エヌの章

 真夜中の田舎街を走り抜け、闇に淀む山道を突っ切り、あの門へ続く砂利道の入り口へ辿り着いたときには、もう夜が白んでいた。二度目に来たときとは違う。入口を封じる鎖がズタズタに断ち切られていた。

 封印は何者かの手で解かれている。

「やっぱり、エムもここへ来たんだな――」

 スクーターで砂利の坂道を下っている最中、山間から朝陽が登り始めた。

 俺は鼻歌を歌った。

『Let's Twist Again』

 オールデイズの名曲だ。

 今は、この歌が、この世界に残った俺が好んだ唯一のものになった。

 坂道の下にある森の道に入ると、白い羽虫がたくさん舞っている。羽虫の群れは、これからどこへ行こうか迷っているような動きだった。例の門の前に到着すると、そこから漏れ出る光がひどく弱々しい。その代わり、以前よりも森そのものが明るくなっていた。光量の多さで今回は把握できた。門の脇の藪は元駐車場だったようだ。そこに自動車やバイクや自転車がたくさん放棄されていた。どれも持ち主が手放してから長い時間が経っているように見えた。テレビ局の名前がついたミニバンもある。

「前に来たときと様子が違うぞ――?」

 スクーターから降りて傾いた鉄扉の間を抜けた。一直線に続く石畳の道を雑草が食い破っている。左右に並ぶ結跏趺坐の大仏が、俺へ右の手の平を見せ、左の手を前へ出していた。

 このジェスチャーは、右の手の形が施無畏印せむいいん――畏れず寄れ、

 左の手の形が与願印よがんいん――なんじの望みを叶えよう、

 そんな、ありがたいメッセージが込められているのだという。

 大仏の道の突き当りに巨大な階段があった。階上の敷地に大メサイア救世教の本殿がそびえ立っている。建築途中に放棄されたようだ。建物の周辺はまだ足場が残っていて、そこへツタが這い上っていた。陽の光が木の幹の間から届いているけど、霞で視界が悪い。霞はなまぬるくて甘ったるい臭いがした。階段を上がり切ると、本殿前の広場に赤と緑の山があった。そいつが白い瘴気をもうもうと噴出している。

 これが門の正体だった。

「食虫植物は違った。これは――食人植物ってところなのか――?」

 俺は遠目に食人植物を眺めた。ウツボカズラのような巨大な身体が横たわっている。それに毛むくじゃらの脚が二本ついていた。よく見ると体毛ではなくて根っこのようだ。身体からは触手が何本も伸びている。石畳をうねうね這う触手の先端は電球のような形だった。まだ弱々しく光っている。腹は横一線に裂け、体液と一緒に大量の人骨が流れ出していた。

「光と臭いで誘い込んだ人間を食い過ぎて腹が裂けたのかな。どうだかよくわからんけど、異形の怪物にしては随分とマヌケな最後だぜ――」

 怪物は自分の体液で溶けて死にかかっているようだ。このまま放っておけば跡形も無くなるだろう。足元から鼻を衝く匂いが立ち上った。体液を踏んだスニーカーが焼けている。湖のように広がった体液は強力な酸性らしい。

 構わず近寄った。

 死ぬつもりで、ここに来た。

 怖いものなんて何もねェ。

「俺もここで骨になる予定だったのにな。俺って野郎は、どこまでツキの無い男なんだ――」

 俺は白骨の雪崩を見回した。肉や髪の毛がかろうじて残っている頭蓋骨もあるけど、元の顔を判別するのはとても無理だ。このなかにエムや、認知症を拗らせて失踪した俺の祖父の骨も交っているのかも知れない。

「何だよ、これ――?」

 俺は人骨の雪崩の真ん中で岩を見つけた。

 真っ二つに割れたその岩は大人の背丈くらいの大きさがある。

 それが見るたび違う色で光っている。

 赤色、橙色、黄色、緑色、青色、藍色、紫色。

 虹の光だ。

 割れたからなのだろうか。

 岩を巡る虹は見ているうちに弱々しくなっていく。

「――おい、わけのわからないうちに消えるなよ」

 俺の手が虹へ伸びた。

 今、この瞬間なら、消えかかっている虹を、捕まえられそうな気がしたのだ。

 虹の光に触れた瞬間、目の前が炸裂した。

 俺はしばらくの間、無数の色彩が過去や未来へ飛び交う不思議な空間のなかにいた。

 その最後に見たのは完全な闇だ。

 視界へ墨汁をたらし込まれたような――。


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「――何だ?」

 目を瞬いたけど、何も見えない。

 失明したのかと思った。

 そうではなかった。

 夜だから暗いだけだ。

 闇に慣れた目が見つめていたのは、スーパーカーのハンドルだった。

 俺は運転席にいる。

「これは売り払った筈の車の運転席――?」

 ハンドルをぺたぺた叩いてみた。

 当然だけど、自動車は何も応えない。

 確かにあるぞと俺が認識できただけだ。

「確かに俺は、あの門を潜って、食人植物を見つけて――悪い夢でも見ていたのか?」

 スーパーカーから降りると実家の庭だった。

「これK社グループを辞めて実家へ戻ってきた時点だよな。ああ、俺は、もう一度、ここから認知症のお袋と暮らした一年を繰り返すのか。神様とやらよ、これは酷すぎる仕打ちだろ。ここの他に俺の人生のセーブポイントは無いのかよ?」

 夜空を見上げると夏の熱気で霞んだ月が俺を嘲笑っている。

 俺は呆れて笑い返した。

 戻って来たのは不可解な過去だけど、それをたいして不思議だとも思えない。

 あの門と遭遇した、あの夏の季節から、どうにも不思議な出来事ばかりだ。

 酷い過去がループするくらい驚くことはないよな。

 もう俺にとって、この世界にある何もかもが、どうでもいいことでもある。

 ああ、これって死に際に見る走馬灯ってやつなのか?

 それとも、あの虹の塊は触れた者へ呪われた効果を及ぼすアイテムで、これからの俺は自分が不幸になるシナリオを延々と体験し続けるだとか――。

「――ん?」

 ばたんと自動車のドアが閉まる音だ。

 表の道に黄色いタクシーが一台止まっている。

 その脇に白いワンピースを着て、白い女性用鍔広帽子をかぶった、白い人影が佇んでいた。

 その後ろを黄色いタクシーが走り去った。

「エヌ?」

 頭のてっぺんから脊椎を抜けて尾てい骨までビーンと音が聞こえるほど痺れた。

 星々の大河に浮かぶ月がケラケラ笑う。

 諦めの闇が砕け散って夜がきらきら輝く。

 うわああああっとカエルの歓声が鼓膜を揺さぶった。

 ああ、俺は今まで見えていなかったものが見えて、聞こえていなかった音が聞こえている。

 生まれ変わったような気分だ。

「どうして、エヌが、ここに――?」

 俺は身体と心が痺れて動けない。

「わ、わたし、謝らなきゃって――ちゃんとエスに謝らなきゃって、病院で、ずっと、それだけ考えてて――わたしのせいで、エス、すごく辛い思いをしたと思うから――!」

 エヌも泣くのに忙しくて動けそうにない。

「いいんだ、それ以上、謝らなくて、いいから――」

 俺はエヌに歩み寄った。

 無理に動かす足がもつれて転びそうだった。

「ごめんね、ごめんね――」

「エヌが俺の近くにいる。前にも言っただろ。それだけでいい。俺はそれだけでいいんだ」

 俺はエヌを抱きしめた。

 エヌの肩に涙がぽとぽと落ちる。

 エヌも俺の腕のなかで泣いていた。

 そのまま、二人でわんわん泣いていると、玄関先の電灯が点いて、

「あらやだ、エスとエヌちゃんじゃない。こんな夜中にどうかしたの?」

 家からお袋が出てきた。

「くそっ、お袋か――ああ、みっともねェから、今は俺を見るなよ――」

 俺は腕でごしごしやって泣き顔を消した。

「二人とも、どうしたの、何か悪いことがあったのっ!」

 お袋が絶叫した。

 まあ、息子と息子の彼女が二人揃って実家の庭先でぎゃんぎゃん泣いていたら、かなりの異常事態だよな。

 俺もそう思うよ。

「いや、それよりも、お袋はどうなった?」

 俺は叫んだまま固まったお袋の顔を近くで眺めた。

「え? 私のほうが、どうかしたの? どうもしていないと思うけどねえ?」

 お袋は怪訝な表情だ。

 老いた顔だけど感情は、はっきり、そこにある――。

「ごめんなさい、ごめんなさい、お母さん。わたしのせいでエスが――」

 エヌは俺にしがみついたまま謝った。

「何があったのかよくわからないけど、とにかく、家へ上がりなさいな。あらやだ、すごい車じゃないの――これ、エスが買ったの? 贅沢をするなって何度も何度も言ってあるでしょ。エスとエヌちゃんは、いずれ、子供だって――ほら、子供って育てるのに親のお金がうんとかかるものだからねえ」

 お袋はゲス笑いで俺とエヌを交互に見やった。

 本当に年寄りってのは無神経でうぜェよな。

「ああいや、それはいいんだ。お袋の認知症は、どうなったんだ?」

 俺は呟いた。

「私って認知症だったの? ち、近頃、物忘れがひどくはなっているけど――ま、まさか、あんたたちは、私の病気をお医者さんから聞かされてぇえっ!」

 お袋が泣き崩れそうになった。

「まあ、その様子だと、まだしばらくの間は大丈夫なんじゃねェの――エヌ、家へ上がれよ」

「エス、私は認知症なの? 正直に言いなさい。覚悟はできているから」

 お袋が震え声で何度も何度もしつこく訊いてきた。

 俺もしつこい性格だけど、お袋には負ける。

 一年間の時を逆行すると、エヌは俺の傍に帰ってきて、お袋の認知症は、たぶん、消えていた。

 あの門の向こうで発見した虹の塊はマジで奇跡の結晶だったらしい。

 虹に触れたとき、俺が強く想っていたのは、エヌのことと、お袋の認知症のことだった。過去へ飛ばされてみると、この二つの難題が何の努力も無しで解決されていた。解決されていたというのは少し違うかも知れない。何者かの手で斬り捨てられたように、俺にとって都合の悪かった結果だけが抹消されていたのだ。

 日本神話の神剣――草薙剣は、須佐之男命スサノオノミコト八岐大蛇ヤマタノオロチを退治したとき、切った尻尾から転がり出てきたものらしいからな。あの虹の塊だって異世界の怪物の腹から転がり出てきたものだから奇跡の力を宿していても不思議じゃないよな。

 俺は勝手に納得して大いに喜んだ後、自分の馬鹿さ加減に身悶えした。

 あの虹が俺へ与えたのは、一年間分の時間旅行と、エヌとの再会と、お袋の認知症の消去、このとんでもなくポジティブな三つの奇跡だ。ほら、世界一の大富豪になるだとか、インチキみたいな超能力の数々を使えるようになるとか、他にも色々とだよ。今になって考えると、この他にも望んでおけば何だって実現できていた筈なんだよな。

 無職の暇ついでだ。

 後日、俺はエヌを誘って、あの門までドライブをした。

 あわよくば、あの奇跡の虹を手に入れてやろうと欲が出たのだ。

 ところが、だ。

 山中の入り口へ辿り着いてみると封印は閉じられたままになっている。


「この先が異世界の門へ続く下り坂なの?」

 エヌは助手席から降りて封印の金網に取り付けられた看板を見つめた。

『この先、危険につき立ち入り禁止。H市土木工事整備西事務所』

 こう書かれた看板だ。ここまでの道中、エヌへあの夏の季節に遭遇した怪奇現象を語って聞かせた。エヌは怖がりだけど、ホラー映画だとかホラーなゲームが嫌いじゃない。むしろ、好んでいる。俺の話にも興味津々の態度だった。

「うん。前回は、そうだったんだけど――」

 俺も運転席から降りて看板を眺めた。錆びが浮いて文字が読み辛い。ここへ設置されてから一度も人間の手が触れられていないような感じだ。

「でも、これだと先に進めないよね?」

 エヌが小首を傾げた。

「どうやっても車じゃ入れそうにねェよな。歩いて近寄るのは危険すぎるだろうし――ボルトクリッターを持ってくればよかったか?」

 封印に絡みついた太い鎖が大きな南京錠で固定されている。

「ボルトクリッターって鎖を切る道具のこと?」

「それだよ。よく知っているな」

「こんな太い鎖も切れる?」

「いや、こういう場合、切るのは南京錠のツルだ。何本もある鎖を切っていたらキリがないだろ。それでも、こいつは大きくて頑丈な南京錠だからな。素人が手作業でどうにかするのは難しそうだ。うーん、前回の先客は、どんな工具を使って、この厳重な封印を解いたんだろ――あ、いや、前回は確か、鎖のほうがズタズタに叩き切られて――考えれば考えるほど、おかしいぞ。こんなぶっとい鎖を、どうやって切ったんだ?」

 俺も首を捻った。

「それで、異世界の門から逃げ帰ってきたエスと友達二人は、その後、どうなったの?」

 エヌが訊いた。

 それだよな。

 それが、俺にも、よくわからないんだよなあ。

 俺はともかく、エムとエイチは、どうなったんだ?

 奇跡の虹の光でタイムトラベルをキメた俺が着地した時間の座標は、エイチがエムの行方不明を伝えてきた夏のちょうど一年前だから、まだよくわからん。でも、前回のエムが失踪したのは――おそらくは、異世界の門の向こう側に消えたのは、ちょうど今頃だった筈だ。それでも、封印が封印されたままになっているということは、俺と同じようにエムの人生も、かつてとは違ったものになっているのかも知れない。エイチだってどうなっているかわからない。この延長線上で考えを巡らせると、前回この先にあった異世界の門だって、今回は存在するかどうかも怪しくなってくる――。

「――あ、うーん、その後な。向こうの山の県道に出たところで車を停めてね。三人並んで立ち小便をしたんだよ」

 俺は答えを誤魔化すことにした。

 俺が失職中で無収入なのは困りものだけど、実家でエヌと一緒に暮らしていて、同じ実家にいるお袋はまだ元気だし、少なくとも現状、この三人で食うに困ることはない。

 今の俺は十分、幸せだ。

 これ以上の奇跡を望むのは贅沢だよな。

 俺が笑うと、

「えー?」

 エヌも笑った。

「ああ、帰る前に、エヌもおしっこをしておく?」

 俺は道の脇へ寄った。

「ばか!」

 エヌは怒っているようだ。

 女の子は立ち小便ができないもんね。

「俺は今から小便をするね。まあ、俺とエムとエイチが小便したのは、向こうの山の道だったんだけどぉお――」

 側溝へ小用を流しながら見上げると、山の斜面に整列する杉の木の上に、真夏の青空が広がっていた。

 ここだけは、あの夏の季節と、まったく同じだった。

 空は高く、陽もまだ高い――。

「――んもー、来る途中で、冷たいお茶をたくさん飲むからだよ」

 エヌは笑いながら助手席へ戻った。

「あー、冷たいお茶かあ――そうだ、手土産に十円饅頭を買って帰ろう。エヌは知ってるか、十円饅頭」

 俺も笑いながら運転席へ戻った。

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