へらへら遊んでいるだけというわけにもいかない。

 エヌが風呂へ入っている隙を使った。

 エヌがK社グループの金を横領して表のスーパーカーを買ったから、俺とエヌはまとめてあの会社から追い出されたんだぞと告白すると、

「あんた、エヌちゃんに何てことをさせたのっ!」

 居間で十円饅頭を食いながらお茶を飲んでいたお袋が泣き崩れた。

「俺は横領を指示してねェよ。あれはエヌが勝手にやらかしたんだ。さっきから何度もそう言っているだろうが!」

 昔から息子の言うことを全然、聞いてくれない母親だ。

 今も、そうだ。

 だから、このババアと顔を突き合わせて話をするのは嫌なんだよ。

 俺はくどくど横領事件の経緯を説明したのだけど、いかんせん、エヌは運転免許証を持っていないし、あのスーパーカーの名義は俺になっている。お袋は古い世代の人間なので、女の子があんな厳つい自動車を購入するわけがない、できるわけがないという固定観念もある。俺の親戚筋には刑務所で長年暮らしている連中が結構いるので、当然、この俺にも犯罪者の血が流れていてしかるべきだという勝手な思い込みもあるのだろう。俺のいうことを耳に入れる気配が全然無い。

「ああ、死んだ遠縁のおじさんに顔向けできない!」だとか、

「ああ、死んだお父さんが浮かばれない!」だとか、

「ああ、あんたのような畜生を腹を痛めてまで産んだ自分が情けない!」だとか、

 お袋は泣き喚きながら、クソのように辛気臭い恨み言を延々と聞かせた後、

「さっさとエヌちゃんと籍をいれな。あんたと私は、これから、エヌちゃんへ一生を捧げて償うんだよ!」

 そう厳しく告げた。

 俺は釈然としない気分のまま役所へ婚姻届けを出して、エヌと夫婦になった。改めて考えると、お役所の紙切れ一枚で済むことを愚図愚図と引き延ばしてきたから、ここまで面倒なことになったのだ。

 俺が全面的に悪いということで諦める。

 結婚式はやらなかった。俺もエヌも式に呼ぶ人間をほとんど持ち合わせていない。それでも、エヌは花嫁姿に憧れがあったと思う。

 女の子はたいていそうだよな。

「俺も俺の実家も結婚式をやる金の余裕は無い。それでも、籍を入れていいのか?」

 俺が訊いたとき、頷いたエヌの笑顔に、ほんの少しの陰があった。

 うん、せめて、生活の不自由だけはさせまいよ。

 決意した俺は、また営業職に絞って就職活動を開始した。

 ここからは前回と同じだ。

 俺のスマホへ面接した会社全部からお祈りメールが送られている。

 今回もK社グループが地元企業全般へ俺の悪評を撒き散らしているらしい。

 その確認をするため、例のK社グループの下請けに面接をしにいった。トカゲみたいな常務とチビで若作りしている営業部長が前回と同じ対応をして、俺を不愉快な気分にさせた。前回と違う点が一つある。俺はそこでナイフを振り回さなかった。

「うっへえ、やっぱり不採用ですか。さようでございますか。それは残念至極でございますねえ」

 俺はそんな嫌味を言って、すごすごと実家へ帰ってきた。今の俺には嫁がいる。お袋だっている。男は失って困るものを持った瞬間から、やけっぱちになれなくなるものだ。恰好がつかないし、ムカつくけど、これでいいのだ、我慢が男の人生そのものなのだと自分に言い聞かせておく。

 しかし、再就職をここまで執拗に邪魔されているのはヤバい状況だよな。

 あ、K社グループのライバル企業に当たってみるか?

 いや、あの横領の一件をたいていの先方が知っているとなると、どこへ顔を見せても門前払いだろ。横領の前科持ちを雇いたがる経営者はいないだろうし、俺が得意なのは経営のサポート業務だしで――。

 頭を悩ませているうち、お袋が先に就職してしまった。陰気で内気で行動力に乏しいお袋としては珍しいことだ。孫ができたら小遣いをくれてやりたい。そんな気分が、お袋の働く動機になっているらしい。自分の口でもそう言っていた。本当に年寄りは嫌なプレッシャーを若い連中にかけてくるものだよな。

 ともあれ、お袋は近所の農家が共同経営している物産販売所でパート勤務を始めた。これが悪くない働き口だったらしい。職場で同年代の友人ができると、お袋は前よりも元気になって、親父が死んでからずっと放ってあった裏の畑の手入れまで始めた。暇にしているエヌも畑仕事を手伝った。嫁姑の癖にお袋とエヌは仲がいい。エヌは継母と仲が悪いらしい。比較対象の評価が低いので、その分、俺のお袋が良く思えるのかも知れないね。

 こんな生活をしているうちに、俺は再就職できないまま、奇跡の虹の力で時間旅行をした直前まで戻ってきた。

 前回はエイチから電話連絡があった夏の夜だ。

 俺は実家の下級こどおじ部屋で前回と同じように発泡酒を飲んだくれている。前回と違うのは、酒のつまみに揚げ茄子と麻婆茄子と茄子の胡麻和えと、茄子とキュウリのぬか漬けがあることだ。裏の畑で茄子が採れるときは茄子ばかり、キュウリが採れるときはキュウリばかりが食卓を占領する。ここ一年間、俺は裏の畑で採れる野菜ばかりを食べている。エヌやお袋が言うには、これ以上なく健康的な食生活らしいけど、俺の体重は不健康を警戒するくらい減ったぞ。夏に入ってから、茄子とキュウリを見るのも嫌になった。

「ごはん、できたよー」

 がらがら、どーん、だ。

 お盆を持ったエヌが足で引き戸を開けて入ってきた。貧乏生活に慣れた弊害だと思う。最近のエヌは日常の所作が乱暴になった。

「今夜の夕めしはパスタか」

 俺はテレビの前のテーブルに置かれたパスタの皿を見やった。

「うん、そうだよー」

 エヌは床に横座りをした。

「茄子のパスタね。どうして、そこまで執拗に茄子を投入するの。この調子だと俺の肌が紫色になっちゃうだろ」

 無職の身分は横着をし放題だ。俺はベッドから小さなテーブルまでごろんごろんと移動した。今夜もお袋は友人のおばちゃんどもと外食だ。お袋は茄子の食地獄に根を上げた。自分が率先して栽培している癖に卑怯な所業だよな。

「茄子、裏の畑でたくさん採れるから。パプリカだって入ってるよ。パプリカもたくさん採れるの。このパスタに使ったケチャップも裏の畑のトマトで作ったんだよ。ケチャップにしないと食べきれないもん」

「パプリカもトマトも茄子の仲間だ。トマトは茄子科の茄子属で、パプリカは茄子科のトウガラシ属。つまり、お前のパスタは、少しのベーコンと茄子の一族しか入ってないってことになる」

「そうだったの?」

 エヌは目を丸くして自分が作ってきたパスタを見つめた。

「まあ、いいや。無職の俺は、裏の畑でにょきにょきしている無料タダ同然の茄子どもへ文句を言えないよな――」

 俺はペッパーソースと粉チーズを茄子のパスタへぶちまけた。

 食い飽きた食材でも極端に辛くすれば何とか食えるだろというのが俺の持論だ。

 ビールがあれば尚よろしいし、それもある。

 まあ、ビールじゃなくて安物の発泡酒だね。

「おかしいよね?」

 エヌがペッパーソースで食を虐待する俺へ両目を細くして見せた。

「辛いのを入れ過ぎか? 毎回、言われるよな。俺は辛いのが好きなんだよ。誰に迷惑を掛けているわけでもないんだから、放っておいてくれ」

「ペッパーソースもそうだけど、エスの新しい仕事がこんなにも長い間、見つからないのはおかしいよ。お爺ちゃんの会社では真面目にやってたし、業績だって良かったのに。それに、今の日本はどの業種も人手不足だっていうよね」

「それなー。今回も裏で俺の悪い噂を流されているみたいで、参ったなあ――」

 俺は発泡酒を飲みながらパスタを食った。

 エヌの料理は、いつだっておいしい。

 俺は俺の嫁が大好きだし、俺の嫁が作る料理だって大好きだ。

 茄子はマジで飽きたけど。

「今回も? エスの悪い噂って?」

 エヌはパスタをちゅるちゅるやりながら俺へ目を向けた。

「ま、聞き流せ。ひとの噂も七十五日って言うだろ。そのうち何とかなるよ」

 本当のところ、七十五日どころか一年経過しても俺の悪評は消える気配が無い。

 中途採用で営業をやるつもりなら、就職を希望する会社へK社グループで得た人脈を――金づるを手土産に持っていかないと話にならない。でも、この様子だと俺の過去にあった人脈もK社グループの裏工作で断ち切られているだろう。再就職活動に関して言えば、今回も俺は八方塞がりだった。

 しばらくの間、カエルの合唱と、テレビの音声が聞こえるだけの時間が続いた。

 田舎の夏の夜は、それ以外の音がしなかった。

「――エスに頼み事をしてもいい?」

 エヌは呟くように言った。

「金以外のことなら、どんなわがままだって聞いてやる」

 家計はまとめて俺のお袋に管理させている。あれは俺よりケチな性格なので手持ちが心許ない今は頼りになる。実家の家主はお袋だし、収入があるのはお袋だけだしな。エヌは相も変わらず他者視線恐怖症が治っていない。外へ働きに出るのは難しい。うちの嫁さんは、ものすごい仕事の才能を持っているけど、お金様を鼻紙同様のものだと考えているから、入用なら会社から躊躇せずに金を抜く。俺の目が届かないところで仕事をさせると危険だと思う。

 そんな理由で、エヌもずっと無職でいる。

 そもそも、俺はエヌを無理に働かせたくないのだ。

 これは、お袋も同じ意見だった。

 他人の視線を怖がるエヌが働きに出たら、また辛い思いをするだろ。

 それなら、働かなくていいよ。

 エヌはエヌでいるだけで、エヌとして生きているだけで、致命的な価値がある。

 俺にとって、エヌはそんな女性だ。

 実際、エヌは俺の命を二度も救ってくれた。

 そのエヌが、

「エス、わたしのパパと会ってくれる?」

「え?」

 俺はエヌを見つめた。

 エヌは無表情で俺を見つめ返している。

「パパってエヌの親父さん? K社グループの副社長の? 俺を殺す勢いで憎んでいる、あのパパのことか?」

 俺が訊くと、エヌは無言で頷いた。

 舌を噛んだエヌの頭を抱え、俺を睨む副社長のもの凄い形相が、今でもはっきりと思い浮かぶ。

 もちろん、俺はエヌの父親と顔を合わせることに気乗りがしない。それでも、三十路を二つも超えて無職の旦那に文句や嫌味を一つだって言うこと無く、毎日毎日めしまで食わせてくれる可愛い嫁さんの頼み事は断れない。ここらでケジメをつけておかないといけないことでもあると思う。

「わかった。例え殺す勢いで恨まれていても、相手はエヌの実の父親だ。籍を入れた報告をしておかないとな。じゃあ、今週末にでも、二人でエヌの実家へ行くか?」

「行かなくていいよ。パパにこっちのお家へ来させるから」

「でも、こういう場合は、俺のほうから先方の実家へ顔を見せるのがスジじゃないの?」

「パパをこっちのお家へ来させればいいの。お爺ちゃんの会社のお金を黙って使ったのは、わたしだもん。わたしの話を聞かずに、エスが横領したことにしたのは、パパなんだよ。向こうから頭を下げに来るのがスジだよね?」

「あ、うーん、エヌからすると、パパが全部、悪いのか――?」

 どう考えても、あの横領事件の元凶はK社グループから、その手で金をぶっこ抜いたエヌ本人だから、エヌが頭を下げるべきだと思うけど、まあ、女は多かれ少なかれ、この手の一筋縄ではいかない性格を持っている生き物だよな。法廷で他の誰も文句をつけられない判決が被告人の自分へ下っても、理由も根拠も無く、永遠に自分は正義だと確信し続ける頑なさがある。そんな感じの――。

「絶対、パパが悪いんだから。パパはわたしがエスの車を買うちょっと前、向こうのお家から持ってきたクレジットカード、全部止めたんだよ。使いすぎだって。お前はエスに騙されているんだろって。家へ戻ってくるまで、もうカードは使わせないぞって。これって、ひどくない? お家のクレジットカードが使えなくなったら、わたし、お爺ちゃんの会社のお金を使うしかないじゃない!」

 エヌはぷんすか怒っている。

「ああ、うん。そこらの細かい話は今まで知らなかった。お前のお家が契約している金満家庭向けのクレジットカードは、あのスーパーカーをあっさり買えるような年間利用限度額だったんだな。そんな狂った設定のクレカがこの世界には存在するのか。俺はいろいろと信じられねェよ――それはそうと、お前のパパを俺の実家へ来させると言ってもだぜ。パパはエヌの言うことを素直に聞いてくれる男なの?」

「わたしの言うことは全然、聞いてくれない。昔からそう」

 エヌは瞳を伏せた。

「あの性格だと、誰が相手でも、そんな感じなんだろうな――ああ、エヌも、ちょっと飲むか?」

 俺は新しく開けた発泡酒の半分をエヌに飲ませた。

 食い飽きた食材の、それでも不味くはない夕飯を安酒で腹へ流し込んでいる間、いつ実家の電話の呼び出し音が鳴るのかと待ち構えていたのだけど、結局、エイチからの連絡は無かった。

 便りが無いのは元気な証拠とか何とかだ。

 たぶん、今回の奴ら二人も前回より幸せに生きているのだろう。

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