月曜の定時十五分前。

 企画書を提出してから五分で呼び出された。

 俺はアールさんのデスクの前で直立不動の体勢だ。

「ん、おおむね、よし」

 企画書と資料の束へ恐ろしい速さで目を通したアールさんが判子をついた。IT化だDX化だと言ってもだ。最終的には紙と判子で仕事を動かす会社が多数派だと思う。少なくとも、うちの会社はまだそんな感じだ。

 俺はアールさんのデスク周辺をウロウロした。

「エス、何をウロウロしている?」

 当然、こう訊かれる。

「ああ、いえ、自分は本部長からの指示を待っているのですが――一旦は通った筈の企画書への細かいダメ出しだとか、そのダメ出しが終わった直後に何枚もの指示書をほぼ無言で突き付けられるだとか、難しい経営面の議題が深夜まで飛び交う部署間の会議へ有無を言わさず付き合わせるだとか、夜の酒と一緒にやる細々とした社内の打ち合わせへ本人のプライベートを一切無視して代行させるだとか、そこまでやってきたこととはまるで畑違いの分野にある新規事業プロジェクトのヘルプへ何の説明もせずに放り込んでチームもろとも何か月も血反吐を吐くような思いをさせるだとか、本人の人格や政治思想の完全否定にまで及ぶお説教を延々聞かされるだとか――本日は月曜日ですよ。この他にも何かしらの指示は必ずあるものかと――」

 アールさんは俺の腕時計へ目を向けて、

「あと五分で定時だな」

「ええ、もうすぐ定時のようですが――」

 俺は部署の時計へ目を向けた。いいことではないと思う。だいぶ前から定時を気にすることが無くなった。俺は労働者が最低限持つべき権利意識のほとんどを破壊されている。労働者というより人間が最低限持つべき権利意識かも知れない。そもそも管理職には定時というものが無い。中間管理職みたいな実質的に出退社時間を本人の自由意思で決定できないミソッカスのような役職でも、労働基準法上では、それができる筈だろそうだよなと定義されているらしいのだ(※)。とにかく、俺は社会的通念を徹底的に破壊されている。

 今、目の前にいる、このひとの手でだよな――。

「――まだ、エスは上司からの指示が無いと帰宅もできんのか。そう言われると、その指示待ちの勤務態度は入社以来、ほとんど改善されていないように思えてきた。貴様は今から、その訓戒を受けたいのか?」

 PCのモニタを眺める顔はまったく笑っていない。それでも笑っているような口調ではあった。俺はアールさんの笑顔を一度も見たことが無い。部署にいる誰に訊いても見たことが無いという。俺はこのひとが退社するまでに一度くらいは笑った顔を見てみたいなと思っている。部下になって十年が経つ。今もって尚、カミソリのような切れ者で、丸くなる気配は微塵も無いけど、このひとはもうすぐ還暦を迎える年齢だ。あ、このひとの場合は、もう一つ上の役職――執行役員だとか取締役へ出世するのかも知れないね。そうなると定年は無くなるのかな。先のことはわからないけど、少なくとも、アールさんが経営企画本部のデスクにいるのはそう長くないと思う。

「いえ、本部長に、これ以上のお時間を取らせることを自分は望んでおりません。本日は、これでお先に失礼させて頂きます」

 俺は腰を折って頭を下げた。

「ん、お疲れさん」

 アールさんはモニタを眺めたまま言った。


 俺は自分のデスクへふらふら戻って、

「わぁあ、物産展の企画書、アールさんに一発で通っちゃった。信じられないことに残業の指示も出なかった。そういうわけで、今日は俺もお前らも定時で帰れるぞ」

「おおーっ!」

 部下が揃って声を上げた。

「大袈裟だな。でも嬉しい気持ちはよくわかるぜ。俺がお前らと同じ新米だった頃は、アールさんへどんな書類を持っていっても、ゴミ箱へぽんぽんぽんぽんと――お前らって人格はそびえ立つうんこ山脈だけど、仕事をさせると本当に優秀だよな。あ、Fラン大卒の俺とは地頭の出来栄えが全然違う――のか――?」

 俺は声を詰まらせたのだけど、

「パイセン、とうとうアールさんの残業強要に反抗したんスね。反抗はまさしくパンクの魂っスよ。パイセンは今日からパンクな中間管理職っス!」

「マジかよ、この野郎、もう命が惜しくないんだな。ちょっと見直した。ちょっとだけだけどな!」

「ああ、降格処分ですか。それとも解雇ですか?」

「今度はどんな悪さをやらかしたの、教えなよ!」

「まさか、監査で細かい経費の使い込みがとうとうバレて――!」

 俺の部下は誰もしんみりしてくれなかった。

 これが若さだ。

「――ああ、もう、アールさんの気が変わらないうちに帰れ。さっさと帰れ!」

 今の俺のデスクはアールさんのデスクからちょっと離れた場所にある。それでも声を低くした。アールさんから一番近いデスクは空席だ。つい先日、意識高いだけ系の新人君の名前が戦没者リストへまた追加されてしまったのだ。嘆かわしいね。

 帰宅の準備を終えた俺は、定時を過ぎてもデスクにいる同僚を見かけるたび、「ばーか、ばーか、お前らまだ働いてるのか、ばーか!」そう内心で呼びかけながらエレベーターに乗った。エレベータの箱から出たときは「俺は自由だ、何だってできる、何だってやれる!」そんな気持ちになったし、それを声に出しても言った。休日よりも嬉しかった。

 だけど、会社から一歩外へ出た途端に気がついた。

 俺は残業を持たずに帰宅すると、ビールを飲みながらコンビニ弁当を食って部屋の掃除をするだけだ。いい機会だから積みゲーを消化するかなと考えた。いや、これだけ時間があるのなら他にも何だってできる筈だと考え直した。しかし、いくら考えてもやりたいことが見つからない。やるべきことも見つからない。会社員としてはどうだか知らん。ふと足を止めて考えると、俺という男は入社してからこれまで、私生活の積み重ねがまったく無い。

 予告無しで胸元へ核弾頭をぶち込まれたような気分だった。

 目の前を暗くしたまま歩いていると自動車のクラクションがすぐ近くで鳴った。横断歩道が無いところを渡りそうになっている。本気で帰宅が怖くなってきてスマホを確認した。週末は仕事絡みの付き合いで夜の予定が立て込むことも多い。でも今は月曜の夕べだ。お誘いは一件も無かった。

 エヌからのメッセージも無い――。


「――それで、お前らはどういう目的で俺についてきてるんだ。独身寮があるのは真逆の方角だろ」

 後ろを部下五人がずっとついてきている。

 俺はついてこいと言っていない。

「パイセーン、珍しく揃って早上がりっスよ?」

 金髪は呆れ顔だ。

「定時で退社することを早上がりとは言わん。一般的には、それがごくごく普通の働き方らしい。何の用だ。さっさと言え」

「何って、上司のアフターは部下を飲みに連れていくのが昔からの定番っスよね」

「嫌だね」

 俺が即答すると、

「課長代理は昨日、俺たちがセッティングしたBBQをすっぽかしただろ。今からその穴埋めしてくれよ、穴埋めをよ!」

 デブが吠えた。

「へえ、穴埋めか。確かに俺はデブをぶっ殺して墓穴へ埋めてやりたい気分になってきた。今夜は時間がたっぷりあるし、それも、いいかもな――」

 デブは褒められたように照れ笑いをしているけど俺は本気だ。高級こどおじ部屋には刃渡り三十センチのサバイバルナイフだって用意してある。仕事上の付き合いでやった山奥のキャンプで一度だけ使った。川魚を捌いた。ぶっちゃけ包丁のほうが使い勝手が良かった。二度目は、あれで人間を捌くことになるかも知れないね。

「うふうぅ――!」

 メガネの溜息だ。

「なんだよ、このクソメガネ、言ってみろ。聞きたくないが聞いてやる」

 俺は呼吸をするだけでこんなにも他人を不愉快な気分にさせる人間をまだこいつの他に知らない。

「まったく、信じられない。課長代理はこんな簡単なことも説明をしないと理解できないのですか。今から行う予定の会食は相互コミュニケーションが目的ではありません。私どもはアルコールの力を拝借して課長代理が失恋へ至った過程を根掘り葉掘り訊きだし、それを一方的に嘲って楽しみたいのです。私の考えうる限り、これが今あるチームの総意だと思いますが――?」

 メガネは頭を振って溜息をまき散らした。

「メガネ、そんなことは俺もわかっているし、それを明確な発言にする奴は、本当に頭がどうかしているんじゃないかと疑われても文句を言えないと思うぞ」

 俺の皮肉にメガネは相手を憐れむような視線を返している。

「今日の課長代理、振られた女からの連絡待ちで、一日中スマホをちらちら見てただろー。あんなモン見せられたら、笑いを堪えるのに必死で、こっちは仕事になんねーよ。アンタ、恋に恋する中高生なのかよ。もう、勘弁してくれよな!」

 ヤン子がギャハハと笑いながら俺の背中をバンバン叩いた。死ぬほど悔しいけど、ヤン子が笑いを堪えていたという部分以外はすべて事実だ。あのときも今も俺はうつむいて震えることしかできなかった。

「でも、それって間違いなく終わった恋なんですよね。課長代理って本当にしつこくて未練がましい愚図な三十路の男やもめなんですね!」

 チマ子がちょっと昔の少女漫画の主人公っぽい感じでキラキラ笑った。発言の内容が気に食わないので俺への印象は差し引きするとマイナスだ。

 今期に入って、俺は独身のまま、かつ、付き合っている女もいないまま、三十路山の頂きに立った。

 だから何だようるせェな頼むから放っておいてくれ。

 俺は泣き叫びたかったのだけど部下の手前だ。

「――まあ、他のチームから横流しされたクソ企画を無難に修正処理した直後だ。アールさんが定時で囚人解放を決定したのは、その気遣いもあるのだろ。もう知っての通り、お前ら直属の上司が部下を連れていくのは場末の安居酒屋に限ってる。今夜は、お前らひ弱な新人類が、焼き鳥屋のカウンターでドッグラン(※犬の競争。競馬みたいなもの)を始めるゴキブリに耐えられるかどうか試してやるつもりだ。安居酒屋に二度と足を踏み入れられなくなる精神的外傷トラウマを負っても、後で苦情は受け付けないからな」

「やたー!」

 部下どもは万歳をしながら喜んだ。

「どっちが中高生なんだか――こっちだ。さっさと来い」

 俺は路地裏へ足を向けた。


 §


 部下を連れていったのは、何世代も前のグラドルがビキニ姿でビールジョッキを掲げて笑っているポスターが、品書きと一緒に汚い塗壁へぺたぺた貼られている古ぼけた焼き鳥屋だ。愛想のいい初老の親父さんが一人で切り盛りしている。ただ、愛想が良くても、親父さんが自分から客に話を振ることは滅多にない。

 その親父さんが目を丸くして、

「あひえっ、あのエスちゃんが立派な若い衆を何人も引き連れて――知らないうちに随分と出世してたんだねえ――」

 一人飲みをしているときの俺は、くたびれたスーツ姿で酎ハイのジョッキを片手に、店の小さなテレビのプロ野球中継をぼけえっといつまでも眺めているような男だ。傍から見ると貫禄も覇気も無いと思う。それは自分でもよくわかっている。

「あ、常連のおじさん。今夜は部下が騒しくすると思う。先に謝っておくね」

 俺はカウンター隅のおじさんへ声を掛けた。いつも新聞を読みながら一人で飲んでいる、俺と似たような安っぽいスーツを着て、安物のスーツに不釣り合いな金ぴかの高級腕時計をつけている常連さんだ。

「ん――エスちゃんか。平気、平気。気にしないで――おお、ものすごい腕時計じゃないか。また出世をしたみたいだね」

 常連のおじさんは珍しく新聞から顔を上げて言った。

 カウンター席の他は四人席が三つあるだけだ。俺たちはカウンター席に並んで座って、好きな串を注文した。酒はみんな揃って酎ハイだった。早速、部下どもは俺の失恋話を訊き出そうと躍起になった。

 クソほどしつこい。

「大概にしとかねェと、てめェら端からマジでぶち殺してやるぞ。あるんだぞ、俺の部屋にはそれに使える立派な道具がな!」

 俺はそこまで凄んだけど、全然ひるまない。普段からお互いこんな態度だし酒の勢いもある。俺は話題を挿げ替えようと粘っていたけど、いよいよ追及をかわしきれなくなってきた。焼き鳥をつまみに酎ハイのジョッキを空にするたび、胸にあるモヤモヤとしたものを吐き出したい気持ちにもなってくる。

「ま、俺のほうは、あの女のことを何とも思っていないんだけどね?」

「俺のほうは、もうあの女のことを本当に何とも思っていないんだけどね?」

「なあ、本当だぞ?」

 俺は前置きをした上で、エヌとの出会いから別れまでを大雑把に語った。エヌが特定されるような個人情報は適当にボカしておく。

「うっそでえ、まだ未練たらたらだろ。見ろ見ろ、この課長代理の辛気臭いツラ。マジ笑える!」

 ギャハハーッと笑うヤン子に他の部下が笑顔で頷いたところで、

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあーっ!」

 至近距離から耳をつんざく絶叫だ。

 俺の首にチマ子がかじりついている。

「突然、どうした?」

 チマコの視線を目で追うと、酎ハイのジョッキへやった俺の手元を、ゴキブリが立て続けに突っ切った。

「あ、こいつらめ――!」

 店主の親父さんがカウンターから飛び出てきて、丸めた新聞でレースを中断させようとしたけど、ゴキブリ君は二手に別れて無事に逃げていった。

「畜生、また逃げられた――お客さん、すいませんね、驚かせて申し訳ない――」

 カウンターの向こうに戻った親父さんは苦笑いで頭を下げた。

 チマ子はまだ俺に抱きついてガタガタ震えている。俺は身動きをしない。指一本も動かさない。チマ子は社内のコンプライアンス委員会へ駆け込み訴えをするていどの度胸がある女子だ。以前の課にいたときにそれをやった。その課の課長がチマ子にしたのは、挨拶と一緒に肩をポンと叩くだとか、そのていどのセクハラだったらしい。それでも、昨今の企業はこの手の事案に神経質だ。課長は懲戒処分を受けてへそを曲げ、チマ子を俺のチームへ島流しにした。あの見てくれだけはイケメン課長の女癖の悪さは以前から社内で噂になっていた。訓告の腹いせに自分の部下を異動させるような器の小さい男でもある。俺が何かの腹いせに自分の部下を異動させたくても、こいつらの引き取り先はもう社内に無い。ともあれ、詳しいことまで知らないけど、俺はチマ子に非があると思っていない。

 それでも緊張した。

 金髪とデブとヤン子はチマ子を指さして大笑いをしている。ゴキブリレースに動揺しているらしいメガネは無言で真っ青だ。チマ子は俺の胸元でぎゃんぎゃん泣きながら抗議した。あっちこっちへ批難の矛先が飛ぶ発言をまとめると、チマ子は本当にカウンターでゴキブリが競争を始めるとは夢にも思っていなかったとのことだった。

「俺は事前にゴキブリが出るような居酒屋へ連れて行くと伝えた筈だぞ。チマ子はそれに同意しただろうが。お前がコンプラ委員会へ『上司にアルハラされた、セクハラもされた、その上、ゴキハラまでされたのよ!』そう直訴したところで、勝てる見込みは無いと思うぜ。証人だって、ここに揃っているからな」

 俺はにちゃあと笑ってやった。

 酎ハイの大ジョッキ片手に目の座ったヤン子が、

「あー、チマ子、だいぶ酔ってるみたいだなー。またおぶって寮へ帰るの面倒だわ。今夜は課長代理がチマ子を持って帰れ。その様子だとさー、一人で帰ったら失恋したての三十路ちんぽが朝まで咽び泣きするんだろ。チマ子のキツキツ処女まんこでさ、竿に残った未練の涙を残らず絞り取ってもらえばさ、お互い、おさまりがいいんじゃねーの?」

 金髪とデブは腹を抱えて笑った。

 メガネも心象の悪い笑顔だった。

「ヤン子、仮にも女の子が男のひとの前で、そんな――」

 俺はヤン子の発言に動揺し、チマ子の反応に恐怖した。チマ子に特別な反応は無かった。女子のセクハラ発言はセクハラのうちに入らないらしい。女のフェミ思想はこれだから面倒だ。女性を差別をするな、女性へ性的な嫌がらせをするなと常々口うるさいのに、自分たちにとって都合の良い差別やセックスアピールはさらっと黙認する。判断の線引きが感情まかせで曖昧だということだ。もやっと定義された基準で物事を判断しろと言われたら、閻魔様だって戸惑うだろ。今のチマ子は俺の胸元へ涙と鼻水をなすりつけて、フェミの鬱憤を晴らしているようだった。これでもコンプラ委員会へ駆け込まれるよりずっとマシだとは思う。

 だが、今のお前は個人的に迷惑だ。

「お前の上司のワイシャツは雑巾じゃねェ。ほら、俺のハンカチを使え。自分のを持っていないのか?」

「持っでまずげど、ハンガヂ、持っでまずげどおっ!」

 チマ子は俺のハンカチでぐすぐすチーンをやった。

 こんな調子で飲んだくれていると、あっという間に夜の九時を回った。

「――今夜は、ここでお開きだ」

 俺は椅子の背もたれにあったジャケットの内ポケットから財布を引っ張り出した。

「二次会っスね!」

 金髪が赤らんだ笑顔で席を立った。

「おっしゃ、課長代理よお、このまま俺たちと一緒に夜明けまで走ろうぜ!」

 デブが暑苦しく席を立った。

「こ、ここよりも凄惨なバーが日本には存在するのですか――ほんの少しですが興味はありますね。何事も勉強ですから、ええ――」

 メガネは狼狽えた様子で席を立った。馬鹿め、これまで陽の当たる表通りをまい進してきたお前は本物の場末の空気に長く耐えられまい。こいつは俺が飲みに連れ出すと次第に態度がぎこちなくなる。毎度のことだ。ざまあみろ。

「この上司野郎よー、午前様前にお開きとかなー、ざっけやがってよ。ここにいるてめーの部下どもは、どう見たって飲み足りてねーだろうが。そう言っているてめーだって、こんなんじゃ飲み足りてねーんだろうがよ。おい、違うのかっ!」

 こいつはどうやっても思い通りにならん。咥え煙草のヤン子が俺の胸倉を掴んでガンをくれている。ワイシャツが破けそうだった。ヤン子はそう言っているけど、カウンターにつっぷしているチマ子がどう見てもべろべろだ。ゴキブリの恐怖を紛らわせるためなのか、チマ子はいつもより酒を呷るペースが早かった気がする。

「月曜の夜だぞ。ここらで大人しく寮へ帰れよな。俺の財布だって限界に近――あ、払いが足りない。お前ら悪いけど、今日は割り勘で頼――」

 財布の中身と伝票を見比べて顔を上げると店内に部下は一人もいなかった。新聞を読みながら飲む常連のおっさんならまだいる。今まさにだ。チマ子がのろまなゾンビのように揺れながら暖簾を潜って出ていった。振り返らなかった。ガラガラピシャンと引き戸が閉まった。

「――お前ら、今日は割り勘だぞ!」

 俺は怒鳴ったけど店の外から返答は一つも無い。

「あの部下どもは毎度毎度こうだ、クソがっ!」

 悪態を吐く俺の前で店の親父さんが笑っている。

「あ、親父さん、この店ってクレカとか使える? え、使えるの! スマホ決済もOKなんだ。キャッシュレス決済はおおむねいけると。マジか、十年近く通っているのに知らなかった――あ、今日はレシートじゃだめ。領収書をちょうだい。あのケチ臭い経理に通ったり通らなかったりでも一応はね。身内だけで飲むとたいていは通らないんだけどね。でも、こういうのは細かいところで妥協すると益々、相手から足元を見られるものでしょ。ごめんね、手間をかけさせて――」

 俺は会計を済ませて店の表へ出た。一応、部下どもは揃って上司を待っていた。ヤン子が金髪と肩を組んで『同期のさくら』をがなり立てている。

「おー、ヤン子。これかなりパンクな歌詞だな。どこの国のバンドの楽曲よ?」

 金髪はゲラゲラ笑っていた。

 ヤン子、お前はいつの時代に生まれてきたんだ。

 金髪、それはお前が生まれ育った母国の軍歌だ。

 俺は黙ったまま呆れていた。そのうち歌詞を覚えた金髪も歌い出して、付近を漂っていたチマ子が同期でもないのに巻き込まれた。ヤン子に肩を回されたチマ子はぐわんぐわん揺さぶられている。頼りない街路灯の下でもわかるほど顔色が悪い。

 吐くぞ、吐くぞ。

「んっ! ぽえぇ――」

 ほら、チマ子が吐いた。

「あー、チマ子、悪ィ、悪ィ。吐くほど酔ってると思ってなくてさ――」

 ヤン子が路地の脇でえずくチマ子の背をさすりながら、俺へちらちら視線を送ってきた。俺は目を逸らした。懐をムシられた上、ゲロインをお持ち帰りなんて展開はマジ勘弁だ。

「ちっえー!」

 彼女にしては可愛い音の舌打ちだった。

 ヤン子がチマ子へ肩を貸した。チマ子はげふげふぐすぐすやりながらヤン子に身体を預けた。態度や行動は無茶苦茶そのものだと思う。それでも、ヤン子は困っているひとを見ると放っておけない性格だ。こんな部下だって悪いところばかりではない。

 酒でテンションが上がっている様子のデブは、エア柔道をやりながら、メガネへ熱心に語りかけている。メガネも興味津々の様子だ。デブは大学生時代、柔道の五輪代表候補選手だったのだけど、代表を選考する大会で膝十字靭帯を断絶する怪我をした。それでも、リハビリを経て在学中に選手へ復帰した。そして、今度は練習中に踵の靭帯を断絶した。アキレス健の断絶。アスリートにとって死刑宣告に等しい大怪我だ。デブは夢を諦めて田舎のサラリーマンになった今も夢の残骸を――右足を少し引きずって歩いている。それでも、いつだって暑苦しく元気そのものだ。こいつは心も身体も本当にタフな野郎だといつも思う。

 路地裏を抜けたところで部下と別れた。

 俺より馬鹿で、俺よりずっと頼もしい部下どもの背を見送っていると、

「エスちゃん、待って、待って!」

 路地のほうから焼き鳥屋の親父さんが走ってきた。

「ああ、親父さん、気を遣わせて悪いね」

 親父さんから宴会の余り物を包んだフードパック二個を手渡された。

「ついつい、うっかりしていて――若い衆にも持たせてあげたかったんだけど、もう帰っちゃったかあ。エスちゃん、あの威勢のいい若い衆、また連れてきてよ」

「うん。親父さんも元気で店をあけておいて」

「しかし、今時、珍しいねえ。エスちゃんも、あの若い衆も――」

 親父さんが遠くなった部下の背を見やった。

古風オールデイズだよな」

 俺は言った。

「うん?」

 親父さんはきょとんと俺を眺めている。

「ああ、いいんだ。気にしないで。おやすみ、親父さん」

「エスちゃん、気をつけて帰って!」

 親父さんが店へ戻った後、

「でも、これは余計なお世話だったぜ――」

 俺は煙草に火を点けた。こんな田舎街でも市の条例で路上喫煙が全面禁止になった。それは知っている。でも、今だけは煙草を吸わせろ。

 俺という中年男は巣へ帰ったところで土産を手渡す相手が一人もいない――。

「――マジで俺も実家へ戻る頃合いなのかな」

 そう呟いてみたところでだ。

 俺の実家は電車の駅からもバス停からも遠い場所にある。田舎はそんな環境で暮らしているひとも多いだろう。何しろ入社以来、俺はシラフで仕事から上がった覚えがほとんど無い。営業車で退社中、飲酒の検問に引っかかったら運転免許は一発で取り消しだ。今年に入って五点も引かれているから執行猶予も無い。五点分の罪状はスピード違反と駐車禁止違反だった。言い訳をさせろ。道路交通法を厳密に守っていると俺の仕事はとても間に合わない。営業車が道路交通法違反をした場合は会社の上司の免許証から点数を引くべきだろ。

 歩き煙草をしていると内ポケットでスマホが震えた。

『パイセン、今日もゴチになりました!』

『次回は週末にオールだよな。楽しみにしてるぜ!』

『今回もいい勉強になりました』

『マジ笑ったわ。チマ子も楽しかったってさー』

 通信アプリに部下からだ。挨拶の代行を頼んだところを見ると、チマ子はスマホをいじれる状態ではないらしい。

 エヌからのメッセージは無かった。

 今日、エヌは社食にいなかった。こういう場合、男が先に声を掛けるべきだよな。ここまでずっと考えていた。それでも、どんな言葉を使えばいいのかわからなかった。俺がこれまでしてきた女との付き合いは、金で割り切るものだったり、そうでなくても一夜限りのものだった。改めて考えると、俺はこんなところも積み重ねがまったく無い。

 気持ちがまた止め止めもなく沈んでいく。

 俺はエヌに何をどう言えばいいんだ?

『エヌ』

 通信アプリへこれだけ打ち込んで保留した。迷っているうちにマンションが近づいてくる。周辺の建物よりぬっと背の高いあのマンションが、今の俺には恐怖の権化だ。

 田舎街の濃い闇が背中から俺を包み込む。

 泣きたい気分だ。

 叫びたい気分だ。

 消えてしまいたい気分だ。

 ここで、俺はとうとう俺の終焉と直面した。



 自殺願望。



『エヌ』

 助けてくれ!

 そう泣き叫んだのと同じだ。

 俺はただ呼びかけるだけのメッセージを彼女へ送った。

『エス先輩』

 エヌからメッセージが返ってきた。

 月曜の夜の九時五十九分。

 俺とエヌが送ったメッセージのタイムスタンプは同時刻。

「エス先輩――」

 私服のエヌがマンションの前にいた。

「エヌ――」

 このまま黙って突っ立っていると、俺は泣きながらエヌを抱きしめる羽目になるだろう。これを大の男がやったら格好が悪い。少なくとも俺は容認できない。

 絶対にだ。

 だから、俺は無理に笑って、

「エヌ、飲み会の余り物で悪いんだけど――この焼き鳥ね。今から俺と一緒に部屋で食べてくれるか?」

 強張った俺の前で、エヌは泣きながら笑って頷いた。


※名ばかり管理職問題は二○一九年の労働基準法改正で是正されました。

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