19

 俺とエヌが合作した提案書は役員会で大いにウケた。

 そんな話を部署で聞いた直後だ。ナメクジ本部長が俺とエヌの提案を横からさらって自分のモノにした。あの提案は今、役員会とナメクジの間で話が進んでいる。俺は蚊帳の外だ。不愉快だけど文句を言う気分になれない。あれは大元がナメクジの指示だったし、他社の買収合併は取締役が主導する案件だとも思う。それに、あんな大きい案件を一社員へ旗振りしろと言われても、それはそれで困っちゃうよ。

 モヤモヤしている暇も無い。

 辞令が降りて、俺は新設された経営企画調整課の課長になった。本部長や補佐の思惑はわからない。それでも俺が事前に出した要求はすべて通っていた。金髪、デブ、ヤン子、チマ子、それに小太りの新人君――デブ二号が新設の課へ異動した。この課に与えられたのは、経営企画本部と同じフロアの片隅に置かれたデスクが六つで、兵力は大将の俺を含めて総勢六人の小城だけど、ここにあるのはすべてが即戦力だ。引っ越しついでに金髪は経営企画調整課課長代理へ昇進した。俺のサポート役だよね。俺が大将だと代理の肩書でも窓際生活を満喫できないぞ。何しろ俺という大将はボンクラもいいところだからな。サポートする人間は共倒れにならないよう必死で働くしかない。ざまあみろ。

 で、肝心の仕事のほうだ。

 俺の課が本部の仕事を先回りでチェックするようになると、企画の不具合は目に見えて減った。俺の帰宅はまた遅くなった。どう工夫をしても、本部の仕事が遅れると課の仕事も遅れる形になる。エヌは帰りの遅い俺の顔色を窺う態度になった。美玲の一件がまだ響いている。言葉には出さないけど、どうも、エヌは俺の浮気を疑っているようだった。それを気に病むと俺の胃が重くなる。金髪や他の部下も仕事の不満を溜め込んでいる。俺の課がやる仕事は他人がこさえた企画の尻ぬぐいだ。やる仕事が実績にカウントされ辛いのは間違いない。それでも、部下は課の仕事に集中してくれた。ナメクジの直下で働くより幾分かマシだろ。そんな諦めもあるようだ。その一点だけは俺も気楽になった。

 ともあれ、俺の課の奮闘で本部の仕事に余裕が出てくると、

「もう少し何かアイディアはないのか?」だとか、

「ここは、よろしくないぞ。必ずこうするんだぞ」だとか、

 ナメクジ本部長が何の根拠も無い企画変更を部下へ強要し始めた。そんな指示は部下のマウントを取るためだけにやっているとしか思えないし、実際にも、ナメクジの薄汚ねェ手を入れた部分は実働で上手くいった試しがない。その上で、ナメクジは自分の失敗を部下へ転嫁するから始末が悪い。

「俺たちはナメクジのご機嫌伺いをするために提案や企画を作っているんじゃない。会社の収益とボーナスの査定を上げるために仕事をしてるんだあっ!」

 本部の兵隊が揃って俺へ不平不満をぶつけにくる。何でその不満の矛先が俺へ向くのかよという話なのだけど、企画の先行チェックと修正指示をしていると愚痴をセットで聞くしかないのだ。補佐は本部長の腰巾着だから文句を言ったところで時間の無駄だしな。

 最後に、メガネの話だ。

 メガネは本部で課長代理に昇進して苛立つことが多くなった。メガネがイライラすると系列下の課のタスク――特にマーケティングリサーチ課のタスクが激増して悲鳴が上がるからすぐわかる。メガネはサイコ野郎でナメクジはサイコパスだ。メガネVSナメクジのビジネスサイコ対決は年季が入っている分、ナメクジのほうが弱冠有利に見えた。上司と部下だから番付だって違うよね。

 こんな感じで、バタバタモヤモヤ仕事をやっているうちに期末日を過ぎた。

 うちの会社は三月が決算月だから今は四月だ。春先は役員会や経営企画本部が事業部から上がってきた決算報告書を吟味して、一年の経営方針を決定する季節になる。本部は連日の会議で忙しそうだけど、俺の課は驚くほど暇になった。理由はごく単純だ。役員会で一年の方針が決まるまで本部は企画を作れないし流せない。こういうとき意識高い系の社畜どもは「手が空いたときは自分で仕事を探せ、指示待ちになるな!」そう強く言うけど、俺は絶対に自分から仕事を探さないよ。部下にもそれをさせないね。俺の課が余計な案件を自主的に抱え込んで、飛び込んでくる案件に対応できなくなったら本末転倒だろ。

 本音を言えば「仕事をサボれるときは、できる限りサボりてェよな」となる。


 珍しく土日休みが二週も続いた日曜の朝だ。

 エヌを抱き枕代わりに二度寝していたところを、インターフォンのピンポンピンポンで叩き起こされた。枕元の腕時計へ目を向けると朝の八時半。エヌは横向き寝で身体を丸めて頭を抱えている。これは惰眠を要求する猫の構えだ。

 呻き声を上げながらベッドを出た俺は、インターフォンへ寄って、

「ぅふえぇーん、日曜の朝っぱらから、どっちら様でございましょうかぁ?」

「貴方様がエス様でしょうか?」

「はい、そうですが。あんた誰?」

「私はこういうものでございます」

 黒いスーツ姿の若い男がインターフォンの画面へ名刺を突き出した。

「NSメルロース自動車販売会社(株)――ああ、自動車ディーラーの営業さんね。エントランスの鍵を解除したから、上がっておいで――」

 俺は欠伸と一緒にエントランスのオートロックを解除した。

「すぐ、お伺いします」

 言葉と一緒に画面から若い男――営業マンが消えて本当にすぐだった。

 今は玄関の呼び鈴をピンポンピンポンされている。

「俺は、こういうものです」

 俺は玄関のドアを開けるついでに、営業マンへ自分の名刺を突き付けた。

 左手はドアを支えているから片手で失礼だ。

「これは、ご丁寧に――」

 営業マンは白い手袋をはめた両手で自分の名刺を突き出した。真っ黒なスーツ姿でネクタイまで真っ黒だ。それでも喪服や礼服の印象を受けない。強いて言えば、水商売の黒服のような雰囲気の営業マンだった。

「えっと、君の会社に見積りを頼んだかな。俺が顔を見せたのは、違う代理店だった記憶があるんだけど?」

「いえいえ、本日は納車に上がりました」

「納車だあ?」

 俺の声がひっくり返った。

「ええ、ぴかぴかの新車の納車日でございます」

 営業マンは陶器のように体温のない印象の顔へ作り笑いを浮かべた。

「それ人違いじゃないかな。君と俺は一度も顔を合わせたことがないよね?」

「エス様の奥様とは、何度かお顔を合わせましたよ」

「奥様って――?」

「おや、エヌ様はエス様の奥様ではなかったのですか?」

 営業マンが少しだけ眉をひそめた。

「――あ、わかった。エヌは車を買ったんだな。また勝手に高い買い物をしやがって――いや、ちょっと待てよ。エヌは運転免許証を持っていなかった筈だけど?」

 俺がエヌを叩き起こすべきか否か迷っていると、

「ええ、お持ちした車は奥様からエス様への誕生日プレゼントだそうですよ。いやはや、まったく、お羨ましい限りで――」

 営業マンが頭を振った。慇懃無礼な態度だけど、俺の気分は不思議と悪くならない。私は根っからこういう人間なので諦めてください。この営業マンは自分の諦観を周辺へ侵食させているような若者だった。

 俺も諦めて話を進めた。

「俺への誕生日プレゼントだって?」

 考えてみると確かに俺の誕生日は今日この日だ。他人から指摘されるまで忘れてた。三十路を超えた男の誕生日なんて、みんなこんな感じになるものだと思う。

「ええ、さようでございます」

「それで、ぴかぴかの新車の支払いはどうなっているの。今すぐ金を払えと言われても、俺は手持ちがないぜ」

「それを申されますと、私どもも大変に心苦しいのですが――」

 営業マンが目を逸らした。

「まさか、エヌはローンを組んだのか。溜め込んだうんこみたいなガチガチの長期ローンを、俺の名義でかよ!」

 俺は悲鳴を上げた。

 こんな展開は悲鳴を上げるしかないだろ。

「いえいえ、エス様、それは見当違いでございます。私どもとしては、ご金額がご金額ですし、ローンを組むメリットなどもありますしで、ローン返済のご提案をさせて頂いたのですが、エヌ様は一括でお支払をされたいと申されて一歩も譲らず――エヌ様の御実家とは、長くお付き合いをさせていただいている私ども弊社でございますから、どんなわがままも申しつけられましたら、それは聞かざるを得ないのです。そこで、お持ちしたお車や保険の名義は、誠に勝手ながら、エス様のものにさせて頂きました。それが、エヌ様の強いご要望だったのです。事後承諾になって申し訳ございません」

 営業マンは腰を折って頭を下げた。

「うわあ、エヌは一括で金を払っちゃったのか――」

 俺は名義どうのこうのよりも車の値段のほうが気になった。

「はい、おっしゃる通りでございます。しかし、あの車を誕生日プレゼントにとは――エス様の奥様は素晴らしいお方ですね。私のような下々から見ると、本当にお羨ましい限りですよ。ああ、エス様、申し訳ございませんが、今から階下の駐車場まで、ご足労をお願いできますか?」

「ああ、うん――すぐ着替えてくるから」

 俺はパジャマ姿のままだ。猫ちゃんのイラストがいっぱいついた可愛いパジャマだ。色は黒で男物だけど、エヌとお揃いだ。ここでエヌが起きてくると、ペアルックのパジャマを着ている事実が赤の他人へ露見する。これって鏡を見るたび恥ずかしい気分になるからな。俺は着替えてから外へ出る必要があるよな。絶対にだよな。

「ごゆっくりどうぞ」

 営業マンが頷いた。

 Tシャツにチノパン姿になった俺は、営業マンに先導されて駐車場へ向かった。すぐ近くに営業車が止まっている。高級なセダンだ。その脇にいた別の営業マンが「エス様、お世話になっております」そう言って頭を下げた。

「おい、冗談だろ――」

 俺は絶句した。

 たまに俺の汚い営業車が置いてある、借り物の駐車場にあったのは、国内メーカーで最高級クラスのスーパーカーだった。

 この自動車は大人の判断だと諦める子供の夢の結晶だ。

「エス様のお車のキーになります。書類関係はダッシュボードのほうに入れさせて頂きますね――ああ、運輸料は頂きませんよ。それは弊社のほうでサービスさせていただきます。せめてもの、ですよね?」

 黒服の営業マンは俺の手へ子供の夢の鍵を持たせ、納車の手続きを済ませると、

「それでは、エス様。きカーライフを――」

 別の営業マンと二人で並んで深々と頭を下げた。

 俺は返事をしなかった。

 営業マン二人は作り笑いを浮かべたまま営業車へ乗り込んで立ち去った。

「エス?」

 後ろからエヌの声だ。

「エヌ、お前というやつはっ!」

 俺は振り返って怒鳴った。

 エヌは顔を真っ青にして、

「エスは、この車、好きじゃなかった? エスがレースゲームで、いつも使う車だから――」

 泣き出しそうだ――。

「――うん。今から一緒にドライブへ行こう。そうしない手はないよな」

 俺は無理に笑って見せた。

 仕事用の仮面だ。

 使えるものは何だって使うぜ。

 これが、俺という男の生き様だ。

「お弁当、急いで作るね!」

 エヌは本物の笑顔を見せてから、俺の偽物の笑顔へ背を向けた。

「うん――」

 部屋に戻って朝めしを食った後、テレビを眺めながら考えた。

 これまで、俺のマンションでやったエヌの買い物は、明らかに一般的な事務職の女子社員が支払える限度を超えている。それでも借金取りが押しかけてくる気配は無い。そもそも、エヌの性格では借金取りから追われるプレッシャーに耐えられないだろう。あの慇懃無礼な営業マンも「エヌは一括で金を支払った」確かに、そう言っていた。俺はこれまで「エヌは実家から持ちだした親御さん名義のクレジットカードを使って買い物をしているんだろうなあ。お嬢様育ちはしょうがねェなあ」くらいに考えていた。でも、あのスーパーカーをクレジットカードで購入するのは無理がある。あいつは車両本体価格だけで二千万円以上もする値段なのだ。クレジットカードは年間利用限度額がある。そんな大きな買い物はできっこない。

 そうなると、エヌはどこから二千万円以上という大金を持ってきた?

 家出をしたとき実家の金を持ち出していたのか?

 それとも――?

 そのとき眺めていたテレビ番組をまったく思い出せない。

「なあ、エヌ。あの車をどうやって買っ――」

 俺が声を掛けると、

「お弁当は、サンドイッチ。できたよ!」

 台所から振り返ったエヌは笑顔のままだ。

「――うん。行こうか」

 俺はソファから立ち上がった。

 エヌは俺の会社の経理課で働いている。

 これは、まさかの、まさかだ。

 エヌは会社から金を抜いて――。


§


 運転席は俺で助手席はエヌだ。

 エヌが山へ行きたいと言えば山道へ、街を走りたいと言えば街中へ、高速道路に乗りたいと言えば高速道路を突っ走った。行く先を決めないドライブに使うのは、元々国内メーカーでも屈指の性能を持つスポーツカーを、レース用にフルチューンした特別使用車だ。六百馬力のツインターボエンジンが二トン近い車体をスポーツバイクみたいに加速させる。旋回はレールへ張り付いて曲がる感覚だ。このスーパーカーは俺の田舎街の日常を違う景色へ変えるほどの魔力を持っていた。フロントガラスから飛び込む非日常が次々とリアウィンドウの彼方へ消えていく。

 助手席でエヌの瞳が輝き続けた。

 俺の瞳もそうだったと思う。

 昼は高速道路のパーキングエリアで、お弁当のサンドイッチを一緒に食べた。車のなかだ。飲み物の水筒は三つもあって、それぞれ麦茶と珈琲と紅茶が入っていた。サービスエリアで買い物をする必要はない。やることは用を足すことくらいだった。

「次は、どこへ行きたい?」

 俺が訊くと、

「海が見たい」

 これが、エヌの要求だった。

 高速道路を降りて、太平洋沿いの国道を西へ走った。岬まで続く、この二車線の道は、小高いところに施設されているから、左の車窓から海が見える。それは太陽から降り落ちた輝く魚影が延々と戯れる黄金の海だ。エヌは車窓の光景にあっと息を呑んだ。学生時代、俺はバイクのツーリングでこの道を使った。日本にこんな光景を見せる道があったのか。そんな感心をした思い出がある。だから、エヌの気持ちがよくわかる。

 夕方、西の岬の駐車場で車を停めた。駐車場を囲んで海鮮料理店や喫茶店、それに海産物を売る土産物屋が並んでいる。海鮮丼でも食いたいところだけど、エヌは飲食店の食事を楽しめない性格だ。俺はエヌと車のなかでハンバーガーを食べた。来る道の途中、ドライブスルーで買ったものだ。ジャンクフード大嫌いなエヌが一つも文句を言わない。今日の彼女はそれくらい上機嫌だった。

 安い外食を終えた後、俺は車の外へ出て伸びをした。この岬の駐車場は人気のある観光地だけど、日曜の夕べともなると観光客の姿はまばらだった。他人の視線がほとんどないことを確認してから、エヌも車の外へ出て身体を伸ばした。

 消えかけた夕焼けが潮風を青紫色に染めている。

 サザエの壺焼きの匂いがする。

 匂いの出元へ目を向けると、土産物屋の老いた店主が七輪で商品を炙って少ない客を呼び込んでいる。

 エヌと並んで海を眺めていると近くから鐘の音が聞こえてきた。

「あ、エス、一緒にあの鐘を鳴らさなきゃ」

 エヌが土産物店の反対側へ走った。この駐車場の脇には『幸せの鐘』という面映おもはゆい名称の観光スポットがある。それは海に面した門の上から鐘をぶら下げた構造物ストラクチャだ。

「エヌ、やめるんだ!」

 俺はエヌの手をとっ捕まえた。

「恋人同士はこの岬であの鐘を鳴らすの。ネットの口コミにそうあったの。エスとわたしって恋人じゃないの?」

 エヌは幸せの鐘へ顔を向けたまま足を踏ん張った。

 俺はエヌを腕を確保したまま、注意深く幸せの鐘の前まで寄った。

 また、鐘が鳴る。

 鳴らしたのは先客のカップルだ。

「そ、その様子だと、エヌは『幸せの鐘の呪い』を本当に知らないみたいだな――」

 俺はあうあう呻いた。

「呪いって何のこと? あの鐘を鳴らした恋人たちは必ず幸せになれるんだって。プレートにもそう刻んであるよ?」

「それは違う。幸せの鐘を鳴らしたカップルは必ず一年以内に破局を迎えることになるんだ。これが『幸せの鐘の呪い』だよ。あのプレートに刻まれている言葉は、他人の幸せを片っ端からぶち壊す目的で刻まれた呪詛――」

「――嘘だよね?」

 エヌはギクシャクした動きで俺へ顔を向けた。

 俺は頭を振って、

「嘘じゃない。俺が子供の頃から伝わっている有名な呪いなんだ。もう何十年も語り継がれているんだぜ。この鐘を鳴らして破局したカップルは星の数より多いって――」

 俺は一番星を見上げた。

「う、嘘だよね?」

 エヌの声がプルプル震えていた。

「いや、この鐘の呪いは本物だ。バカップルは残らず死ねばいいんだ」

「それじゃあ、今、鐘を鳴らしている、このバカップルも一年以内に破局を――!」

 俺がエヌをからかっていると、

「さっきから何だよ、お前ら!」

「感じわるう!」

 幸せの鐘をガンガン鳴らしていたカップルからすごい勢いで睨まれていた。

「あ、余計なことを聞かせて、すんません」

 俺は頭を下げておく。

「ご、ごめんなさい――」

 俺の後ろに隠れてエヌも謝った。

 迷っていたようだったけど、結局、エヌは鐘を鳴らさずに海へ歩いていった。俺は黙ってついていく。砂浜の入り口に遊泳厳禁と看板が立っていた。離岸流が強いから泳いだら絶対に死ぬぞと説明がついている。ここは散歩をするためだけの小さなビーチだ。

 水平線を東へ向かうフェリーが見えた。

 深紫色の海上をゆるゆる進む船は光の小城のようだった。

「――そろそろ、帰ろうか」

 俺は煙草を咥えて嘘を吐いた。

 帰りたくない。

「えー?」

 波打ち際と戯れるエヌの背が曖昧な返事をした。

「俺もエヌも月曜からまた仕事だろ。すぐ出発しても帰宅は深夜になるだろうけど――」

 俺の台詞の先で煙草の煙が春の闇に溶けていく。

 月明りが笑えるほど弱々しい夜だった。

「えー?」

 振り返ったエヌが頬に張り付いた髪を後ろへ払った。

 灯台が彼女の笑顔へスポットライトを当てている。

 俺は苦笑いを返して、あの車の金の出所を訊くことを諦めた。

 問いただしたところで、俺にできることは何もない。

 すべては事後だ。

 それなら、エヌには笑顔でいて欲しい。

 俺たちが、俺たちの終焉を迎える、その瞬間まで――。


 呪われた恋人岬からの帰り道。

「エヌ?」

「なぁに、エス?」

「俺はエヌが近くにいてくれるだけで幸せだからな」

「うん――」

 この車はハンドルにシフトチェンジするスイッチがついている。それでも、俺の左手は癖でシフトレバーに置いてあった。

 エヌは俺の手癖へ彼女の右手を重ねた。

 カーステレオから、八十年代エイティーズのポップソングが流れてきた。

 日曜の深夜。

 太平洋の上を走るバイパス線で、ローカルFM局のDJが選んだ曲は、『CHICAGO』の『Hard To Say I'm Sorry(※)』だった。


(※)『Hard To Say I'm Sorry』の邦題は『素直になれなくて』

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