21

 会社を出た俺は街医者に立ち寄った。みぞおちは差し込むように痛いままで、吐き気と脂汗が止まらない。表の看板に『風間医院・消化器科・外科・内科』とある。俺は十年以上、医者にかかった記憶が無い。当然、この医院には初めて訪れる。ここの先生は目つきが厳しい三十路絡みの女医さんだった。医者というより手慣れた殺し屋みたいな印象だ。

 おっかない女医さんは触診と問診を終えた後、

「春先にやった会社の健康診断では異常無しだった?」

「はい。そうですね」

「もう一度、訊く。症状が出た前後、下血や吐血は無かったな?」

「吐いたのは胃液だけでした。これって胃潰瘍ですかね?」

「違う。所見は慢性胃腸炎。サラリーマンに多い症例だ。原因のほとんどは仕事で受けるストレス。次に暴飲暴食。心当たりは?」

「ありますね。数えきれんほどです」

「初回だけ一か月分の薬を処方する。症状が収まっても必ず薬を呑みきれ」

 近所でこの女医さんは不愛想でぶっきら棒で乱暴だけど名医という評判らしい。後になって調べてみるとインターネットの口コミ評はそうだった。処方してもらった薬はよく効いて、次の朝には胃痛と脂汗が収まっていた。吐血も下血も無い。身体の不調が落ち着いたところで、エヌの連絡先を無くしたことに気が付いた。後悔で胃がまた痛み出した。スマホはあの会社に置いてきた。スマホのバックアップデータは会社のPCのなかだ。

 マンションの固定電話へ元部下から連絡が何度かあった。

 週の終わりに郵送で退職金の明細が届いた。

 あの会社から振り込まれた退職金は百万円以上あった。

 横領した金を返せとも言ってこなかった。

「――だから、何なんだよ?」

 俺はベッドの上でマンションの天井を罵倒した。その後も、ベッドに寝転がって天井を眺めるだけの生活を続けた。冷蔵庫に詰まっていた生鮮食材は駄目になって捨てた。一日に一食か二食、インスタント麺を食った。俺はエヌを待っていた。

 エヌから連絡があるかも知れない。

 訪ねてくるかも知れない――。


 最初に処方された薬と淡い期待が尽きる寸前になっていた日曜日の午後だ。

 インターフォンの呼び鈴が鳴った。

 俺はインターフォンへ走り寄って、

「エヌか!」

「パイセン、サーセン、来ちゃったっス――」

「帰れ」

 インターフォンの画面で照れ笑いしていたのは金髪だった。

 俺はベッドに寝転がって天井を睨む作業に戻った。

 ピンポンピンポンと本当にしつこい野郎だよな――。

「――うるせェぞ、このパンク野郎!」

 俺は根負けしてインターフォンへ怒鳴った。

「ほらほら、ビールを買ってきたっス! 観念してエントランスを開けるっス!」

 Fワード満載の黒いTシャツに、破けたジーンズ姿の金髪が画面でビールの六缶入りパックを掲げている。二つあるから合計で十二本。俺は渋々エントランスの鍵を解除した。

 冷蔵庫のビールを切らしてる。

「お邪魔するっスゥ」

 玄関のドアを開けると、金髪が俺を押しのけるようにして上がり込んできた。

「俺のマンションへ来るなと言っておいただろうが?」

 俺は断りもせずにソファへ腰を落ち着けた金髪の後頭部を睨んだ。

「パイセンの固定電話、急に繋がらなくなったじゃないスか。もしや、パイセンの身に何かあったのかと急いで――おー、でっかいテレビ。ゲーム機も揃ってるっスねえ!」

 金髪はテレビとゲーム機の電源を入れた。

 こういう奴だ。

 俺は玄関収納の上にあった電源タップを投げつけた。

「あ、イテ――電源タップ?」

 金髪が自分の後頭部に直撃した電源タップを拾い上げた。

「それ、あの会社の使った興信所が仕掛けた盗聴器だ。ケースを開けてみろ」

「あー、中に回路盤が詰まってるっスね――」

「よくあるタイプの盗聴器だぜ。誰でもネットで買える安物だ。案外と気づかないモンだよな。電話線の元にも盗聴器が仕込んであるのかなとサバイバルナイフで穿ほじってみた。そっちは何もなかった。手元が狂って回線を切っただけで骨折り損だ」

「それで固定電話が急につながらなくなったんスね」

「あの横領の一件は社外秘になっているんだろ。俺の連絡先は抹消されて、面会も口頭命令で厳禁。違うのか?」

「その通りっス」

「それなら何でここへ来た。興信所の連中がまだ表に張っているかも知れないんだぜ。金髪も会社をクビになりたいのか?」

 一つのソファに男が二人並んで座るのは気持ち悪い。

 俺は台所の椅子を持ってきて腰を下ろした。

「そう言われても、固定電話が使えないなら、俺が足を使う他に連絡する手段が無いじゃないっスか。パイセンはプライベート用のスマホを持ってないっスよね」

 金髪は自分のスマホを見せながら苦笑いだ。

「俺は昔から携帯型の通信ツールが嫌いなんだ。その道具はな、デジタル社会における奴隷の証明書だぜ。それより、さっさと、ビールをこっちへ寄越せ。残りは冷蔵庫へ入れておけよ。ぬるいビールを喜んで飲むのは、悪食自慢のイギリス人だけだからな」

「アイリッシュやドイツ人も、ぬるいビールが好きらしいっスよ。ところで、パイセンの胃腸は綺麗に治ったんスか。顔、だいぶやつれてるっスよ」

 金髪は冷蔵庫に足を向けながら、ビールの缶を放って寄越した。

「見たままだ。まだ治ってねェ。昨日、医者へ行って、また薬を貰ってきた。酒も煙草も刺激のある食品もなるべく控えておけってさ。胃腸ってのは心臓の次くらいに働き者でな。一度壊れると面倒なものなんだと。それだから酒を飲むなと言われても困るだろ――」

 俺は顔をしかめた。

 缶の蓋を開けると泡が吹き出てくる。

「パイセン、何か、おつまみはないっスか?」

 金髪は他人様の家の冷蔵庫を物色中だ。

「自分で探せ。それで、頼んでおいた件はどうなった?」

「パイセンの彼女――エヌちゃんの件っスね。俺はその報告に来たんスよ」

 金髪が冷蔵庫から持ってきたのはチェダーチーズの塊だった。

「うん」

 俺は缶ビールに口をつけて話を促した。

 金髪はチェダーチーズを包丁で切り分けながら、

「ヤン子とチマ子が仕事の合間に諜報をしてくれたっス。でも、元いた経理課はもちろん、K社グループのどの職場にも、エヌちゃんの姿は見当たらなかったっス」

「下請けの会社へ出向中とかは?」

「できる限りで当たってみたっスけど、それも無かったっスね」

「エヌの性格を考えると、身内の手配で融通が利くK社グループの他で勤めるのは難しいよな――エヌはまだ入院している。もしくは、実家で療養中なのか?」

「それっスよ。社内の噂話だと、エヌちゃんはまだ入院中っていうのが最有力候補なんスけど――」

「どこの病院に入院しているかわかったのか?」

 俺の声が大きくなった。

「それが、わからなかったっス――」

 金髪はチーズをもごもごしながら頭を振った。

 俺もチーズの切れ端を口に入れて、

「次は、エヌの入院先を調べてきてくれ。欲しけりゃ金をやる。支払い先は金髪探偵事務所だよな」

「金なんていらないっスよ。それに、調べろと言っても、エヌちゃんの入院先はわからないと思うっス」

「金持ちが入院する病院なんて田舎街に多くないぜ。お前のツテがないなら、俺が自分で調べてみるか。こんなリサーチ、目ぼしい病院の受付で面会を申し出れば、それだけで済むからな」

「パイセン、これは、あくまで噂話っスよ?」

「それでいいから言えよ」

「エヌちゃんは精神科に入院しているって噂っスね――」

 金髪は空にした缶をテーブルに置いた。

「――クソッ、精神病院か!」

 俺は空にした缶を壁へ投げつけた。掃除をしていない。それをする気力が無いからだ。床一面がゴミ箱のようになっている。

「精神科は個人情報保護に特別、神経質っスから、電話口で問い合わせても、受付に押し掛けても、たぶん、無駄骨っス――」

 金髪が二本目のビールの缶の蓋を開けた。

「それは誰から聞いた噂話だ?」

 俺も二本目のビールの缶の蓋を開けた。

「元は経理課にいた女の子っスよ。今は庶務二課へ左遷されたっス」

「その子は何て言ってた?」

「パイセン、聞いても怒らないっスか?」

「内容次第だ。さっさと言えよ」

「エヌちゃんは元々、頭がおかしかったからって――」

「そこにいたのが俺だったら、その女を張り倒していただろうぜ」

 金髪は俺の唸り声に頷くと、

「頭がおかしいどころか――話を聞いている限り、エヌちゃんは天才の部類っスよね」

「俺は二年近く一緒に暮らしていて、彼女が持つ天賦ギフトに気づけなかった。マヌケな話だ――」

 俺は視線を落とした。

「そうそう、例の横領の一件も出来る限りで調べてきたっス」

 金髪が横領事件の大まかな経緯を語った。

 エヌは経理課の仕事をほぼ一人で片づけていた。横領事件の発覚後、調査をしたIT管理課が仰天をしたらしい。エヌのPCは外部AI演算装置が追加された上、業務用アプリにはソースコードへ直接手を加える極端な改造チューンナップが施され、経理業務のほとんどをオートメーションで行う魔物と化していた。それで、エヌの入社後、経理課のタスクは激減していたようだ。人間は手を抜くことを一度覚えると元の苦労を絶対にしない。楽にかまかけた経理課長は自分のデジタル印鑑をエヌに使わせることで経理課の業務をさらにスピードアップさせて自身の評価を上げていた。経理課長の判断は無謀なものだが、これはエヌの血筋――創業者の血族への信頼感も手伝ったのだろう。この異常な状況に加えて、エヌのデスクは間仕切りで囲われたスペースにあった。これはエヌが持つ精神疾患――他者視線恐怖症を配慮しての処置だ。平社員のエヌが不正経理を楽々決行できたのは、彼女自身の天才性と、他人の視線を遮って仕事ができる特殊な環境、それに、上司と同僚の怠慢が重なったからだった。

 だけど、エヌが会社の金に手をつけた動機は俺にある。

 エヌの家庭事情が面倒そうだ、

 仕事が忙しい、

 彼女を傷つけることで俺自身が傷つきたくない、

 俺は言い訳をしながら、エヌと宙ぶらりんの関係を二年近くも続けた。不安になったエヌは物品や労力を貢ぐことで俺の気持ちを繋ぎとめようとした。出会ったときから、エヌにはそういう傾向があった。それが三千万円という金額の横領事件にまで繋がった。俺の曖昧な態度がエヌの横領をそそのかしたと言っていい。

 でもなあ、エヌ。

 お前、肝心なところは何もわかっていないよ。

 出会ったときから、今の今まで、俺の気持ちが君から離れたことは一度だって――。

「――おー、このベランダは夕焼けが綺麗に見えるっスねえ!」

 金髪が感嘆した。

「まあな――」

 不承不承だ。俺も田舎街の中途半端なビルディング群を赤く燃やす夕焼けへ煙草の先と目を向けた。何度もエヌと二人で見てきた光景だ。煙草を吸いにベランダへ出たら、金髪がついてきた。

 エヌも、そうだった――。

「――パイセン。今から、デブとかヤン子とかチマ子を誘って、外へ飲みに行くっスよ」

 金髪が言った。

「メガネが入ってねェな。あいつは日曜も仕事なのか?」

 俺は煙草に火を点けた。

「――メガネは会社を辞めたっス」

「へえ――」

「パイセンはあまり驚かないんスね?」

 金髪は怪訝な顔だった。

「メガネにとっては田舎の会社なんて腰掛け同然だろ。実際、あいつは仕事が出来過ぎた。田舎に置いておくのはもったいねェよ」

 俺は煙草の煙と一緒にせせら笑った。

 金髪は苦笑いで頷いて、

「メガネは首都の政府系金融機関へ転職したっス。もう日本にいないっスよ。オーストラリアだかどこかの大使館の通商窓口機関へ出向することになったって、ちょっと前にあった連絡では、そんな感じのことを言ってたっス」

「ああ、官僚様の先兵か。親のコネ転職だよな。元々、それがメガネの人生の既定路線だったんだろ」

「パイセンが辞めてから、また本部はガタガタになって――今は俺も仕事が面白くないっスよ。メガネが辞めたのは、それもあると思うっス――」

「――それ以上、俺にあの会社の話を聞かせるな。聞きたくねェんだ。わかるだろ」

「今から気晴らしに外へ飲みに行くっスよ」

 金髪が同じことをまた言った。

「行かない」

 俺はまたせせら笑った。

「無職から金をタカるつもりはないっスよ」

 金髪が真顔で言った。

「何度も言わせるな。俺と会ったのを会社に知られると、お前らが面倒な思いをするだろ。もうここへ来るな。それと、お前、髪を黒くしろ」

 俺も真顔で応じた。

「パイセンから初めて俺の髪のことを言われたっス」

 金髪が目を丸くした。

「俺は相手の髪の色なんて一度も気にしたことがない。でも、気にする奴は気にするんだ。金髪もそろそろ仕事へ本腰を入れて出世しろって話をしてる。せめて、ナメクジくらいは追い落としてくれよな。俺の代わりに――いや、まあ、今となってはどうでもいいことだ。もう帰れ」

「先輩、あの会社では、お世話になりました」

 金髪が腰を折って頭を下げた。

「やめろ。気持ち悪い。早く帰れ」

 俺は二本目の煙草に火を点けた。

 金髪は何か言いたそうな顔つきのまま陽が落ち切る前に帰っていった。

 俺は一人で缶ビールを飲みながら考えた。

 エヌはおそらく病院か家族の監視下に置かれている。このマンションで待っていても、エヌと再会できる可能性は薄いだろう。そもそも、エヌの精神が元の状態に戻っているかどうかもわからない。舌を噛み切ったとき、エヌは自分を見失っているようだった。もしかしたら、あのまま、エヌの心は完全に壊れて――。

 俺は胃の痛みに顔をしかめながら部屋を見回した。

 貯金は多少あるけど、一年もすればこのマンションを維持できなくなる。エヌは俺の実家の住所と電話番号を知っている。引き払うときに大家へ「俺は実家へ帰った」そんな言伝を頼んでおけばいい。同居の許可を取るためにエヌは大家と顔を合わせている。そのくらいの頼み事なら引き受けてもらえる筈だ。


 次の日、俺は溜息と自分の衣類をスーパーカーの荷室へ詰め込んだ。

 今から十数年ぶりに実家へ帰る。

 気まずい帰還になってしまった。

「お袋へ何て言えばいいのかな――」

 俺は考えながら回り道をした。一人でするドライブは何も面白くなかった。考えもまとまらなかった。マンションを出たのは昼過ぎだった。実家への道のりは自動車で一時間もかからない。それでも実家の庭先へ車を乗り入れたときには陽がもう落ちていた。このスーパーカーの排気音はなかなかのものだけど、お袋は表へ出てこない。

 俺は恐々玄関を開けて、

「ただいま。お袋は留守なのか?」

「――エス。こんな時間に、どうしたの?」

 台所から出てきたお袋の影は廊下の電気を点けなかった。

「ああ、家にいたのか――嫌になって、あの会社を辞めてきたよ。ざまあみやがれだぜ」

「エス。こんな時間に、どうかしたの?」

 お袋はまた同じことを訊いた。俺のお袋は新しい物事に相対すると、理解しようとする努力を放棄して慌てふためく性格だ。これを本心から好きになれないけど、それでも、本気では嫌えない。物心ついたときから、俺にとって父親と母親はそんな存在だった。

 俺は手探りで玄関の照明を点けた。

 明るいところで見ると、老け込んだお袋の顔から、本心から好きになれないけれど、それでも、本気で嫌えないものが、すっぽぬけている。

「お袋は、どうしたんだ――?」

 俺は呻いた。

 お袋は何も言わず俺をじっと見つめていた。

 久々に実家へ帰ってみるとだ。

 お袋は二度も三度も続けてめしを用意したり、洗濯機を一日に五回も六回も回したり、半日も居間から荒れた庭を眺めていたりと、そんな生活をするようになっていた。俺はすぐにお袋を近所の開業医へ連れていった。そこの開業医のオッサンは終始難しい顔つきのまま大学病院の紹介状を書いてくれた。大学病院でお袋に精密検査を受けさせた。診療室で大学病院のお役人的な態度の若い医者から、お袋の横でお袋の病状を聞かされた。俺にはお袋の病名がもうわかっていた。確認するために精密検査をしただけだ。

 お袋は認知症を発症していた。

 俺は予定より早くマンションを引き払って実家へ戻らざるを得なくなった。俺の持ち物の大半をリサイクルショップに頼んで処分した。俺が十年とちょっと積み重ねてきたものは一時間の査定で二束三文へ変わって消えた。引っ越し屋に頼んで残ったマンションの家具を――たいていはエヌの家具を実家へ運び入れた。古くて小さい一軒家だけど、住人は俺とお袋の二人だけだ。物を置く場所に困らない。

 俺は空っぽになったマンションで一日だけ彼女を待った。

 エヌは帰ってこなかった。

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