22

 北区の役所へ出向いて、お袋の介護の相談をした。

 一般的な介護サービスの料金表を見て、その値段に眩暈を覚えたけど、お袋の介護保険を利用すれば最小で一割~最大で三割の負担で済むという。一通り介護保険制度の説明を受けた後、役所の近くにある地域包括支援センターへ足を向けるようにと勧められた。

 直後、地域包括支援センターのケースワーカーと話をした。

 俺が心配しているのはお袋の財産だ。銀行がお袋の認知症をかぎつけた場合、口座は凍結されてしまう。俺は無職だ。このままだとお袋を介護するための金に困るのは目に見える。ケースワーカーは「成年後見人を立ててはどうか?」と言った。この成年後見人制度が調べてみると厄介だった。成年後見人の内実は家庭裁判所が選任する弁護士や司法書士や社会福祉士で、こいつらを利用するとひと月に五~十万円も費用がかかる。その上、法定成年後見人が必ずしも善良な働き者であるとは限らない。担当する成年後見人が気に食わなくても、奴らは法律で厳重にガードされている。こちら側から更迭することは難しい。俺自身が家庭裁判所へ話を通してお袋の成年後見人になることもできる。しかし、この場合は裁判所が監査人をつけるので、結局、他人の成年後見人を立てるのと状況はあまり変わらない。考えた挙句、当面はお袋の財産を俺の手元で管理することにした。銀行の窓口に押し掛けて喚き散らせば、口座の凍結を阻止することくらいのことはできるのだ。これでしばらくの間は、お袋の財産を認知症と他人と法律に食い潰されることはかろうじて防ぐことができる。むろん、これはその場しのぎだ。お袋の認知症が進行する都度、対応を考え直さないといけない。

 介護の相談ついでだ。

 役所の隣のハローワークで失業手当を受け取る手続きをした。求人情報の検索もしてみる。経営企画なんて職種は求人がほとんど無い。あれは特殊な職種だから当然こうなる。他にできそうなのは口先三寸でどうにかなる営業職か、運転免許証を持っていて健康なら誰でもできる配送業務くらいかな。

 もし、エヌと再会できたら。

 もし、エヌがあのとき何もできなかった俺に愛想を尽かしていなかったら。

 もし、エヌとまた一緒に暮らすことができたならだ。

 俺が稼がないと食わせてやれない。

 それだけの動機で営業職に絞って再就職活動を始めた。それが、まるっきり、うまくいかなかった。どの会社も同じだ。面接でK社グループでやってきた仕事や、志望動機やらを何やらを語ろうとすると「あ、エスさん、もういいですよ」そんな感じで面接担当者は話を切り上げてしまう。雇用条件の交渉まで辿り着いた試しがなかった。就職活動のために契約したスマホはお祈りメールの受け皿になっている。

 再就職先が見つからないまま半年が過ぎ、失業手当は打ち切られた。

 何か、おかしい――。


「――担当さん。俺という人材は、そこまで市場価値がありませんかね?」

 俺は業を煮やしてハロワの相談窓口へ探りを入れた。

「うーん、エスさんの経歴で、こうまで就職先が決まらないのは、うーん、そう言われると、おかしな話ですね。資格欄だって、そこそこ埋まっているのにね、うーん」

 この担当の若い男は、いつ見てもやる気がなさそうな奴だ。

「あ、はあ」

 俺も気力の無い態度で相槌を打った。

「あー、エスさん。来月の初め、ハローワーク主催の面接マナー講習会が駅前ホールでありますから、それにですね、参加をしてみてください。東の都から来る有名な転職エージェントが講師をするので――」

 担当が一色刷りの広告を突き出した。

 俺の面接の態度に問題があるのではないか?

 こいつはそう考えているようだ。

「担当さん?」

「あ、はい?」

 担当は広告から顔を上げた。

「俺は十と数年、サラリーマン一筋でやってきました。今更、面接や商談のマナー講座はいらないと思います。少なくとも、面接で先方へ失礼な態度を見せたことは一度も無いと考えてもいます」

「うーん、エスさんが前にいたのは――K社グループの経営企画かあ。こんな豪華な職歴の求職者は滅多にいませんよ。大手の企業の企画って花形部署ですよね。ものすごく忙しい業種なんでしょ?」

「花形かどうかはわかりませんが、あの職場が忙しかったのは間違いないですよ」

「えーと、経営戦略を立案したりだとか?」

「自分は提案や企画の作成より、企画が実働へ移行した際の問題処理のほうが得意でしたね」

「おっかしいなあ。あー、面接時、職歴を過信して、エスさん側から厳しい条件を出していないですか? 具体的には給与面とか勤務地とかですよねえ」

 まだ担当は俺に問題があるのではないのかと疑っているようだ。

「――次は、この会社を紹介してもらえますか?」

 俺は自分でプリントアウトしてきた求人票を突き付けた。このやる気がなさそうな担当に訊いたところで、面接担当者の不可解な態度は何だったのか判明しそうにない。

「あーと、営業職か。この会社は――あー、これ以前、エスさんが働いていたK社グループの下請けをやっているところですよ。いいんですか。給料もかなり下がりますが?」

 担当は求人票を片手にボールペンで頭を掻いた。

「ええ、構いません」

 俺が頷くと担当は諦めたような態度で受話器を手に取った。

 どうも俺は生まれたときからずっと暮らしてきたこの片田舎から煙たがれているらしい。

 裏で誰が何をやっているのか、これから確かめてやる。


 §


 面接を申し込んだのは、K社グループの介護事業部へ介護用品の納入やレンタルをしている会社だ。支社を含めて従業員は五十名前後。求人を無碍に断っているとハローワーク側が求人票を取り下げると思う。たいていの中小企業は新卒の人材を確保するのが難しいから中途採用が頼みの綱だ。ハロワを通せば先方は採用するつもりがなくても面接を断れないだろう。

 俺の思惑通りになった。

 面接に指定された場所は先方の本社、時間は平日の午後二時だ。

 約束の時間の十分前に先方の駐車場へスーパーカーを乗り入れた。二階建ての本社の横に倉庫が並んでいる。配送の絡む業種が忙しいのは朝方と昼過ぎだ。今は敷地にひとの気配がほとんどない。若い社員がフォークリフトの上でスマホを眺めている。俺の車をチラっと見やっただけで他の反応をしなかった。この若い彼は、いろいろと諦めて、いろいろとやる気が無さそうな感じだった。

 俺はフォークリフトの社員を後目に本社へ入った。

「こんにちわ。ハローワークを通して面接のアポイントメントを取った、エスというものです」

 無人の受付の向こう側にデスクが二十個前後並んでいる。座って仕事をしていたのは女の子が数人だ。男の社員は営業に出ているか配送に出ているのだろう。

「――あ、はい! エスさんですね。担当の者を呼びますから、少しお待ちください」

 受付に近いデスクにいた若い女の子が廊下へ消えた。残った女の子たちがちらちら俺へ視線を送りながら、その視線で周辺と無言の会話をしていた。

「あー、来たね。君がエス君?」

 廊下の奥から姿を見せたのは、愛想笑いを顔面へ縫い付けたような初老の男だ。

「はい、自分がエスです」

 俺は笑顔を返さず頭を下げた。

「僕はこの会社で常務をやっている者だ。まあ、ついてきて」

 この常務が面接を担当するらしい。たいていの中小企業は、人事専門の仕事をしている人間なんていない。人材の余裕が無いからだ。採用候補者と面談するのは所長だとか常務とか、社長より一段下あたりの取締役の仕事になることが多い。

 案内されたのは二階の会議室だった。ひとの臭いがしない。部屋の隅に積み上げられた段ボール箱から道具の臭いはする。普段、ほとんど使われていない部屋のようだ。そこに先客が一人いた。ブラインドを上げているところを見ると就職希望者じゃない。細い目の背丈の小さい男だった。明るい色合いのスーツを着て若作りをしているけど、俺より一回り上の年齢に見える。

「そちらの方は――?」

「俺は営業部長だ。エス君は営業が希望なんだろ。それなら、営業部門の責任者と顔を突き合わせて話をする必要があるよな」

 若作りのチビの中年男――営業部長が椅子へ腰を下ろした。

「ま、エス君も座って。以前、K社グループ様に勤めておられたということだったね。うちの営業部長も昔は、K社グループの不動産事業部で営業をやっておられたのだよ」

 常務が営業部長の紹介をしながら横に座った。

 俺は対面の席に腰を下ろして、

「不動産事業部ですか。申し訳ありませんが、自分の記憶に営業部長さんの顔は無いですね」

「失礼しまぁす」

 女子社員がお盆と一緒に会議室へ入ってきて俺の前へお茶を置いた。

 俺は無言で頭だけ下げた。

 女子社員も会釈をしただけで何も言わなかった。

 俺はビジネスバッグから履歴書を取り出して営業部長の前へ置いた。

「俺はエス君をよく知っているぞ。入社したときから目立っていた。最初は、いつK社グループを辞めるのか賭けの対象になっていた。そのうち、中途採用の割に頑張っていると評価が変わった。そこらで事業部の上役がお前の顔色を窺って頭を下げ始めた。最終的には、経営企画本部のエースプレイヤーにまでのし上がった――しかし、驚いた。そのエース殿は、こんなに、しょっぱい学歴だったのか。求職中ということは、実家がK社グループに関係した事業をやっているわけでもないんだろ。お前、どういうふざけたコネを使ってK社グループの経営企画本部シンクタンクへ潜り込んだんだ?」

 営業部長は俺の履歴書を眺めながら鼻で笑った。

「俺があの会社でやっていたのは、もっぱら汚れ役でした。汚れ役の学歴は、それなりに地べたのほうじゃないと恰好がつかんでしょう?」

 俺も声を出さずに笑ってやった。

「経営企画本部は不動産事業部をよく虐めてくれたよな。改善だとか再編だとか、現場の都合も考えずに、ふざけやがって――」

 営業部長は俺の言うことが何も聞こえていないような態度だ。

「K社グループ様の社風はとても厳しいものからね。大変だっただろうね――」

 常務が難しい顔で何度も頷いた。

「そんなに虐めましたかね。自分の記憶にはありませんが」

 俺は肩を竦めて見せた。

「K社グループから追い出された人間が、その下請けをやっている会社へ、のうのうと顔を見せやがって。お前、何を考えている――?」

 営業部長はずっと喧嘩腰だけど、俺の顔をまともに見ようとしない。これはその低い身長と同様、肝の小さい男なのだろう。

「あー、営業部長、営業部長。そうカリカリとしないで」

 専務が営業部長を嗜めた。

「それで、エス君は俺の会社の沿革を知ってるの?」

 営業部長が溜息と一緒に言った。

「俺の会社とおっしゃられましたか?」

 てめェの会社の沿革なんぞはクソほどどうでもいい。

 俺のほうも、どうでもいいような疑問をぶつけてやった。

「この会社の社長は俺の親父だよ」

 営業部長が鼻で笑った。既得利権者側に生まれついた者が、生まれついての持たざる者――俺を嘲笑う態度だ。

 俺も鼻で笑って返した。

 K社グループが下請け会社の丁稚奉公を受け入れるのはよくあることだ。このドラ息子は以前、K社グループの不動産事業部で営業をやっていたらしい。経営に関わっていた俺が顔を知らないような営業マンだ。K社グループでは、まともな業績を上げていなかったのだろう。甘ったれた小金持ちのボンボンの丁稚なんぞ、たいていそのていどの実務能力しかないものだよな。

 営業部長が顔を赤くして自分の会社の沿革を語った。

 今の社長は元零細運送屋の二代目らしい。その社長が都会の大学へ通っている時分、K社グループの創業者一族の何とやらと級友になって、今の商売をするツテを得た。この会社は介護事業を始めたK社グループの尻馬に便乗して、今は東と西に合わせて五つの支社を持つまで成長した――云々だった。

「――その話はもういいです。よくわかりました。そろそろ、自分の職歴を語っていいですかね?」

 俺は他人の父親の退屈な自慢話を遮った。

「何を――面接に来た奴が、どういう態度だ!」

 営業部長が吠えた。

「へえ、この中小企業様の面接官はそういう態度なんですか。この人材難の時代に随分と強気なんですね」

 俺は笑ってやった。

「あー、エス君。人材難の時代でも、弊社はK社グループ様から追い出された人間を受け入れるわけにはいかないんだ。もう、いい。帰ってくれ」

 作り笑いの仮面を外した常務はトカゲみたいな顔になっている。

「そこにいる社長のドラ息子だって元はK社グループの社員なんだろ。俺から質問がある。そこにいるボンクラはありで、俺は駄目な理由を言えよ」

 俺も元サラリーマンの仮面を外した。

「すぐ帰れ」

 トカゲの常務はそれだけ言った。

「ボンクラとか、中小企業様とか、この、チンピラが――!」

 俺に詰め寄ってきた営業部長の顔が真っ赤になっている。

「こっちの質問はまだ終わってねェよ。俺はてめェらへ誰が何を吹き込んでいるか探りにきたんだ。ほれ、さっさと答えろ」

「ふん、イキりやがって。無職の野良犬風情に何ができ――きゃんっ!」

 俺は椅子から立ち上がるついでに、営業部長の鼻面へ頭突きをくれてやった。

 営業部長はもんどりうって倒れた。

「な、何を――きゃーんっ!」

 俺は起き上がろうとした営業部長の顎へ蹴りをぶちこんだ。

 気絶したのか死んだのかよくわからん。

 とにかく、営業部長は床に大の字で伸びて動かなくなった。

「あ、あぁあ――!」

 トカゲの常務は椅子に座ったまま喘いでいる。

「世間だとか親だとか飼い主に尻尾を振ることくらいしか能の無いトイプードル風情が、野良犬の生き様を見下してくれるなよ。俺は殺し合いをする覚悟でここへ来た。それなのに、何だ、てめェらは俺の質問一つにも答えるつもりがないって言うのか。K社グループは裏で何をやっている。すぐに答えろっ!」

 俺はビジネスバッグからサバイバルナイフを引っ張り出して常務へ突き付けた。

「わかった、わかったから、その刃物を引っ込めなさい!」

「引っ込めなさいってのはどういう言い草だ。それが他人へものを頼む態度か?」

「ひっ、引っ込めてくれませんか?」

「声が小さくて聞こえねェな。俺の貴重な時間を、てめェに三秒間だけくれてやる。時間内に返答がなかったら頸動脈を掻っ切るぜ。ほれ、人生終了までのカウントダウン開始だ」

「そ、そんな――」

「3」

「エ、エスさん、弊社の事情もありまして!」

「2」

「こ、こ、こちらの事情も察してくださいよ!」

「1」

 サバイバルナイフの切っ先が、常務の喉に食い込んで血が垂れ落ちた。

「痛、痛い! わかりました、わかりましたあっ! エスさんの名前と経歴は、近隣の企業に出回っている求職者ブラックリストへ記載されていましてえ――!」

 常務が絶叫した。

 ここまでのリスクを冒してようやく判明した事実だ。

 俺の名前とK社グループでやったことになっている業務上横領事件は、地元企業の裏で出回っている求職者ブラックリストに記載されているらしい。創業者の身内のエヌが絡んだ横領事件の内幕はK社グループの外へ一切漏れていない筈だ。だから、これはK社グループが俺の悪評だけを意図的に外部へ放出しているということになる。これが田舎暮らしの陰険な部分だ。一度でもやらかした人間へは一生、その汚点が追跡して回る。例え、その汚点がねつ造されたものであったとしてもだ。

「そのブラックリストを俺に見せろ」

「そ、それは廃棄済みでして――定期的にFAXで出回ってくる求職者ブラックリストは、経営者が目を通した時点で必ず廃棄する約束事になっているのです。ですから、私どもの手元に残っていません。ほ、本当です。これは本当のことなんですよおっ!」

 常務は壁際まで逃げていった。ブラックリストを廃棄しているのが本当のことかどうかわからない。でも、これで俺の疑問は解決した。

「まあ、いい。そのリストを手に入れたところで、俺にはどうこうできんからな!」

 俺はサバイバルナイフを投げつけた。

 それは常務の顔の真横の壁に突き立った。

「あぁあぁあ――」

 常務は壁に背をつけたままずるずる腰を落とした。

「迷惑を掛けた詫びだ。そのナイフは、くれてやる」

 俺は会議室から退出した。


「例のブラックリストの件は社外秘だと散々、言ってあっただろうが!」

「社長、しかし、あの男は坊ちゃんに大怪我を、私には刃物まで突き付けて――け、警察を、警察を呼んで対応してもらいましょう!」

「何を考えているのだ、この馬鹿が、そんなもの呼ぶんじゃない! その男は――エスは、どこにいるのだあっ!」

 階段を降りると二階から喚き声が聞こえた。

 無視して社屋から出たところで、

「エスさん、エスさん。待って、ちょっと待ってくださいっ!」

 ハゲた小太りの中年男が転がるように俺を追ってきた。

「誰だ、あんた」

「わ、わ、私はこの会社の社長をやっているものですが――」

 社長はちょっと走っただけでもう息が切れていた。

「あ、そう」

「エスさん、本日の一件はご内密にということにしてもらえませんか。弊社といたしましても、もちろん、エスさんの経歴や能力を高く評価してはいるのですが、ブラックリストの件は事情が事情でして――ご、ご存知でしょうが、K社グループ様――ああ、いやいや――某社様だ! 某社様は弊社の大事な大事なお得意様でございまして、この一件が明るみに出ますと、最悪、私も私どもの社員も路頭を迷う羽目になりかねませんので!」

 社長は俺の肩を掴んで必死の形相だ。警察へ俺を突き出すと事情徴収になる。こうなるとK社グループへも話が及ぶ。K社グループは俺と横領事件をあくまで闇のなかへ葬り去りたい。K社グループとの取引が無くなると、この中小企業は潰れる。こんな理由で、俺が刃物を振り回しても、社長は警察沙汰にできないらしい。どうも、この社長は、K社グループから俺とエヌの一件を、ぼやけた形で知っているようだ。あのドラ息子は、この社長がK社グループ創業者一族の誰やらと仲良くしているという話をしていたよな。

「さぁて、どうしてやるか。だいたい、他人の顔色を窺いながらやっている、ショボくれたてめェらの商売の都合なんか、俺の知ったことじゃないんだぜ」

「エスさん、どうか、ここは堪えてください――あ、それとですな。これ少ないですけど、その、交通費の足しにでもして――」

 社長はスーツの内ポケットから財布を取り出すと、そこにあるだけの諭吉を引っこ抜いて、俺の胸元へ押し付けた。

 俺は黙ったまま諭吉数枚を眺めた。

「エスさん、足りませんか。これでは、ちょっと足りませんかねえ?」

 社長が、にちゃあ、と笑った。

「俺が乞食をしに来たと思っているのか。勘違いをするんじゃねェ!」

 俺はハゲ社長の出張った腹を蹴っ飛ばしてやった。尻もちをついた社長は、俺を違う次元から来た生き物を見る目つきで見上げている。

 ハゲ頭に諭吉が一枚、貼り付いていた。

 俺は笑いながら運転席に乗り込んで、エンジン始動のボタンを押した。


 §


 俺がエイチからエムが失踪したことを聞かされたのは、あの中小企業のハゲ社長を蹴っ飛ばしてから半年後だ。

 カエルの鳴き声以外は静かな真夏の夜だった。

 お袋の認知症は進行して、所かまわず大小便を垂れ流したり、真夜中に泣き喚いたり、外を徘徊するようになった。観念した俺は家庭裁判所に出向き、お袋の成年後継人を立てた。俺が齧っていた親の脛は成年後継人が齧ることになった。明日、特別養護老人ホームのスタッフが、お袋を迎えに来る手筈になっている。再就職活動はもうやっていない。K社グループの裏工作で、俺ができるまともな仕事は地元から消えた。俺はもう、この田舎から――何だかんだ言っても、愛着のある俺の生まれ故郷から、遠く離れないと生きていけないのだ。それでも、俺は実家に居座っていた。もう、この世界にあるすべてが馬鹿馬鹿しい。こうなったら、無職のアル中として世間に出来る限りの迷惑をまき散らしてから死んでやるよ。その覚悟で半年間、実家のこどおじ部屋で朝から安酒を飲み続けている。幸いにも俺の緩慢な自殺を諫める人間はこの世に一人もいなくなった。だけど、不幸にも俺の肝臓は頑丈にできていた。

 クソが、俺は、まだ生きていやがる。

 網戸の向こうから流れ込む暑苦しい夜風に甘い臭いが交っていた。

 四六時中、酒に酔っているから、嗅覚が馬鹿になりかかっているのかなあ?

 俺はせせら笑いながら鼻先を動かした。

 確かに甘い臭いが流れ込んでくる。

 これは、エムやエイチが俺の隣にいた、あの夏の臭いだ。

 あの不可解な門から噴出していた、あの臭いだ。

「あの門――?」

 俺は発泡酒の空き缶を壁へ投げた。

 今夜のお袋は珍しく静かにしている。

 俺は実家の表へ出た。

 間違いない。

 熱帯夜が溶けた黒い風に、あの甘い臭いが、はっきりとある。

「そうか、わかったぜ。エムが消えた先は――」

 排気量一二五ccのスクーターに跨ってヘルメットをかぶった。今は、こいつが俺の下駄だ。エヌとの思い出のスーパーカーは維持が難しくなって売り払った。もうこの世界に、俺が好きだったものは、俺が愛した奴らは、俺が生きる理由は、ほとんど残っていない。

 それなら、今から俺も俺の終焉を出迎えに行こうか。

 あの夏は、あれが何だったのかわからなかった。

 今は大方の想像がつく。

 あの門は食虫植物の胃袋によく似ていた。


(エスの章 終)

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