 そうして困らせていた矢先の元カノからの電話だ。それに出てしまう彼の人のよさにがっかりするも、そういうところが好きなんだよなぁとやるせなくなる。

 彼がいなくなってから少しホッとしている自分に気が付き、ため息を落とした。ワインの甘酸っぱい息が生暖かくて憂鬱になっていく。

 私、いつから喜多屋さんのこと好きになったんだろう。

 考える。恋愛なんて私には無縁なことだと思っていた。昔から男性と話すことは多くあれど、恋愛に発展することはない。中学はサッカー部のマネージャー。高校はラグビー部のマネージャー。それも好きな漫画の影響で、スポーツをする男の子たちを応援したいという下心があったからでマネージャー業は二の次だった。お世話をするのが好きと言うよりも身についてそうなったというのが正しく、社会人になった今でも誰かの行動を観察して、問題を回避するべく無駄に動いている。もう少しマイペースに生きていきたいのに、それができなくて疲れていく。本当に不毛だと思う。

 でもそれはお母さんも同じだったから、私はかなりお母さん似なんだろうな。お母さん、元気かな。しばらく会ってない。この頃はやたらお母さんに会いたくなる。お母さんが若い時はどうだった? お父さんと出会った時、どんな話をした? どんな恋をした? どうやって家族になった?

 周りに気を配るあまり、たまに爆発して家出してしまうお母さん。幸せだったんだろうか。家族のことを一番気にしていたけれど、自分のことは何もできなくて大変そうだった。そんなお母さんを見てきたから、私は恋愛とか結婚とか憧れを持てなかった。どうしても気が向かなかった。家族って面倒くさそうだなーとか。結婚したら自由がなくなりそうだなーとか。楽な方へ楽な方へと思考を逃がす世代の代表格と言っても過言じゃない。

 夜の空気は冷たくて、どんどん熱を冷ましていく。きっとこの気持ちもいずれは冷めていくんだろう。そんな終わりを予感するのも嫌だから一人でいることを選んでいたはずなのに。

 私は終わるのが怖い。いつか終わってしまうのが嫌だから物事の始まりは嫌い。

 例えばそれは小学校の卒業式に似ていて、無邪気だった時代の終焉に漠然と恐怖を抱いた。これからは中学生になるんだから、もっとしっかり勉強しなきゃね、って言われて不安にならないはずがなく。そうしてどんどん自分が大人になっていくのが怖かった時代を思い出す。

 好きな男の子はいなかった。やっぱり終わるのが怖いから、そういうものを作らないようにしていた。周りの子がどこのクラスの誰くんと付き合った、別れた、そんな話を聞いて思うのは〝いつか終わるのにどうして始めてしまうんだろう?〟だった。

 私は少し笑う。ふふっと息が漏れ、ワインサワーをゆっくり飲む。

 ばかだなぁ。みんな、終わりなんて考えてないんだよ。始まりはいつだって希望に満ち溢れていて、その幸せがいつまでもずっと続くことを信じて疑わないんだから。

 そうして新しい世界に飛び込める人はすごいな。私にはできないな。

 ここで私はふと喜多屋さんの顔を思い出した。彼も終わりを経験している。彼女との生活が突然終わりを迎えて、今また始まろうとしている……のかもしれない。

 私は夜空を見上げながらワインサワーの残りを飲み干した。缶をつぶし、ふぅと息をついて公園の入口をチラリと見た。誰もいない。誰もいないから、もう少しして帰ろう。

 物語の終わりについて考える。めでたしめでたしで終わる物語の先を知りたいのに、その続きがないから不安になる。幸せになった先に何があるの? 夢が叶ったらどうなるの? 死ぬまでに何度幸せが終わるの? もし幸せが続かなかったらどうしたらいいの?

 きっと彼も同じことを考えていたはずだ。だって彼の物語は劇的で本当に主人公みたいで羨ましい。反面、目まぐるしくて大変そうだなと思う。

『俺たち、似たもの同士ですね』

 さっきまで横に座っていた彼はそう言っていた。うん、そうだと思う。でもあなたは主人公で、きっと私はあなたの物語の中では脇役のうちの一人で、当て馬みたいな立ち位置だから、ここで退場なのかもしれないなぁ、なんて考えている。

 そして、その考えこそ、私が彼を好きなのだという事実が証明されていく。漠然と好きだと思う。どうしてだろう。

 彼は特別かっこいいってわけじゃない。声がいいってわけでもないし、そもそも私が好きになるゲームキャラとは似ても似つかないくらい。私が好きな二次元のタイプは低音ボイスのクール系美男子で、残念ながら喜多屋さんは低音ボイスのクール系美男子ではなく真逆のタイプだ。どこかシワが寄ったスーツをいつも着ていて、しかもジャケットは臭いらしい。でも会社に行く時はちゃんと清潔感がある。まぁオフの日に会ったら別人かと思うくらい適当な格好をしていてそのギャップに驚いたけども。ちゃんとしているようでいてちゃんとしてない。他人からいじられてはツッコミに回るからしっかり者の常識人かと思いきや、頼まれたら断れない弱腰で、きっと権力には弱いはず。家族や恋人に対して、ちょっと夢見がちなところがあるし頼りない印象もある。けど、気配りができる人だ。

 初めて彼に会った時は飲み会の席だった。お酒が入ればみんな気分が良くなるから、多少の粗相が起きてしまう。誰かがこぼした食べ物を自分のおしぼりでさりげなく拭き取っている姿を見て、私は彼と話してみたいと思った。あの場でそういうことをするのは私しかいないと思っていたから本当にびっくりした。なぜだか無性に目に焼き付いた。でも、始まるのが怖い私はなかなか話しかけることができなかった。これで終わりかなぁと残念に思っていたら、ばったり出くわしたからまたびっくりして、チャンスだと思った。本当に自分でも驚くほど積極的だった。結局、その話はできなかったけれど彼と会う口実を作ることに成功してしまい、あぁ始まってしまったと後悔した。

「そっかぁ……」

 私は思わず声を漏らした。

「その頃から好きなのかなぁ……」

 夜風が巻き上がり、木の葉がカサカサと動く。私の足元を通過し、どこか遠くへ消えていく。

 スマートフォンを取り出すと、すでに深夜一時を回っていた。あぁ、やってしまった。こんな時間まで公園にぼうっと座り込むなんて。今からお風呂に入って寝る支度をするのが面倒だ。

 私は公園の入口をまたチラリと見た。誰もいない。彼が帰って来るはずがない。待っていても誰も来ない。それは分かってる。でも、待ちたいと思う。待っていたらいつか私の方へ来てくれるんじゃないかって期待している。なんでそんな期待ができるんだとあざ笑いたくなるけど、それでもなかなか動く気になれない。

 お酒に酔った彼の顔を思い出し、私はまた小さく笑い声を漏らした。いつもはしっかりしなきゃとばかりに気を張っている彼が気を抜いたようにふんわり笑うから、それがあまりにもかわいかったから好きだなって思う。

 それもまた好きでいることの理由付けみたいだ。別に理由なんていらないのにな。ほんと、嫌になるくらい自由になれないな。

「………」

 あの時、「行かないで」って言えたらどんなに良かっただろう。もし、私が「行かないで」って言ったら行かないでくれたんだろうか。私のことを見てくれたんだろうか。

「はぁ。ばかだなぁ……」

 夜は長い。このまま終わる気配がない。

 だから私は再び夜に沈み、彼を想う。

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