エイチの章

前編

「おい、エス。この砂利道は本当に先があるのか?」

 運転席のエイチが訊いた。

「あるよ」

 助手席の俺は、エイチの笑顔がひきつっているのを見て笑った。俺たちが乗っているのは、エイチの親父の車で3ナンバーの黒いセダンだ。型落ちになっている今では、さほどの価値もないのだろうけど、売り出された当初は高級車の部類だったらしい。跳ねた砂利が車の下に当たって、ガコンガコン音を鳴らしている。

「――んげっぷ。わあ、ここいらは全部、ハゲ山だ」

 後部座席にいるエムが、もごもご声を上げた。

 飲み食いしながら喋ってる。

「ぐあー、これって、雨が降ったら崩れるんじゃ――」

 エイチが言った通りだ。山間を縫う県道から脇に入った砂利道は、右の見上げるような崖もハゲ山で、左の崖下までハゲ山だった。普通車がすれ違うのも難しいような道幅で、ガードレールなんぞ当然のように無い。

「俺が一週間前、この道に原チャリで迷い込んだときは途中で雨が降ってきた。崖が崩れてきたら死ぬよなあとか思いながら、必死にアクセルを開けて、この砂利道を突っ切ったよ」

 俺は、また笑った。

「原チャリでこの砂利道をって、こっわ――でも、何の目的で、こんな山奥を切り崩してたんだろ。今は工事をやっていないみたいだけどさ――」

 エイチの視線の先は崖の下で、そこにパワーショベルがあった。ボディに錆が浮いているのが遠目でもわかる。何年もその場所に放置されているようだ。

 俺は呟いた。

「砂利でも取ってたのかな」

「エス、俺は昔から不思議なんだけど、訊いていい?」

「何?」

「砂利なんか取ってどうすんの?」

「エイチは、そんなことも知らんの?」

「知らんから訊いてる」

「コンクリの材料にする。骨材っていう部材だ」

「へえ、で、ここいらは、何で砂利取るのやめちゃったわけよ?」

「業者が無許可で工事をやっていて、役所のストップがかかったとかだろ。それか、業者が工事の最中に倒産して現場をおっぽりだした。砂利取りやるのはたいていは資金繰りが厳しい零細企業なんだよ。仕事をやっている最中、会社ごとドロンと消えちまうことが結構あるらしい」

「エスって何でも知ってるよなあ」

 エムが後ろから口を挟んだ。

 俺は後部座席へ目を向けて、

「俺は何でもは知らんよ。それに今のは適当な話だ。ところで、おい、エムがまた後ろの席でポテチぼろぼろこぼしてる。この年齢になって、まだものをこぼさないように食えないのかよ、こいつは――」

「うへへへえ――」

 エムがへらへらすると、また口の端からポテチの欠片が落ちた。

「あのさ、エムさ、これって俺の親父の車なんだけどさあ――こいつ、ポテチのクズと一緒に捨てて帰ろう。同じゴミだから捨てても文句は無いよな」

 エイチがルームミラーにしかめ面を映して見せた。

「ごめん、ごめんん、ゴミでごみん! それでも、こんな山奥に捨てないでくれえ、きっと、環境汚染になるからあ!」

 エムがへらへら叫んだ。

 俺も笑いながら、

「お前はゴミの上に環境汚染物質なのか。これは救いようがない産廃野郎だな――おい、エイチ、俺はもう我慢がならん。煙草、吸うぜ」

「親父も運転席でバカスカ吸うから、親父は文句を言わないだろうけど、俺は生涯、嫌煙家を誓ってる。高い金を出して煙草を吸ってな、身体を壊す奴だとかな、口を臭くする奴とかはな、どうやっても救いようのないアホだと確信しているんだわ」

 淡々と告げるエイチを無視して、

「他人の主義イズムなんて、俺の知ったことかって話でな――」

 俺はオイルライターで煙草に火を点けた。

「煙いよ、もぉうっ!」

 エイチの悲鳴だ。

「窓を開けてやるから我慢をしろ。例の廃墟があるのは、この坂を下った先にある森のなかだ。いよいよ見えてきたぞ」

「ああ、坂の下は木がもっこり残っているな――それで、エスが見つけたミステリースポットは本当にインスタ映えするの? 女子高生JK受けする?」

「する。間違いない。もっと喜べ。俺たちは今から新たなミステリースポット誕生の瞬間に立ち会うんだ」

「そんなにすごい場所なら、動画でTubeツべにアップしたら。バズると広告費サブスク、たくさんもらえるらしいよお」

 コーラのペットボトルを片手にエムの提案だ。

「んっ! そうしたほうがいいか?」

 ぱっと強欲な笑顔になったエイチは乗り気のようだけど、

「俺は顔を見せ反対派」

 俺は反対だ。

「声も勘弁な。恥ずかしいし、下手に再生数を稼いだら、リアルでおかしなのに絡まれるかも知れんだろ。俺の気分を差し引いても動画はやめておけ。動画でアップすると前もって下調べをしていたのが丸わかりだ。エイチのインスタに画像を上げるだけなら、たぶん、問題無い。だが、場所は明記するな。今から行く廃墟が私有地にあった場合、後々、厄介なことになりかねない。『道に迷ったら、偶然、ホラーなパワースポットを見つけちゃいました』と、あくまでそんな流れにしておく。そうしておけば、トラブルになり辛いだろ。難癖をつけられたところで、私有地であることを出入口に明記しておかなかった所有者、もしくは、行政に非があると開き直ればいい」

「――やっぱ、エスは頭がいいわ」

 エイチは独り言のように言った。

「こんなの頭がいいとは言わん。だいたい、俺が通ってるのは最悪に頭の悪いのが集う地元の、田舎の三流私大だぜ。このまま、俺は負け組一直線の人生なんだろうな」

 俺は吐き捨てた。

「エス、いつも講義をサボってるし、大学へほとんど行ってないよな。エスの大学って、そんなにつまらねえの?」

 エイチは運転席から俺へ視線を送って、

「三流どころは、やっぱり、学生も教授も三流しかいないよ。むろん、この俺自身も含めてなんだろうけど――」

 俺は車の窓から飛び出ていく煙草の煙を眺めていた。

「エスは勉強できるだろ。お前、小学生のときからずっと、できるほうだったよな」

「エスは高校だって進学校だったしねえ。来年、都会の大学に入りなおせばいいよ」

 エイチもエムも小学生から中学まで同級生だった。そこまでの俺をよく知っている。それ以後の俺を、エイチもエムも俺の話でしか知らない。

「進学校か――高校はそれぞれ別だったから、お前らは知らんだろうけど、俺の成績表は赤点だらけだったぞ。高校へ入学した途端だ。俺には学歴を積み上げて何者かになりたいなんて高尚な目的が無いってことに気がついた。この考えが心中にぽっと浮かび上がった途端、何もかもバカバカしくなった。お勉強をやる気が、いっぺんに消え失せた。仮にお勉強を頑張っていたところで、俺はできるほうではなかったと思う。俺は自分の他の誰かが得をするために設定したハードルを飛び越えて気持ちよくなれるような性分じゃないからな。まあ、そんな流れだ。今の俺は、こうして、でき損ないの人間の列に加わってる」

「――とにかく、来年、エスは俺らと一緒に上京しよう。お前みたいな奴は、このまま田舎にいたらダメだと思う。理由は――俺はお前と違ってはっきりと説明できないけど――どう言えばいいのかな――でも、これって間違いないと思うわ」

 エイチは根拠の無いことを真顔で言った。

「エスも東の都へ行こうよ」

 エムは笑わずに短く言った。

「おのぼり田舎者が毎日毎日、乱痴気カーニバルをカマしている、くっさい、くっさい大都会へ行って、そのお祭りに参加する気もない俺は何をどうすりゃいいんだ――?」

 俺は笑い声はひしゃげていたけど、

「そりゃ、花の大都会で自分の旗を掲げるのよ。できるだけ、でっかい旗をだよ。簡単だろ?」

「うん、エスなら、できる。できるよ」

 エイチもエムも真っすぐな笑顔だった。

「へえ、花の大都会で、でっかいアダ花を咲かせろってか。俺は、ラフレシアか?」

 俺は煙草の火を灰皿でもみ消した。

 エイチとエムが怪訝な顔で、

「らふれしあ?」

「それって香水の名前?」

「東南アジアに分布する世界最大の花だ。咲くと強烈な悪臭を放って虫をおびき寄せ、花粉を運ばせる。別名で『悪臭死体ユリ』。見に行ったことはないけど、市内の植物園でも栽培されているらしいぜ。全寄生植物――他の植物に根を食い込ませて生きる。一年以上つぼみのままで、開花するのは平均的に一週間だけ。そして、咲くとすごく臭う。これって、まさしく、アダ花だよな」

「うへえ――」

「エスは本当に何でも知ってるよなあ――」

「何度も言うけど、何でもは知らんよ。とにかく、一旗揚げるとかな、それは目的が漠然としすぎだろ。そういうのを若気の至りっていうんだ。それに、俺の家は、お前らボンボンのそれと違って貧乏丸出しなんだぜ。のんべんだらりと大学生をやりつつ、自由気ままな都会の一人暮らしをエンジョイする馬鹿息子へ、四年間も仕送りをできるような家計じゃないからな」

「うーん――」

 エイチもエムも似たような生返事と一緒に押し黙った。

 砂利道の坂の下の森は目の前まで迫っている。

「へえ、寄るとなかなかそれっぽい雰囲気があるわ。夜に来たほうがインスタ映え、良かったかも――エム、俺のバックからスマホとってくれ」

 車を止めたエイチが、エムからスマホを受け取って顔をしかめた。エムの手はポテチの油でべとべとだ。エイチは油にまみれた自分のスマホを睨んで「これだから、お前って奴は――」とか何とか文句を言っている。エムはへらへら謝っている。

 俺はコンソールボックスからウェットティッシュの箱を取り出して、それをエイチに手渡しながら、

「夜、エイチはアルバイトのシフトが入ってるんだろ。俺だってそうだ。だから、こうして、昼に来たんじゃないか。ああ、ついでだから言っておこう。お前がバイトをしている歓楽街の喫茶店な。一度くらいは顔を見せに来いって言うから、エムと様子を見に行ったけど、あんな小じゃれた店でお茶をするとは思っていなかった。俺はマジで死にたくなったよ。エムだって泣きそうな顔だったぞ。傍から見ると俺とエムはホモカップルだ。俺はどちらかと言えばリベラル派で、ホモ差別には反対の立場だけど、それでも、ホモそのものじゃない。ホモを差別するのがダメなら、ノンケをホモ扱いにするのだって立派な差別だ。それよりも許せないのは、頼んで出てきた珈琲の値段が高くてぬるくて不味かったこと。おい、エイチ。ここで俺とエムに謝罪しろ。全裸で土下座。そのザマをTubeにアップして、お前の人生を綺麗に終わらせてやる。ほれ、今すぐにやれよ」

 俺は真顔だ。

 エムはげらげら笑っている。

「ふふーん、喫茶店じゃないよ。カッフェだよ。カッフェ・プレイアデスな――」

 鼻歌交じりに自分のスマホをウェットティッシュで磨きながら、機嫌を直した様子のエイチには、珈琲の味に関する苦情の部分が、まったく耳に入らなかったようだった。カーステレオからは最近流行っている邦楽ばかりが流れてくる。見栄坊で流行に敏感なエイチのチョイスだ。俺の好みはアメリカのオールデイズとモダンジャズだ。日本のロックバンドで好きなのはタイマーズだけだ。

「まともな味の珈琲一杯も出せない癖に、なーにがカッフェだ――」

 俺は軽薄なJポップへ舌打ちの音を何度も聞かせてやった。

「エス、エイチがバイトしている店、女子高生JKに大人気なんだよ!」

 エムが後部座席から身を乗り出した。

「それだから、何なんだよ?」

 同じ話をエムの口から何度も聞いたような記憶があったけど、俺は話を促した。

「あの店のバイトの面接を通るのは凄いんだ。あそこにくる客はほとんどが若い女の子だろ。だから、バイトをしたいって男は、たくさん、いるんだよ。エイチが羨ましい。俺なんて、俺なんてさあ、何もないよ、女の子との出会い――!」

 エムは哀れっぽい声で訴えて、

「あちゃあ、うーん、そうだった! 夜はバイトのシフトが入ってたんだわ! いやあ、すっかりそれを忘れてたわあ!」

 エイチは嬉しそうにぴしゃんぴしゃん自分の額を叩いている。エムは予備校に通って家に帰ってまた机へ向かう浪人生らしい生活をしている。エイチは予備校通いをサボりつつ、アルバイトをして金を作り、あっちこっち遊び回っている。寝る時間が無いほどの忙しさだ。ちょっと前、エイチは血尿が出た出た死ぬ死ぬ便所が真っ赤だと電話の向こうで大騒ぎをしていた。

「エイチ、俺の電話番号は119じゃないから――」

 俺が呆れながら細かい話を聞くと三日もまともに眠っていないという。素人判断だけど、エイチの血尿は過労が起因するものだろう。過労と言っても勤労の副産物ではない。睡眠時間も惜しんで遊び回っているというだけだ。そんなものは消化の良いものを食って一晩寝ればケロリと治る。治らなかったところで俺の知ったことか。エイチはそんな感じの馬鹿だけど、遊ぶことに関しては誰よりも熱心だったし一流だった。このエイチの馬鹿さ加減を半分にして交友関係をぐっと狭め、人格からポジティブな思考を残らず排除すると俺になる。

「それに、夜だと撮影する光量が足りないんじゃ――あ、すんません、エスさん。煙草を一本、めぐんでくだせえ」

 エムが憐みを乞う表情を俺に向けた。

「さっき寄ったコンビニで煙草を買わなかったのか?」

「ポテチとコーラ買ったら、煙草を買う金なくなった。ほらあ――」

 エムが自分の財布を開けて見せた。財布は俺でも知っている有名なブランドのものだったけど、そのなかには銀色の硬貨すらない。

「無計画な乞食のクズの浪人生めが。今日から、お前は、セニョール・最底辺とでも名前を変えるんだな」

 俺は笑顔で罵りながら、咥えかけた煙草をエムの胸元へ弾いて飛ばした。

「ああ、旦那様。ありがてえ、ありがてえ――」

 時代劇に出てくる乞食っぽい動きのエムだ。俺はエムの煙草に火をつけてやって、自分の煙草にも火をつけた。

 エイチは鼻先に流れてくる紫煙を手で追い払いながら、

「くっそ、二人揃って煙たいな――そっか、光量のことを考えていなかったわ。マジでエスが言ってた通り、森の道は木や草がぼーぼーで空も見えない。こうなると、スマホのフラッシュライトだけじゃ不安だ。本格的な機材、持ってくればよかった――」

 エイチは友人を集めてロックバンドの真似事もやっている。エイチ自身は演奏よりも、演奏している仲間の動画を撮って編集するほうに熱心だ。バイトで得た金はその関係の機材に消えているらしい。門外漢の俺にエイチの趣味の腕前はわからないけど、機材は専門家が使うものを揃えているように見えた。こいつは昔から何事も先んず恰好スタイルから入る奴でもある。

「エイチ、それは心配ない。あの廃墟は内側から光ってたから、周辺は明るいぞ」

「エス、一体、そこってどうなってんの?」

「何だよ、エイチは頭だけじゃなくて、耳まで悪かったのか。それを探りに来たんだろ。お前って、悪い所だらけなんだな――ま、前から知ってたけど」

 俺が溜息と一緒にこんな感じの煽りを入れると、

「俺は五体大満足だよ、それが自慢だよっ!」

 エイチはいつも嬉しそうに反論する。

「嘘を吐け、お前は間違いなくオツム不満足だろ。それはさておき、まあ、言葉通りだよ。廃墟の大きな門の内側から強い光が漏れていた。足元まで眩しいほど――あれは本当に何だったんだろうな――車の窓、開けておくとさすがに暑いぜ。梅雨も明けて夏本番だよな――」

 俺は煙草の火を消して車の窓を閉めた。正直なところ、窓を閉じたのは、この森の奥にあるものを恐れていたからだった。あのとき横目に見た廃墟の門からは、強い光と一緒に、車の窓から流れ込む夏の熱気と似たものが噴出していた。似て非なるものだ。あの熱気は甘い臭いを乗せていて、それだけでも異常なのに、さらに身の内まで沁み込んでくる不気味な気配があった。俺はその危険な熱気が森の外まで漏れ出ているのではないかと疑っている。エンジンが焼け付きそうなほどのスピードで走る原チャリの上から見たあの恐怖を、俺ははっきりエイチとエムへ伝えていない。あのときの俺は悲鳴を上げていた。恐怖に耐えきれず涙を流してもいた。今から、エイチもエムも、あれを体験して震え上がるだろう。俺自身も、もう一度、こいつらと一緒にあの恐怖と対峙したいと考えていた。その理由は至ってシンプルだ。俺は退屈だ。今の生活の上にある何もかもがつまらない。この腐って淀んだ気分を紛らわせることができるなら、それが卑屈で危うい友人関係がもたらすひしゃげた笑いでも、ささやかな悪事を慣行する興奮でも、煙草でも酒でも女でも、非合法の薬でも、超自然的な恐怖体験でも、とにかく、何でもよかった。

 今、この車内に、そのうちのいくつかがある。

 俺は声を出さずに笑っていた。

「そのエスが言っている廃墟って、なかに生きているひとがいるとか?」

 エムがぼんやりとした声で言った。

「エムにしては鋭い指摘だ。それなら、あの廃墟から光が漏れていた説明もつく。俺が奢ったヤニで頭がすっきりしたのか?」

 俺はエムへ顔を向けた。

「えっへへへえ――!」

 エムは短くなった煙草を咥えたまま、鼻から口から煙草の煙を噴いている。こいつは好きなときに好きなだけ煙草を吸えるほど金を持ち合わせていないから、煙草一本でぶっ飛べる。

 俺は助手席に身体を戻して、

「確かに、誰かが廃墟のなかにいたのかも。本職の乞食だとか犯罪者だとかだ。ヤクザが作った死体を捨てる場所に利用してたりとかも、あー、これは、あるあるだ――これだと、よくある話で、つまんねェオチになるよな」

「エス、ミステリースポットより、そっちのほうが遥かにヤバいよ?」

 エイチが目を丸くした。

「その保険で馬力とトルクのあるエイチの親父の車を調達したんだ。そこにいる何かに追われたら、アクセルを目いっぱい踏んで逃げればいい。これで簡単に問題は解決するだろ」

「マジかよ、本当にヤバい雰囲気になってきたな――おい、カーナビ、カーナビを見ろっ!」

 エイチがエアコンの温度を調整していた手を止めた。

 俺もカーナビに目を向けて、

「現在地は山の真っただ中? ああ、地図に道が記録されてないのか。そうなると、この砂利道自体、私道なのか――?」

「無許可で私道に侵入するのって、それだけでもヤバくね?」

 エムの声が上ずっていた。

「うーん、後続車は無いよな。前方にも車の影は無い。どこかにひとの目がある気配も無いし、監視カメラがある気配も無しだ。だから、今のところはヤバくないね。ま、大丈夫だろ。あの森を抜けて、坂を上がれば、向こうの山の県道に出るのは間違いないんだ。実際に、ほら、この俺は生きて帰ってきた。もう一度――いや、さっさと行こうぜ」

 もう一度、生きて帰ってこれるかどうかは保障できないけどな?

 最後の台詞は、俺の意地悪な気分が口から出ることを引き留めた。

「ま、俺たちは、そこが本当にヤバい場所かどうかを確かめにきたんだからな。エム、ゆっくり行くから、ここから俺のスマホで動画を撮ってくれ」

 エイチがエムへ自分のスマホを放った。

「ど、どきどきしてきたあ――」

 エムは強張った笑い声で応えた。

「動画をアップするのはやめろって、さっき言っただろ。エイチはマジで耳が悪いのか?」

 俺は顔をしかめた。

「心配すんなって。後で編集して良さげな画像を拾うのよ――おい、マジで暗いな――」

 エイチは笑って、ヘッドライトを点灯させた。

「エイチ、エアコン利かなくなるかもだけど――窓、開けて撮るよ」

 エムが言った。

「あ、エム、それはやめ――」

 俺が言いかけている最中に、

「あんぎゃああっ!」

 エムの悲鳴だ。

「エム、どうした!」

「くそっ、言わんこっちゃない。早く窓を閉めろ!」

「虫が、虫がおれの腕にっ!」

「――虫かよ」

「――虫かよ」

 俺とエイチは同じような呆れ顔で同じことを言った。

「さ、刺されるう!」

 後部座席のエムは自分の腕から自分の身体を遠ざけるような体勢で喚いている。

 俺はエムの腕にくっついていた昆虫をつまんで、

「ヘタレが大騒ぎをしやがって――これは刺す虫じゃない。噛む虫だ。髪切虫カミキリムシだな。エム、ルームライトを点けてくれ。おっと、こいつは、ラミーカミキリだぞ――」

 俺は小学生の頃、昆虫採集に熱を上げていたから虫に詳しい。もっとも、こいつを捕まえた記憶は無い。昆虫図鑑のなかで見たことがあるだけだ。明治時代前後に中国大陸から西日本へ上陸した外来種。日本各地へ散在している種だから、場所によっては、まったく姿を見かけない。

「その虫、背中におかしな模様がついてるのな」

 車を進めながら横目で視線を送るエイチは無関心そうで、

「気持ち悪ぅい――!」

 エムは女子みたいな反応だった。ゲジゲジとした濃い眉毛に細い目の、うっすら柔い髭が生えた、見るもむさ苦しい女野郎おんなやろうだ。

 俺はお前のほうが気持ち悪いよ。

「ああ、ラミーカミキリは背の模様がユニークなんだ。ほら、白い部分と黒い部分が、はっきりとわかれていて、ウェイターの制服みたいに見えるだろ。エイチ、お前もバイト先で、こんなのを着て働いてたよな」

 俺はエイチの顔へ、ラミーカミキリを近づけた。

「そう言われると、頭のあたりの模様が顔みたいになってる。エムの言う通り、ほんとうに薄気味悪いわ――まるで骸骨の顔だよ」

 エイチは顔をしかめた。

「骸骨だって?」

 ラミーカミキリに目を戻すと、確かに、ウェイターの顔にあたる部分の模様が人間の頭蓋骨に見えた。車内に飛び込んできたこいつを最初に見たとき、俺はパンダの顔のような印象を受けた筈だけど――俺は車の窓を少しだけ開けて、そこから骸骨のウェイター氏を放してやった。パンダから骸骨へ変化したウェイター氏の顔は見間違いだったということにしておく。ルームライトが消えると会話も途切れた。カーステレオからもう音楽は流れていない。森に入ったところで撮影の邪魔だと言って、エイチがミュートした。

 会話が途切れたところで、どむっ、と車の前方から音がする。

 エイチは車を急停止させて、

「あっ、藪から出てきた猫か何かを踏んじゃった――」

「可哀そうに」

 同情しているようだけど、エムは後部座席から身を乗り出して、スマホのカメラを向けていた。

「エム、猫の死体なんてえないだろ。そんなの撮らなくていいから。それより、親父の車のほうが心配だ。エムも降りて手元に光をくれよ」

 エイチは愚痴りながら車から降りて、エムはそろりと車から降りた。

「エイチ、エム。車の外には出ないほうがいいと思うぜ――」

 そう言ったけど、俺も何を轢いたのか気になって車を降りた。

 エイチは車のフロント周りを確認しながら、

「あー、くっそ、バンパーに傷が――エム、もうちょっと、ライトを寄せて――んー、あるよなあ、大きな傷――何を引っかけたんだ――?」

「そんなの後でも確認できる。車のなかに戻れよ」

 前に来たときと同じ、昼でも夜のように暗い森の一本道だ。頼りになる光源は、俺たちが乗っていきた車のヘッドライトくらいしかない。ヘッドライトの光には羽虫の群れが集っていた。

「なんじゃあ、ありゃあっ!」

 エイチが叫んだ。

「えひいっ――!」

 エムが車のなかへ駆け戻った。

「あ――」

 俺はエイチの視線の先を見て絶句した。ちょっと離れたところについさっき車で跳ね飛ばした生き物が転がっている。赤い麻袋のような身体に、犬のような後ろ足が二本だけついた生き物だ。サイズは柴犬くらい。足がまだ蠢いている。ヘッドライトの光源から外れているので、その生き物が何であるかを、はっきりと確認できないけど――。

「さ、さっきから、両脇の藪がごそごそ動いてるけど――この森には、あれの仲間がたくさんいるのか――?」

 エイチは前のほうへ目を凝らした。俺は車の後ろへ目を向けた。逆足が二本ついた麻袋みたいな生き物が群れを成し、がさっと砂利道を横切った。以前、俺が一人でこの森に迷い込んだときは、何かに追われているような気配を感じて、一度も後ろを振り返らなかった。これは暗い夜道を一人でとぼとぼ歩いていたりすると、誰しもが体験する感覚だと思う。だから、ここにまた来るまでは気にしていなかった。

 だけど、おそらく、あのときの俺はマジで何か異質な存在に追われていて――。

「――エイチ、さっさと戻れ、車を出すんだ!」

 俺は助手席へ戻って怒鳴った。

「おい、エス、何だよ、あの変な生き物はっ!」

 運転席へダイブして戻ってきたエイチが、アクセルを踏んだ。タイヤを空転させて砂利を弾き飛ばしたあと、エイチの親父の車は3ナンバーらしい加速を見せた。

 俺はサイドミラーで背後を確認して、

「何度も何度も言っているだろ。俺は何でもは知らんって――追ってはこないみたいだな。追いつけなかったのか。どっちにしろ助かったぜ――」

「エス、無責任じゃないか、それは無責任な態度じゃないのかっ!」

 耳の真横で喚いたエムを、

「エム、お前、ちょっと、うるせェぞ!」

 俺は睨みつけた。お互いどんなに罵り合っても、どんな失敗や馬鹿をやらかしても、本気でムカついた気分になったり、真面目腐った態度にならないのが、俺たちの友人関係だった。でも、このときは俺にもエムにも余裕が無くなっていたらしい。

「マジかよ、これってガチのミステリースポットじゃんよ。こんなの、俺、聞いてないよ――」

 エイチが呻いた。

「いや、俺は言っておいただろ。この森は本物のミステリースポットだったって――」

 俺は不貞腐れた気分で呟いた。

「んうぅうあぁあっ!」

 今度はエイチの悲鳴だ。いや、雄叫びのほうが表現としては近い。

「くそっ、今度は何だよ!」

 俺は怒鳴って訊いた。

「エム、さっきのおかしな生き物、スマホで撮ったの?」

 エイチは俺を無視してエムへ目を向けた。

「あ、すっかり忘れてたあ」

 エムはぽかんと応えた。

「ばかっ、それだから、お前は駄目なんだ、受験に失敗するんだっ!」

「そう言っているエイチだって浪人生だろお――」

 エイチはぎゃんぎゃん怒って、エムはかくんとしょげている。

 ふっと真顔に戻ったエイチが車を止めて、

「――過ぎたことをガタガタ言っても仕方ないわ。戻って撮影しよう」

 本気でUターンするつもりらしい。昔からエイチは、俺が呆れるのを通り越して尊敬してしまうほどの大馬鹿で、こういうときの迷いが微塵も無い。気持ちの切り替えも早い。

 俺は慌てて、

「いや、ダメダメ、このまま進め。どう見ても、ここに長居するのはヤバいだろ。それに――」

「それに、どうした、エス?」

「それに、先にある廃墟は、もっと凄い、か――」

「えひっ、えひいっ――」

 エムの呼吸が喘息の発作のようになった。先のT字路だ。左手から強い光が差している。エイチはT字路の交差点で車を停止させた。車の左手三十メートルほど先だ。前に俺が来たとき発見した門がある。そこを閉じていたであろう鉄門が斜めに傾いて隙間ができていた。その隙間から、ざらざらとした黄色い光が漏れ出ている。

 俺は強烈な不穏さを感じて門から目を逸らした。

「エス、教えてくれてありがとな。これ、ほんとにすげえわ――エム、スマホ、俺に返せ」

 エイチがぼうっとした様子のエムの手からスマホを取った。

「エイチは何をするつもりだ?」

 運転席側のドアハンドルへ手をかけたエイチを見て、俺の声は強張った。

「何をするって――エムはヘタレだからやれと言っても無理だろ。だから、俺が行って撮影する。これは間違いなくバズるわ。俺のインスタ、フォロワー爆増だわ――」

 エイチの呟く声と一緒に運転席側のドアが開いた。例の門があるのは車の左側だ。それでも、甘い熱気が車内へどっと流れ込んでくる。

 あの門が光とともに噴出する甘い熱――。

「――エイチ、車から出るな。何のために車で来たと思ってるんだ!」

 俺は怒鳴ったけど、エイチは酔っぱらっているような足取りで門へ歩いていった。

 門の光の音も聞こえる。

 それは、虫の羽音だった。

 大量の。

 ヴ、

 ヴヴ、

 ヴヴヴ、

 ヴヴヴヴ、

 ヴヴヴヴヴ、

 ヴヴヴヴヴヴ、

 ヴヴヴヴヴヴヴ、

 ヴヴヴヴヴヴヴヴ、

 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴ、

 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ、

 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ、

 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ、

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 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ!

「これは、マジでヤバい――!」

 俺は呻いた。門の光へかかっているノイズのように見えたのは、すべて虫だった。空を覆い隠した木の梢が揺れている。これも虫だ。森全体が揺れている。これも虫だ。虫の群れが渦を巻いて門へ吸い込まれている。闇のなかの光に寄せられるのは大多数の虫が持つ本能だけど、この光景は明らかに不自然だ。門の光に人間まで吸い寄せられている。今、最も強く吸引されているのは、スマホをかざして門へ寄っていくエイチだ。

「エムもエイチに呼びかけろ。エム、おい、エムっ!」

 俺は車の窓を開けて上半身を突き出した。エムは眠っているような呼吸をしながら、門と門の光を見つめている。

 エムもエイチも応答が無い。

「くっそ、あの門は!」

 助手席から飛び出た俺を熱気と甘い臭いと虫の羽音が包み込む。俺は構わずにエイチの背を睨んだ。あと数歩でエイチは門の向こうへ行ってしまう。光に目を凝らすと、傾いた鉄扉の間から見える道の左右に巨大な座像が並んでいた。大仏だ。結跏趺坐けっかふざ(※座禅をするときに組む足の形)の下から這い上がった苔やツタに侵食されて緑色になっている。傾いた鉄扉も、植物が縦横無尽に這いずり回っていた。

 直感があった。

 この場所は俺の記憶にある何かと似ている。

 俺の知識にあるうちでも不穏な部類の造形だ。

 だが、それは何なんだ?

 あの不可解な門は、一体、他の何に似ている?

 それがわかれば、俺もエイチもエムも、ここから無事に帰れるかも知れない。

 数秒間、考えた。

 考えたけど、答えに辿り着かない。

 喉元まで突き上げる焦りと幾層にも重なる虫の羽音が思考を遮る。

 視界へ強引に入ってくる光が風景を歪ませる。

 甘い臭いが鼻先まで迫っている危機を曖昧にする――。

「――エイチっ!」

 追い詰められた俺はマヌケなことを絶叫した。

「お前、今日の夜は、アルバイトのシフトが入ってるんだろおっ!」

「――あ、そうだった。すっかり忘れてたわ」

 エイチの足が止まった。

「エイチは、今夜、バイト先にいないといけないよなっ!」

 俺が他人へこんなにも大きな声で自分の意思を伝えたのは、これまで一度も無かった。

 今後、二度と無いだろうなとも思った。

「うん――そうだった、そうだったわあ――」

 スマホを持ってないほうの手を頭に置いたエイチは背を丸め、後ろを覗き込むような体勢で、俺へ顔を向けた。

 ぞっとした。

 エイチの顔から表情という表情がすべて抜け落ちている――。

「――俺だってそうだ。だから、俺もエイチも、エムだって、あの門の向こう側へ、まだ行けないっ!」

 俺は無理に笑った。

 顔面の筋肉が笑顔の形に引きつっているのが自分でもわかった。

「うーん、エス、そうだ、そうだ。うっかりしてたわ――」

 エイチはふわふわした笑顔で門に背を向けた。

「わかったら、さっさと車へ戻って来い。おい、こら、エイチ、走れ、走れえっ!」

 俺は運転席に飛び込んで、

「お前ら、シートベルトをしろ!」

「ええ? エスの運転なの――?」

 助手席のエイチが夢を見ているような態度のまま、のろのろとシートベルトを装着した。エムのほうはどうだか知らん。俺はアクセルをベタ踏みした。ゼロヨンレースカー顔負けの勢いで森の直線を一気に抜ける。先は曲がりくねった砂利の上がり坂だ。お次はヒルクライムレースという感じになった。車は急カーブで派手に尻を振って、後輪の片方が崖の下を覗き込む。

「あびゃええーっ!」

 悲鳴を上げたエムは、ここで正気に戻ったらしい。あとは悲鳴を上げっぱなしになった。エイチの親父の車が四輪駆動だったお陰なのか、崖下に転落することは免れた。この車はラリーレースのベースカーに採用されているわけではないけど、それでも、がんばって改造すれば、本格的なラリーカーの半分くらいの性能にはなるのかも知れないな。砂利の上がり坂は前と同じように県道の側面へ続いていた。

 俺は車のスピードを落として、

「やったぜ。俺たちは全員、無事に生還だ」

「奇跡的に無事、だよ――」

 エイチが弱々しい声と一緒に顔を俺へ向けた。

 真っ青だけど、はっきりと感情がある顔だった。

「あ、エイチも正気に戻ったか――」

 俺は県道の脇に車を寄せて停め、運転席へ背を預けて、

「――よかった」

 両方の目頭をつまんで抑えつけた。

「エス、俺と運転を代われい、すぐ代われぇいっ!」

 首を伸ばして顔を真っ赤にしたエイチは、悪代官が自分の屋敷に乱入してきた正義と殺戮を心から愛するお侍様を発見して、「ものども出会え、出会えい!」とでもやっているような様相だった。

「そうして、そうしてえ!」

 掠れ声で叫んだエムは、俺の運転中、後部座席を右や左に転げ回っていたらしい。まだ頭と尻が逆転している体勢だった。

 俺は声を上げて笑った。

 それで、目尻に溜まった涙は大笑いの結果だと誤魔化すことができた。

 俺の笑い声が止まったところで、

「おう――うっ――!」

 エイチが顔をまた真っ青して、自分の身体を自分で抱えた。

 ガタガタ震えている。

 青くなったり赤くなったり青くなったり忙しい奴だよな。

「車のなかで小便をちびってくれるなよ。臭いから。ああ、ゲロを吐くのか? それも頼むから外でやってくれ」

 俺が言い終わる前だ。

 エイチは車から転げるように出ていった。

「おれも、おれも、小便!」

 エムも続く。

「ん、俺も、もよおしてきた――」

 他に車が通る気配も無い道だから、遠慮する必要はなさそうだ。俺も車を降りて三人並ぶ。側溝へ三人分の小用を流しながら見上げると、山の斜面に整列する杉の木の上に真夏の青空が広がっていた。

 空は高く、陽もまだ高い――。

「――いや、あれはガチだった。ガチでマジのミステリースポットだった。まだ、俺、身体の震えがとまらんわ!」

 運転席に戻ったエイチが捲し立てた。

「こ、怖かったあ――!」

 後部座席に戻ったエムが甲高い声で言った。

「早く車を出せ。あんな不気味な場所からは、できるだけ早く遠ざかりたい。くそっ、今更、手が震えてきやがった――エイチ、お前が吸ったら殺すと言っても、今は絶対に煙草を吸うからな」

 助手席の俺が震える指先で箱から煙草を引き抜くと、

「エス、俺にも一本めぐんで――」

 エムのおねだりだ。

「この、クソ乞食めが」

 俺はいつもように罵りながら、くわえかけた煙草をエムの胸元へ弾き飛ばした。まだ指先は震えていたけど、それは、いつものようにエムの胸元へ命中した。

「ありがたい。エス、今はマジでありがたいよ――」

 へこへこするエムと無表情な俺は顔を寄せ合って、一つのオイルライターの火で二本の煙草の先を炙った。お互い、一刻も早く煙草を吸いたい気分だったのだ。

「今は俺も一服したいような気分だわ――」

 エイチが長い溜息を吐いた。

 俺が無言で煙草の箱を差し向けると、

「いや、俺は煙草、一生やるつもりがないから」

 エイチは真顔で車を発進させた。

 俺は苦笑いで煙草の煙を吐いて、

「何なんだよ、お前は――喉がカラカラだし小腹も減った。休憩がてら、グーニーズにでも寄ってくか?」

 グーニーズは、俺の地元限定でチェーン展開をしているファミレスだから、他の地域に住んでいるひとにとって馴染みのない店名だと思う。

「俺はオケラ。給料日前だし」

「おれ、缶ジュースを買う金もないよう」

 エイチとエムが同時に言った。

 俺たちは平日の真昼間から、貧乏と暇を持て余して無為なことをやらかしたよという話だ。

 正確には、『今日もやらかしましたよ』かな。

 俺はカーナビをいじりながら、

「貧乏暇有りか。まあ、俺たちらしいよな――お、この県道を南へ抜けた先に、小銭でお茶できる店があるぞ」

「へえ、エスおすすめの喫茶店なの?」

「これは珍しいねえ」

 エイチとエムは驚いている様子だ。

「――ほれ、行先を入力した。カーナビの指示通りに進め」

 俺はドリンクホルダーにあった珈琲の空き缶と、ミネラルウォーターの空きペットボトルを窓の外へ放り捨て、煙草の煙を肺の奥まで送り込んだ。

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