あの月曜の夜、俺のマンションへ、リュックサックとハンドバッグとボストンバッグとキャリーバッグとエヌが転がり込んできた。俺と彼女はたった一度の肉体関係を持っただけだ。それだけで、エヌは押しかけ女房を決心したらしい。

 二人並んでソファに座った。

「何度も何度も連絡しようって――でも、もし、エス先輩に断られたらって――」

 エヌはもじもじ言った。そう言っているけど、こいつは確信犯だ。確信がなければ、こんな大荷物を用意してこない。エヌはコネ入社組だと思う。それでも頭の悪いお嬢様ではなさそうだ。俺が考えていることなんてお見通し。直前まで連絡しなかったのも意図的に。そういうことだ。

「エヌは私服だよな。会社を辞めて俺のところへ来ちゃったのか?」

 これは俺に自分の生活の面倒を全部見ろということなのかな。

 女の子が男のヒモになることを何と言うのだろう。

 籍を入れたわけではないから専業主婦とは違うね。

 あっ、家事手伝いか――?

 俺は缶ビールを片手に警戒した。

 ブランド物のバッグだのなんだのを無計画に買い込むような女は養い切れねェぞ。

「会社、辞めてませんよ。わたし、今日は有給で――?」

 エヌは焼き鳥の串を片手に小首を傾げた。有給休暇を利用して引っ越しの荷物をまとめていたとのこと。

 ここで、俺は傍と気がついた。

「あ、俺は入社してから有給ってまだ一度も使ったことがないや」

 エヌは身体を丸めて笑った。

 俺も「あはは」と笑っていたけど、すぐ笑えなくなった。

 冗談ではない。

 俺は入社以来、一度も有給を使った覚えがない。俺の働き方と、うちの人事課は明らかに異常だ。今後もこのペースで働いていると仕事に殺される。実際、俺はついさっきまで自殺願望に捕らわれていた。その俺をエヌが救ってくれた。俺は天使のようなこの彼女と一緒にいる時間をできるだけ長くしたい。

 この夜から自分の働き方を見直した。

 自分専用の予定表を作って、過去の行動を見直し、先の予定をこまめに修正する。会社のなかでも外でも仕事の無駄を細かく探して取り除く。仕事の延長線上にある飲み会や遊びの誘いは必要なものと不要なものをはっきり分ける。営業車の運転は前よりずっと荒くなった。アールさんの指示を受けたら鉄砲玉になるのは変えられない。俺はあのひとが未だに超怖いし恩義もある。今の俺があるのはK社グループがあったからではない。アールさんが上司だったからだ。アールさんは出会ったときからずっと俺を叱ってくれる。俺のような低学歴の不器用なクズ野郎を見放さなかった。今となっては感謝の念しかない。もちろん、入社当時は夜な夜な恨んだ。どうせ眠れないなら丑の刻参りでも試してみようかと真剣に考えていたほどだ。

 働く時間を削ると仕事から追い詰められないかなと心配をしたけど、そこまで会社で積み上げてきたものが功を奏したらしい。仕事の効率は俺の考える限りで変わらなかった。部下の仕事は増えて文句も増えた。これは無視した。俺は夜の九時前後にはマンションへ帰れるようになっていった。

 一方、エヌは俺のマンションから毎日のんびり出社してきっかり定時で帰っていた。本人に訊くと以前と変わらないらしい。エヌは経理課で一日中PCを相手にデータを入力している。それが得意だし、仕事が嫌いではないそうだ。

「わたし、課で一番、業務アプリを上手に使えるんです」

 エヌはちょっと得意気に言った。

 俺の部屋にいるときのエヌはよく笑って普通に喋った。でも外へ連れていくとやっぱり駄目だ。俺が相手でもまともに会話ができなくなる。だから、俺とエヌはお互いの時間が許す限り部屋にいた。そこで何をやっていたかと言えば、エヌのおいしい手料理を一緒に食べて、他愛もない会話をして、持ち帰り残業が無いときは一緒に映画を見て、映画を見終わった後は対戦ゲームをして俺のほうが散々打ち負かされ不貞腐れて、その合間合間にいちゃいちゃしてた。処女を卒業したエヌはすげえエッチな女の子になった。もちろん、俺のほうは歓迎だ。もっとエッチでもいいんだよ。そんな感じの同棲生活は順調だった。本格的な喧嘩をした記憶が一度も無い。それでも、小さな問題はあった。俺は事前に予想していた。やっぱりその通りだ。

 エヌの金銭感覚は壊れている。

 俺の銀行口座から金を抜くわけではないから生活は破綻しない。エヌは自分の口座に会社から収入がある。使うのは彼女自身の金だけど、それでも贅沢が過ぎた。エヌが自分のために化粧品だとか可愛い服だとか靴だとか下着だとかを――女の子グッズをインターネットで買いつけるのは良しとする。発注する食材がことごとくオーガニック系の高級品なのも目を瞑っておく。彼女の家具だって必要だろう。

 しかし、無断で俺のビジネススーツだとか仕事用の小道具を更新するのはいただけない。最初に貰った腕時計もそうだ。他の小道具もすべて高級品だということはすぐわかった。スーツだけは部下から指摘されるまで気づかなかった。俺のクローゼットに並んでいるのは、すべてオーダーメイド品らしい。どれだけの費用をかけたのか想像もつかない。そもそも、俺の身体の正確な寸法を、エヌはどうやって先方へ伝えたのか――。

 お前、これ以上の無駄遣いをするな!

 俺はそれを強く言えなかった。俺が本気で怒るとエヌは顔色が変わる。俺は彼女の笑顔が好きだ。泣いている顔だって場合によっては好きだ。でも彼女が不安で真っ青になった顔はもう二度と見たくない。

「エヌは自分の金を使ってまで、俺に良くしてくれる必要はないからな――」

 俺は声を落とすしかなかった。俺がマンションの家賃や光熱費を出している。だから、エヌが自分の金で俺の身の回りのものを購入したくなる気持ちも、わからなくもないのだけど――。

 エヌと籍を入れてしまおうかと何度も考えた。銀行口座をまとめて俺が家計の管理をすればいい。エヌも喜んで同意してくれた。ここでまた問題発生だ。俺はエヌの両親に会う度胸が無い。この彼女の実家は俺の田舎の田園調布のような土地にあるという。どう考えても超いいところのお嬢様だ。「お前のような貧乏長屋産まれのFラン大卒へ、うちの大事な姫は、とても、やれぬわ!」そんな感じで彼女の親父殿から突っぱねられる可能性は高いと思う。それに、エヌ自身も俺が彼女の家族と会うことを嫌がった。俺のところへ来てからエヌは一度も実家へ帰っていない。帰りたがる素振りも見せない。訊くと、やはり彼女の家庭環境には面倒事があるようだ。エヌは今の母親と血が繋がっていないという。

 話しているうちにエヌの顔が青ざめていった。

 身体が震えだしてもいる。

「あ、この話は一旦、保留。エヌの気の向いたときに話してくれればいいから」

 俺のほうから話を切り上げた。

 これだけは、どんなひとの人生だって同じだろう。

 いいことばかりではないのだ。

 エヌと同棲を初めて三か月くらい経った頃だ。

 俺の親父が死んだ。何度も見舞いに行ったから知っていた。親父は大腸癌だった。医者嫌いの親父がお袋に泣いてせがまれ病院へ行ったときには、もう手遅れだ。それでも、一応、手術をして帰宅することができた。その後の検査で癌の再発と転移が判明してからは半年も持たなかった。病院に呼ばれて親父の死に水を取った。死を待つだけの患者は、たいてい、死を待つだけの個室へ移される。病院の個室に俺の親父の死臭が充満していた。尿道カテーテルを通して、医療用ベッドの脇から下がる袋へ溜まった親父の黒い血尿が、魚の腐ったような臭気を発散しているのだ。

 俺は覚悟をしていたから、動揺しなかったし、泣きもしなかった。そのうち、親父の心電図がフラット・ラインを示した。看護師を引きつれた若い医者がやってきて、親父の心音と瞳孔を確認すると、

「ご臨終です」

 そう言って、俺とお袋へ頭を下げた。

 そのヘボ医者は何の感情も籠っていない事務的な態度だった。

 大病院勤めのサラリーマン医者なんてのは、たいてい、こんなもんだ。

 お前がやったことは、俺の親父を病院の薄暗い一室へ押し込めて、いつになったら死ぬのかなあと眺めていただけだぜ。

 てめェのどこらへんが、医者の先生なんだ、笑わせるんじゃねェよ。

 俺は理不尽な憤りを覚えていなかったわけでもないし、悲しくなかったわけでもなかったのだけど、それよりも、肩の荷を降ろしたような気持ちがずっと強かった。これで、親父が癌のクソ野郎に苦しめられることはなくなったよな。そんなことも考えた。お袋はひいひい泣いた。これは昔から感情的で神経の細いひとだし、俺が何を言っても右耳から入って左耳から抜ける態度だからどうしようもない。親父も似たようなものだった。子から見ると親なんて、みんな、そんなものだと思う。親のほうに尋ねれば、似たようなことを言うのかも知れないけど――とにかく、お袋は頼りにならない。親父の葬式の段取りは、親戚と葬儀屋と田舎の近所づきあいが助けてくれた。

 通夜を終えて、マンションへ一旦戻ると、エヌが俺の親父の葬式に参列したいという。

「そう言ってもなあ。俺たちはまだ籍を入れてないだろ。エヌは葬式に顔を出さなくてもいいんじゃないの――」

 クローゼットの扉の内側にある鏡を見ながら、黒いネクタイを締める俺の後ろで、貴族令嬢のような喪服姿のエヌがめそめそ泣き始めた。どうしても葬式に参列したいらしい。

 くっそ、葬式前から辛気臭いな。

 そもそも、俺の彼女と両親を初めて引き合わせるのが、葬式みたいな陰性の会場でいいものなのか。

 しかも、その両親のうちの片方は棺桶へ入っているんだけど――。

 かなり迷った後で、俺はエヌを葬式へ連れていった。

 鯨幕(※葬式で使う白黒の幕)に囲われた実家で、エヌをこそっと紹介すると、お袋はさらに泣き崩れて、

「ああ、お父さんにも、これを見せてあげたかった。これを見せてあげたかった。エヌちゃんね、エヌちゃん。私の息子はどうしようもなく性格にクズなところがあるけれど、性格にクズなところがあるのだけれど、根っから畜生ではないと思うからね。親の贔屓目かも知れないけれど、畜生とはほんのちょっとぐらいは違うと思うからね。だから、じっと辛抱をして面倒を見てあげてね。これは絶対にエヌちゃんへ苦労をさせるだろうからね。それだけは間違いないからね。今から覚悟をしておいてね――!」

 嫌な予感はあったけど案の定だ。お袋が取り乱した。読経前に収取がつかなくなった。ほら、玄関口で坊主が困ってる。葬式の司会がマイクへ変な咳の音を入れた。葬儀屋の連中は笑いを堪えるのに必死だ。親戚連中がお袋を取り囲んで慰めるやら諫めるやらで大変そうだ。俺は恥ずかしい。顔から火を噴きそうだ。俺の親父の魂も棺桶の横でうつむいて震えていると思う。俺の横でエヌはかちこちになっていた。

「エス、お前のお袋さんが言う通りなんだぞ。このエヌちゃんはな、お前のような小チンピラにはもったいのない女の子なんだ。絶対に逃がすなよ。奇跡ってやつは二度も起こらないからな」

 親戚連中はそんな内容のことを何度も何度も俺に言い聞かせた。ニコリともしない。どいつもこいつも真顔だった。俺は焼き場でやった精進落とし(※葬式の後やる飲み食いの席)で、この無神経な親戚連中へビールを注いで回った。マジでイライラした。エヌとお袋は俺の横にくっついて親戚連中へ頭を下げた。

 こんな感じで、親父の骨は骨壺に収まって、親父の魂は焼き場の煙突から真冬の青空へ上っていった。

 たぶん、俺の親父の行先は天国だ。

 たぶん――。


 §


 春先に、また訃報が舞い込んだ。

 遠縁のおじさんが逝った。

 俺のスマホへ親父方の親戚筋からその知らせが届いたのは会社にいたときだった。必ず葬儀へ顔を見せなければならないほど血の繋りは濃くない。でも、大恩のある遠縁だ。できれば通夜に参列したい。入社後、不動産の防災関係の面倒なリサーチで行き詰まって一度だけ世話になった。そのとき紹介してもらった大学教授への取材を元に作った資料は、当時としては珍しくアールさんの査定に一発で通った覚えがある。

 顔を突き合わせてお礼を言う前に逝かれてしまった――。

「――通夜は明日の夕方か。親等が遠いから忌引き休暇はちょっと使えそうにない。こんな急に有給って使えるものなのかな?」

 デスクで迷っていると、アールさんが歩み寄ってきて、

「これは上司の命令ではない。個人的な頼み事だ。エスは私の代理で先生の通夜へ参列してくれ。有給を好きに使うといい」

 アールさんは封がしてある香典袋二つと自分の名刺、それに抜き身の諭吉五枚――交通費とその他雑費を俺へ突き付けた。「個人的な頼み事」そう口では言っているけど、俺に有無を言わさない態度と行動だ。どうも、この様子だと大学生時代のアールさんは遠縁のおじさんの教え子だったらしい。泣いてはいない。でも、アールさんの瞳の奥に悲嘆がある。それは遠い過去から滲み出てくるような感情の色だった。俺はアールさんのこんな表情を初めて見た。

 細かいことは訊かなかった。

 翌日の朝、俺は東へ向かう新幹線に乗った。遠縁のおじさんの自宅は東の都の中心から少し外れたところにある。

「へえ、大都会にも田園風景ってあるものなんだ――」

 都会駅前で拾ったタクシーのなかで感心しているうちに、通夜の斎場――遠縁のおじさんの自宅へ到着した。外壁で囲われた和風建築の大きなお屋敷だ。表の道に緑ナンバーの高級車がずらりと並んでいる。参列者はおじさんの教授時代の教え子が多いようだ。省庁のエリート官僚や、経済紙で特集を組まれるような企業の重役もちらほら見た。先方は俺の顔を知らないだろうけど、俺は先方の顔を知っている。そんな感じの勝ち組どもだ。それが次から次へ増えていく。他人の目を盗みながら名刺交換をやっている奴も多くいた。

 外門の受付で登記を済ませて香典を置くと、葬儀屋のスタッフがお屋敷へ案内してくれた。俺が案内されたのは椅子を並べたお庭のほうだった。畳敷きの大広間には参列者が廊下まで溢れている。俺より遅く来た奴らは席が足りなくて通夜の立ち見になった。太った年取りの坊主が読経を始めた。ぞろぞろ焼香をやるから時間がかかる。経文の同じ個所を繰り返す坊主の声が掠れていった。庭にいる参列者は回し焼香(※香炉を参列者で回す簡易焼香)だった。読経が終わると喪主――遠縁のおじさんの奥さんがマイクを通して参列者へ挨拶をした。俺の前のいた重役風リーマン野郎のでっかい後ろ頭が邪魔で奥さんの姿がよく見えない。邪魔だぞデブこの野郎。地球の環境と俺の視野へ無駄な負荷をかけてるんじゃねェよ。何様のつもりだ。お前は迷惑だから今すぐにでも死ね。イライラしていると、参列者がその奥さんへ挨拶をするために列を作り始めた。列を管理しているのは葬儀屋のスタッフだ。散々待たされてようやく俺の番がきた。

 畳に膝をついたままにじり寄って、

「この度は、ご愁傷様でした。自分はおじさんの遠縁のエスというものです。奥さんのご記憶にあるかどうかはわかりませんが――」

「エスさん、ですか?」

 奥さんは俺の下げた頭へ言った。白糸の滝に首筋をとつとつと打たれる。そんな印象の声だった。

「今から十年と少し前の話になります。おじさんに就職のお世話をして頂きました。その縁で、自分は今もK社グループに務めて――あう――」

 俺の呼吸が頭を上げたところで止まった。

 たいていの男を呼吸を止める、ものすごい喪服美人が、お座布団の上で居住まいを正している。

「K社グループ――あっ、栗ご飯のエスちゃん!」

 奥さんは目を開いた。

 春の青空のような淡い色彩の瞳だった。

 日本人としては、かなり珍しいのだけど、こんな瞳の色のひとも稀にいるのだ。

「え、ええ、俺はあのときの栗坊主です。覚えていていただけましたか」

 俺は無理に笑った。奥さんは視線を斜めに落としてほうっと溜息を吐いた。春の嵐のようだった。電車相撲だ。お相手にならない。俺の営業仮面が一瞬で吹き飛ばされた。

 これは人間の格と価値が、俺とはまるで違うよう、だね――。

「頬っぺたにお弁当をつけて笑っていたあのエスちゃんが、こんなにも男前な笑顔を女性ひとへ見せるようになったのね。あのひとの通夜の席でなければ、お茶のひとつくらい、私の手で出していたのに――」

 奥さんは近くでお茶を煎れていた葬儀屋のスタッフ――女の子二名へ目を向けた。参列者が多いので茶碗の数も当然多い。使用前の茶碗も使用後の茶碗も小山のようになっていた。出されたお茶に口をつけてみる。ほら、やっぱり出がらしの味だ。

「――残念」

 奥さんは俺へ視線を切り返した。流し目のお手本のような仕草だ。真っ赤な口紅が塗られた唇の脇に黒いほくろが一つある。俺の瞳のなかでその赤い唇の端と黒いほくろが、ゆるゆる吊り上がった。奥さんの全身からカミソリのような色気が迸る。

 俺に年増趣味は無いと思う。

 喪服フェチでもないと思う。

 後家殺しでもない。

 後家に殺される可能性は今後あるかも知れない。

 俺の背筋にピンク色の稲妻が走った。奥さんの年齢はアールさんと同じくらいかな。いや、それよりちょっと下なのか。いやいや、もっとずっと若いのかも――考えているうちに自信が無くなった。とにかく、奥さんは年齢不詳の美人だ。昔の思い出がお互いの会話を長くした。当然、挨拶の順番待ちも長くなる。俺の後ろで金だけはたくさん持ってそうなおっさんどもが、うきうきそわそわイライラしていた。俺の背に刺さる奴らの視線がむやみに鋭くやたらと熱い。訊かなくても奴らの気持ちはよくわかる。

 俺のほうから話を切り上げた。

「だめ、待ちなさい。エスちゃんも通夜振る舞い(※通夜が終わったあと飲み食いする会席)へ――」

 奥さんが俺の背へ掛けた声は聞こえなかったことする。正直、未練はあった。俺は歯ぎしりの音と一緒に男の未練を噛み殺した。遠縁が通夜振る舞いに参加しないのは普通のことだ。俺の行動が正しい。あの奥さんは色々と間違えてる。俺はお屋敷の表へ飛び出して、スマホでタクシーを呼び、煙草をくわえたところで首を捻った。

「あの通夜には何かが足りていなかったような――?」

 首を捻ったままでいると、親戚の別のおじさんと鉢合わせた。

 これは、お互いよく知った顔だ。

「おう、エスも来てたかよ!」

「あ、おっちゃんも来てたの!」

 直近では俺の親父の葬式でも顔を合わせた。このおっちゃんは死んだ親父の末の弟になる。痩せぎすのバーコードハゲで、一人社長でやるような商売を立ち上げては潰し、立ち上げては潰しを繰り返している、人柄と人生にこってりとしたコクのある叔父だ。

 おっちゃんと一緒に煙草をばかすかふかしながら話をした。

 遠縁のおじさんの大元の死因は膵臓癌だった。こいつは癌軍団のなかでも別格のサイレントキラーで、発見されたときはもう手遅れになっていることも多いと聞く。得られた情報がもう一つ。遠縁のおじさん夫婦は子宝に恵まれなかった。通夜に足りなかったのはこれだ。通夜の席には、おじさんの子供らしいひとが一人も見当たらなかった。

 そのうちに、タクシーが到着した。

「このタクシー、俺の上司の奢りなんだ。今なら都会駅までタダ乗りできるぜ。おっちゃん、どうする?」

「ああ、俺はお屋敷で酒飲んで一泊して葬式まで付き合うわ」

 おっちゃんは棺守り――実質的なお泊りをするという。図々しいと言えばいいのか、要領がいいと言えばいいのか。ずっとこんな感じで生きているひとだと前から知っていた。それでも俺は呆れた。

 その上にだ。

「おい、今夜の俺は従兄あれの後家と一つ屋根の下だぞ。あのどすけべな後家とでけえ遺産を見逃しておく手はねェ。いい機会だから、エスもこれを覚えておけ。こういうのはな、早い者勝ちなんだよ」

 おっちゃんはタクシーの窓から顔を突っ込んで言い放った。

 顔は笑っているけど目が完全に血走ってる。

「あのな、おっちゃん――」

 俺は言葉が続かなかった。俺と血が近い親父方の親戚はゲスで貪欲な貧乏人が多い。このおっちゃんの場合は戸籍に×の字が二つもある。子供の養育費の支払いから逃げ回っているので、いつだって住所不定かつ勤務先不定だ。この手のゲスではない身内は、おおむねアル中かキ●ガイかだ。例外もある。死んだ親父の上から二番目の兄貴だ。ずっと刑務所で暮らしているから俺はまだ会ったことがない。いつか会える日がくるといいね。

 俺の親父は、こいつらと比べたら聖人君子も同然だったよ。


 帰りの新幹線のなかで考えた。

 遠縁のおじさんは、一生見ることができなかった自分の子供の姿を、幼い頃の俺の姿に重ねていたのだろうか。だから、俺が学校を出ても無職でぶらぶらしていると耳にした遠縁のおじさんは気を回して、アールさんへ声を掛けて――。

「――あのう、失礼ですが」

 自由席で隣り合った年配のサラリーマンから声を掛けられた。

「はい――?」

「お身体、どうかなさいましたか?」

「あ、大丈夫ですよ。遠縁の通夜帰りです」

「ああ、これはまた余計なお世話をしたようで――」

「いえ、そんなに頭を下げないでください。逝ったのは、自分が昔、たいへんなお世話になったひとでした。それで、涙くんの野郎が勝手に――」

 俺は目尻の涙を指で弾き飛ばした。

「それは、お気の毒に――ご愁傷さまです」

 その気のいいリーマンの親父さんと話をした。お互いの仕事が話題だった。会社員を十年もやっていると、自分が仕事をしているのか、仕事が自分を使っているのか、わからなくなる。缶ビールを奢られたり、通夜で持たされた豪華なお弁当をおつまみとして分け合ったりで盛り上がり、別れ際に名刺交換までしてしまった。渡された名刺をよくよく見ると、田舎に根を下ろしてテコでも動かない俺と俺の会社と違って、あの親父さんは世界を股にかける企業戦士だ。でもなあ、俺の会社って、あの親父さんの企業のライバルと仲良くしているんだよね――。

 それでも、俺はホルダーに親父さんの名刺を差し込んでおいた。

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