深見精巧

本を書くひと、つくるひと 前編

深見ふかみくんってさぁ──なんでBL好きなの?」

 以前、趣味の話をした時にドン引きしていたはずの同僚、印守しるすくんがやにわに訊いた。

 十月も終わろうとする深まる秋の頃である。

「えっ、そういう話、嫌いだったんじゃないの?」

 僕はくわえていたタバコを落としそうになりながら訊き返す。

 印守くんは「嫌いだが」と真面目な声と表情で答えた。

「嫌いならこの話はしない」

「あー……そう……」

 それきり、彼は死んだ魚みたいな目を外へ向ける。

 会社の屋上の柵に体を預けて僕たちは残りわずかな昼休みを過ごす。食後に一服するのが日課だが、ほぼ無意識化で行われている。うちの会社は社長が喫煙者なので、世間よりも喫煙者の肩身が狭くはない。ただ、女性社員に煙たがられるくらいだ。

「いやいや、訊こうよ? 僕がどうしてBL読むようになったのか、もっとグイグイ訊こうよ? ねぇ、なんで君はいつも、何事にもやる気がないんだ?」

 灰を携帯灰皿に落として言うと、印守くんは驚いて肩をビクつかせた。

「えっ、何? 訊いてほしいの? それならそうと言ってくれよ。なんか言いづらい理由でもあんのかと思ったじゃん」

「ないよ! この僕に深くて言いづらいものなんてないじゃん!」

「知らねぇよ。深みのある深見くんじゃないのかよ」

「僕は浅いよ、激浅だよ。深みのない深見くんだよ」

 いばることじゃないが。

「いばることじゃないだろ。まぁいいや。んじゃ、改めて訊くけど……なんでBL読むようになったんですか」

 やる気のなさは相変わらず声に出ているが、まぁいいだろう。僕は真剣に話を聞いてくれる友人を恋しく思いながら、ため息をついた。

「そうだね……あれは三年前かな。印守くん、入社してたっけ?」

「いや、まだかな。今年で二年目」

「そうか。じゃあ、僕が校正からオペレーターになったのも知らないのか」

 さらっと言うと、印守くんは吸っていたタバコの灰を手の甲にポトッと落とした。

「えっ!? 待って、深見くんって元校正なんだ!?」

 今日一番、いやここ最近で一番の大声が出た気がする。そうそう、その反応を待ってたんだ。

 僕は少し楽しくなり「いやー、実はねぇ、そうなんだよねぇ」と照れくさく笑った。

 この会社、タカラ印刷は小さくてしがない町の印刷屋だ。ビルも狭くて昭和の趣があると言えば聞こえはいいが、老朽化でいつ崩れてもおかしくない。目の前の道路でダンプカーが通ろうものなら震度2ほどの揺れを観測する。もし震災が起きたら真っ先に崩れるだろうし、従業員の命も保証できないだろう。

 そんなしがない印刷屋には営業部、総務部、制作部、印刷・製本部がある。僕と印守くんは制作部に所属しており、主に営業がとってきた仕事──印刷物をデータにし、印刷版を作る仕事をしている。

 また、うちの制作部には校正者と呼ばれる特殊な作業をする人が一人おり、それは文章の誤字・脱字・衍字、用語の不統一などを指摘する。うちの場合、校閲がいないので内容の矛盾や事実に基づく事を正す役割も任される。小さい会社なのに高い要求をされ……いや、やることが多いわけだ。校正時代、僕が難儀したのは、印刷物と元原稿の色みの微妙な違い。そこまで僕がやらなきゃいけないのかと当時は上司に食って掛かりそうになったが、多分、それがいけなかったんだろうか。

 ある日、僕は上司に呼ばれて頼まれた。

 ──今度、オペレーターの柳井やないさんが産休に入るから、深見、オペレーターになってくれないか。

 校正もしながら制作オペレーターもやるのか。ただでさえ人手が足りない会社だ。やることは多いけれど、やはりそこまで僕がしなきゃいけないのか。そう憤慨しそうになったけれど、上司の次の言葉で心がぼっきりと折れた。人生でこれほど折れたことはないほどに。

 ──校正はまた別で雇うことになったから。

 つまり、校正者としての僕は不要というわけである。多分、そういう意味じゃないんだろうが、僕はそう捉えてしまった。会社、辞めてやろうかなと思った。でも、校正の仕事も一人でさばくのがきつかったところだし、いい機会かもしれない。そうして当時二十六歳の僕は、校正から制作オペレーター初心者となった。

「はぁ……まさか、そんなことがあったとは。あ、だから深見くん、作業中にたまーにブツブツ言ってるのか。あれ、校正時代のクセだな」

 さすが印守くん、鋭いな。

 おっしゃるとおり、僕は作業中、時間に余裕がある時は画面上で校正までやってしまうクセがある。その際、無意識にブツブツと口の中で文章を唱えていることがある。隣の席の印守くんはさぞ不気味に思ったに違いない。やっと謎が解けたみたいに、晴れやかな顔をしている。

「制作に異動してからは大変だったよ……それまで僕、MAC使ったことなかったからさ、IllustratorもPhotoshopもInDesignも知らないし。ただ、最初は作業も単純なものだったからね、なんとかこなしてきたんだよ」

「器用な人だとは思ってたけど、本当に器用なんだな……俺なんか、使い始めて一年でやっと一冊のページ物ができるようになったくらいだぜ」

「僕だって、ページ物はいまだに苦手だよ。ペラ物とか、PDFを面付けする作業の方がいい。InDesign、難しいし」

 InDesignは、分厚いページ物といった冊子やカタログを作るのに最適なDTPソフトウェア。これがなかなかクセがあるので、慣れるのに時間がかかる。ただ、使いこなせるようになったら自分で本を一冊作ることも可能だ。対し、Illustratorはペラ物という一枚だけのチラシやリーフレット、名刺などを作るのに最適なデザイン用のソフト。僕はIllustratorでよく名刺を作ることがあるので、馴染みがある。

 ただ──何度も校正を重ねて作ったチラシや名刺、何人もの人がチェックした文章を大量に刷ってエンドユーザーに配布したところで、いったい何人の人たちがしっかり見ているのだろうか。大事にしてくれるのだろうか。目をかけてくれるのだろうか。

 手間暇かけて作ったものが公園のゴミ箱や、マンションのエントランスの集合ポストの脇にあるゴミ箱に放り込まれているのを見るたび、僕は心をすり減らしていた。

 営業のミスで文章の誤りに気づけず、深夜にかけてまでその日中に刷り直したこともある。それでも、やっとできた製品はすぐにゴミとなる。紙製品だけでなく、ビニールや布に印刷されたもの、あらゆるものすべての印刷物が一瞬でゴミとなる。

 僕がミスせず神経をすり減らしてまで作っているのもゴミになるんだろうなと考えることも少なくなく、そんなメンタルではモチベーションも維持できるわけがない。

「まぁ、分かるよ。そもそも校正から急にDTPやれって言われてやるんだもんな……俺も、最初はデザイナー志望だったから、前の会社でDTP部に配属された時はかなりガッカリしたし」

 そう言う印守くんは、前に勤めていた会社も印刷会社だった。テレビCMとして流れるほどの超大手の支社。僕よりもベテランなので、まったく先輩面ができない。まあ、同い年だからそんなことしなくていいんだけどね。

「なんていうかこう……地味なんだよなぁ、DTPって。ほぼモノクロだしな。毎日毎日、営業や客の下手くそな文章見るのも嫌になってくるしよ。先方の下手なデザインをそっくりそのまま整えろっていう作業が一番の苦行だな。ちょっとでもアレンジ加えたら怒るし、そのくせ見出しのフォントがバラバラでさ! じゃあもう、お前の会社でプリントアウトして配布しろよって言いたくなる!」

 印守くんは言葉が辛辣なので、ほっといたら営業や顧客の愚痴が止まらなくなる。僕は慌てて遮り、話を戻した。

「そんな感じで日々が過ぎていき、僕は会社を辞めようと思ったんだ」

 そう言うと、彼は「えっ」と息を呑んだ。

「でも、いつ辞めようか考えあぐねてて……次の仕事も何やりたいか考えてなかったし、ダラダラと時間が過ぎてくだけだった」

「校正に戻ればよかったんじゃ? 他にも校正募集してるとこくらい、あるだろ」

「ううん。他の印刷屋でも給料同じくらいだろうし、もう同業なんてまっぴら御免だったからね。それに、校正から離れてたもんだから、やる気も起きなくて」

 そうあっさり言うと、印守くんは「そういうもんか」とつぶやいた。

 多分、あの頃の僕は少々、病んでいたのかもしれない。慣れない仕事に無理やり異動させられ、やる気というものが湧かなかった。帰って寝る、それができればいいと、毎日思っていた気がする。

 昇進とか昇給とか、そういうのも望めないし、昇進しても仕事量増えるだけだし、このままじゃダメだと思っていても疲労で体が動かないし、一日中パソコンの光に晒された目や脳を休めたいし、思考も鈍くなっていくし。

 そんなある日だった。ある冬の寒い日、一件の奇妙な案件が舞い込んだ。


 ***


「漫画、ですか……」

 上司に呼ばれ、作業の手を止めて話を聞きに行った。上司の横には若い女の子の営業、成田なりたさんがいて、新規案件を取ってきたらしいが何やら困惑気味だった。

「同人誌ってやつだよな、これ」そう訊く上司に、成田さんが「はい……」と申し訳無さそうに答える。

 同人誌か……大手の同人誌に特化した設備のある印刷会社ならまだしも、どうしてうちみたいな小さい潰れそうな会社に依頼してきたのだろう。また、どうして僕にその仕事が回ってきたのだろう。鈍い思考じゃ見当もつかない。

 上司が件のコピーされた漫画原稿をペラっとめくろうとする。と、成田さんが「あーっ!」と恥ずかしそうにその手から漫画原稿を奪い取る。

「だ、ダメです! これはあの、ちょっと、色々問題があって……」

「問題? たかが漫画だろ? 何が問題だよ。俺だって漫画は読むし、好きだぞ」

 強面の上司がムッとした顔で言う。いや、なんと意外な趣味をお持ちで。上司、絶対漫画なんぞくだらん!とか言いそうなツラしてるのに。

「でも、これはあの……ちょっと……エッチな漫画なんで! 同人誌なんで!」

「エッチな漫画かぁ……」

 上司が強面のまま真面目に言う。僕は笑いを堪えられなかった。

「あ、それで深見に頼もうというわけだな。ご指名だから、何事かと思ったぞ」

 上司は僕の笑いを無視して言う。

「エッチな漫画を僕に頼むって、どういうことですか。なんでそうなるんですか」

 僕が笑い顔のまま抗議すると、上司が腕を組んで真剣に返してきた。

「だって、他の制作部はみんな女性だしな……男は俺とお前だけ。エッチな漫画に耐性があるんだろうと、成田さんがそう言ってる」

「言ってないじゃないですかぁ! それ、セクハラですよ!」

 いや、エッチな漫画を僕に回そうとしてる君もなかなかのセクハラだと思いますよ。とは口が裂けても言えない。いや、言ったかもしれない。

 赤面する成田さんをからかうのは面白いが、やりすぎると本当に訴えられそうだ。

 そうこうしていると、上司がまとめに入る。

「とにかく、エッチな漫画なんだろ。どんなもんか知らんけど、18禁的なやつだろ。そんなのを女性社員に回すのがさ……ほら、分かるだろ、深見」

「分かりません。僕、分かりません」

「分かってるくせに。俺がそんなのを回したらセクハラになるじゃないか」

 上司も気まずそうに言う。みなまで言わせてしまったので、僕もまぁ同罪かもしれない。

「分かりましたよ……漫画なら、もうデータができてるわけでしょうし、PDF化して面付けするだけですよね」

「あぁ、そうだな。うん、伝票にもそう書いてあるし。まぁ単純なやつだし、なんとかなるって」

 上司は楽観的に言って「じゃ、あとは君らで仕事進めといて」と言って仕事に戻った。

 僕は成田さんから指示を受け、エッチな漫画の面付け作業をすることになった。

 そう、それこそが、この漫画の作者であるほむらあかり=加苅かがり暁美あけみとの出会いである。

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