志熊野花
古代先生式、猫のすゝめ
【一・とある文豪の暇つぶし】
――話がつまらない男は、地球のお荷物と言っても過言じゃないと思う。
頭の中でぼんやりと文章にし、私はカウンターの下でスマートフォンの画面を見た。ソーシャルネットワーク『つぶったー』のアプリを開き、早速文字を起こす。
〝話がつまらない男は、地球のお荷物〟
「……あ、やばっ」
やっぱりなし。投稿するのはやめる。アカウントが「くまのこ」のままだった。
俗に言う「表アカウント」というもので、この「くまのこ」は控えめで大人しい清楚系書店員女子という設定があるのだ。ダメだ。こんなふてぶてしいつぶやきを投稿したら、これを見た同僚たちがざわつく。私のタイムライン上で炎上でもしたら仕事にも差し支えるだろう。裏と表で顔を使い分けるのも面倒だが、慣れてしまえば現実世界とそう大差ない。
「君、聞いているのかね。さっきからスマートフォンばかり見て」
カウンター越しに顔を近づけてくるのは男性客。眉は凛々しく、目尻はややつり上がっていて、鼻筋が通った男。三十歳だったかな。そのくらい。
「すみません、聞いてませんでした」
私は満点の笑顔で冷ややかに言った。彼の肩ががっくり下がる。
「この長い長い話をもう一度しろとでも言いたいのかい、君は」
「いえ、結構です。できたら、ここから離れてもらえませんか。仕事の邪魔なので」
そう言ってやるも、彼はカウンターに置いた腕をどけるつもりはないようで、凛々しい眉を寄せて私をじっと見つめた。
あぁ、その表情はかっこいい。パーフェクト。いやあ、やっぱり写真撮りたい。スマホの待ち受けにしたい。
「……何か、良からぬことを企んでないか?」
やけに鋭いな。
「いいえ。何も」
「返答がいつもの○・二秒速かった。これは純然たる嘘の証拠。騙されないぞ。君のその
言動のせいでマイナス一万点。
こうなったらしぶとく追及してくるだろう。
私は気を抜くように、カウンターに肘をついた。作っていた営業スマイルを取り除き、上目遣いに見上げる。仰せのままに、正直に吐きましょう。
「写真、撮っていいですか」
「写真? 僕の?」
「はい。
この言葉に、自称ミステリ作家・
引き締まった目尻を開かせ、彼は驚きの顔を見せた。そして、上機嫌に口角を上げる。しかし、何か閃いたのか固まった。頭を回転させ、しばし時を止め、やがて彼は呆れたように言った。
「
ちぇっ。もう少しで騙されてくれるところだったのに。それならこいつに用はない。
「帰れ」
私は冷たく言った。多分、この冷徹な声は泣く子も黙ると思う。
いや、マジで、話がクソ長くてつまらない男なんて、地球のお荷物だから。光合成して二酸化炭素で生きられるようになってから喋ってほしい。
これは、顔がいいことだけが取り柄の自称ミステリ作家・古代廻流先生と、一介の書店員・志熊
【二・古代先生式、猫のすゝめ】
自称、稀代の小説家は言った。「猫が欲しい」と。
それなら、ペットショップにでも行けばいい。もしかすると、この変人――いや、このオキャクサマは何か勘違いをしているのかもしれない。
「あの、うちはペットショップじゃなくて、書店ですよ。申し訳ございませんが、猫は取り扱っておりません」
「それくらい分かっているさ。世話になっている
古代先生は肩をすくめて、憎たらしくニヒルに笑った。古風なキャメルカラーのだぼっとしたスーツに、くすんだ茶色のベストという出立ちが余計にサマになっているものだから、若干のウザさを感じる。
「じゃあ、なんでうちへ来たんですか」
「それは君、決まっているじゃないか。猫を飼うための資料を探しているのだよ」
聞けば聞くほど謎が深まる。首を傾げていると、古代先生はつまらなさそうなため息を吐いた。
「おいおい、君は書店員だろう? 客の要望に応えられずにどうするんだい。噂の二次元彼氏とやらにうつつを抜かしているから、仕事もままならないのではないか?」
「余計なお世話です」
この男、私の弱味を握るなり、やたらとその話題を持ち出してくる。まぁ、そのおかげで先生の前では素直に『
話がつまらない男でも、顔が良ければ目の保養とするだけの価値はある。話はつまらないけども。
「……で、猫のどんな本をお探しで?」
猫を飼うための資料というのだからペットの飼い方、ペットの気持ちが分かる本が妥当だろう。しかし、この男は変化球を豪速球で投げるから油断はできない。
古代先生は顎をさすりながら言った。
「そうだな……僕もあれこれと調べてはいるのだが、まずはやはり猫の生態と種類が分かる図鑑のようなものだろうか」
やっぱり初球から飛ばしてきたな。私の読みは正しかった。
「分かりました。探します」
私クラスになれば驚きもしない。だからか、古代先生は不満そうに口を曲げた。
「やけに素直じゃないか。君、さては僕の話を聞く気がないな?」
「最初からないですよ。先生の顔以外に興味ないんで」
気だるく吐き捨てながら、私はカウンターから出て図鑑コーナーへと足を向ける。その後ろを、古代先生がついてくる。
「つまり、僕の顔には興味があるということだろう? だったら僕の顔に免じて職務を全うしたまえ。半端なものはいらないからな。精密に精巧に書かれた図鑑がいいのだ」
この男、驚異のポジティブシンキングである。スタスタと先を行く私は、なるべく平静を保って静かに店内を巡った。カウンターから生物図書のコーナーは距離がある。
向島書店、
私が担当する東側はファッション雑誌からマニアックな雑誌、漫画やライトノベルの棚だが、専門書や参考書、文芸書籍なんかは西側の担当だ。本当なら西側のスタッフに頼みたいところ……それができない理由はやはり、この男のせいである。
「先生、私よりもこの本屋に詳しいんでしょ? だったら、自分で探せばいいじゃないですか」
わざわざ面倒なことをしたくない。ただでさえ他の業務だってあるのだ。日がな一日、ぼーっと推しのことを考えているわけじゃなければ、スマートフォンを眺めているわけでもない。
「
これに私は、彼に見られないよう顔をしかめた。
加苅というのは私の同僚だ。お団子頭がよく似合う同い年の女の子。あいつ、口軽いからなぁ……最悪。
そもそも私が古代先生専属スタッフになったのは、成り行きだった。ていうか、私はそれを認めてないのに周りが勝手にそう言ってるだけだ。
「別に、先生の顔がいいからってだけですよ。私が優しくしてるのは先生の顔がいいから」
「愛しの『
「悔しいくらいにそっくりですよねぇ。中身はまったく違うのに。そこが本当に残念」
話をしている間に、ゲーム関連の書籍棚に差し掛かった。そこには大きなソーシャルゲームのポスターが貼ってある。シュッとした顔立ちの男キャラが勢揃いのソーシャルゲーム――「宵の口へのいざない」、通称「よいいざ」は、巷で流行りの女性向けノベルゲームである。妖怪やモンスターを擬人化したイケメンたちのうち、一人をお供に夜の街を守っていくっていうストーリーだが、その中でイチ推しのキャラクターが「孤狼大地」という狼人間。体格は孤狼くんのほうが断然いいし、高身長で骨格が角ばっていて、胸筋も広い。古代先生もそれなりに高身長だが、ひょろいし薄い。
このポスターを見ていると、先生が後ろから私の背中をつついた。
「志熊くん、見惚れるのは分かるが、仕事を優先してくれないか。その後で、彼と存分にちちくりあっていればいい」
「先生、マジで喋んないで、醒めるから」
ポスターから目を離し、先生から遠ざかるように前を歩く。先生は律儀に私の足跡をたどるように後ろをついてくる。
「ちなみに、『よいいざ』には猫は登場するのかい?」
喋んなと言ったばかりですぐに口を開いている古代先生。私はうんざりとしながらも、それに答えた。
「猫……は、いないですね。猫又キャラとかいそうなものなのに」
「ならば、運営に直訴して猫又男子を作ってもらいたまえ。猫はいいぞ、猫は。狼は野蛮で危険だからな、猫のほうが大人しくて素っ気なくてかわいいぞ」
鬱陶しいほどに猫を推すな。
「先生って、そんなに猫好きなんですか? ご実家では柴犬を飼ってましたよね?」
「あぁ、柴犬のゲンゴロウだ。可愛かったなぁ」
柴犬にゲンゴロウって名前をつけるセンスが私には分からないわ。
「しかし、今は猫だ。世間は猫を飼えと僕に言っている。見たまえ」
言われて振り返ると、古代先生はスラックスのポケットから折りたたみ式の黒い携帯電話を出した。
待ち受け画面を見せてくる。愛くるしくも、鼻が上を向いたふてぶてしい猫の画像。
次に、彼は携帯電話を素早く操作して画像フォルダを呼び出した。そこには溢れんばかりの猫画像が。下へ送っても猫。ずっと猫。たまにラーメン。しかし、フォルダは猫一色。猫、猫、猫。黒やブチ、キジ、サバ、ミケ、中にはペットショップで撮ったと思しきアメリカンショートヘアやマンチカンまで種類は様々だ。
「猫にハマってるんですねー」
「ハマっているというよりも、僕は猫を飼わねばならんのだ。なるべく早く」
「なんで?」
「それは君、決まっているだろう。作家だからさ」
わけのわからない理屈が返ってきた。作家だから猫を飼わなくちゃいけない? どういう意味だろう。
口を開けずにいると、先生は真剣な顔つきで言った。
「探偵には黒猫、ミステリ作家にはサバ猫、作家には猫。神作家となれば、その横には必ず猫がいる。すなわち、猫さえいれば僕は作家として大成するということだ。とにかく猫が必要だ」
古代先生は、ときたま意味不明な持論を展開することがある。顔はかっこいい孤狼大地そのものなのに言動が古風で偏屈だから、本当に喋らないでいてほしい。その口を何度縫い付けてやろうかと思ったことか。
「さて、志熊くん。できれば先へ進んではくれまいか。僕のこの猫への情熱が冷める前に、なんとしても猫を飼うための情報を頭に叩き込む必要がある。そしてシミュレーションするのだ」
口を開けば猫、猫、猫。とにかく猫。それなのに、調べるところがズレていると思うのは私だけなんだろうか。
それからは何も言うことなく、私は素直に先生が所望する図鑑を適当に見繕った。
「なるほど、猫の不思議図鑑」「ねこの気持ちが分かる本」「動物学入門」は大人向けの書籍。あとは子供向けの「なぜ?どうして?ふしぎいっぱいずかん〈どうぶつ〉」も追加して渡すと、先生は満足そうに顔をほころばせた。締まった目尻が緩んでいる。孤狼くんと同じように笑うから、やっぱり彼は黙っているほうがいい。
「ありがとう。これで猫を研究するよ。結果は追って知らせよう」
そう言って、先生はおとなしく西側のカウンターへ走った。
【三・触れてはならぬ、パンドラ匣の底】
作家には猫が必要らしい。探偵には黒猫、ミステリ作家にはキジ猫だったかサバ猫だったか。とにかく早急に猫が必要なのだと、自称ミステリ作家は言った。
そう言えば、かれこれ彼との付き合いも一年は経つのに、私は彼が一度だけ出版した本を読んだことがない。
「ねー、加苅ー」
狭い休憩室で加苅と二人きり。長机に並んでぼんやりとスマートフォンを眺めている。加苅のスマホを覗くと、どうやら生息地であるBL創作家たちのタイムラインを見ていたらしい。私はというと「裏アカウント」である「
加苅は「んー?」と生返事。口元がにやけていた。何を見ているのかは察しないでおこう。
「あのさー、古代先生の本、タイトルってなんだっけ?」
聞くや否や、加苅の丸い眼鏡がキラリと光った。
「ほっほー? ついに志熊も古代廻流入門の扉を叩いちゃいますか」
寒気がするからやめろ。そんな気色悪い扉、だれが叩くっていうのよ。
しかし、言動から察するに彼女は古代廻流ファンなのかもしれない。
加苅はスマホを閉じ、指を組んで真剣に言った。
「古代廻流、三年前に彗星のごとく現れた気鋭の新人ミステリ作家。彼のデビュー作にして処女作、『
「なんか壮大に言うね」
「まぁね。私、文芸書籍担当だし、他店の書店員からも話は聞いてたのよ」
加苅は指を組み換え、真正面の壁を見た。私と話をしているのに、どこを向いているのだろう。まぁいいや。
私はスマホで本のタイトルを検索した。ふうん、単行本か。マットで真っ赤な装丁の中心には肖像画風の若い男の横顔がある。おどろおどろしいミステリ小説なのだろうか。そんなことを考えていると、加苅の話が続いた。
「しかし、その正体はただの変人お喋り野郎で、面倒なお客様だったわけね。いやぁ、あの衝撃ったらなかったわ。ミステリアスでクールで、ちょっと病んでる感じかなーと思いきや、つぶったー炎上文豪だし。クレーマーよりタチが悪い居座り大臣だし」
私よりもものすごい批判をしていると思う。いいぞ、もっとやれ。
「なんと言うか、イメージと違いすぎた。まぁ、作家の私生活に踏み込みすぎるのも良くないとは思うんだけど、いちファンとしては作家そのものにも興味があるもんじゃない。なんと言っても『浪漫画廊』はあたしに言わせちゃ熱くて儚い、生死を懸けた至高のボーイズラブなわけで」
「ん? 待って? そういう話なの?」
思わず遮ると、加苅の眼鏡がまたもキラリと光った。
「そういう話なの。読めば分かる。天才画家で名を馳せるも一発屋で終わった長瀬という男と、そのファンである花岡青年が巡り会う。長瀬のアトリエで逢瀬を重ねていくうちに、長瀬の禁断の秘密が紐解かれ、そして――やば、ネタバレしそう」
ミステリ愛好家はネタバレ厳禁を厳守するというのは本当らしい。私はスマホの画面の中にある『浪漫画廊の陰謀』をじいっと見つめた。通販、するか。いや、別に読みたいわけじゃないし。生まれてこのかた、ミステリなんてものに触れたこともない。それに、小説は読んでいると眠たくなるタチだ。
「あ、休憩終わる」
加苅が言うまで、私は頭の中で「本を読まない」言い訳を並べていた。
***
「ふぅむ。加苅くんは相当に偏った読み方をしているんだな。しかし、その解釈もまた面白い」
休憩が終わった直後に、例の古代廻流先生がカウンターに陣取っていた。
「そうですね。まぁ、あの子は腐女子なので、なんでも食えるんじゃないですか」
「腐女子の吸引力は掃除機をも凌駕する力を持っているからな。侮れないよ。しかし、興味深い話を聞けて嬉しいな」
彼は言葉通り嬉しげで、満面の笑みを向けていた。憎たらしいほどに歯並びが良すぎる。ほんと、なんで二次元キャラじゃないんだろう。私はアニメの実写は断固反対派だ。
しかし、今日の古代先生は詰め襟の上から藍染の着流しで、上から黒いマントを羽織っている。今日は少し冷えるから、
「ちなみに、猫は飼えたんですか?」
顔がにやけないように話を変えてみると、先生は目を伏せた。
「まだ飼えてないんだ。この窪という街は野良猫に厳しいものでね、公園に行っても見当たらない」
「じゃあ、ペットショップで探せばいいじゃないですか」
「命を金で買うのは傲慢な人間のやることさ」
なんかもっともらしいことを言ってるが、キメ顔で言ってるので嘘なんだろう。
「あー、先生ってニートですからね。高い猫なんて買えるわけないか」
「ニートではない。高等遊民だ、高等遊民。そこを間違えるな」
似たようなものでしょ。
「君は本当に無礼な店員だな。これでよく勤まるよ。まぁ、本を探す能力はずば抜けているとは思うがね、それくらいだ」
褒められているのに嬉しくない。
ふてくされていると、先生は不機嫌にカウンターを指で叩いた。
「ともかく、猫の生態は頭に叩き込んだ。やはり活字はいいな、活字は。文字を食らうというのは、人間の特権だ。そんなわけで、次は猫に関する雑学とペットの歴史なんかが分かる本を探したまえ」
「はぁ……」
私が選んだ本、ほとんど写真や図が多かったと思うんだけど。それに、ペットの飼い方を覚えたほうがいいんじゃないのかな……なんて、言おうものなら話が長くなりそうだ。私はカウンターから出て、頭の中に刻み込んである店内マップを思い浮かべた。
これまた西側の本棚だ。まったく、無駄にこき使うんだから。
「志熊くん、猫というのはなかなか奥深い生き物だぞ」
「へぇぇ」
「彼らがどうして狭い場所をくぐり抜けられるのか、という話が面白かった。内蔵を自在に移動させることができるらしい。まるで軟体動物のようだね。いやぁ、恐れ入ったよ」
「猫を飼うのに、そんな知識いります?」
「そりゃあもちろん。共に生活する上で、彼らの常識を学んでおかないとね。何事も見聞を広めることが平和への第一歩なのだよ」
もっともらしいことを言ってるが、私に
私はやれやれとため息をついて、目当ての本があるコーナーへ足を止めた。
「動物の雑学全集」「歴史辞書〈ペット・家畜〉」「人はなぜ、動物を愛玩するのか?」というタイトルの本を先生の腕に積み重ねていく。
「まぁ、これくらいでいいんじゃないですか。でも、猫を飼ったところで『作家復活!』なーんて淡い期待はしないほうがいいと思いますけど」
現実は厳しい。先生が一発屋で終わったのも、次回作が出せないのも、猫を飼ったところで変わることはないのだ。いつまでも夢見る少年のままではいられないということを突きつけなければ。
先生は珍しく黙り込んでしまった。しかし、表情はすっかり冷ややかで、なんだか私を咎めるように眉をひそめている。
「――君は、僕の小説を読んだことがあるのかい?」
「えっ」
思わぬ問いに、私はすぐに後ろめたくなった。
「僕の小説だよ。『浪漫画廊の陰謀』は古代廻流の人生における記念すべき第一作だった。デビュー作にして処女作。粗削りで鋭利に尖ったミステリ小説を、君は読んだのかと聞いているんだ」
「……いえ」
読まないという理由をあれこれ考えていたくせに、どうにも今は彼の圧に押し負けていて、口が重たくなっていく。
「小説は作家が文字に魂を吹き込んだものだ。それを読者が食らう。僕も、いち作家として僕の文字をいろんな人に貪ってほしいと思っている」
「………」
「
いつになく真面目な声で言われてしまい、私はもうなんとも返せずにいた。立ち止まったままでいると、先生が手に持っていた本を私の頭にコツンと叩きつける。
「会計をしよう。僕は猫を飼って、新しい小説を書く。それを君に食わせてやる。僕の文字を味わってみるがいい」
片眉を上げてニヤリと笑う。そして、彼は東側のキャッシャーへ歩いていった。その後ろを、私は慌てて追いかける。
もしかすると私は開けてはいけない扉、いや、箱を開けてしまったのかもしれない。
【四・それから、】
古代先生はそれからも、たびたび私の仕事を邪魔しにきてはあれこれと本を物色していた。
あれだけ張り切って猫を飼って小説を書くと豪語していたくせに、ふらっと現れてはくだらないお喋りをする。それでも、私はあれきり小説の話はしなかった。
いくら無礼講に接しても怒らない先生が、あんなに真剣に怒ったから。開けてはいけないパンドラ
でも、あんなことがあっても先生は変わらず私に話しかけるので、こちらも調子に乗って「孤狼くんのセリフを言ってみて」とせがむくらいのことはやった。結果、キャラクターボイスと声質が違うので、落胆した以外には変わらぬ日常を過ごしている。
そんな冬のある日。
入荷予定の本のリストをチェックしていると、思わぬ文言に釘付けになった。
「ちょっと、志熊! つぶったーでも話題になってんだけど、古代先生の新刊が出るって!」
私の驚きを代弁するかのように、加苅が私のカウンターまで走ってくる。
「へぇ」
「へぇって、あんたも知らなかったんだ。てっきり聞いてるもんだと思ってたら。ってか、反応うす!」
加苅ほどの曲解型ファンではないし、一般人の反応としては不足ないだろう。
でも、著者と知り合いなんだし、もっと大袈裟に驚いてもいいのかもしれない。というよりも、あんだけ無駄に長い話をしていたくせに、肝心なことはひた隠しにされていた。
「おっと、噂をすれば」
加苅が入り口に目を向けた。
まるで見計らったかのように、黒のトレンチコートとだぼっとしたパンツを合わせた古代先生が快活な笑顔で現れた。
「やぁ、加苅くん、志熊くん」
ご機嫌がよろしく、キザったらしく挨拶をしてくる。
「先生! ちょっと、聞きましたよー。新刊、出されるんですね! おめでとうございます!」
いつもは邪険にする加苅も今日ばかりは晴れやかに彼を迎え入れる。
「あぁ、地味に話題になっていたね。世話になると思うけど、どうぞお手柔らかによろしく」
いつもよりも丁寧だな。
加苅は「楽しみにしてます!」と期待を込めた眼差しを送り、西側の陣地へ戻っていく。呆けた私と、上機嫌な先生だけが取り残された。
「そんなわけで、志熊くん。君にはまずゲラ読みをしてもらいたいんだ。ほら、約束通り持ってきた。僕の文字を食らえ」
先生は持っていたアタッシュケースをカウンターに置き、綺麗なプルーフ用紙に印字されたゲラ原稿の束を私に突きつけた。それを私は受け取らない。
「どうした?」
「私、約束なんてしてませんよ」
一方的に言ったのはそっちだから。私は、「読みたい」だなんて一言も言ってない。早とちりしてもらっては困る。
それでも、先生は私をじっと見たままで手を引っ込めようとはしない。
「大体、猫もまだ飼ってないくせに、順番が違いますよ」
「猫は飼ったさ。君に宣言したその日にね」
訝る私の前に、彼は自分の携帯電話を見せてきた。画面にはブサイクなブチ猫がこちらにガン飛ばしている。
「名を『
偉そうに鼻高々な古代先生。私は唖然としたままで、猫と原稿を交互に見る。
タイトルは「猫舌とカドミウムレッド」。猫という文字に、思わず目を瞠った。
「……どんな話なんですか」
「ズバリ、猫を巡るミステリ小説さ。猫の骸からカドミウムが検出され、その猫の
勢い余って話し出す彼は慌てて言葉を切り、気まずそうに咳払いした。
「君が僕の文字を食えないと言っても、否応なしに本は出る。古代廻流の第二作目が書店に並ぶのだ。その壮観な景色を期待して待つといい。安心しろ、君のおかげで僕は復活した」
まったく、この人は……口だけだと思ったら、有限実行なんて。こうなっては、けなすところがどこにもないじゃない。
私はしぶしぶ、ゲラ刷りの原稿を受け取った。
「古代先生」
「なんだい?」
カウンターに肘をついて、私の前に陣取る。その顔面は推しに負けず劣らず。だから私は彼の話を聞いてやる。
でも、今日は先に私の話を聞いてもらおう。
「私、『よいいざ』運営に猫又男子を提案してみたんですよね」
「ふむ。いつかそんな話をしたような」
「それが意外と大当たりで。ビジュアルが出た途端にユーザーがざわついてて。だから、新キャラにしては異例のフルボイス実装です」
私はおもむろにスマホを出した。シュッとして痩身で、細い目と凛々しい眉毛が特徴の猫又男子、
どうしよう。推しが変わりそうで怖い。そんな私の心情を読み取ったのか、先生はなんだか嬉しげに
【第三夜 基本的に地味へ続く】
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