18

「補佐、いいですか。俺の要求を必ず役員会へ通してください。うちの常務は現場の仕事をわかっている男だ。彼なら相談窓口になってくれる筈ですからね」

 胡蝶蘭の裏口を出たところで午後の十一時半。深夜もいいところだ。結局、俺は店で二時間も補佐と仕事の話をしていた。酔っぱらった補佐を怒鳴りつけてメモを取らせたから無駄に時間がかかった。

「もう、わかったよ、わかった、わかった。エスは本当にしつこいなあ!」

 酔って喚く補佐をルリカ嬢が支えている。

「何度も言いますが、補佐が俺の要求を本部長と役員会へ通せなかった場合は――」

 そう言われても反論できないほど俺はしつこいのだ。

「――ほら、これ持ってけ。エスも楽しんでこいよお!」

 補佐が俺の胸元に諭吉の束を押し付けた。

 受け取った諭吉は二十枚近くもある――。

「――これマジですか?」

 俺は気の抜けた声を上げた。

「補佐さん、そろそろ行きましょ?」

 ルリカ嬢が俺へ視線を送りながら補佐を促した。

「ふにゅう、ルリカさぁん――」

 酒とお水の色気で骨抜きになった補佐は、ルリカ嬢と一緒に派手な建物のなかへ消えた。Bar胡蝶蘭の裏手はラブホテルと風俗店が混在する狭苦しい区画になっている。もしかしたらそうかもな、と考えていたけど、やっぱりそうだ。Bar胡蝶蘭は田舎の金持ちどもへ高級娼婦をあっせんする場所だった。サダさんは高級娼婦の元締めを本業にしている本物のヤクザだった。

「エスも、美玲と行くヨ?」

 そんなわけでだ。

 店を出ても女性用トレンチコートを羽織った美玲が俺の腕に絡みついている。

「美玲、さっきも言ったけど、俺はもう帰らなきゃ――」

 俺の声が自分の耳にも弱々しい。

「エスは美玲とアフター一緒に遊びに行くヨ。それたけネ?」

 美玲は屈託無く笑った。

「ええっと――」

 俺は視線をぐるぐる惑わせた。

 頼りない街灯の下でも、美玲の笑顔は眩しすぎて目に痛い。

「チキンと仕事せずに店へ戻るとオーナー怒るヨ。エスはとこのホテル好きか? ちょとならたくさんヘンタイするのも美玲はいいヨ?」

 美玲にぐいぐい促されて俺の足が前へ進んだ。

「俺は『チキン』じゃないと自分では思っている。だから、『きちん』とだね」

 俺は裏返った声で訂正した。美玲は濁音を上手く発音できないていどに日本語を話せる上海から来た女の子だ。元々は芸能関係の仕事に憧れて来日したらしい。俺はそれ以上、美玲の過去を訊かなかった。

「アイヤー、日本語むつかしいネ」

 美玲はてへてへ笑った。

「美玲?」

 俺が呼びかけると、

「エス?」

 美玲も呼びかける。

「ほら、持ってけ。これで今夜の美玲は嫌な仕事をせずに金を稼げたな」

 俺は補佐から渡された諭吉二十枚近くを美玲の胸元へ押し付けた。高級娼婦様のおっぱいにちらっと触れるくらいは許して欲しい。今夜の俺は色々と泣きたくなるほど我慢をしているのだ。

「――これ多いヨ?」

 道の脇のラブホテルの照明が、美玲のうつむいた顔を虹色に染めている。

「その釣りで中国の親御さんに旨いモンを食わせてやれ」

 俺はできるかぎり無感動な声で伝えた。

「エスは優しいネ」

 美玲はうつむいたまま言った。

 俺は無感動なまま続けた。

「こんな対応は全然、女に優しくない。それは俺の金じゃなくて会社の金だ。遠慮をするなよ。俺は本音のところ会社や仕事が大嫌いなんだ。だから、ざまあみやろってくらいでな」

「エスは結婚指輪してないネ。美玲のことそんな嫌いか? 中国人たから駄目か?」

 美玲の顔に涙と憤りがある。

「俺は美玲を嫌ってもいないぜ」

 俺は言った。

「わたし、早くお店へ帰ると別のお客サンの相手するたけヨ?」

 美玲の瞳が水っぽく煌めいた。

 へえ、これは俺と同じで諦めがすごく悪い性格のようだ。

 男の未練を見透かしてもいるよね。

 俺は後ずさりをしながら、

「あぅう、うーん――じゃあ、俺はここらへんで――むっぐう――!」

 油断した。

 頭を両腕で抱えられて美玲に唇を奪われた。

 うん、お相撲も自分から下がると負けるって解説者は口を揃えて言ってるし――。

「――とうだ。エスはわたしとえっちシタくなったか?」

 俺の唇を解放した美玲の笑う唇がまだ近い。

 近すぎる。

 土俵際だ――。

「――はっ、白状をする。嫁さんにする予定の女の子が、朝から俺の帰りを待ち侘びているんだ。すぐ家へ帰らなきゃ。わかってくれよ、頼むから!」

 俺は美玲の肩を掴んで危険な唇を遠ざけた。

 伸ばしきった右腕がぷるぷる震えてる。

「エスは彼女サン、そんな怖い?」

 美玲はむっと眉を強く寄せた。

「怖いね。今夜はかなり怒ってた。いくらなんでも帰りが遅すぎるってさ。土曜の夜だしな」

「エスは意気地無しの彼氏サンネ」

 ここでようやく美玲の顔と全身から女の熱が立ち去った。

「本当にそうなんだよ。俺は彼女の前だとまるで意気地が無くなるんだ。男としては情けない話だけど――」

 俺の溜息は美玲の手で散々飲まされた高級ウィスキーの匂いがした。

「エスは、そのに飽きたら、店へ来るよろしっ!」

 怒鳴られても不愉快な気分にならなかった。

 気まずい気分にはなる――。

「――うん、そうする。美玲は優しいんだな」

 美玲は弱く笑う俺を眺めた後、くるりと踵を返して、

「エス、わたし、優しくないヨ?」

 上海から来た高級娼婦が背中で告げた別れの挨拶は、笑っているような、嘲っているような、からかっているような、そのうちのどれとも断定できないような調子だった。

 後ろ髪を引かれる思いとはよく言うけど、この勢いだと髪が全部抜けて禿げあがるかも知れないよなあ。

 俺はそんな心配をしながら、のろのろとマンションへ帰った。


 時刻は午前十二時の二十五分過ぎ――。

「――ただいまぁ?」

 エヌはもう寝ているかも知れないからね。

 できるだけ小さな声で挨拶するよ。

 玄関のドアを開けたとき灯りが漏れてきたから、まだ起きていると思うけど――。

「エヌ?」

「エヌぅ?」

「エヌさぁん?」

 返事をしないエヌは窓際のリクライニングチェアで本を読んでいた。珍しく少女漫画じゃない。分厚い本のタイトルは『MBAの現実的な活用法』とある。これはかなり難しいビジネス書だね。俺のほうは活用しようにもMBAの称号タイトルなんぞ持ってない。エヌはMBA――Master of Business Administrationを取得しているのだろうか。MBAは資格とは違う。経営者向けの高度なビジネスルール検定を合格した者に授与される経営学修士号だ。学ぶ内容は、人材資源管理、マーケティング、経営学、統計学、会計学、それと経営に関係するソフトスキル。どれもこれも、Fラン大卒の俺のオツムでは難解なものばかりになる。エヌは簿記検定一級を持っていると以前に聞いた。俺は入社してからアールさんの厳命で簿記検定二級まで何とか取得した。仕事の合間を盗み盗み泣きながら勉強してようやっとだった。簿記検定一級は難関だよね。

 会計士様の登竜門になるくらいの――。

「――うーん、エヌは寝ているのかなあ?」

 気まずい気分のまま、クローゼットの前でスーツを脱ぐと、

「おかえりなさい。夜食を食べる?」

 後ろでエヌが脱いだスーツを受け取ってくれた。

「エヌ、今日は一日中ほっぽらかしてごめんな。打ち合わせが長引いて――」

 ネクタイを外しながら振り返ると、

「あ――?」

 エヌの手から俺のスーツが滑り落ちた。

「ああ、畜生。俺の鼻毛はやっぱり飛び出ていたのか。他人はなかなか指摘してくれないからな。やっぱり、みょーんと出ているか?」

 俺は背を丸めて訊いた。

「夜食、何を作ろ?」

 エヌは緩慢な動きで俺のスーツを拾い上げた。

「食ってきたから、夜食はいらないよ。風呂へ入ってくる」

 俺は首を捻りながら風呂場へ向かった。

「わたし、先に寝るね」

 後ろからエヌの小さな声だ。

「うん――?」

 後ろへ目を向けると、パジャマ姿のエヌが寝室へ消えるところだった。

「エヌは元気がないけど、どうしたんだ。熱でもあるのか。おかしな本を読んでいたし――ああ、くっそ!」

 洗面台の鏡に映った俺の顔が青ざめた。

 唇に浮気の印がついている。

 美玲の口紅だ。

 まんまと、あの中華娘にしてやられた――。

「――その上で、ケーキを買ってこなかった。今夜のお前はマジで大マヌケな野郎だな」

 俺は鏡のなかの俺を罵った。


「えっと、俺は残業を片づけてから寝るから――」

 シャワーを浴びた後で声を掛けた。ダブルベッドに横たわったエヌの背からの返事はねェ。まだ寝ている気配は無いけど何も言わない。それが今のエヌの気持ちなのだろう。

「エヌが出ていかなかっただけマシだったよな――」

「日曜はエヌへふんだんにサービスをしないといかんよな――」

「しっかし、超高級な娼婦様のお誘いを、禿げあがる思いで振り切ってきたのに、報われねェオチがついたよなあ――!」

 俺は愚痴りながら居間のPCデスクへ座った。

 今宵の持ち帰り残業はなんじゃらほい。

 じゃーん、地元の和菓子屋チェーン店の買収提案書の作成だ。近頃流行りの企業買収――M&Aってやつだよな。新規事業系の提案は部署全体で年間五十件くらい役員会へ上げていると思う。そのうち役員会のプレゼンになるのが数件で、本決まりするのは年に一件あるかないかだ。労力のほとんどが無駄に終わるから空しい上に、未知の分野のリサーチ&リサーチで、ざっくり時間を盗まれるクソ&クソ仕事だ。提案に関係した指示書を系列下の課へ送りつけると決まって嫌な顔をされるしな。その気持ちはよくわかるよ。やっても無駄だとわかっている仕事をしても、ボーナスの査定を上げるような実績にならないもんね――。

 嫌々の気分でキーボードを叩いていると深夜の二時半を回った。

 部下に要求した資料は全部揃っている。

 上司の提案書は一向に完成する気配がねェ。

 白状する。俺は提案のセンスが皆無だ。M&Aの知識だって乏しい。これまでやってきたのは、チームが企画を流した現場と現場の間を駆けずり回って収益をちょろっと押し上げ、一応の責務は果たしましたよと取り繕う。そんな仕事ばかりだったし――。

 深夜勤務は腹が減る。

 俺は台所で溜息を連発しながら袋ラーメンを作った。器は小鍋のままで具材は生卵だけ。俺の料理のレパートリーはこれしかない。十年以上、まるで進歩がない。この袋ラーメンは「震災時の非常食だから絶対に捨てるな」そういう建前でストックしてあるものだ。エヌはジャンクフードを蛇蝎だかつのように忌み嫌っている。不健康なデブを作る元凶なんだって。だから、俺は袋ラーメンを深夜に盗み食いするしかない。インスタントのラーメンはたまに食べるとおいしいものだぞ。毎日食べるとすぐ飽きるけどな。

 PCデスクへ戻って小鍋の麺を食いながら、気休めに自動車のパンフレットと見積書を眺めた。自動車販売の営業マンへ俺の名刺を突き付けると見積書がすっと出てくる。K社グループは俺の地元でその程度に名前の知れた会社なのだ。

「長いローンを組めば購入できないことはないけど。それでも論外だな――」

 俺は一番好きな車を一番最初に選択肢から除外した。何代もモデルチェンジを繰り返している国内メーカーで最高級クラスのスーパーカーだ。これは男の子なら誰でも一度くらい憧れるかっこいい車だと思う。大人になってから値段を見ると目が泳ぐね。車両本体価格だけでも安い一戸建て住宅なら二つくらい建ってしまうお値段だからなあ――。

「――やっぱり、ミニバンのファミリーカーが無難なのかな――いや、だめだ。箱型の車は何度見ても好きになれねェ。ここは、やはり、クーペで馬力があって手頃な値段のものをだ――ネットの選考から、やり直すかよ?」

 とか何とかやっているうちに深夜の三時半だ。好きなことをしているとあっという間に時間が進む。慌てて残業へ戻ったところで睡魔が襲ってきた。夜食を食ったのが大失敗だ。ああ、もう、この提案書の仕上げはメガネに任せるか。あいつは提案書を作るのが好きだし、MBAはもちろん、他にも履歴書の欄からはみ出すほど資格と称号を持っているし、何よりも仕事が大好きだから、たぶん、また快く引き受けて――。


「――エス、朝だよ。エス?」

 エヌの手が揺らす俺の背中に毛布が掛かっていた。

「んごあぁ――?」

 おじさんの朝はゾンビの気分だ。

 はらわたも脳みそも前夜の酒の残りで腐りきっている。

「エス、朝ごはん、食べて」

 エヌは毛布を被ったゾンビな俺を見て少し笑った。

「ああ、机で寝ちゃったのか――イテテ――」

 俺は椅子に座ったまま首をゴキゴキ鳴らした。

 珈琲とクロワッサンとオムレツ、それに、焼いたソーセージの匂いがする。

「また日曜も、お仕事があるの?」

 エヌは俺の肩に手を置いたまま言った。

 俺はモニタへ目を向けて、

「今日は一応、家にいる予定だよ。でも、午前中は遊べそうにない。持ち帰ってきた仕事を夜のうちに終わらせたかったんだけど――何だと? おぉう、俺はとうとう眠りながら仕事ができるようになったらしい。睡眠学習ってあるよな。すると、こいつは睡眠残業になるのか。何だか嫌だな。夢のなかまで仕事をしているなんて、ぞっとするほど病的な感じで――いや、まさか――?」

 業務用のアプリ上で提案書が完成していた。そのままプレゼンできるような濃い内容のものだ。俺の手によるものではない。文章からして違う。こんな柔らかい表現で求心力のある文章を俺は書けない。全体の骨子もしなやかで女性的だ。この提案書は女性の手で作られたものだ。人間が作る煩雑な規則ルールと、それに束縛された数字を把握する能力が異常に高い女性の競技者プレイヤーの手で――。

「――この提案書を作ったのは、エヌなのかっ!」

 俺の肩からエヌの手が離れた。

 俺は座っている椅子ごと振り返って、

「いや、俺は怒ってない。正直に言ってくれ。エヌが、この提案書を作ったのか――?」

「ダ、ダメだった?」

 エヌは一歩下がったところで震えている。

「何で経理課にいるエヌが経営企画の提案書を作れるんだ?」

 俺の声が強張った。

 顔もきっと強張っているだろう。

「エ、エスの――」

 エヌの顔が青ざめて言葉が止まった。

「怒らない。俺は絶対に怒らないから。大丈夫だから、言ってくれ」

 俺は俺自身にも言い聞かせた。

「エスの仕事を、この部屋でずっと見てたから――」

「そんな馬鹿な。エヌは、それだけで俺の仕事を全部、覚えたっていうのか?」

「それと、あれも――」

 エヌが目を向けた先は彼女が購入した大きな本棚だ。

「あっ!」

 本棚には少女漫画の全巻セット集に並んで経営関係の書籍が詰め込まれていた。

「エヌは俺の仕事を手伝うために、ずっと勉強をしていたんだな――」

「私が作った提案書、ダメだった?」

 エヌがそろそろ寄ってきてモニタを覗き込んだ。

「エヌが俺にそこまでしてくれる必要は――」

 俺は提案書をチェックしながら後の台詞を呑み込んで、

「――朝めしにしよう。今日は一日中、遊べるぜ」

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