経営企画という名称がつく部署の特性なのか、俺自身が好んでそういう仕事のやり方をしてきたのか、企画屋稼業はみんなそんな感じなのかよくわからない。俺の昼めしは社内の誰かしらや、事業に関係する他社の営業マンや、子会社にいる社員と打ち合わせをしながら食べることが多い。仕事関係の会食予定が無いときは部下から外食を必ずねだられる。この無遠慮でしつこい部下どもから逃げ切きると、俺は社食にいるエヌの隣でぼけえっとリラックスできる。

 だから、エヌが俺のお弁当を作ると言うたびに、

「俺の仕事は事務と違って、昼めしをいつどこで誰と食べるかわからないんだ。外食に誘われたら断れないことも多い。お前から持たされた弁当をまるっと残して帰ってきたら気が引けるだろ。それはしてくれなくていいよ」

 これまでは断わっていた。

 木曜日の夜九時半だ。

 マンションのPCデスクで持ち帰り残業をだらだら処理していると、エヌの顎が俺の肩にちょこんと乗っかった。

 おいおい、子猫ちゃん。

 君はこのあと必ず二人でする予定のいちゃラブ展開を、もう待ちきれないっていうのかい?

「もうすぐ終わるから待ってろ。この、どすけべめが――」

 あ、わかった、わかったから、そんな怒った顔をしなくていい。

 ほら、こうしてタイピングのスピードを、ちょいとばかり上げてやろう。

 これは大好きな君のためだけに、だぞ――?

 俺がうふふと笑って見せると、

「エスの仕事の予定表を、わたしに見せて」

 エヌもにっこり笑った。

 おおっと、浮気を疑っているようだ。

 モニタへ俺専用の仕事予定表を呼び出す手が震えた。正直に言う。仕事上の付き合いでたまに風俗へ行ってる。俺自身も嫌いじゃない。むしろ大好きだ。でもあれは浮気と違うと思う。風俗はあくまで遊びだ。ほら、風俗遊びっていうじゃない。

 それだから、俺の過去の予定表には、

『×月×日――金髪と西の都へ出張。先方と打ち合わせ後、ストレス解消のためレクリエーションを行う予定。金髪も必ず同行すると思う。

 ×月××日追記。全額、経費で落ちた。打ち合わせに使ったことにした●●●●●で仲良くなった店の●●●に盛らせた領●●が物を言う。あのときはお礼に●●●へ苗字が同じ他人の名刺をくれてやった。どいつもこいつもチョロすぎて笑いが止まらねェ』

 こんな感じで曖昧な表記や伏字のある記載がたくさんあるんだよ――。

 エヌは俺の強張った肩に顎を乗せたまま、今月の予定をざっと眺めると、

「これから、お昼の外食をする必要が無い日は、エスのお弁当も作ってあげる。明日は社食で一緒に食べようね」

 エヌは台所に弁当箱を並べて、るんるんしているけど――。

「――その弁当箱――保温弁当箱ランチジャーね。大と小でサイズは違うけど形状がまったく同じだし。二つとも同じ、ショッキング・ピンク色だし。猫ちゃんのファンシーなイラストがついてるし。こんなのお前と並んでいちゃいちゃあーんしているところをな。会社の連中に見られてプークスクスされたらな。俺は恥ずかしくて死ぬ。身体にある穴という穴から火を噴いてな」

 俺は断った。エヌにめそめそ泣かれた。俺は男心の複雑さをエヌへ説明した。夜半過ぎまで説得した。それでも言うことを聞かないから、いつものようにベッドへ引っ張り込んで押し倒してみた。





【♂】自主規制【♀】





 翌朝、寝不足の俺は玄関でエヌからお弁当袋と水筒を手渡された。

「エヌ、ありがとう。一人でこのお弁当を食べるのが今から待ち遠しいよ。それじゃ、行ってくる」

 俺はきちんとお礼を言ったのに、エヌのほうは「エス、できるだけ早くお家へ帰ってきてね」そのいつもの返事も、いつものお出かけのチュウもしてくれない。エヌはむすっと黙ったまま玄関のドアをバタンと閉じた。俺は早朝出勤の癖が抜けない。同じ会社の社員でもエヌより出勤が一時間半も早い。

 そんなわけでだ。

 今日のお昼休みは部署のデスクでエヌから持たされたお弁当を食うしかない。どピンク色のお弁当袋はロッカールームに隠しておいたので取りに行く。これだって早朝出勤の利点の一つだ。

「パイセーン、外へ何か食いに行くっスよ。蕎麦以外がリクエストっス」

 金髪だ。

「おい、課長代理、この野郎! 今日は金曜日だぜ。週を走り切った部下への褒美に肉食わせろ肉! あ、蕎麦だけは勘弁な」

 デブだ。

「課長代理、ご存知でしょうが、駅南でラーメン屋が新規に開店しましたね。何事も勉強です。今から行列ができる理由をリサーチしに行きましょう。ああ、蕎麦はもう結構ですよ」

 メガネだ。

 俺の後ろを部下の男どもがついてきた。俺はお弁当袋と一緒にデスクへ戻った。部下は揃って押し黙った。俺も黙ったままお弁当箱をデスクに並べた。暖かいごはんには黒ゴマがかかっている。湯気上がる汁ものはシジミのお味噌汁だ。サラダはランチジャーとは別の容器にちゃんと分けてある。おかずの箱にぎゅうぎゅう詰まっているのは、豚の味噌漬け焼きと海老フライと卵焼き、ほうれん草のおひたしにきんぴらごぼう、それに、ウィンナーソーセージだった。好物ばかりだ。そもそも、俺には食べ物の好き嫌いがほとんど無い。

 ウィンナーソーセージはタコさんの形かあ――。

「ま、まったくエヌのやつめ。俺はもう子供じゃないんだぞ。タコさんウィンナーなんかで喜ぶわけが――」

 俺はうふふと笑ってやった。

「ファック! パイセンは三十路過ぎの今更になって、おのろけ弁当をへらへらお披露目っスか。そんなので男として何も恥ずかしくないんスか!」

「この野郎、随分と豪華で旨そうな手弁当じゃねえか。その内容だと俺たちは笑えるところが一つもねえだろ。もっと不味そうなのにしろよ、不味そうで貧相なブス妻弁当によっ!」

「なるほど、その様子だと課長代理は今回の交際相手を不慮に妊娠させましたか。日本語の慣用句で表現をすると年貢の治め時だ。入籍は男にとって墓場へ入るのとまったく同様ですからね。今後は嫁と子供から搾取されるだけの人生、ご愁傷様です」

 部下の男どもがぎゃあぎゃあうるさい。

 俺は務めて表情を変えないように卵焼きをもぐもぐしつつ内心でせせら笑った。

 ふっふーん、ばーか、ばーか、ばーか!

 妊娠はまださせてないもんね!

 もうデキてるかもしれないけど、たぶん、まだデキてないもんね!

 デキていてもお互い後悔なんてしないもんね!

 俺とエヌは超愛し合ってるもんね!

 何だ、お前ら、妬いているのか。

 ばーか、ばーか、ばーか!

「嘘つきっ!」

 反論できないことを叫ばれた。箸を迷わせていた俺が顔を上げると、部下の男三人の後ろにチマ子がいた。チマ子は俺を睨んでいた。吊り上がった双眸に涙が溜まっている。金髪とデブとメガネは口を結んで視線を交換した。こいつらはビジネス用語だの職歴だの体育歴だの学歴だのが通用しない本物の修羅場に遭遇すると一瞬で根性が失せる。安全な場所を探して視線を惑わせる。反面、社会に保障された安全地帯を持ち合わせていないこの俺は、どんな修羅場に遭遇しても正面突破をするしかない。それができなければ死ぬだけだ。

 これまでも、そうしてきたし、今からもそうする。

「チマ子、どうした?」

 俺は一直線に訊いた。チマ子は返事をせずに回れ右をした。彼女の持っていたお弁当袋がカタンとフロアに落っこちた。チマ子もヤン子も月曜日と金曜日は自分でお弁当を作って持ってくる日と決めている。何やかんや言っても、二人とも嫁入り前の女の子だ。チマ子は女子トイレへ走っていった。後ろ姿でも泣いているのがわかった。

 俺はフロアに取り残されたチマ子のお弁当袋へ目を向けた。

「課長代理はいつもいつもお蕎麦ばかりで、栄養のバランスが悪すぎですよっ!」

 昼休み中に部署へ戻ってくると、チマ子はガミガミ言いながら、お弁当の残り物を俺の口へ突っ込んできた。おすそ分けのお礼にセクハラまがいの冗談を聞かせても、チマ子がコンプラ委員会へ駆け込んだことは一度も無い。だから、チマ子は俺の冗談を冗談として楽しんでいるものだと思い込んでいた。それは違った。男も女もこれはさほど変わらない。自分にとって都合の悪いセックスアピールはセクハラ扱い。自分にとって都合のよいセックスアピールはさらっと黙認してしまう。どうやら、チマ子は後者だったようだ。

 俺は自分が撒いていた仕事の潤滑油で、自分の足を滑らせたことになる――。

 俺が溜息を吐く寸前、

「ズダーンッ!」

 これはヤン子が自分のデスクに自分の弁当箱を置いた音だ。

 俺のデスクまでぐらぐら揺れた。

「課長代理。これまでのアンタは女に対して無神経すぎたんじゃね?」

 俺を睨むヤン子の眉間がビキビキに凍えている。これは筋金入りのヤンキーがマジギレしているときにやる表情だ。今のヤン子を下手に刺激すると俺の鼻面へ鉄拳が飛んでくるだろう。これは小細工や屁理屈では回避できないかも知れない。

「指摘された通りだ。俺には何の言い分も無い。昼休み中で悪いけど、ヤン子にチマ子のフォローを頼めるか?」

 それでも、俺は策を弄した。

 ヤン子は困っている人間を絶対に放っておけない性格――。

「――チイッ!」

 ヤン子は俺に舌打ちの音を聞かせてからチマ子を追った。俺は昼休み中に仕事の指示を出した。部下に舌打ちをされても文句を言えない。

 いや、今の俺は舌打ちをされてしかるべきだ――。

「――嘘つき、か」

 俺はエヌのお弁当へ呟いた。

「パイセンさあ、チマ子は、ずっと、パイセンをさあ――」

「おいおい、課長代理はマジでチマ子の気持ちに気づいてなかったのかよお――」

「こんなことも理解できていなかったとは。まったくもって、信じがたい愚かさだ――」

 ヤン子の姿が消えたのを確認してから、金髪とデブとメガネがいっぺんに口を開いた。どいつもこいつも、生ゴミの袋が爆発する瞬間を見てきたような顔だった。

「あのな、てめェらな――?」

 俺がビキビキしていると、

「シャァーッ!」

 ボス猫が本気で敵を威嚇するときにこんな音を出す。でも、これはボス猫の威嚇ではなくてアールさんの溜息の音だ。アールさんがこの上なく最悪に機嫌の悪いとき発する音だ。これが出ると部署全体が一瞬で凍り付く。俺はこの威嚇音で心臓の鼓動を何度も止められそうになった。今も止まりそうだ。金髪とデブとメガネは真っ先に廊下へ退避して、遠くからこちらの様子を窺っていた。フロア全体から波が引くように同僚が消えていく。

 あー、すごく静かになったね――。

「――エス」

 アールさんから名指しされた。

 名指ししなくても、今の部署にいるのは俺とアールさんの二人だけだよ――。

「――はい、本部長。自分に何の指示でしょうか!」

 俺は椅子から立ち上がって直立不動の体勢をとった。

 アールさんが相手だと、俺にはこれしか選択肢がない。

 同僚のたいていもそうだ。

「貴様に話がある。今夜八時だ。以降の予定を空けろ」

 厳命された。

「はい、わかりました!」

 俺はできる限りいい返事をして着席した。エヌの手料理を不味いと思ったことは一度も無い。でも、このときのお弁当だけは味がしなかった。ヤン子とチマ子は昼休みの時間内に部署へ戻ってきた。俺はスマホの通信アプリでヤン子にお礼を言った。この通信は男子トイレの個室からだ。ヤン子からの返事は無かった。溜息を吐きながらデスクに戻ると、ヤン子は俺を睨むことを再開した。まだまだ怒り心頭の様子だ。言うまでもないだろう。午後の仕事はギクシャクギスギスで効率最悪だった。俺のチームの殺伐とした雰囲気が部署全体へ伝播している。非常に気まずい。今日は定時後、チームの会議をする必要があったのだけど、それはできなかった。残業会議の議題は、ええと、何だっけ――スーパーマーケット事業再編提案だ。午前中にやった部署の会議で、これを俺のチームが担当することになってしまった。

 その会議中、

「もう俺も俺のチームもそんなのやらないやりたくない。だいたい、てめェはな。毎度毎度、俺のチームへクソみたいな汚れ仕事を横流ししやがってな。そもそも、これを発案したのは、てめェ自身だろうが。それなら今回はてめェがその手をクソまみれにしろ。おい、俺は何か間違えたことを言ってるか。どうなんだよ、このクソまみれ野郎、あっ!」

 カッとなった俺は小賢しくて八方美人で要領がいいから大嫌いな先輩の胸倉をひっ掴んで丁寧にお断りする旨を伝えた。俺の部下も揃って笑顔で頷いた。その他の同僚はたいてい、俺から目を背けていた。

 ただ、アールさんだけは無言で厳しく俺を睨んでいる。

 超怖い――。

「――うん、やるやる。すぐにでもその案件を俺にやらせてよ」

 俺は八方美人先輩の歪んだネクタイを整えながら何度も首を縦に振ってしまった。

「さっきは怒ってメンゴメンゴ!」

 後でフォローもした。部下はそんな俺を靴底にへばりついた犬のクソを見るような目つきで眺めていた。

 再編だとか改善の提案が役員会を通って企画として動きだすと、何をどう工夫しても実務の現場から文句や不具合が出るし恨まれる。下から上がってくる苦情や悲鳴が、企画推進課をすっぽ抜けて部下から投げられ、結局は俺へ全部ぶっ刺さることになるのは今から目に見えていた。毎度のことだ。またあれをやるのかよ。スーパーマーケット事業の収益減少問題なんざ俺の知ったことかって話だ。そんなのはてめェらの事業部内で何とかしろ。近所のライバルチェーン店に火をつけて回るとか、事故にみせかけて何度も砂利トラを突っ込ませるとか、事業部を総動員してネットの口コミ評価で最低点をしつこくつけるとか、考えれば他にもやれることはいくらでもあるだろ。できないならまとめて潰れちまえ。ああもう、俺はこの仕事をマジでやりたくねェなあ――!

 ともあれ、定時の後、チームで会議をする必要はあったのだけど、俺は退社する部下を呼び止めなかった。今日は会議をやっても時間の無駄だ。建設的な意見が出てくる空気じゃないもん。様子を盗み見ていると、今から部下どもは揃って飲みに行くようだ。俺の悪口を酒のつまみに――いや、これは違うな。あいつらみんなで、チマ子の件のアフターケアをしてくれるらしい。俺はそれをしろと指示していない。

 部下どもは俺と違って人間ができている――。

 俺はスマホの通信アプリでエヌへメッセージを送った。

『緊急の打ち合わせが入った。帰りはいつになるかわからん。今夜は夕めしいらない。遅くなったら先に寝ていて。お弁当、おいしかった。次も楽しみだ』

 俺はまた嘘を吐いている――。

『うん』

 エヌの返事はこれだけだった。いつもの猫ちゃんスタンプもついてない。俺の子猫ちゃんは昨日から今の今までへそを曲げ続けているらしいね。

 こっちで面倒事、向こうで面倒事だよな――。

 部署に残った俺は溜息を連発しながら報告書をチェックした。夏に人事異動があって担当する部下がちょっと多くなった。報告書もちょっと増えた。新人の報告書は研修であれをやった、資格を取るためにこれをやったとかそんな内容が多いね。資格取得のためのお勉強はともかく、山寺へ出向いて滝に打たれる研修が何の仕事の役に立つのか、俺にはさっぱりわからねェ。

「へえ、あのメガネが、こんな単純な入力ミスを――俺のチームに来てから初めて見たぜ。あいつは仕事の外から来るプレッシャーにマジで弱いよなあ――」

 メガネの収益予想計算の桁が二つほど違っている。俺は自分の手でそれを修正した。このミスは本人へ指摘する必要がないと思う。

 報告書や添付された資料のチェックをあらかた終え、俺の報告書をアールさんへ送ったところで夜の七時半だ。部署に残っている同僚はほとんどいない。いつ来ても誰かしらいる。明け方まで電灯が消えない。俺がいるのはそんな部署だけど週末の夜はそれなりに閑散とする。金曜日のうきうきわくわく気分に背を押されて早めの退社をするひとは多いだろう。俺だって家へ帰りたいけど帰れない。

 アールさんが、まだデスクにいる。

 デスクにいるときのアールさんは、たいていの時間、モニタに表示される各事業部の業績を眺めているのだけど、今日の午後からその視線がたまに外れて俺を直撃していた。獄長自ら囚人の逃亡を警戒して監視中だ。超怖え。今もアールさんは自分のデスクで出前のパスタを食べながら、脱獄の前科がある俺を眺めている。長い訓戒をするための腹ごしらえをしているようにしか思えない。

「本部長。自分はちょっと近所のコンビニへ行って――ああ、いえ、逃げるつもりはないですよ。今回は――ええと、とにかく、コンビニへ行ってきます」

 俺は断ってから席を立った。アールさんの返事は無かった。無言の圧力とはこのことをいう。嫌々デスクへ戻ってカップ蕎麦を食った。俺だって長い訓戒に耐えるためのエネルギーを蓄えておかなければなるまいよ。

 よし、いつでも来い!

 覚悟を決めたところで夜の八時だ。

「エス、ついて来い」

 アールさんが俺の後ろをツカツカ歩いていった。

「あ、はい!」

 俺は慌ててアールさんの背を追った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る