第三夜 基本的に地味
雲小町、路上にて恋愛フラグが立つ
第三夜 基本的に地味①
アシカとは
このアシカ、漢字では「海驢」「葦鹿」などと表記されるが、別名には「うみうそ」「うみかぶろ」などがある。うみうそはカワウソの海バージョンと考えるのが妥当だが、うみかぶろ、つまり
さて、この
店の前にあったエアコン搭載自家発電式自転車が堂々駐輪されていた。普通のママチャリなのだが、前カゴをとっぱらい、その代わりにエアコンが設置されているのである。また、いくつもの電線やパイプをつなぎ、後輪の部分に換気扇のようなものがくっついている。そこに「アシカ屋」と手書きの色あせた旗がついていた。
これで走り回って転ばないのか、いやそれよりも通行の邪魔にならないのか、道交法違反にならないのか、疑問はいくつも浮かぶが、現実にこんなものが転がっているのでその存在を認めなければいけない。
「吉田くん……あのお客さん、アシカ屋っていうんだって」
「え? アシカ屋?」
彼は面食らったように訊いた。
「うーん? アシカを売ってるんですか?」
「いや、そんなわけないだろ。アシカを売る仕事ってなんだよ」
「まぁ、そうですよね」
「本業は自転車屋らしいよ」
「へぇ……」
俺の言葉に、吉田くんは引き気味に頷いた。言ってるこっちもよく分かっていないので、その反応は正しいだろう。
俺は気まずくなって天を仰いだ。建物に挟まれ、まるで切り取られたような空は、こちらの心情と裏腹に青々と澄み渡っている。
俺はため息を投げつけた。
「まぁ……あの客からの要望は本当に気にしなくていいから。絶対に。悩む必要はないよ」
そう、吉田くんに念押しする。
あのやたら豪気で強引で傲慢な女の言うことを真に受けたらダメだ。何しろ相手は怪人。
しかし、吉田くんは「はぁ」と不審たっぷりに口元を歪めた。
「いや、でも、自分の足りないとこを指摘してもらえるのはありがたいんですよ」
「ううん、大丈夫。君のシャンプーは悪くない。絶対に! 俺が保証するから!」
そう強く言うと、彼は照れくさそうに小さく笑った。俺の必死な訴えは通じたらしい。
「ありがとうございました。またのお越しを」
吉田くんの見送りを受けながら、俺は会釈した。
「また来ます」
さっぱりした頭を掻き、しかし気持ちはまだまだ複雑なまま店を後にする。
やわらかに青い風を受けながら、俺はふと思い出した。あの人畜無害そうな作業着の青年、丸福柴雄の愛嬌たっぷりな笑顔を。
まったく、用途不明なものを作らないでほしい。そして、あの怪人にやすやすと明け渡すな。今すぐにでも彼に問い詰めたいところだが、出くわしたくない気持ちの方が勝っている。
そんな日曜の昼下がり。俺はそのまま、新しい冷蔵庫に入れるための食品や酒を買いに向かった。
***
月曜日。
新居からの出勤初日、バスの時間が変わったので慌ただしく支度して家を出た。十分程度の差があり、うっかり寝過ごしそうになった。六年間のルーティンを一新させるというのは、思ったよりもなかなか難しものだ。
そうして、なんとか定刻に間に合い、会社について仕事をする。午前は主に個人契約者との電話やメールでやり取りをする。新規案件がいくつか。それをさばいて、午後は訪問。三年前までは飛び込みでセールスもやっていたが、時代錯誤であるとようやく上層部が気づいたので廃止になった。あんまり記憶はないけど、とにかく嫌な思い出しかないことだけは覚えている。
昼食がてら市田くんと外回りに出かけ、店頭販売をしてもらっているドラッグストアや個人経営の店、薬局などを順繰りに回る。売上や経過などの様子見、次の契約とかその他もろもろを済ませる。
商店街に差し掛かり、俺たちは遅めの昼食をとりにカフェへ立ち寄った。全国展開しているチェーン店なので気軽に入りやすく、客層も俺たちみたいな営業マンが多い。
「新居、どんな感じですか?」
席につき、一息入れた直後に市田くんが前のめりに訊いた。
「まだ一回しか寝起きしてないからなんとも。あ、バスの時間を間違えそうになったよ」
「やっぱりそうでしたかぁ。喜多屋さん、朝来た時、汗臭かったですもん。かなり走ったんじゃないですか」
「まぁ、うん。朝飯食うどころじゃなかったな……十分違うだけでこうも生活が変わるのかって思った」
いやはや面目ない。
「えーっと、喜多屋さんって新卒入社でしたよね? 大学生の時は実家だった感じですか?」
唐突に市田くんが訊く。俺は
「うん。就職決まってから家を出て、それからしばらくしてまた近くに引っ越してさ。舞香……南さんと付き合い始めてすぐだったかな」
おくびにも出さず、彼女の名前を出してみた。しかし、呼び方は以前のように戻した。もう関係は切れたのに、馴れ馴れしく「舞香」と呼ぶのは気分的にためらわれる。
一方で市田くんは悪びれることなく、無邪気に笑った。
「付き合い始めてすぐ結婚考えてたんですか? 前の家、結構広かったですもんね」
「いやらしいほどに鋭いな……ご名答。その通りだよ」
「あれ? 急に元気がなくなりましたね」
いけしゃあしゃあと茶化しやがる。市田くんはサンドイッチをパクっと食べ、アイスコーヒーを飲んだ。俺はホットコーヒーをズルズルすする。ホットドッグに袋入りケチャップを雑にかけて食べた。
「まぁー、確かに南さんって、美人だし人気あったし、超優しいし仕事もできるし、完全無欠でしたよね」
「それに比べて俺は平凡だし、仕事もそこそこだし、酒は飲めないし」
「いやいや、喜多屋さんは真面目で優しい、うちの部のムードメーカーです。確かに酒は飲めないけど、シラフで酔っぱらい達についていけるなんて、なかなかできないすよ」
市田くんは真面目に言った。そう改めて言われると、顔がにやけそうになる。
「そうでもないよ」
「だからね、あんまりいつまでも落ち込んでてほしくないわけですよ。確かにあの南さんを逃したのは痛いですけども──あの人、今なにやってんのかな……急に辞めちゃいましたよねー」
「あぁ、なんか会社辞めるのは先に決めてたっぽいよ」
俺はホットドッグを苦々しく頬張って言った。
舞香は確かに美人で人気者で、超優しくて仕事ができる人だった。女子大出だからか独立心が高く、常に誰かのフォローに回れるくらいの余裕がある。だから、もっとやりがいのある大きな会社で大きな仕事を動かすべきである。しかし、彼女も当時は就職難に遭い、なんとか引っかかった会社が株式会社OLIVE.EARだったという。
この数年で世間はかなり変わった。自分に合った職場を見つけやすく、入りやすい。実績のある彼女なら他社からの引き抜きもあって当然だった。
「俺と別れる時、もうすでに引越し先と次の職場、決まってたからな」
「それで、ついでに捨てられたと。なんつーか、綺麗なバラには棘があるんですねー。おそろしや」
市田くんが肩を震わせるような仕草をした。
そうか、なるほど。俺は家具家電や家、仕事と同等だったわけだ。妙に腑に落ちてしまい、ため息が鼻から漏れる。悔しくなり、コーヒーをがぶ飲みした。
「まぁ、なんにせよ『酒が飲めないから別れる』っていうのは、絶対違うと思いますよー? そこに深い意図はないはずです」
冷やかし半分、慰め半分といった調子で市田くんは言う。それは、なんだかあのアシカ屋たちと同じ意見だったので、俺はさらに複雑な思いを抱いた。
会社に帰って資料をまとめ、メールを返して一息ついたらすでに十八時を回っていた。定時はとっくに過ぎていたが、社内にはまだまだ人が残っている。なんとなく、上長たちが帰らないと帰れない。そんな暗黙ルールがあり、意味もなく明日のスケジュール確認とかメールチェックをする。背伸びをする。と、向かいの席で仕事をする原さんと目が合った。彼は不満そうに部長のデスクを見る仕草をする。「部長、早く帰れよな」と、そんな念を込めている。
……仕方がない。俺はパソコンの電源を落として席を立ち、部長の席へ向かった。
「部長、上がります」
「おぉ、お疲れさーん」
部長は目を細めて顧客リストを眺めながら言った。こういう時、誰かが先陣を切って帰れば、他の人も帰りやすい。大体いつも原さん、市田くん、俺のローテーションで部長に声をかける。
「じゃ、お疲れさまでしたー」
そう明るく言って部署を出る。と、背中越しにようやく息を吐く気配がした。
さて、早めに帰れるのはいいことだが、家に帰ってもとくに何もすることがない。新しい冷蔵庫も買ったし、気晴らしに料理でもしてみようか。酒に合うつまみとか作ったら楽しそうだ。
前の家は、舞香と別れてからはキッチンが惣菜弁当殻で埋まり、かなり
そんなことを考えながら商店街を通り抜けていると、最寄りのバス停を通り過ぎてしまった。次のバス停まで歩く。そこに何人かが並んでおり、最後尾に並ぶ。隣は同年代の女性だった。
彼らと同じく俺はスマホを出し、さっそくネットで調理道具を調べた。
包丁、まな板、フライパン、これらも全部百円ショップで買えるのか。すごいな。ボウル、ザル、お玉、この辺も揃えたほうがいいのかな。
顔をしかめて考える。と、横にいた女性がトントンと肩を叩いてきた。バスがもう来たのかと思いきや違った。
「やっぱり、喜多屋くんだ」
彼女は意味ありげに言った。
長いストレートの髪をハーフアップにし、透明感のあるナチュラルメイクの女性。くるぶしまであるベージュのロングコートに身を包んでいる。
誰だ。会社の人だっけ? それとも取引先? すぐには思い出せない。でも、その中のどこにもこの顔がいないので、俺は怪訝に眉をひそめた。
「あれ? 喜多屋くん、だよね? 覚えてない? 私、
「はぁ、喜多屋ですけど……えっと、志熊……?」
仕事終わりのふわふわした頭をなんとか回転し、ようやく覚えのある顔にたどり着く。
「──あっ」
志熊野花は高校時代の同級生だ。
「いや、分かるわけないだろ。化粧してるから全然気づかなかった……て言うか、よく俺のこと覚えてたね」
「そりゃ覚えてるよ。唇折り曲げて、鼻の穴膨らませる独特な考え方するの、喜多屋くんしかいないし」
無意識に変顔を
どんどん思い出してきた。この志熊さんって人、他人の変な癖をよく観察してはいちいち指摘する。本人に悪気はなく、どうも無意識に発しているようなので、クラスでも彼女に対する好き嫌いが分かれていたような。俺はそんな彼女の誰にも
そんな思い出を振り返っていると、志熊さんも懐かしむようにニコニコと言った。
「変わらないねー。もう十年前くらいだっけ?」
「そういう志熊さんこそ、中身は変わらないね」
「えー? そんなことないよ。私だって、ちょっとは大人になったんだから」
彼女は不満げに唇をとがらせた。そういうところが憎めないんだよなぁ。それに、俺だと気づいて声をかけてくるところもすごい。当時、こんなに明るい子だったかな。言われてみれば、雰囲気が変わったような気がする。
「前は怒りっぽかったよね?」
思い出して言うと、彼女はケラケラ笑った。
「そりゃ、喜多屋くんがからかいにくるからじゃん。文化祭の出し物決める時とか、最後にわざわざ全員の前で『志熊さん、これでいい?』って訊いてくるの、あれ意味分かんなかったんだけど。私、別に中心人物ってわけじゃないのにさぁ。そっちで勝手に決めろって思ってたよ」
「だって、いつも話し合いに参加しないで携帯ばっか見てたから。全員参加のイベントなんだから、話しかけないとダメかなーって思ったんだよ」
「だからって、クラスのメインイベントの最終局面で私を使わないでよ」
ピシャリと言われるも、彼女は楽しげに笑っていた。つられて俺も笑う。なんだか高校時代にタイムスリップしたかのような錯覚にとらわれ、他に並ぶ人たちに構わず盛り上がった。
バスはすでに一本乗り過ごしていた。
「仕事、今なにしてんの?」
俺が訊く。
「本屋さん。隣市の
志熊さんはほのぼのと返した。対し、俺はわざとらしく後ずさる。
「うわっ、都会で働いてるんだ。すげぇ」
「えー、そうかなぁ? 割と下町風情ある地域だけどなぁ」
「いやでも、ここよりはかなり都会じゃん。すげぇな、志熊さん」
「喜多屋くんはどんな?」
「俺はこっちの会社で営業やってる」
「ふーん。確かにクラスのまとめ役、明るいリーダーって感じだったもんねぇ。営業やってるのかぁ。天職だねぇ」
「いやぁ……そうでもないよ」
志熊さんの感慨深そうな言い方を全力で否定した。天職だなんて思ったことは一度もない。でも、彼女にはそう見えていたのか。と、しみじみ感じた。
まぁ、確かに高校時代は確かにクラスを引っ張っていくタイプで、発言もかなり強めだった。が、そんなのは社会に出れば星の数ほどいるわけで、すぐに埋もれていくのだ。井の中の
しょっぱい思いを抱いていると、志熊さんは持ち前の図々しさで核心に触れてきた。
「結婚は? 彼女いるー? 高校の時、付き合ってた子いたよねー。さすがに別れちゃった?」
「……結婚も彼女も無縁だよ」
さすがに今の状況をここで披露するのはできなかった。心のストッパーが感情をせき止める。笑い方がぎこちなくなるも、志熊さんは気にすることなく続けた。
「あー、そうなんだ。私も今、全然そういうのなくてね。お互い、苦労しますなぁ」
「とか言って、志熊さんってあんまり彼氏とか結婚に興味なさそうだったような」
言われっぱなしは悔しいので、遠回しに突いてみる。と、彼女は頬を引きつらせた。
「え、うーん。あれ、知ってたの? あはは。マジかー。なんだ、ヲタバレしてるとは思わなかった」
「いや、そこまでは察してなかった」
俺は苦笑いした。
衝撃でもなんでもないが、彼女がオタクであることは知らなかったし、別に知らなくても良かったし、それとこれとは別問題だと思う。
すると、たちまち志熊さんはスンと表情を無にした。
うわ。この表情、むちゃくちゃ懐かしい。そうそう、こんな風に怒って、舌打ちするんだった。
「くそ、まさか誘導尋問されるとは思わなかった……うわぁぁ、最悪最悪最悪!」
「待って、そっちが勝手に吐いたんだろ! 俺は悪くない!」
すぐさま主張すると、志熊さんは腕を組んで両目をカッと開いた。
「今のは聞かなかったことにして」
「いや、無理です。もう聞いたし、別になんとも思わないし。いいじゃん、好きなものがあるって。すごいいいことだよ」
「やめろ! そういうの、全然フォローになってないから! 今すぐ、記憶を消せ!」
「んな無茶な」
大体、そっちからふっかけてきた話だ。何度でも言うが、俺は悪くない。それでも彼女は怒り、ジャケットをつかみかかる勢いだったので、俺はのけぞって小さくホールドアップした。
「ちなみに、何オタクなの?」
ついでに訊くと、彼女はわずかに考えながら言った。
「……二次元。それ以外に興味なし」
「なるほど」
頷きかけるも、どうにも解せない。二次元なんて括りでは幅が広すぎる。その界隈には詳しくないが、一般常識くらいは持ち合わせている。市田くんも二次元、好きだし。そう言えば、舞香もゲームのキャラが好きだったなぁ、と一瞬思い出した。
「話戻すけど」
志熊さんがぷりぷり怒りながら言うので、すぐに現実に引き戻される。
「彼女いないならさ、今週の金曜とか暇? どうせ暇でしょ?」
「え?」
思わぬ発言に目を丸くする。志熊さんはまだ表情をきつくさせていたが、徐々に落ち着きを取り戻していた。
「あ、仕事忙しいなら、無理にとは言わないけど」
「いや、暇……だけど」
迷いながら答える。
うーん、なんだろう。これ、もしかしてフラグってやつか。高校時代の同級生と偶然ばったり道端で出くわし、昔話に花を咲かせて、からの、お互いフリーであることを確認しあって、からの……? なくはないのか?
彼女の口が開くまでの数秒で、そこまでの考えに及ぶ。
志熊さんは少しだけ目を伏せ、スマホをチェックした。そして、何やら決めたように頷き、俺を上目遣いに見る。
「金曜の夜、仕事終わったら、ちょっと付き合ってほしいことがあるんだけど」
きた──フラグが立った! これは、もしかしなくてももしかする、のでは!
急激に甘酸っぱい何かが駆け巡り、俺は思春期さながらの動揺を浮かべた。
「うん……そうなんだ。えーっと、じゃあ、なんとか都合つけてみるよ……」
「ほんと!? 助かるー! ありがと!」
さっきまでの憤怒が嘘みたいに晴れやかになる。こうして、俺と志熊さんは高校時代よりもかなり打ち解けた。
が、彼女の言葉をきちんとよく考えれば、そう簡単に甘い展開へ転がるはずがないことは明らかだった。
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