後編

 曲がりくねった山の道を二十分走って、田舎とも街中とも断言できないような街道を十分くらい走った。この周辺一体は台地になっている。その赤土の地面はほとんどが、お茶だの、大根だの、じゃがいもだのの畑だ。俺たち三人が眺めているのは茶畑の間にぽつんとある小さな和菓子屋だった。正面にある駐車場は車三台分のスペースしかない。店の名前が入ったバンが一台止まっていた。その横にエイチの親父の車がある。俺たちの他に客は一人もいないということだ。

「十円まんじゅう、って――」

 店の正面に掲げられた看板を読み上げたエイチは無表情だった。こいつは友人や知人、もしくはナンパした女の子と外食するのが大好きな奴だけど、好きなのは、あくまで『える』店でやる外食に限っている。

「エスおすすめの店って渋すぎ」

 エムのほうは、俺を褒めているのだか呆れているのだか、よくわからない態度だった。

「昔から饅頭一個十円で、今でもその値段の筈だぞ。看板にだって、そう書いてあるしな。何だ、お前ら、貧乏人の癖に貧乏人向けの喫茶店を知らねェのか?」

 俺は毒づきながら背を丸めて看板の下を潜った。相当に年季の入った店構えだ。背を丸めて入店しないと、玄関口のランマ(※戸の上の光を取り入れる枠)に頭がぶつかる。

「ここいらを車で通りかかったとき、この店の看板を見たことくらいはあるような気がするよね」

「おれは知らなかったあ」

 エイチとエムが俺の後ろで言った。

「基本、お持ち帰り専門店なんだ。でも、なかにちょっとだけ客席があるから、お茶もできる。常連客用の小さなスペースなんだけど――おばさん、今から、お茶できますか。見るからに怪しい野郎三人組だけど、危害は加えないと思いますよ。俺らは派手な悪さができるほど頭がよくありませんし、根性だって雀の涙ほどのものですから――」

 扇風機の前で丸椅子に座って、ぽけえっとしていた店のおばさんへ声を掛けると、

「――もしかして、エスちゃん?」

「あ、覚えていてくれたんだ」

「あらまあ、こんなに大きくなってえ!」

「エス、この店のおばさんと知り合いなの? かなり、美人じゃん? もうヤったの?」

 エイチが俺の耳元でこそこそ訊いた。十円饅頭屋のおばさんの容姿は、エイチから見ると今でも美人、俺から見ると昔は美人になるらしい。エイチは「女子高生が、女子高生を、女子高生ィエーイ!」と何かにつけて口走るクソのように軽薄なパリピ野郎だけど、それは周辺へ恰好をつけて見せているだけで、ほんとうのところ、年増女が好みなのだろうか。俺はこいつと馬鹿話を熱心にすることはあっても、恋愛の話なんぞは一度もしたことがないから、そこらはよくわからないな。

「そんなんじゃねェ。ここいらに俺のお袋の実家がある。この店には子供ガキの頃、俺の爺さんに連れられて通った。その爺さんも大分前に死んだ――いや、死んだというか、認知症ボケを拗らせて失踪したんだけどな。もう何年も前の話だから、山の中あたりで野垂れ死んだってことでいいだろ。とにかく、爺さんが失踪してから、十年近く顔を見せていなかったんだけど、よく俺の顔を覚えているものだよ」

 俺はエイチへもそもそと返答した後で、

「おばさん、まだまだ若く見えるね」

「あらやだ、もう、このコったら、お世辞まで言うようになって!」

 おばさんは飛び上がるように笑った。

「まあ、その――いや、俺なんかは無駄に身体が大きくなっただけですから――」

 俺は落ち着かない気分になって頭へ手をやった。

「ほらほら、突っ立ってないで座って。若い男の子が揃ってウチみたいな寂れた店に来てくれるなんて嬉しいね。すぐ、お茶を出すからね――!」

 おばさんは着席を急かしながら店の奥へ引っ込んだ。その隙に、エイチは車へすっ飛んで戻って、自分のバッグを持ってきた。バッグから取り出した黒ぶちの眼鏡を装着し、手鏡を見て髪型を整え、モニタの裏に林檎のマークがついたノートPCを引っ張り出してテーブルに置き、姿勢を正して着席。これで意識高い系のエイチが完成する。あくまで意識高い『系』だ。こいつの意識は俺が出会ったときから低空飛行も低空飛行の下衆ゲスそのものだし、浪人生だから経歴だって空っぽだ。空っぽなのだけど、エイチは勉強ができそうなポーズだとか、仕事ができそうなポーズだとか、その手の姿勢を演出することにも、バイトの賃金を投資している。その投資の成果を他人の前で――特に女の子の前で率先して見せたがりもする。でも、俺にはエルヴィス・コステロ(※イギリスのポップ・ミュージシャン。冴えないビジネスマンのような容姿が特徴)みたいなダサい伊達眼鏡をつけて、高額なノートPCを前に取り繕った態度を見せるエイチが、ペットショップで趣味の悪い飼い主のリクエスト通り毛を刈られ、マヌケな恰好で打ち震える哀れなトイプードルのようにしか見えなかった。

 そんなエイチを同じ席についたエムは羨望の眼差しで見つめている――。


「――うーん、おいしいですよ。おばさん、これが一個十円だなんて信じられない!」

 笑顔で十円饅頭を褒めちぎるエイチへ、おばさんは微笑んで「好きなだけ食べていってね」と返した。

「はぐっ、はぐうっ!」

 エムは十円饅頭をものすごい勢いで食っているから喋れない。二人とも男の癖に甘いものが大好きだ。だから、俺はこの店へ連れてきた。

「酒と煙草をやり始める年齢になると、甘味から自然と遠ざかる。それでも、まだ旨い。皮はもちもちっとしていて、味噌の香りがほんのりして、こしあんの甘さはごくごく控えめ――昔と変わらない味だ。子供の頃、腹を壊すまで食べて、お袋に何度も叱られたっけ――」

 俺は舌の奥に残った甘さを冷たい緑茶で流した。

「エスちゃんは、舌まで大人になっちゃって――やだあ、ちょっと見ないうちに、こんないい男に――んもぉうっ!」

 おばさんが俺の真横でくねくねした。俺の肘にお尻が当たってる。おばさんは若い頃、近所で有名な看板娘だったのかも知れないね。いや、看板若奥様だったのか。ともあれ、おばさんの左手の薬指に結婚指輪がついている。俺に間男を率先してやる趣味はないから、それ以上の感想も興味も無い。ノートPCのモニターの上から、目を丸くして俺を凝視しつつ、小刻みに震えているエイチのほうは、どうだか知らんがな――。

「――おばさん、ここは好きに煙草を吸っていいお店なの?」

 俺が煙草の箱を片手に訊くと、

「かまやしないよ。灰皿、テーブルにあるでしょ」

 手のピッチャーが空になっているのに気づいたおばさんは、笑いながら店の奥へ姿を消した。お茶は無料でいくらでも出てくる。エアコンは無いし、開け放しの引き戸から見える軒下の風鈴が鳴る気配も無いような店内だけど、水出ししたものを、さらに冷蔵庫で冷やした緑茶を飲んでいると暑さを感じない。ただ、この調子だと胃がガボガボになりそうだ。

 俺は煙草をくわえて訊いた。

「それで、エイチはインスタ映えするブツとやらをゲットできたのか?」

「エス、それがさあぁ――」

 スマホからノートPCへ画像データを移していたエイチが、俺へ睨むような視線を返した。

「ん?」

 俺は煙草に火を点けながら促した。

「撮った画像、全部、駄目だったんだよ。あの門は逆光が強すぎて――くっあー、撮影場所が近すぎたか。くそっ、これは、やらかしたあっ!」

 頭を抱えて仰け反ったエイチが、

「――で、エムのスマホはどうなの?」

「ごめん、ごめんな、エイチ。おれ、怖くて怖くて――何もしてない――」

 エムは自分のスマホへしょぼんと目を落としている。

「あのさあ、エム。お前って奴はいつもいつもさあっ!」

「ごめんんん――」

「命懸けで骨折り損か。マジでマヌケな奴らだよな――」

 エイチは怒って、エムはしょげ返って、俺は笑った。

「しかし、本当に何だったんだろうな、あの門――何の施設の廃墟だったんだ――?」

 キーボードをぱかぱかやっているエイチはインターネットで廃墟の情報を検索中のようだ。

「検索しても無駄だと思うぜ。俺だって事前にネットで調べてきたんだ。でも、関係する情報は一つも出てこなかった」

 俺は店の表を眺めていた。茶畑の向こうに小さな公園があって、近所の子供が遊んでいる。小学生くらいだろうか。みんな男の子だった。

「エス、エイチ! ググールマップに、あの森があるよ。ほら、ほら――!」

 エムが自分のスマホを突き出したけど、

「それも事前に調査済み。敷地全体が森に覆われている。航空写真でも廃墟の全貌が把握できない。違うか?」

 俺はその画面を見ずに言った。

「エスって本当に何でも知っているよな――」

 エムは自分のスマホにまた目を落とした。

「――駄目だ。ネットからは何も出てこない。こうなると、マジでミステリーなミステリースポットだわ」

 額に手をやったエイチも収穫が無かったようだ。

 俺は煙草を半分、灰にした後、

「――うん。文明の利器ってやつは肝心なときアテにならん。ここは昔ながらの手段を使う」

「エス、どうすんの?」

「どうする?」

 エイチがエムが俺を見つめた。

 二人とも好奇心で瞳が光っている。

「大したことじゃない。現場の近くで聞き込みをするだけだ――ねえ、おばさん。ちょっと、質問をしていい?」

「なんだい、エスちゃん!」

 おばさんが冷たい緑茶のピッチャーと一緒に勢いよく戻ってきた。

「ここから北にいった山のなかにさ、変な門があるんだけど、おばさんはあれが何か知ってる?」

「変な門ねえ?」

「えっと、山腹の県道から脇に入って、砂利道をしばらく進むと、森に囲まれた大きな門があるんだ。門のなかは大仏が両脇にずらっと並んでいて、そうだな――全体の敷地は地方にある遊園地くらいの広さがあると思う。そんな場所、おばさんは心当たりがない?」

 視線を上に向けて、しばらく考えていたおばさんが、

「――あ! それ、大メサイア救世教が作っていた建物のことかねえ」

「大メサイア救世教って――」

 俺は苦笑した。メサイアは英語で救世主の意味。その後に救世と続けると、言葉の意味がダブつく。こんないい加減な名称がついた組織は間違いなく新興のインチキ宗教団体だろう。

「エス、知ってるか?」

 エイチが訊いた。

「エイチ、ここで文明の利器の出番だ」

 俺が促すと、エイチは頷いて、キーボードを弾いた。

「おぉ、一発でヒット。大メサイア救世教。一九八〇年代、S県H市西部に本部を置いていた新興宗教団体。大救世主を名乗る教祖の永徳真源えいとくしんげん(本名、徳田信二)が霊感商法のトラブルに起因する殺人容疑で逮捕されたことがきっかけで解散した――起訴された教祖は最高裁判所まで争ったけど、結局、死刑判決が出て、もう、この世にはいないってさ。当時は大事件だったみたいだわ。三十年以上も前――俺らが生まれる前の話だ。これは、さすがに、エスでも知らないよなあ」

「なるほど。あの廃墟はバブル経済絶頂期に作られた――いや、あの様子だと建設中だった新興宗教の施設か。それなら、ただっぴろい敷地や、大仏の列も納得できる。あの時代は銀行から土地開発関係へ、金が駄々洩れしていたらしいからな」

「あんたら、あんな危ない場所へ行ってきたの!」

 おばさんの声が大きくなった。

「はい、おばさん。映える場所だって、このエスから聞いて、ボクたちは散々な目にですね――」

 ニコニコぺらぺらやるエイチを、

「――いや、おばさん。俺たちは道に迷ったんだ」

 俺はしかめ面で遮った。

「エスちゃんらは運がよかったね、無事に帰ってこれて――」

 おばさんは視線を落として押し黙った。饅頭の皿にのびていたエイチとエムの手がぴたりと止まる。俺は煙草の火を灰皿の底へ押し付けた。何十人前分の吸い殻が収まりそうな陶器製の大きな灰皿だ。底に先客の吸い殻が何個かミイラのように横たわっている。その間、エイチとエムは俺を見つめていた。

 二人は俺を聞き込み役として指名しているよな――。

「――おばさん。あの廃墟は、そんなに危険な場所だったのか?」

 俺の質問は硬い声で、

「あそこらは猪がよく出るからねえ」

 おばさんの答えは溜息を吐くような調子だった。

「猪って――!」

「ぶ、ふふっ――!」

 エイチもエムも口から饅頭を噴き出しそうになった。俺も笑っているけど、おばさんの言うことに間違いはない。実際、田舎に暮らしていると、山間で作業をしていたひとが興奮した猪に襲われて怪我をしたというローカルニュースを耳にすることが、毎年のようにあるのだ。

「ふーん、やっぱり、あんたら、見に行ってきたんだね」

 おばさんは呆れた様子で目を細くした。

「いや、おばさん、俺たちはあくまで、あの廃墟に迷い込んだんだよ」

 俺は何とか誤魔化そうと粘ってみたけど、

「はぁーあ、物好きな連中だよね。エスちゃん、本当によくないよ。猪が出なくても、あそこは工事の最中におっぽりだされた場所なんだからね。いつ道が崩れても、おかしくないんだよ。めっ!」

 やっぱり、おばさんに叱られた。確かに、今日の一件の言い出しっぺはこの俺だ。責任者として叱責されても文句を言えない。

「はあ、すんません――」

「あれ? そう言えば、何年か前にも一度、テレビ局のひとが、あの拝み屋の建物があった場所を、ウチに寄って訊いていったことがあったよねえ――?」

 おばさんは人差し指を顎の下に当てて天井を眺めている。

「テレビ局の取材クルーって――何だよ、エス?」

 エイチが溜息を真上へ漏らすと奴の長い前髪が揺れた。

「何だよ、エイチ?」

 俺が嫌々の気分で促すと、

「こうなると、あの廃墟は未知のミステリースポットでもなんでもなくね?」

「もう有名な場所なんじゃね?」

 案の定、エイチとエムは揃って俺を非難する態度だ。

「俺は何でもは知らんって、しつこく言ってるだろ――それで、おばさん。取材にきたのはどこのテレビ局だった?」

「さてねえ。どこのテレビ局だったかしらあ。おばさん、うちの店へ取材にきたのかと思ってね。それで、ぬか喜びしちゃってさ。大恥をかいたんだよ」

「それってテレビで放映されたの?」

「んん?」

 おばさんは腰を曲げて俺の顔を覗き込んだ。思い出したように、りんりんと軒先の風鈴が鳴った。俺は鼻毛でも長く飛び出ているのかなあ。そんな心配になるほどの間があった後だ。

「ちょっと、あんた、あんたあっ!」

 おばさんがくるっと背を向けて声を張り上げた。

「――あんだよ、おまえは、うるせえなあ――お、そこにいる若いの、ひょっとすると、エスちゃんなのけ?」

 女房に呼ばれて店の奥から出てきたのは、角刈りの頭にねじり鉢巻きを巻いて、タンクトップにステテコ姿の親父さんだった。昭和の初期からタイムスリップしてきたような、親父らしい親父を極めたファッションスタイルだ。エイチとエムは「おおう、この本格的なレトロ感!」そんな感嘆の声まで漏らした。

「おじさんも、よく覚えているね――はい、俺は、そのエスです。ご無沙汰しております」

 俺は座ったまま頭を下げた。

「おうおう、ほんとに、あのエスちゃんなのけ。なっつかしいなあ――立派な男衆おとこしゅうになっちまって、まあ――」

 おじさんは目尻が裂けそうなほど目を見開いている。

「ねえ、あんた、あんたは覚えてる? 何年か前、テレビ局のひとがウチへ寄ってさ――」 

 おばさんがおじさんに尋ねたことは、ここまでの話の流れ通りの内容だった。おじさんもテレビ局の取材クルーが店へ来たことを覚えていた。だけど、テレビで例の廃墟の番組が放映されたのは記憶に無いという。それを聞いても、おばさんのほうは「あんたは昼間からテレビの前で寝っ転がって酒を飲んでいるのだから、絶対に、あの廃墟の番組を見ている筈なのだ!」そんなことを何度も何度も主張した。

 お互いの声がだんだん大きくなっていく遣り取りの後、

「――だから、おまえ、俺はそんな番組もニュースも知らねえって何度も言ってるだろ。ババアになると話がしつこくてなって、本当に参るよなあっ!」

 おじさんは真っ赤な顔で吠えて背を向けた。床板を踏み鳴らす不機嫌な足音から推測すると、元いた居間へ戻って焼酎を呷っているのだろう。こういう昔ながらのお店の職人は、夜明け前に仕事を初め、昼過ぎからだらだら酒を飲み、夕方に店を閉めて、すぐ寝る生活をしていることが多い。実際、おじさんが登場したときから焼酎の匂いが俺の鼻へ届いてもいた。

「ごめんねえ、お客様の前で。失礼な旦那でしょう?」

 おばさんは俺たちへ苦笑いを向けた。何を言っていいのかわからなかった俺たちは、三人揃って愛想笑いで返すしかない。

「おう、エスちゃん、そのツレも、ゆっくりしてけようっ!」

 おじさんの怒鳴り声が店の奥から飛んできた。言い忘れていたらしい。女房にとってはちょっと失礼な旦那なのかも知れないけど、悪いひとではなさそうだ。

 お茶を終えた俺たちは饅頭しか並んでいないショーケースを眺めた。

「お袋と、ばあちゃんの分で二箱、買って帰ろうかな。親父の分は――いらないよな。あいつが甘いもの食べているところ、一度も見たことないわ――」

 俺の横でエイチが呟いた。付き合いが長いから、それとなく知っている。エイチの家庭環境は、かなり前からぶっ壊れていて、親父さんが何日も家に帰ってこなかったり、逆にお袋さんが何日も家に帰ってこなかったりと、外から見ている限りそんな感じだった。最近になって、エイチの両親は正式に離婚したらしい。エイチはそれ以上、突っ込んだ話をしなかった。俺もそれ以上を訊かなかった。俺もこいつらも真面目な――それぞれの目の前にある現実そのままの話題を避けがちだ。俺たちの現実なんて話のネタにしても塩っ辛い上につまらねェだろ。

 つまり、まあ、そういうこと。

 俺もお袋と親父への手土産に一箱買った。

 金の無いエムが泣きそうな顔をしていたので、

「お前に買ってやるわけじゃねェからな。浪人生のお前が苦労をかけている、お前のお袋さんへの手土産だぞ」

 俺が奢ってやった。二十個入りの箱でも二百二十円だ。下手をすると、俺が今日こいつに向かって投げ捨てた煙草代より安いかも知れない。


 帰り道を走る車のなかだ。

 運転席でエイチが言った。

「以前、あの廃墟へ、どこかのテレビ局の取材クルーが行ったのは、間違いないみたいだったよな」

「そうらしいな」

「でも、取材した内容が放映されなかったってことはさあ――?」

「一つ目。放映されたけど、十円饅頭屋のおじさんもおばさんも揃って見過ごした」

「あん?」

 エイチはむっと横目で助手席の俺へ視線を送ってきた。納得していない態度だ。当然の反応だろう。インターネットという怪物のような情報インフラが出現した瞬間から、テレビ局の存在意義は薄れる一方になった。それでも、取材した内容が公共の電波に乗ったのなら、あの廃墟の情報の断片くらいは、ネットにアップされていてしかるべきだと思う。俺が見る限り、テレビの電波は、まだそのていどの影響力が残っているし、あの廃墟は集客用コンテンツとしてのインパクトが十二分にあった。

「二つ目。上役の意向で――気まぐれで放映にストップがかかった。もしくは、取材してきた内容を使う予定だった番組が企画倒れに終わった。話に聞く限りだけど、出版社だとか、テレビ屋だとか――大雑把に、マスコミ業界では掃いて捨てるほどある事例らしい。乱暴にまとめると、取材クルーが持って帰った廃墟のデータは何らかの事情でお蔵入りになったんだ」

 車が赤信号に引っかかって止まった。

「うん。エスのことだから、当然、三つ目もあるよな?」

 エイチは俺へ顔を向けた。

「――この三つ目は、あくまで俺の推測だぜ。テレビ局の取材は俺たちがやってきたような遊びじゃない。あくまで仕事だ。それも、ほとんどは下請けがやる汚れ仕事だ。発注元の要求に応えることができない下請けは即刻、お払い箱になる。アルバイトだって使えなきゃすぐクビになるだろ。それと理屈は同じだよな」

「うん」

 エイチが頷いて話を促した。

「仕事をしている大人ってのは、ヤバい状況だと頭で理解していても、後に退けないことが多い。日本人は特別、その傾向が強いと思う。でなきゃ、工事現場や工場での事故死だとか、過労死だとか、仕事の責任に追い詰められて自殺だとかは、ほとんど無くなる筈だろ。だから、テレビ局の取材クルーは、あの門の向こう側にまで足を踏み入れて――」

 俺はそこまで言って沈黙した。もったいをつけたわけじゃない。ここから先は、あの門の向こう側へ行った奴にしかわからない。

「エス、取材クルーは、どうなった?」

 あんなに真剣な表情のエイチを見るのは初めてだった。

「――エイチ、俺は何でもは知らんよ」

 俺は顎をしゃくって、

「信号、青だぜ」

「もむう。エスは、やっぱり、頭いいなぁもむぅ――」

 後部座席のエムがもごもごと言った。

 何か食いながら喋ってる。

 俺は目を向けて、エイチはルームミラーで確認して、

「エム、マジで、お前って奴はさあ」

「エム、マジで、お前って奴はさあ」

 まったく同じことを、まったく同じような呆れ顔で言った。

 エムは自分が手土産にする予定だった十円饅頭を食い散らかしている。

 結局、あの夏にやった俺たち三人の短い冒険は、いつものように笑い話みたいなオチがついてしまった。


(エイチの章 終)

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