17

 ナイフでレアのステーキを割ると肉汁が溢れ出た。その断面は手首を割った傷のような印象だ。俺は焼きをミディアムにしておけば良かったと後悔した。

 エヌの実の母親に精神疾患があったのか、それとは別の深刻な悩みがあったのか。

 そこらは、よくわからなかった。

 エヌの母親は寝室で手首を切って自殺した。第一発見者は、まだ幼かったエヌだった。驚いたエヌは床に転がっていた包丁を持ってお屋敷のリビングルームへ走った。そこでは親類縁者が一堂に会してパーティをしていた。イエス・キリスト生誕の前夜祭、エヌの金持ち一族は親類の持ち回りでホームパーティをするのが習わしになっていたそうだ。

 談笑が止まって聖夜の時間が凍り付く。

「エヌは何をしたっ!」

 エヌの父親の怒声が響いた。母親の血に濡れた刃物を持つ幼いエヌへ、親類縁者の全員が青ざめた視線を送っている。この一件以降、エヌの一族ではホームパーティが禁忌タブーになったという。

 聖なる夜の精神的外傷トラウマが、エヌを苛む他者視線恐怖症の正体――。

「――でも、わたし、何もやってないもん。ママに何もやってないもん。やってないもん。やってないもんっ!」

 俺は泣き喚くエヌを抱きしめるくらいで精一杯だった。

 それ以降、エヌの家庭の話題に触れることができていない。相変わらず籍を入れないまま同棲生活が続いている。そろそろ俺とエヌの中途半端な関係を変えなくてはいけない時期なのだろう。それは常々考えている。それでも困ったことにだ。俺はエヌとの関係をどう変えたらいいのか検討がつかない。

 仕事よりも人間関係のほうが、ずっと難しいんだよな――。


「――経営企画調整課の課長ですか。その役職は生き仏先輩なら適任だったんでしょうけどね。俺には荷が重すぎますよ。昇進の話はお引き受けできません」

 俺は個人的な悩み事を一旦棚上げにして、ステーキをもぐもぐした。

 補佐に連れてこられたのは、繁華街にある老舗の高級ステーキハウスだ。ウェイターさんが言うには、テレビや雑誌の取材、インターネットの情報掲載を神経質に断って、来店するお客様をお肉の味がおわかりになるひと――金持ちに絞っているらしい。貧乏人から脱却していると思うのだけど、ハートは貧乏なままの俺からすると、いけすかない店になる。

「僕はエス君へ生き仏先輩を引き留めるよう要請したよね。でも、君はそれに失敗した。ここは潔く責任を取ってくれ」

 補佐が俺と同じステーキをもぐもぐしながら言った。俺と補佐が無表情で咀嚼しているのは、牛のヒレ肉なかでも、シャトーブリアンというパリジェンヌのような名前がついている部位だ。牛一頭から六百グラムしか取れない貴重なお肉だという。ウェイターさんがさっき教えてくれた。このシャトーブリアンヌちゃんは、百五十グラムのちっぽけなステーキで三万円もするお値段だった。貧乏人や貧乏産まれなら、すべからく殺意が芽生える高級食材だと思う。

「それを言うなら、上司の責任が先にくるでしょう。あんたらは誰が見ても超過勤務状態にある生き仏先輩をずっとケアしていなかった。補佐は監督責任という言葉をご存知ですか?」

 俺は喉元まで上がってきた苛立ちを赤ワインで腹へ押し戻した。ウィエターさんが走る自動車のヘッドライトを追って走る影のように寄って来て、ワイングラスを赤ワインで満たしてくれる。貧乏人根性の塊のような俺は、この手の神経質な接客をされると逆に落ち着かない気分になる。真っ白なテーブルクロスが掛かったテーブル席に点在する、金をたくさん持っていそうなおっさんおばさん客どもは、こう接客されるのが当然だと言わんばかりの態度だけどな。

 補佐は赤ワインのグラスを傾けながら、

「エス君の昇進は役員会で決まったことだ。抵抗しても無駄だよ」

「辞令はまだ出ていませんよ」

「辞令より先に内示が出るのは、サラリーマンの常識だろっ!」

 補佐が怒鳴った。

 訊けば何でも教えてくれる、気の良い中年のウェイターさんが強張った顔をこちらへ向けている。

「中途採用の俺は、サラリーマンの常識なんて、ほとんど持ち合わせていないんで――」

 俺は低く唸った。

 補佐は鼻で笑って、

「エス君も生き仏先輩と同じように退職をするか?」

「よくわかりましたね。退職それを検討中ですよ」

「君に退職する覚悟があるんだ?」

「お陰様でと言っておきましょうか。今の俺はどの会社でもサラリーマンとしてやっていける自信がありますよ」

「僕だって、エス君がお高い女を囲っていることくらいは知っているんだぞ。その腕時計や、タイピン、それにスーツだって、随分と高価なものだ。エス君はその女と随分と贅沢な暮らしをしているみたいじゃないか。うちの会社を辞めて今の生活水準を維持できると思っているのか。転職はどうしても給料が下がる。ホワイトカラーは役職が偉くなったところで、その手に職が染みついているわけでもない。それに、僕たちのやっている仕事は営業じゃないからね。営業マンがよくやるように、勤めていた会社の金づるを――顧客を持って外へ逃げることはできないぞ。僕たちは転職した場合、まったくのゼロからリスタートになる。これを短気なエス君が耐えられるのかな?」

 補佐は勝ち誇った顔でステーキを口へ運んだ。

「この、クソが」

 俺はビキビキした。

「――僕たちは喧嘩をしにきたわけじゃないんだ。話を変えよう。エス君は若い女が好きだよな?」

 補佐の溜息と一緒に話題が変わった。

「大好きですが、それが何か?」

 話題が変わったところで俺は不愉快な気分のままだ。

「それなら、この食事の後は、きっと楽しめるよ」

 俺はブリアンヌちゃんとパンとスープ、それにサラダを素早く平らげて、

「――いえ、俺はこれで帰ります。ごちそうさまでした」

「駄目だ、帰るな、帰らせないぞっ!」

 補佐がまた怒鳴った。今度は店にある会話が止まった。この高級ステーキハウスでお互いを睨みつけながら、ギスギスと仕事の話をしているのは俺と補佐だけだ。

 ウェイターさんが走る影のように寄って来て、

「あのぅ、他のお客様の迷惑になりますので、もう少しお静かにお願いできませんか――?」

「それは申し訳なかったね」

 補佐は諭吉一枚をウェイターさんの胸元へ突き付けた。

「これは――?」

「仕事の話なんだ。邪魔をしないでもらえるか。わかるだろう?」

「あの、お客様、困りますから――」

「これでも、まだ足りないかっ!」

 諭吉三枚と一緒に、また補佐が怒鳴りやがる。

「こんなことをされても困ります。私どもの店は、お客様からチップを頂いてはいけないことになっておりますし――」

 ウェイターさんが泣きそうな顔になった。

「ごめんね、ウェイターさん。こいつが次に大声を出したら、俺もまとめて店から叩き出してくれ」

 俺が悪いわけでもないのに俺が謝っておく。謝って事が済むなら儲けものだ。補佐は無言で俺を睨みつけているだけだった。ウェイターさんは頷くだけの返事をすると、俺のワイングラスを赤ワインで満たしてくれた。

「――わかりました。俺も今後のことを外で決めて帰りたい。これは家まで持ち帰りたくない類の悩み事ですからね。この後、一時間だけ付き合いますよ」

 俺は溜息と一緒に妥協して、

『ごめん。打ち合わせが長引いてる。あと一時間くらいで家へ帰れるように頑張るよ』

 スマホの通信アプリでエヌへメッセージを送った。

『へえ』

 エヌの返答はこれだけだ。

『例の喫茶店でケーキ買って帰ろう。エヌはあの店のエクレア大好きだよな。他のリクエストも聞いておこうかな?』

 ここまで媚びへつらっても返事がねェ。

 面倒だなあ、もう――。


 俺と補佐は追い出される前にステーキハウスを退店して、会員制の高級クラブが並ぶ南の繁華街を歩いた。俺はこの手の店の会員証を一枚も持ってねェ。値段は高いし、高級店にいる水商売の女は気位が高くて面倒だしでね。郊外にあるフィリピンパブのほうがずっと安上がりで、良質なサービスを提供していると思うよ。肩も凝らないしな。

「風俗店の接待は勘弁をしてください。個室に別れたら仕事の話はできんですからね。それに、俺は家で彼女を待たせて――」

 俺が釘を刺している途中で、

「エス君は浮気の一つもする度胸がないのか。らしくないなあ。ま、安心しなよ。今から行くのは、ごく健全な会員制クラブだ。ごくごく健全な――こっちだよ」

 補佐の背が笑いながら表通りを外れた。ついていくと薄暗い路地裏に背の低いビルディングがあった。幅があって黒塗りでずんぐりむっくり重苦しい印象だ。このずんぐりむっくりの一階にある会員制クラブが補佐と本部長おすすめの店らしい。

「『Bar胡蝶蘭こちょうらん』? 看板には、バーとありますけど――?」

 俺は看板を見上げた。

 そのネオンサインは虹色だった。

「会員証、確認デキル?」

 声を掛けてきたのは店の表にいた黒服の男だ。座った目つき。潰れた鼻と耳。背が低くて骨太な体形。それに、浅黒い肌。東南アジア系の人種みたいだね。

「エス君は、このクラブを知らなかったのか。ま、課長代理ていどの役職にいる人間は知らないよなあ――」

 補佐が会員証を黒服へ見せた。

 黒服は無線機で連絡を取って、

「――了解。イン・ディー・トーン・ラップ・クラップ(※タイ語で『いらっしゃいませ』)――ドウゾ、オ入リクダサイ」

 顔つきや体格や挨拶から考えると、本場のムエタイの経験者っぽいな。

 この黒服は用心棒だ。

 腕っぷし自慢の用心棒が店の前で立っているような――。

「――高級クラブだよな」

 入店すると吹き抜けのラウンジの中心に円筒状の大きな水槽があった。宙を回遊するアロワナ二匹を囲ってシャンデリアがたくさんぶら下がっている。店の女と一緒に先客が正面のバーカウンターの両脇から続く階段を上がっていった。

 二階にも客席があるようだ。

「おや、K社グループの経営企画本部長補佐さん、いらっしゃい。とうとう単身で部下を連れてくるようになりましたね。また出世をなされましたか?」

 バーカウンターの向こうにいた男がラウンジへ出てきた。四十絡み。痩せ型の長身。バーテンダーのスタイルだけど蝶ネクタイはつけていない。

「お久しぶりです。いえ、出世は違うのですよ――まあ、僕だってたまには息抜きをしないとねえ?」

 補佐はへらへらと頭を下げた。

「お連れ様は――?」

 バーテンダーが俺へ目を向けた。

 柔和な表情のなかで切れ上がった目つきだけが異様に鋭い中年男だ。

「俺はK社グループで世話になっているエスと申します。えっと、貴方は――バーテンダーさんなんですか?」

 俺が言うと、

「馬鹿、エスは何てことを言うんだ!」

 補佐が俺の耳元で怒鳴った。

「何だあ、この野郎――」

 もうここで補佐をぶん殴ってやろうかと思ったけど、あのムエタイの黒服が仲裁に入ってきたら、すごく痛い思いをしそうなのでやめておく。

「エスさん、私は、この店のオーナーをやっている大門寺時貞だいもんじときさだという半端者です。呼ぶときは『サダ』で構いませんよ」

 バーテンダー姿の中年男――サダさんが笑顔で言った。

「それなら、俺のほうも『エス』で構いません」

 俺も笑顔を返しておく。

「これは、これは――補佐さんは随分とイキのいい若衆わかしゅうを使っているようで羨ましい。なるほど、エスさんか。ふむ――?」

 サダさんは俺を眺めたまま首を捻った。

 俺のほうも首を捻った。

「いえいえ、サダさん。こいつは、とんでもなく失礼な奴でしてね。甘い顔をしないほうがいいですよお?」

 補佐がへらへら口を挟むと、

「何だ? 私の口が褒めたエスさんを、お前の口は失礼な奴だと言い張るのか?」

 サダさんの声が地響きのように仄暗くなった。

「あっ――!」

 補佐のへらへら笑いが引きつった。

 サダさんは他人との距離の取り方が極端に近い。いつでも、お互いの拳が届く距離で交渉して構わないぞと言わんばかりの態度だ。これは人間関係のトラブルが自分の日常の一部になっている男だと思う。どうも、このサダさんは本格的なヤクザ者のようだ。でも、指は両方とも五本揃っているね。中年男にしては綺麗な手だ。

「――ま、エスさんの顔に免じて、聞こえなかったことにしましょう。それで、補佐さん、エスさん。御指名は、いかがいたしましょうか?」

 サダさんが元の柔和な表情を顔へ戻した。

「是非、ルリカさんをお願いします」

 補佐はルリカという源氏名の女の子がお気に入りらしい。

「サダさんへおまかせしますよ」

 俺はすぐに帰るつもりだから、なんでもいい。

「おい、宇土ウド

 サダさんが呼ぶと、

「ナニカ、サダサン!」

 ラウンジのテーブルを片づけていた黒服が駆け寄ってきた。表のムエタイ式黒服よりもまだ肌の黒い若者だ。それでも顔はブラック・アフリカンのそれではない。これも東南アジア人みたいだな。

「お二人様を上の席へご案内しろ。指名は、ルリカと――」

 サダさんが言葉を止めて俺をじっと見つめた。

「サダさん、どうかしました?」

 俺は自分の鼻毛でも長く飛び出ているのかなと心配になった。

「突然、おかしなことを言って申し訳ないのですが――エスさんは私の友人と、よく似ているんですよ。ああ、いえ、顔は全然、似ていません。エスさんのほうが、ずっとイケメンです。しかし、どうも、醸している空気が同質のような――?」

 サダさんは眉を寄せて深刻そうな顔つきだ。

「へえ、サダさんの友人と是非とも会ってみたい。俺は一人っ子なんですよ。もしかしたら生き別れの兄だとか弟かも知れない。いや、姉とか妹かな?」

 俺は可笑しくなって笑った。

 鼻毛が飛び出ているわけではないらしい。

 サダさんも声を上げて笑って、

「――言う冗談まで、よく似ている。それなら、きっと、あのが気に入るでしょう。宇土、美玲ミレイを呼んで来い。多分、あいつは楽屋にいない。またサボっている。裏の路地を探せ」

「ワカタ、ワカタ、サダサン!」

 ぶんぶん頷いた宇土君が、俺と補佐を上へ案内した。二階のテーブル席はアラベスク文様がついた間仕切りで分けられていて、客がどれだけいるのかよくわからない。しかし、フロアに流れる男と女の声を聞くと、席の半分以上は客で埋まっているようだった。


 ソファに腰を落ち着けてすぐ、

「補佐さんじゃない。お久しぶりよね。今まで、どこで浮気をしていたの。あら、そちらのお連れ様は――?」

 水商売の女が挨拶と一緒に顔を見せた。ゆるふわとした茶色い長髪のゴージャスな美女だ。年齢は二十代中盤くらいに見える。

「俺は補佐の部下をやっているエスと申します」

 俺は嫌々ながら上司を立てた。

「貴方はエスさんね。私はルリカよ。以後、お見知りおきを――やっぱり、男前の上司は男前の部下を使っているのね」

 ゴージャスな水商売の女――ルリカ嬢が御愛想と一緒にふふふと笑うと、補佐もアハハと笑って返した。俺の接待をする女の子は遅れてきた。酒やらつまみが乗ったお盆を持った宇土君がわあわあと外国語で――インドネシアあたりの言語で急かしている。サダさんが言っていた通りだ。どこかで仕事をサボっていたらしい。週末の夜に指名が取れない水商売の女に見た目だとか接客態度は期待できないよな。

 俺は溜息と一緒に顔を上げて、

「えーと、君が美玲――おう――」

「そうヨ、わたし、美玲ヨ?」

 黒いチャイナ服の、黒いお団子ヘアの女の子が腰を曲げて俺の顔を覗き込んでいた。真夜中の瞳で星屑スターダストが舞っている。顔は美少女のそれで、スタイルは抜群に女性らしいそれだった。

 特別、チャイナドレスのスリットから長く飛び出た白い素足が、息を呑むほど素晴らしい――。

「――驚いた。美玲は、どこの芸能人事務所の所属なの。やっぱり、中国の芸能人事務所なのか?」

「アイヤー、お上手ネ! わたし、上海出身ヨ。芸能界出身はちょと違うネ。水割りするか? ビールもあるヨ?」

 美玲が笑いながら俺の横へすとんと腰を下ろした。一挙一動、華が舞い散るような愛嬌だ。俺は喜んでウィスキーの水割りを注文した。美玲は高額な銘柄のジャパニーズウィスキーを容赦無くミネラルウォーターで薄めてくれた。貧乏舌の俺でも、これはもったいない飲み方だなあと思うのだけど、いい女の手で作られた水割りに嫌な顔をできるわけがないだろ。訊くと美玲はウーロン茶を飲むと言った。たいして飲みもしないのにやたら高い酒をねだって、客の懐へ削りを入れないのも好感度がハネ上がる。

 個人的に美玲は容姿も接客も満点となった。

「エス君は、そのを随分と気に入ったようじゃないか?」

 補佐が酒で赤らんだ笑顔を俺へ向けた。

 その横でルリカ嬢も笑顔を俺へ向けている。

「それでも、仕事の話が終わったら、すぐ帰らせて――うっわ――」

 俺は自分の腕時計へ目を向けて驚愕した。

 あらやだなにこれ奥さんどうしたの?

 我に返ると美玲の手で高い酒を一時間も飲まされている。

 仕事の話は、まだ終わってない。

「エスは帰るの駄目ヨ。夜はこれから、たからネ!」

 美玲はぐいぐい俺へ身を寄せながらぷんと怒った表情だ。一時間で、お互いの名前をなあなあ呼び捨てする仲になっている。

 高級クラブで働く女子諸君の手練手管は侮れないよなあ。

「そうだよね、ルリカさん。まだ帰るのは駄目だよねえ?」

「そうよね、補佐さん」

 補佐とルリカ嬢がうふふアハハと頷き合った。

 美玲は沈黙した俺をまだ睨んでいる。

 怒っても可愛い中華娘の顔がすごく近い――。

「――僕はエス君から色よい返事を聞くまで帰れない。それで、どうなんだ。昇進の話を受けてくれる気になったのか?」

 補佐は笑顔を消した。

「返事ですか。俺は真剣に転職を考えています。そんなふざけた課の長になったら間違いなく仕事に殺される」

 俺の結論はこうなった。部下どもはまだ若いけど、タフな性格だし仕事の能力は総じて高い。俺がいなくても立派にやっていけるだろう。遠縁のおじさんも、アールさんも、生き仏先輩も去っていった。あの会社に恩義のあるひとは一人も残っていない。俺はK社グループに未練が無い。

 もちろん、職を変えることに不安がないわけじゃないけど――。

「――それはさせないぞ。駄目だっ!」

 補佐がソファから立ち上がって怒鳴った。だいぶ酒が入っているのに、また顔が真っ青になっている。絶対に引き下がらない覚悟らしいね。

 風見鶏の覚悟なんて、俺のほうはどうでもいいけどな。

「補佐さん、落ち着いて。座って楽しみましょう、ね?」

 ルリカ嬢が甘い声で嗜めたけど、補佐は突っ立ったまま俺を見下ろしていた。

「ちょっとばかり運よく世間様の波に乗って成功して、イキがっている風情の経営者なりきんどもへ、俺の人生を全部くれてやれだなんてクソそのものの要求は真正面から御免被る。俺という個人はあくまで独立国だ。独立国の国境線は殺されたって譲れねェだろ。違うのか?」

 奴隷の仮面を捨てると俺はこうなる。

「エ、エス君、ちょっと、僕の話をちゃんと――」

 補佐の声が強張った。

「へえ、話を聞いてみたところでだぜ。風見鶏風情に何ができるって――」

 俺の大見得は途中で止まった。

「――この通りだっ! エス君、ここは何とぞ、何とぞおっ!」

 補佐は通路へ飛び出して俺が帰る先を塞ぎ土下座をしている。

 養鶏は養鶏で命懸けの生き方らしい。

 俺は耐えきれずに声を出して笑った。

 男一匹がここまでの無様を晒すのは滑稽だよな。

 なあ、そうじゃないのか、男性諸君――?

「――エスさん?」

 ルリカ嬢が呟くように呼びかけた。

 美玲は動物園の珍獣を眺めるような目つきで補佐の土下座を眺めていた。

「はあ、何でしょう、ルリカさん?」

 目を向けると、ルリカ嬢は長くて細い煙草を唇の間に挟んでいる。

「サラリーマンって、結構、たいへんなお仕事なのよね――」

 ルリカ嬢は煙草に火をつけて瞳を細くした。土下座のまま頭を上げない補佐を見やる水商売の女の瞳に、相手を侮蔑しているような、憐れんでいるような、慈しんでいるような、そのどれとも断定できない感情が浮かんでいる。

「ええ、俺も毎日そう思っていますよ」

 俺は頷いて胸ポケットから煙草の箱を取り出した。

「――美玲も煙草、吸うの?」

 その煙草の箱を美玲が横からひょいと取り上げた。

「わたし、吸わないヨー。煙草は美容と健康に悪いネ。箱にたってそう書いてあるヨ?」

 美玲は両方の瞳を細くして訴えた。

 こちらは単純に不健康を好んでする俺を叱る態度だ。

「よく知ってるけど俺は吸うね」

 俺は笑いながら美玲の手から煙草の箱を取り返した。

「エスは意地悪ネ!」

 とか何とかいいながら、美玲はくわえた煙草に火をつけてくれるだ。

「――補佐が俺の要求を丸呑みできるなら、昇進の話を受けてもいいぜ」

 俺は煙草の煙を吐いた。

「ぼ、僕に聞ける要求なら――」

 補佐が土下座のまま顔を上げた。

「今からするのは俺個人とあんた個人がする契約だ。『僕そんなこと言いましたっけ?』なんてな。ふざけた契約違反をやらかしたら、俺は退職届を突き出して即座に部署から消える。俺がドロンしたら、部署のいざこざが集中するのは補佐のあんただ。だが、あんたじゃ汚れ仕事を捌ききれん。当たり前の話だろ。今まで、あんたはずっと都合の悪い仕事から逃げ回ってきた。だから、汚れ仕事が専門の部下へ土下座までする羽目になったんだ」

「き、聞かせてくれ。聞いてから判断するから――」

「一番の懸念は人材だ。まず、俺の部下を新設される課へ持っていく――」

 新設される課へ金髪とデブとヤン子とチマ子を異動させる。役員会への提案や経営の数字に滅法強いメガネと新人ちゃんは本部へ残す。本音を言うと、メガネも課へ持ち込みたい。しかし、他人の企画の尻ぬぐいが主な仕事になる経営企画調整課で、メガネは本来の実力を発揮できないだろう。経営企画本部と経営企画調整課は常に対等な力関係でお互いの要請や指示を遣り取りできるようにする。経営企画調整課が本部から面倒な仕事を一方的に受けるだけの状況に陥った場合、俺は問答無用で会社から消える。

 大雑把に要約するとそんな内容だ。

 俺は補佐へ交換条件を突きつけた。

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