20
腹に不穏な気配を抱えたままだ。
春は何事もなく過ぎて、梅雨の季節に入った。
俺とエヌが提案した和菓子屋チェーン店の買収はとんとん拍子に話が進んだ。来期からK社グループの子会社になる。子会社化の企画立案は、メガネのチームが担当することになった。そのメガネが今週の始めの会議中「次回は経営企画調整課も先方との打ち合わせへ同行せよ」と俺へ上から目線で命令しやがった。俺は課長で会社の先輩で、メガネは課長代理で会社の後輩だ。ムカっときたけど顔合わせの要請は断れない。この先、和菓子屋チェーン店は俺の課の仕事相手にもなるからね。訊くと、先方のおじいちゃん社長は商業工卒の叩き上げの商売人で、なかなか面倒な人物だという。実子の後継者がいないのに加え、自身と中核社員の高齢化も相まって、泣く泣く今回の身売りを決断したとのこと。
実のところだ。
俺は先方の泣き所を事前に把握していた。世知辛くて耳が早いスーパーマーケット事業部の営業本部長との無駄話で得た情報だ。買収前、件の和菓子屋チェーン店はスーパーマーケット事業部のちょっとしたライバルだった。それで、前々から営業本部長は、あの手この手で先方へ探りを入れていたらしい。
「――そんなのだからな、無駄話だって馬鹿にできないぜ。俺は無駄話をネタにあの買収提案書を何となくこさえたんだ。だから、正直、ここまで上手く事が進むとは思っていなかったよ。しかしなあ、結局、あの提案を横取りしたナメクジが一番評価を上げたのは気に食わねェ。とっとと死ねばいいのにな、あのクソナメクジ野郎な」
俺と金髪とメガネと新人ちゃんだ。
四人で無駄話をしながらエレベーターを待っていると、
「エス君は待てぇいっ!」
補佐がシュバっと立ちはだかった。
またナメクジあたりが俺の仕事へ横やりを入れやがったのかな。
面倒くせェな、もう――。
「――補佐、何すかあ。話は三秒以内でお願いします」
「エス君は午後の予定をすべてキャンセルしてくれ」
「急にそんなことを言われても困りますよ。ふざけんな」
「今から君は僕と一緒に役員フロアへ行くんだ!」
俺は腕時計へ目を向けた。午前十時半。スーパーマーケット事業部の本社は市内の湖畔に突っ立っている。そこいらは個人経営のちょっとお洒落なレストランが多くある。早めに会社を出て、新人ちゃんがリクエストしたスペイン料理とやらを食べながら段取りをつけた後、午後の打ち合わせに臨む予定だったのだけど――。
「――役員フロア。将棋さんと対局ですか。今日は出張があるから無理だと補佐から伝えておいてください」
金髪もメガネも新人ちゃんも面倒そうに補佐を眺めているだけで何も言わない。
「違う、エス君は人事委員会に召喚されているんだ!」
補佐が真っ青な顔で叫んだ。
「人事委員会って――それ人事課の仕事でしょう。俺は関係ないし」
「パイセーン?」
「課長?」
「課長、違いますよ?」
金髪とメガネと新人ちゃんが俺へ顔を向けた。
「何だよ、お前ら。時間の無駄だから、言いたいことは、その場ではっきりと言え」
「人事委員会は懲罰委員会の別称っスよ」
「課長は本当に知らなかったのですか。たいていの人事委員会は役員が社内犯罪を犯した社員を吊るし上げる目的で開催するものです」
「課長、また会社と社会に対して何かしらの悪事を働いたのですか?」
なんだそうだ。
「あ、そっか――」
すべて察して、俺は到着したエレベーターの箱に乗り込んだ。
補佐がついてきて、
「今回のエス君は何をやらかしたんだ。人事委員会が開かれるなんて、ただ事じゃないぞ」
「補佐は知らなくていいと思いますよ」
「僕は君の上司だぞ、知らないとマズいだろう。本部長からも、それを聞き出せって言われて――」
「パイセン、マジで今回はどれだけファッキンな悪さをやらかしたんですか?」
「ああ、とうとう人を殺しましたか?」
箱の外から金髪とメガネが呼びかけた。
新人ちゃんはきょとんと俺を眺めている。
「気にするな。お前らには関係の無いことだ。予定通り打ち合わせへ行ってこいよ」
エレベーターの扉が閉じた。経営企画本部のフロアの一階上が役員フロアだ。絨毯で覆われて、きちんとした壁でスペースが区切られたそのフロアは、相変わらず同じ会社だとは思えない光景だった。
そこで将棋さんが俺を待っていた。
「補佐君。君は部署へ戻っていいよ」
将棋さんが言った。
「え、はい、そうなんですか――それでは、失礼します」
補佐は曖昧な態度でエレベーターの箱へ戻って消えた。
「あ、ども、将棋さん」
俺も曖昧な態度で頭を下げた。
「うん、エス君ね。役員会議室へ来てくれるか――」
将棋さんが俺を促した。
横を歩く執行役員の老人は梅雨空同様の曇った目つきをしている。
役員会議室の開き戸の両脇に若い社員が二人いて、その彼らが扉を開けた。扉を開け閉めするために待機しているわけでもなさそうだ。ここに近づく人間を警戒しているように見える。役員会議室で外に漏れると困る話をしているということだよな。
将棋さんは何も言わずに楕円形の卓を囲む偉そうな椅子の端っこの席へ腰を下ろした。
「エヌ――!」
俺はこの光景を想像していた。
それでも喉から呻き声が漏れた。
近い場所に置かれた安っぽい椅子にエヌが座っている。
「あ、あ――」
振り返ったエヌの声が出ない。
これまで見たことないほど顔が真っ青だ――。
「申し訳ございません、申し訳ございませんっ!」
薄らハゲの中年男が、エヌの横に置かれた椅子の前で土下座をしていた。
「あー、経理課の課長――」
こいつは経理課に何度も掛け合っている俺の顔なじみだ。
「エス君も早く頭を下げろ――!」
薄らハゲが絨毯に額をつけたまま呻いた。
「はあ、何が何だかわからないうちに土下座しろですか?」
「貴様はこの後に及んで説明をせんとわからんのかっ!」
役員の円卓の奥手から怒鳴り声が飛んできた。怒鳴ったおっさんは副社長だ。元は不動産事業部の営業本部長をやっていたと聞く。年齢は五十絡み。外見は品がよさそうな親父だけど、すぐキレるので昔から有名らしい。仕事が抜群にできても、この短気な性格が災いして社長の椅子へは座れなかっただとか何とかだ。
「まあ、エフ君、落ち着きたまえ」
社長が副社長に声を掛けると、その周辺が頷いて同意した。役員の円卓には三十人近くの人間がいる。このうちで俺が顔を知っているのは、社長、副社長、専務、常務、それに子会社の社長の何人かくらいだった。この他はK社グループの株を分担して所有している創業者の血族らしい。血族はたいていが普段着だ。生まれたときから金持ちの階級にいるこいつらが、K社グループの実質的な支配者になる。これは普段、会社へ顔を見せないような大株主どもが集合するくらいの面倒事が起きたということだよな。
「では、監査部長、話を進めてくれ」
社長が言った。
その横で副社長はまだ俺を睨んでいる。
支配者たちは、もっぱらエヌを眺めていた。
エヌはうつむいてガタガタ震えていた。
自分へ視線が集中しているから――。
「――エス君、座りなさい」
ビジネススーツ姿の中年男が俺へ命令した。社員証に監査部部長とある。俺は普段ほとんど関わることがない部門だ。ここで初めて監査部長の顔を直接見た。
「はあ――」
俺は役員の円卓へ向けて置かれた安い椅子の左端に腰を下ろした。
監査部長が頷いて、
「エス君は何故、人事委員会へ召喚されたのか、まだわからないのか?」
「さあ、さっぱり、わからんですね」
「それでは、簡単に説明しよう。そこにいる経理課のエヌ君がK社グループの資金を着服した。横領された金額は三千万円近くに上る」
「申し訳ない――」
この呻き声は俺じゃない。
俺の右斜め前方で土下座のまま固まっている経理課長だ。
「むろん、この一件は経理課長の監督責任もある。降格処分は免れんものだと思えっ!」
副社長がまた怒鳴った。
「申し訳ない、申し訳ないぃっ!」
経理課長が涙声で叫んだ。
この際だ。
全部、この薄らハゲの責任にしてしまえば話が早いのか――。
「――なるほどね。経理課長がエヌへ横領を指示したんですか。平の事務職員に何千万という金の横領という大それた真似ができるわけないでしょうからね」
俺はこの経理課長が初めて出会ったときから大嫌いだ。こいつは毎度毎度、経費の請求を突っぱねるシブチンの上に、いつも薄ら笑いを浮かべて他人を馬鹿にし腐った態度の小男だ。この馬鹿は自分のことを、たいていの他人より頭が良い人間だと思い込んでいたらしい。これを見ろよ、真逆だぜ。本当に頭がキレる人間は他人から土下座を強要されるようなヘマをしないだろ。
「エス、貴様は口を閉じていろっ!」
俺の目論見を副社長の怒鳴り声が止めた。
副社長は立ち上がって俺を睨んでいる。
「てめェこそ黙ってろっ!」
俺も立ち上がって睨み返した。
副社長が怒鳴るたび、エヌは小さな悲鳴と一緒に身を竦めている。
俺はそれが許せない。
「二人とも椅子へ座りなさい!」
社長が鋭い声を上げた。
俺と副社長が不承不承の態度で椅子へ尻を戻すと監査部長が尋問を再開した。
「エス君が春先に購入した――厳密には、昨年度の十一月にNSメルロース自動車販売株式会社とエス君が売買契約書を取り交わした自家用車だ。これは、エス君の資産状況から考え見ると一括の支払いでは購入できない高級車だった。その高級車は、確かにエス君の所有者名義になっているね?」
「へえ、そこまで調べやがったのか」
「これが監査部の仕事だ」
「興信所の仕事だろ。外注を使いやがったな。この無駄飯食らいどもがよ」
監査部長は俺の嫌味を無視して、
「エス君とエヌ君は一年以上、一緒に生活をしているね?」
「その質問に答える義理はないぜ。会社風情が一個人の私生活や感情にまで踏み込んでくるんじゃねェよ。俺たちは雇われ人だ。身柄は会社に預けてある。だが、ハートまでくれてやった覚えはねェんだぜ」
「エス君がエヌ君をそそのかしたとなると、会社も社員のプライべートへ土足で踏み込まざるを得ない。エス君とエヌ君の銀行口座と金の動きを調べさせてもらった。エヌ君は会社から横領した三千万円を自分のために使った形跡が一切無い。これが根拠だ。監査部はこの業務上横領事件を、エス君が主導したものだと結論付けた」
監査部長は結論ありきの尋問を終えた。
俺は何も言わなかったけど、
「ち――違――違!」
エヌは声を上げた。
必死だけど言葉になっていない。
俺は一刻も早くエヌを連れてここから出ていきたい――。
「――エス、貴様がエヌをそそのかしたんだろうっ!」
副社長が狂犬のように吠えかかった。
「それだから、どうだってんだ、あ?」
俺は野良犬のように唸って返してやった。
「やっぱりそうか、この、腐れチンピラがっ!」
副社長がこちらへズカズカ歩いてきた。
ああ、もういいや。
俺も椅子から立ち上がった。
このギャンギャンうるさい副社長を拳で黙らせてやる。
「エフ君、ちょっと!」
「落ち着いて!」
「暴力はいけない、暴力はいけない!」
「気持ちはわかるが、それをすると益々、話がこじれるだろう!」
暴走する副社長を創業者の血族の何人かが取り押さえた。副社長のスーツが半分はだけているけど、それでもまだ俺へ向かって突っ込もうとしている。
ものすごい形相だ。
「ち、違っ、パ――わ、わ、わたし――!」
エヌは叫んでようやく聞こえるほど小さな声で訴えた。
「エヌは黙っていろっ!」
副社長が怒鳴った。エヌは叩かれたように椅子の上で身体を丸めた。エヌの呼吸が乱れて早くなっている。このままだと過呼吸で気絶してしまいそうだ。
俺は真っ青なエヌを横目に、
「わかりました。俺が横領事件の主犯なんだろ。警察へでも何でも突き出せばいい。でも、エヌはすぐ役員会議室から――!」
うつむいたエヌの唇の脇から血が流れ落ちている。
俺はエヌに飛び掛かった。まだ土下座をしていた経理課長の脇腹を俺の爪先が蹴っ飛ばした。経理課長は悲鳴を上げて転げまわった。
薄らハゲの気に食わないてめェがここで死んだところで、そんなの俺が知ったことじゃない。
「貴様、エヌに手を触れるなあっ!」
副社長が絶叫した。
「エヌが舌を噛んだっ!」
俺は怒鳴った。抵抗するエヌの力が物凄い。力のタガが完全に外れている。お互いもつれあって絨毯を転がった。どうにかこうにかだ。俺はエヌの頬を掴んで口をこじ開けた。
「コポッ――」
これがエヌの返事だった。
ああ、血がこんなにたくさん――。
「エヌから離れろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおっ!」
俺は副社長に突き飛ばされた。
「このクソ野郎が――!」
壁まで吹っ飛ばされて、俺はいよいよキレた。
「エヌ、エヌ、しっかりしろ! よくも俺の娘に、こんな仕打ちを――エス、貴様は絶対に許さんぞっ!」
副社長はエヌの頭を抱えたまま顔を上げた。
振り上げた俺の拳は振り下ろす先を見失った。
副社長は鬼の形相のまま涙を流している。
エヌのために泣いている――。
「――あんた、エヌの親父さんなのか?」
エヌのイニシャルはN・F。
確かに副社長とエヌは同じ苗字だ。
俺の拳は力が抜けてだらんと落ちた。
「医務室へ運べ!」
「いや、保健師をこっちへ呼び寄せるんだ!」
「駄目だ、外部の者をここへ呼ぶな!」
「そんなこと言っている場合か!」
「エヌちゃん、エヌちゃん!」
エヌを囲んで創業者の血族が騒いでいる。
俺はマヌケもいいところだ。
ここで、よくやく、わかった。
エヌもK社グループ創業者の血族の一人だったのだ――。
「――コヒュウ、まだグズグズやっとるのか――コヒュウ――」
役員会議室の扉が開いて、車椅子に乗った老人が入ってきた。経鼻栄養補給やら点滴やら酸素ボンベやら酸素吸入器やらで延命用の武装をした車椅子だ。白衣の若い女がその車椅子を押している。これは会社が雇っている看護師らしい。その後ろを、ドクターコートを着た若い男がついてきた。
「会長!」
役員会議室のほとんど全員が頭を下げた。
頭を下げていないのは俺と、父親の手を口へ突っ込まれたエヌくらいだった。
「馬鹿どもが――頭を下げている状況か――コヒュウ――?」
車椅子の老人――会長が下がった頭へ視線を巡らせた。このジジイは何十年も前に鬼籍へ入ったK社グループ創業者の実弟だ。齢当年とって百と五歳。ここまで何度も癌の摘出手術を受け、酸素吸入器や経鼻栄養剤が手放せないのだけど、それでも、まだK社グループの役員フロアへ毎日かかさずネクタイを締めて顔を出し、経営に辣腕と舌鋒を振るっている金の亡者だ。戦前は乗合バスを細々運営していたK社を企業集団にまで成長させたのは、この会長の手腕に拠るところが大きいと社史では褒め称えている。社史の表紙は会長がモーニング姿で車椅子に乗った写真――首都でやんごとなきお方から何とかやら賞を授けられたとき撮影したものらしい――とにかく、そんな晴れがましい写真で飾られているのだけど、それは俺から見ると、ホラー映画のポスターと変わらないおぞましさだった。
何につけても強欲が過ぎる老人。
そんな印象の――。
「――コヒュ――先生、余計な仕事を頼む。儂の孫娘を助けてくれ」
会長が言うと、
「はい、会長。みなさん、失礼、ちょっと、すいません。場所を空けてもらえますか――この患者のお父さんですね。お父さん、患者の口に入れた手をゆっくり引いてください。いいですか、ゆっくりですよ――」
医者の先生がエヌの傍らに屈み込んで、診療鞄から大きな布とガーゼを取り出した。頷いたエヌの父親が手を引くと、医者の先生が手早くエヌに猿轡を噛ませた。エヌの父親の手から自分の血が流れている。エヌに噛まれたらしい。エヌはもう抵抗をしていない。
焦点の合わない目で天井を眺めている――。
「――コヒュウ――社長、さっさと貴様の仕事を終わらせろ!」
会長が社長へ目を向けた。
その瞳から雷が飛び出しそうな勢いだ。
「あ、はい、会長! エス君、わかっただろう。こういう事情なんだ」
社長が俺へ向き直った。
「はあ、どういう事情なんですか?」
俺は社長を睨んでやった。
「すぐ退職届を本部長へ提出しろ。そうすれば、この一件を警察沙汰にはしないと約束する」
「それで温情のつもりかよ。呆れたぜ。警察沙汰にできないのは、てめェらの会社にとって都合が悪いからだろうが」
「退職金は規定通りの金額を出す。その代わり、エス君はもう二度とK社グループへ顔を見せないでくれたまえ」
「そんな、はした金はいらねェよ。俺はエヌを連れて帰――」
「すぐ戻って退職届を提出するんだっ!」
社長がキレたところで、
「社長っ!」
常務が話に割り込んできた。
「何だね、常務?」
「やはり、エス君の言い分も聞いてやってもらえませんか?」
「わ、私からも、お願いします――」
将棋さんが恐る恐るの態度で常務を援護した。
「くどいぞ。それはできんと事前に伝えただろう!」
社長は断固として俺をこの会社から追い出すつもりらしい。
俺だってもうこの会社にいるつもりはない。
それでも――。
「エヌの親父さん。俺とエヌはかなり前から付き合っていて――」
これは駄目元も駄目元だ。
俺はエヌの親父さんへ声を掛けた。
「貴様はまだわからないのかっ!」
エヌの親父さんが俺の胸倉をひっ掴んだ。
「エフ君!」
「暴力は駄目だと言っているだろう!」
「落ち着きなさい!」
創業者の血族が寄ってたかってエヌの親父さんを俺から引きはがした。
俺は抵抗をしなかった。
今の俺はエヌの親父さんから殴られても文句を言えない――。
「――コヒュ――先生、儂の孫娘の命は助かりそうか?」
会長が呻くように言った。
「今のところ命に別状はありません。しかし、早急に病院で処置をしないと――呼びかけに応じないのが心配ですね。これは外傷性ではなく精神性のショック症状のように見えます。私は精神の専門ではないので断言はできませんが――この患者は以前から、何らかの精神病を罹患していましたか?」
医者の先生が訊いた。
創業者の血族は押し黙った。
返事をしない身内の手で拘束されたエヌは虚ろな視線を彷徨わせている――。
「――わかりました。戻って退職届を提出します」
俺は踵を返した。
ここで粘ってみたところで、俺はエヌを余計に傷つけるだけだよな――。
「ああ、そうしろ。二度とエヌに近寄るなっ!」
俺の背へエヌの親父さんが怒鳴った。
役員会議室を出た瞬間、みぞおちに刃物を打ち込まれたような痛みが走った。役員フロアの廊下が歪んで見える。近場のトイレへ駆け込んで個室の便器へ嘔吐した。胃液しか出ない。脂汗と身体の震えが止まらない。
嘔吐したものに血は混じっていないようだけど――。
「――俺も限界か」
便器に溜まった胃液へ涙が落ちた。
「あー、本部長。俺は会社を辞めますんで」
デスクに戻った俺はテンプレート通りの退職届を作ってナメクジ本部長へ提出した。
「ああ、エス。二週間、有給を使っていいぞ。えーと、補佐、補佐!」
ナメクジ本部長は退職届の封筒を眺めたまま言った。こんな神妙な顔つきのナメクジを見たのは初めてだ。状況が呑み込めていないらしい。ナメクジはどちらかと言えば経営陣側にいる。しかし、あの役員会議室には呼ばれていなかった。経営陣の手先だけど支配者の血族ではないということだ。ナメクジは俺が退職する理由を知らされていない。この様子だと「理由を訊かずにエスの退職届を受理せよ」そう役員どもから指示されているのだろう。
「――あ、はい」
デスクにいた補佐が席を立った。
「今から補佐はエスが会社の備品を持って帰らないように監視するんだぞ。上からきつくそう指示されたぞ」
そう指示されたのはナメクジだろうけど、こいつは面倒な仕事を部下へ丸投げする奴だ。
「あ、はい、わかりました――」
補佐がナメクジと同じくらい神妙な顔つきで俺のデスクまでついてきた。
「この万年筆は持っていきますよ」
俺はデスクの上の万年筆を手に取った。これは、アールさんの形見の品だ。社葬で活躍した例の弁護士の若先生が「あの猫ちゃんたちのお礼です」そんな短い手紙と一緒に郵送してきた。この他のものは、ほとんどが会社の備品だった。
「うん、私物は持って帰っていいよ――あ、そうだ、スマホを忘れずに置いていってくれ。あと営業車の鍵ね――」
補佐が遠慮がちに言った。
俺は黙ったまま内ポケットからスマホと営業車の鍵を抜いてデスクに置いた。
「おい、課長、この野郎。俺たちに会社を辞める理由を話していけ、理由をよっ!」
デブが吠えた。
「この上司野郎、いきなり辞めるって、どういうことなんだよ?」
ヤン子が唸った。
「課長は一体、何を考えているんですかっ!」
チマ子が叫んだ。
俺が本部長のデスクへ退職届を置いた瞬間、後ろで同僚の何人かが走る気配があった。誰かが辞めるという話は職場に一瞬で広がるものだよね。実際、このフロアにいる同僚は全員、間の抜けた顔で俺を眺めている。
入社したとき、ここにいたほとんどの人間が俺の敵だった。
今はそれが個人的に好きだったり嫌いだったりするていどの同僚になった。
戦友と呼べる人間も少なからずいる。
金髪だとか、デブだとか、メガネだとか、ヤン子だとか、チマ子だとか――まあ、たいていは俺の部下や元部下どもだ。
とにかく、俺は十年以上、このフロアで働いてきた――。
「――辞める理由か。三千万円前後の小銭を会社から抜いてやった。それが見事にバレた。それだけだぜ。後のことはお前らだけで何とかしろ。今のお前らなら、できる筈だ」
俺は軽くなったビジネスバッグを手に部下へ背を向けた。
「おい、補佐、どういうことなんだ。会計の数字に疎い課長の野郎が、横領なんてチマい悪さできるわけないだろ!」
「この補佐野郎、さっさと言えよ、オラ!」
「補佐、すぐ私たちに納得のいく説明をしてくださいっ!」
「そ、そんなことを言われても、僕だってまだ何がなんだか、よくわからないから!」
デブとヤン子とチマ子が補佐に詰め寄っている。
俺はエレベーターへ乗り込んで一階のボタンを押した。
一度も振り返らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます