本を書くひと、つくるひと 後編
『あいにくと幸せになれません』というのが、作者でありクライアントである焔あかりの漫画タイトル。
もらったデータを確認し、ダウンロードをする最中に紙原稿のコピーをペラペラめくる。男性キャラと男性キャラの日常を丁寧に綴っている漫画のよう。これのどこがエッチなんだ、と思いきやがっつり濡れ場シーンが後ろの方にあった。
あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜なるほどねぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜……と、脳内がまず思考停止する。
これ、ボーイズラブってやつだ。
僕は漫画もドラマも映画も小説も好きで、中でも活字に触れるのが好きなので、この業界に飛び込んだわけだが、BL漫画を読んだことはなかった。SNSもしてないから、目に触れる機会もなく。ただ当時、深夜帯にテレビをザッピングしていたら、綺麗なイケメンばかりが出てくるアニメが放送されているのに遭遇したことはある。あれもそうか、と合点がいく。
大学時代、映画好きの先輩が見つけた有名な映画館へ連れて行かれそうになったのだが、インフルエンザに罹ったせいで一人留守番していたことがある。
後々、連れて行かれた同期に聞けば、出口で門前払いを食らってしまい、結局中へ入ることができなかったらしい。
その映画館、実は同性愛者の出会いの場だという特殊な映画館だった。今はほぼ絶滅しているその手の映画館だが、昔は結構あちこちにあったようで、県内で唯一残っているのがそこだった。
そんなことを急に思い出した。
あの頃はあまり深く考えてなかったし、自分の知らない世界に首を突っ込むのが楽しくて、また奇をてらったものに憧れていたものだから、変な女の子に引っ掛けられたり、危ない先輩に勧誘されたりしていた。しかし、悪運が強くて悲惨な目に遭ったことがないものだから、このどうしようもない阿呆が治らずにいる。
そして社畜となった今、阿呆の血がすっかり枯れていたことに気がついた。
残業しよう。できれば、これは一人の時に仕事したい。
僕は他の仕事をさっさと切り上げ、焔さんの仕事を後回しにした。
なかなか帰らない上司だったが、二十一時を回ったら部署は僕一人になった。他の社員は家庭持ちが多いので、家に持ち帰って仕事をするという人もいる。つまり、僕だけが独身で年齢も一番下。おまけに彼女もいない。残業させるにはうってつけの人材だ。
さて、残しておいた仕事をしよう。焔さんの原稿を出し、データをチェックしていくというのは建前で、内容を読んでいく。
繊細なタッチで、キャラクターも綺麗なイケメン揃い。表紙裏表紙合わせて四十八ページ。
背景もきちんとパースが取れてて狂いがない。雑貨や服まで細かく描写されている。すごいな。とても真面目な仕事ぶりに感心し、一気に引き込まれていった。
しかし──
「誤脱、多いな……」
こう書きたかったんだろうな、というのは伝わるけれど……これを製品とするのはなんとも許しがたい。いい作品なのに、もったいない。なんといっても濡れ場までにいく過程が丁寧だし、設定も無理がないし、起承転結もしっかりしていて飽きがこない。同人誌というにはレベルが高いんじゃないか。いや、同人誌界隈のレベルがどうなのかは知らないけれど。
そんなわけで、僕は無意識に赤ペンを取って、原稿に赤字で修正指示を入れていた。そして、全部終わってから「あっ」と気がついた。
勝手に何をやってんだ……ここまでの仕事は頼まれていない。ただ送られたデータを製本するための印刷版にすればいいだけだったのに。
しかし、納期はまだギリギリある。やっぱり未修正のまま印刷して手元に届けるのは嫌だ。
「うーーーーーーーん……」
しばらく悩み、指示を入れた部分をスキャンしてPDF化し、先方へメールすることにした。本当は不具合や修正は営業を通すのがルールだったが、きわどいセリフ(とくに山場までのシーン)に誤字脱字が多かったので、これを成田さんに伝えるのは酷だなと思った。
成田さんには明日、事情を説明しよう。
そして、先方へ「勝手に申し訳ありませんが」と断りを入れて、赤修正のPDFをメールで送った。
「これでこの仕事が消えたらヤバいかなぁ……でもまぁ、同人誌入れてくる客なんてこっちも困るし……」
まぁ、いいや。その時はその時だ。クレームでも入ったら、面倒だけどなんとかしよう。
そう考えて帰路につき、翌日。焔あかりからの返事がきていた。
【タカラ印刷 深見様
ご連絡ありがとうございます。お手数をおかけし申し訳ありません。深見様のご指摘通りでございます。まさかここまでしていただけるとは思わず、大変恐縮です。校正の追加料金等ございましたらお支払いたしますので、営業担当の成田様にご連絡したほうがよろしいでしょうか? よろしくお願い致します!】
とても丁寧な返事に、ホッと安堵した。
そして緊張が解ける。あぁ、僕のお節介は無駄じゃなかったんだな。
朝一でメールを返す。僕の独断なので追加料金はいらないことを伝えれば、かなり恐縮させてしまった。そして最後に【ありがとうごじあいます】と書いてあり、思わず噴き出した。
ご自愛ください、と返事をし、また修正が返ってくるまでは淡々と仕事をこなす。
修正データの再入稿が、彼女の本業の関係で早くて二十一時になってしまうらしく、仕方なく漫画を読みながら待っていた。
そんな時間もあっという間に過ぎ『あいにくと幸せになれません』は印刷・製本部に回り、立派な本になった。
そんな非日常感のある日も過ぎ去り、夏。
八月の頭にまた焔あかりからの依頼が舞い込んできた。営業担当は変わらず成田さんで、当たり前のように制作は僕に回ってくる。
「まさかまた入れてくるとは……」
「この漫画家さん? って、なんなんですかね? 私、同人誌に詳しいわけじゃないのでよく分かんないんですが、うちの会社にわざわざ入れる理由が本当に分からないんですけど」
「それは僕も同感です」
成田さんは不審そうな声だったが、僕は内心、楽しんでいた。つまらない日常に差し込む希望の光がBL同人というのもさらに面白いが。
そんな僕の様子を成田さんは白けた目で見る。
「深見さんもやっぱりちゃんと男の人ですね……」
なんだかオブラートに包もうとしたけど失敗したみたいな言葉が聞こえてくる。
「ねぇ、それどういう意味ですか。僕のイメージがなんか悪くなってるような気がするんですけど」
「や……だって、そういうエッチな漫画読んで喜んでるし」
「えー? これ結構面白いのになぁ」
「会社でそういう楽しみ方をするのはどうかと思いますけどね!」
「じゃあ、断ればいいじゃないですか。うちは同人お断りですって」
「そんなことできるわけないじゃないですかぁ!」
成田さんはムッとした顔で僕を睨むと、プリプリ怒って部署を出ていった。
「からかいすぎたかな……」
「いや、あれは君に幻滅したと見たね」
横で聞いていた同僚の横山女史がメガネをくいっと持ち上げて言った。
「深見くん、独身でしょ。成田さん、狙ってたんじゃない?」
「えー? 僕、そんな風に見てませんよ」
「じゃなくて、成田さんが。彼女、君に仕事回すのちょっと楽しげだからね。機嫌がいいもん」
なるほど……まぁ、なんとなく気がついていたけども。
「深見くんってさぁ、大人しくて紳士的じゃん? かと思ったら、ユーモアセンスあるし他人との距離感掴むのうまいし、仕事もできるし。だから君が下ネタで喜んでるとこ見て幻滅しちゃったんじゃない? ピュアだねぇ」
横山さんの分析に、僕は「ほー」と演技めいた声で感心する。
「なるほど。でも、僕だって下ネタくらい言いますよ。勝手にイメージつけるのはいいですけど、押し付けられるのは嫌だなぁ。あと、個人的にタイプじゃないです」
さらっと言うと、横山さんは「こっわ」と肩を震わせた。
「タイプじゃない子にもああいう態度なの? いい性格してんなぁ」
「よく言われます」
そんな感じで息抜きをし、焔あかりの漫画に手を付けた。
焔さんも夜まで働いているようなので、帰宅してからすぐに修正ができるようにしておこうと考えた。これは僕の勝手な想像だが、絵が丁寧な分、セリフにまで気を配れないのかもしれない。
調べてみれば、夏の同人即売会まで時間がなく、ギリギリの入稿。今回の『おいそれと幸せになれません』も誤脱字のオンパレードだった。
「前作の続きだ、これ」
タイトル似てるなと思ったんだ。主人公たちは結局別れることになったけれど、その続きが見られるとは思わなかった。これは楽しみだな。
しかし、成田さんの言葉も地味に引っかかっている。
焔さんは、どうしてうちにまた仕事を依頼してきたんだろう? 気になる。
でも、メールでそんなことを聞けるわけがないし……さすがに会ったこともない人に、距離感バグったメッセージを送るのも気が引ける。僕だって、むやみやたらに人をおちょくるわけではないし、弁えることができるのだ。
考えていると、焔さんからまた【ありがとうごじあいました】と返事が来る。
「あ、そうだ」
名案が一つ、思い浮かんだ。
夏の同人誌即売会はかなりの人で混んでいた。こういうのに参加するのは大学以来だな。サークルの友だちの知り合いの先輩から「バイトしないか」と雇われ、売り子をしたことが一回だけある。あの時、初めてこのお祭りに参加し、楽しかった思い出が残っている。
僕はカタログに書かれた『ほむほむ』というサークル名を確認し、なんとかその場所まで向かう。
遠目から見ると、彼女は普通の女性(コスプレをしていなかったので)で、すれ違っても気が付かないだろうなという印象だった。お団子頭が活発そうなイメージを与える以外は目立つタイプでもなさそう。
そんなに多くない客の相手をしながら笑顔で接客している。その様子がなんだか手慣れていたので、接客業をしているのかなーとぼんやり考える。
人波を掻き分け、彼女のブースまでようやく辿り着く。
「えっ? あっ、こ、こんにちは!」
手作り感満載の赤いギンガムチェックのテーブルクロスと漫画の宣伝ポスター、サークル名を入れた厚紙の看板、キャラクターをデフォルメしたアクリルキーホルダーや缶バッジも並んでいて、大量に刷られたはずの漫画があと残りわずか。
僕は少し、圧倒されていた。
「あ、あのぅ……?」
「一部、ください」
財布を出しながらそれだけ言う。すると、彼女はぎこちなく笑って「ありがとうございます!」と元気よく言う。
お金を渡す際、彼女は「えーっと、BLお好きなんですか?」と訊いてきた。なんか、テンパってるなと思いつつ、僕は「あー、いや」とつい本音を漏らす。
彼女は「えっ」と不審そうな声を出したので、僕は慌てて説明した。
「この本、僕が作ったんです」
「え?」
焔あかりの表情がさらに強ばる。しまった。どうしてこういう時に限って、僕の無駄なコミュ力が発揮されない……多分、会場の雰囲気に飲まれているのと、昨日の残業の疲れが残っているせいだ。
「すみません。これ、タカラ印刷で製作したものですよね。僕、この本の担当をし──」
「深見さんですか!」
焔さんが立ち上がり、僕の顔を覗き込む。
「あ、そうです。深見です」
僕は頭を下げた。彼女も「これはこれは」と丁寧にお辞儀する。
「まさか来ていただくとは思わず……いや、今回も大変お世話になりまして。深見さんがいなかったらこの本、絶対完成しませんでした!」
「いえいえ、そんな……今回も楽しく読ませていただきましたよ」
「よ、っ、えっ、読んっだん、ですかっ」
「え? はい。読みましたよ。でないと校正できないじゃないですか」
「そっか……えぇぇ……うわぁ、ほんとですかぁ……」
彼女は赤面し「あははははっ」と甲高く笑った。
なんか、恥ずかしがってる? 僕の登場に面食らうのは分かるけど、そこまで驚かなくてもいい。メールの文面通りの恐縮っぷりだな。
ここで立ち話もなんだし、さっさと切り上げるか。あ、ダメだ。まだ肝心のことを聞いてない。でも、今ここで話すのはまずいかな……他の客の迷惑にもなるかもしれない。
僕は不甲斐なく退散を選んだ。
「それじゃ、またのご利用をお待ちしてます」
そう言って離れようとする。しかし、僕のリュックをぐんと引っ張る強い力に驚き、膝カックンされたようになる。見れば、焔さんが僕のリュックを掴んでいた。
「待って、ちょっと待ってください」
「え?」
「あの、えっと……」
焔さんは忙しなく目をキョロキョロ動かしつつ、僕を見上げた。そして、思い切ったように口を開く。
「どうして、読んでいただいたのに、買ってくれるんですか」
「それは……」
うーん。確かに、動機が意味不明だよな。会社で読んでるし、なんなら見本誌も会社にあるわけだし、僕が作った本だからマシンにデータが残ってるわけで、いつでも見られるし、まぁ際どいシーンがあるから日中は読まないけど。
僕は周囲を見た。客はいなそうだ。まぁ、本もだいぶ売れてるわけだし、ちょっと落ち着いてるならいいかな。
「ここではなんですし……」
僕が言うと、彼女は「あっ、はっ、そう、そうですよね!」と挙動不審に慌てた。
焔さんは休憩中という看板を出し、ブースから抜け出した。会場の外にあるベンチへ行き、ちょうど開いていたので二人で座る。
彼女は持参していたペットボトルの水を両手に持ったまま、やはり挙動不審に周囲を警戒していた。僕はベンチに向かうついでに自販機で買ったコーヒーを持っている。
「焔さんの作品、面白いですよ」
単刀直入に切り出すと、彼女は「みゃっ!」と猫みたいな声で反応した。
「おも、おもおも……っ、そ、そうですかぁ……」
「はい。僕、それまでBLって読んだことなかったんですけど、焔さんの作品は優しさと切なさがあって、何より綺麗ですね。レベルが高いなと思いました」
「うぇぇぇ? そうですかぁねぇ……あぁ、キモい声しか出ねぇわ……あはははは」
あー、これ、明らかに緊張してるな。そうだよな、BL買いにくる客なんて、ほとんど女性だけだろうし。彼女の読者も女性しかいないのかも。
「そんな緊張することないじゃないですか。僕、どんな読者よりも宇宙一最速で焔さんの作品、読んでるんですよ?」
「そ、そうですけど……そうですよね。確かに」
「僕、焔さんがどうしてうちの会社を選んで入稿してくるのか、それが知りたいんです。同人に特化した印刷所なら全国いくらでもあるでしょうし、わざわざうちみたいな小さい町工場みたいな印刷所選ぶのが、よく分からないと言いますか」
そう本題を切り出し、最後に「僕は楽しいからいいんですけど」と付け加える。
彼女はペットボトルを握り、顔を上げた。
「それは、深見さんの校正が正確だからですよ!」
勢いこんで言う彼女の言葉に、今度は僕が面食らった。
「あと、納期ギリギリでも安く刷ってもらえるのもありますけど……っ!」
「その付け足しは余計でしたね」
ついからかうように言うと、彼女は「あっ!」と固まった。
「でも、そうですか……僕の校正、信用してもらってるんですね」
「そりゃそうですよ! 私、えぇっと、もうお察しの通りだと思いますが、漫画を描くことに精一杯で。普段、書店員してるんですけど、なかなか時間取れないときとかあるので、いつもギリギリ入稿になっちゃいますし、誤脱多いし……チェックする時間を取らずに、勢いとテンションで入稿しちゃうんです……」
なんとなく想像がつく。
深夜まで漫画描いて、普段の仕事も大変だろうに、それでも楽しく漫画を描いている彼女を想像する。勢いとテンションのまま入稿してしまうところも容易に想像でき、僕はつい笑った。
「あぁ、失礼しました。僕もまぁまぁこの業界長いので、なんとなくイメージできます。原稿の作り方だけでどんな人か想像もできますし。誤脱以外なら丁寧な仕事をなさってるし、ほんと、セリフ入れる時にテンション上がってるんだろうなぁって。そういう時、走りがちになりますからね」
「おっしゃるとおりでふ……」
焔さんは舌を噛んだ。恥ずかしそうにうつむき、水を飲んで一息つく。
「メールでも誤字っちゃうんですよぉ……もう、なんなんでしょうね、ごじあいますって。その後、深見さんから【ご自愛ください】って返ってきて笑い転げましたもん」
「あぁ、あれは確かに面白かったです。思わず会社で盛大に噴き出しました」
そんな会話をしていくと、いつの間にか焔さんの緊張が解けてきた。
でもそう長くは彼女を捕まえることもできないので、数分程度に済ませて切り上げることにする。
彼女をブースまで送り、改めて「またのご利用を」と言って立ち去る。
その際、待っていた客が彼女のブースで一冊購入していくのをなんとなく見ていた。
客の女性と焔さんの笑顔。その手の中には僕が作った本。それはきっと、誰かの娯楽として消費され、保管されていく。何年も、何年も。
あぁ、そうか。あの場に行って圧倒された意味が分かった。
嬉しかったんだ。
***
とっくにタバコは吸い終わっていた。隣に佇む印守くんも手持ち無沙汰に外をぼーっと見ている。そして、げんなりとした声で言う。
「──あのさ、それ思ったんだけど」
「うん」
「惚気じゃね? しかも馴れ初めですか」
「あ、やっと気づいた? 案外遅かったね」
しれっと言うと、彼は脱力気味に長い長いため息をついた。
そう。あの後、焔さん=加苅さんとよく会うようになり、彼女の友人にお膳立てされ、僕と加苅さんはめでたくお付き合い真っ最中である。
そのことを知っている印守くんなので、早い段階で気づくだろうなと思っていたら、最後までしっかり聞いてくれた。僕は笑いが止まらなくなって、手すりに突っ伏していた。
「いや、幸せそうで何よりだが……そりゃ、彼女のBLは読まないとだよな……」
印守くんは不服そうに言う。僕はチラッと顔を上げて自慢げに返す。
「おかげさまで、幸せです」
「うわ、ムカつく」
その言葉が始業ベルに重なり、僕はまた手すりに突っ伏して笑った。
深夜公園相関図 小谷杏子 @kyoko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます