本社ビル裏手の商店街は、シャッターを二度と上げなくなった店舗が飛び石のように並んでいる。田舎街ではありがちな光景だろう。経済活動の空洞化だ。ネット通販が消費の世界で幅を利かせるようになってから、田舎街の経済空洞化は加速したように思える。夜に歩くと廃墟を散歩しているようなものだ。空を見上げると街の灯よりも秋の月が威張っていた。

 アールさんは十字路に面した古びた雑居ビルの階段を降りていく。

「『BAR Blinded With Love』――『恋は盲目』かあ――」

 それが地下一階にあった酒場バーの店名だった。

 アールさんは無言でその扉を開けた。

「これは伝統的トラディショナルな内装の――会社のすぐ近くに、本格的なバーがあったんですね。自分は今まで知りませんでした」

 初老のバーテンダーがずらりと並んだ酒瓶を背にグラスを磨いていた。かすかに聞こえるBGMはモダンジャズだった。長いカウンターテーブルの奥に先客が一組だけいる。二人ともサラリーマン風の男だ。顔を寄せ合って仲睦まじい。アールさんが接近しても戦慄しないということは、うちの会社の社員ではないだろう。奴らはただのホモカップルだ。

「エス、『traditional』は少し違う。英語で表現するなら『authentic』が妥当だ」

 アールさんの背中が言った。

「なるほど、ここは正統派オーセンティックなバーですか――」

 バーテンダーがグラスを置いて、

「アールさん、いらっしゃい。一か月と半月振りですね」

「マスター、元気にしていたか?」

「ええ、アールさんも、お元気そうで何よりです。おや、そのお連れ様は――?」

 初老のバーテンダー――マスターが俺へ顔を向けた。マスターということは雇われの店員ではなくて店の経営者だ。バーテンダーのスタイルで包んだ恰幅のいい身体の上に四角い顔が乗っている。口元に微笑みを忍ばせている表情。いい意味で面の皮が厚そうな初老の男。俺の印象だと、そんな感じだった。

「自分は、K社グループのエスと申します」

 俺が名乗ると、

「なるほど、貴方が噂に聞いていた、あのエスさんですか――」

 マスターが二回、頷いた。

「?」

 俺は首を捻った。

 マスターは小さく笑って、

「いえ、失礼しました。ゆっくりしていってください。お飲み物は何になさいますか?」

「マンハッタン」

 カウンター席に座ったアールさんはショートカクテルの女王を、

「せっかく正統派の席に腰を落ち着けたわけだから――これかな。ジンフィズをお願いします」

 その横で俺はロングカクテルの定番を注文した。目の前でシェイカーからグラスへ注がれたジンフィズはまさしく正統派の味だった。とても、おいしい。こいつに比べると、俺が安居酒屋で好んで飲む酎ハイは薬用アルコール雑液のような味という表現になる。

 ま、値段が全然違うだろうから味も違って当然だよな――。

「あのう、本部長、今日の自分は――」

 俺はジンフィズの冷たくて背の高いグラスへ呟いた。

「まったく、お前という男は!」

 ほーら、もう怒った。

 さすがにアールさんも物静かな雰囲気のバーで訓戒をぶっ放す度胸はないだろうと油断していた。「エス、三秒以内に答えろ! 二秒以内に答えろ! 一秒以内! エス、この馬鹿めがっ!」そんな感じのやつだ。

 俺の考えが甘かった。

 いや、俺という人間が甘いのかなあ――。

「――申し訳ありませんっ!」

 俺もいつものように大声で謝っておく。

「それも対応が違う。私がどういう目的でエスをこのバーへ――会社の外の空間へ連れてきたのか考えろ。答えるな。以降の態度と行動で貴様の考えを示せ」

 アールさんはマンハッタンを一気飲みした。

 俺は三秒以上考えて、冷や汗をかきながら、

「――えーと、アールさん、ですか?」

「何だ、エス?」

 アールさんが頷いたから、俺の対応は正解らしい。

「これまでの自分――いや、これまでの俺は部下との距離の取り方が近すぎたようです。反省しています」

「私は前々からエスへ忠告していた」

「まったくもって、おっしゃる通りです。俺に言い分はありません――」

 俺はうなだれるしかない。

「だが、結局、この手の問題は本人が痛い思いをしないと理解できん。だから、明言を避けていた。案の定だ。今日のエスは職場で仕事の外の面倒事に巻き込まれた。それでも、エスは今後もまた同じ過ちを繰り返すぞ。人間の本質的な営みは創世の時代から何も変わらん。犯す罪もまた同様だ」

「はい、それでもです。俺や部下の勤務態度を改善する必要があると考えています。俺もいい年齢ですし、業務にも差し支えますし――しかし、俺はとてもアールさんのようには――」

 俺の言葉が止まった。これ以上なく苛烈で容赦が無い。アールさんの仕事や部下に対する姿勢はこんな感じだ。でも、これは本人の前で言えないよな。

「エスが私と同じ方法論を選択する必要は無い。エスのチームは私が設定している合格ラインに達する業績を出し続けている。会社員は上役の想定内にある結果に至っていれば、それだけでいいのだ。手法や過程なんぞは些末の問題――いや、これは少し違うな。エスは私のようになるな」

 アールさんは空にしたカクテルグラスを見つめている。

「いえ、そんなことは。俺はアールさんを尊敬していますし、今は感謝もしています。部署にいる全員が俺と同じ気持ちだと思いますよ。いや、部署どころか、アールさんはK社グループにとってかなめのような存在で――」

「――馬鹿めが」

 アールさんは鼻を鳴らして俺のおべんちゃらを遮ると、

「組織にとって要など――無二の能力を持つ人材など不要。組織を持続させるためには人材の交換を続ける必要がある。無二の人材に頼る組織は永続ができん。会社員は常に交換できる部品であり続けるのが最も正しい姿だ。遊牧労働ノマド? 脱社畜? あまつさえに付加価値ブランド人だと? 虫ケラ以下風情ごときが肩書を名乗るとは笑わせる。実業という現代の神をまつる真の会社組織は、すなわち、現代の神殿なのだ。神殿のいしずえいとう人間に存在意義など欠片カケラも無い。存在意義の無い人間は、すべて虫ケラ以下の烙印を押されてしかるべき――エスの考えでは少し違うのか?」

「あ、はい――?」

 俺の考えは少しどころかだいぶ違う。はっきり言うと真逆だ。アールさんの主張は狂信的かつ人間性無視の極地だと思う。国家社会主義ドイツ労働者党ナチスドイツの親衛隊員も揃ってドン引きする勢いだ。怖くて怖くて、口には出せないけどね。

「私とエスが今日する仕事の話は、これで終わりだ。マスター、マンハッタンを、もう一杯」

「え、仕事の話は、もう終わりなんですか?」

 俺が拍子抜けして顔を向けると、

「エスは、もう飲まんのか?」

 アールさんは視線だけを返していた。

「あ、ええと――じゃあ、マスター、ジンリッキーをください」

 俺の注文にマスターは微笑んで頷くだけの返事をした。

「エスは一年前から特定の女と一緒に暮らしている」

 アールさんだ。

「はえっ!」

 俺はジンリッキーのグラスを取り落としそうになった。

「何故、お前がそれを知っている。そんな顔つきだな」

 アールさんはマンハッタンを眺めていた。カクテルグラスを満たした赤い酒に、赤いチェリーが一つ沈んでいる。このカクテルの様子を夕焼けに例えるひとが多いという。

 摩天楼マンハッタンを真っ赤に染める巨大な夕陽――。

「――入社以来、自分の服装に無頓着だったエスが――ん。ちょっと待て。エスにホモ趣味はなかったな?」

「はい。俺は女の子がこの世界にある何よりも大好きです。男の娘は二番目くらいになりますね」

「んっ?」

 アールさんは眉を強く寄せた。

「ええ、はい」

 俺は深く頷いて見せた。

「――まあ、細かいことはいい。入社以来の十年間、自分の服装にまるで無頓着だったエスがその変わりようだ。今のエスは歩く身代金だぞ。それを買い揃えるのに、エスの給与だけでは払いが間に合わん。エスは雑所得や借財を自分の容姿へ投資するような性格でもない。そうなると、着ているスーツも、身に着けている小物も、女が貢いだものだと推察できる。それぞれ別々の女から貢がせたものなら、デザインの統一感は無い筈だ。エスの全体像を見て判断。服飾と小道具のデザインが一個人の意思で統率されている印象。こうなるとエスへ貢いでいる女は唯一人。以前のエスはいつ見てもネクタイが歪んでいた。今のエスは朝だけネクタイが整っている。出勤前、歪んだネクタイを他人の手で直してもらっているからだ。一緒に暮らしていなければ、他人の歪んだネクタイを毎朝直すのは不可能。結論。エスは平均的な労働者よりも高い年収、もしくは、大量の資産を持つ女と同棲中。追加だ。エスの安っぽい腕時計が、今つけているその高級品へ変わったのは一年前のこの日になる」

「も、申し訳ありません――」

 アールさんの洞察力と記憶力を仕事の上では散々見せつけられてきた。その切っ先が俺の私生活にまで向けられていたのはここで初めて知った。この事実に震えるしかない。

「エスは何に対して謝っているのだ?」

 アールさんは怪訝な顔でカクテルグラスを傾けた。

「ああ、いえ、その――」

「それで、エスは、その女といつ籍を入れるつもりなのだ?」

「ええと、それがですね――」

「結婚指輪は男女間に発生する感情的な面倒事の予防処置だ。そろそろ、エスも装着しろ。仕事をする上で便利だぞ」

 アールさんが左手をひらひらやって自分の結婚指輪を見せた。

「えぇえ――?」

 俺はジンリッキーのグラスに口をつけながらこんな返事しかできなかった。

「それとも、だ。エスは、その女と遊びで付き合っているのか?」

 アールさんの目つきがカミソリのように鋭くなった。

 これは女の鋭さだ。

「断じて違います」

 俺は男の態度で応じる。

「ん、その返事はよし」

 アールさんは満足そうに頷いた。

「それでも、俺と彼女との間には看過できない問題があります。俺の母親と彼女を引き合わせました。しかし、俺のほうは彼女の両親へ未だに顔を見せていません。どうも、彼女は家庭と不和の状況にあるようで、彼女自身、俺と彼女の両親が顔を合わせることに乗り気ではないのです。それに、先方はかなり裕福な家庭のようでして――」

「なるほど、相手の家庭に難ありか。それで、一年も中途半端な状況に――」

 アールさんは腕組みをした。

「ええ、彼女は特に継母と上手くいっていないようですね」

 俺は、うつむいた。

「Master,Double Rock and Rye(※マスター、ライウィスキーのロックをダブルでくれ)

 アールさんは英語で注文した。

「マスター、ジンリッキーをもう一杯――ちょっと、えっ!」

 俺はアールさんの横顔を凝視した。男の決め台詞を横の女に盗まれたような気がしたのだ。アールさんはハードボイルドな小説や映画で御用達の強い酒が入ったロックグラスを手の中で揺らして、ガラガラと氷の音を鳴らしている。視線を返してくれない。不承不承だ。俺は女の子でも笑顔で飲める貧弱なカクテル――ジンリッキーのグラスをちびちびやりながら返事を待った。

 アールさんはロックグラスの酒を一息で干すと、

「エス側から相手の家庭の問題に介入するのはどう考えても下策だ。家庭も組織だが会社とは構造が違う。会社は明文化された理論――文明のもとに他人が集まって作る組織だ。文明的な組織に発生する問題は、文明的な理論で解決することができる。しかし、同じ組織でも、家庭は文化とそこに所属する人間の感情と本能を基に形作られるものだ。原則、家庭の問題は――文化と感情と本能に起因する問題は、それを共有している家庭内部の者にしか解決ができん。相手の家庭にある共通認識を持ち合わせない外部の人間が、そこにある問題の解決を試みたところで、失敗をするのは必然の結果だと言えるだろう」

 ああ、うん。

 どうにも難しい言い回しで俺は理解しきれなかったけど、アールさんだって答えが出せないときはあるということだ。

「俺は今後、どう考えて、どう行動したらいいんでしょうか?」

 それでも、俺は訊いた。

「ん、言わなければわからんのか。その女の家庭に話を通すのは諦めろ。双方が成年なら婚姻届けを出すのに両親の同意なんぞいら――ん? ああ、エスの悩みはこっちのほうだったのか。これは、抜かった――」

 アールさんが悔しそうな顔になった。

「はあ、何ですか?」

 俺は怪訝な顔だったと思う。

「よくわかった。エスの相手方は入籍に両親の同意がどうしても必要ということだな。そうなるとエスの相手は未成年。それで今まで婚姻届けを出せなかった。つまり、エスという男は、ショタホモ趣味の傾向があり、性差を問わないロリコン性犯罪をも犯してきた、生粋の重性犯罪者だ。エス、貴様は、どれだけの数の破廉恥な罪を犯してき――」

 アールさんのむやみに鋭い洞察力が、俺に潜在するかも知れない性癖や、まだ表沙汰になっていない性犯罪の数々を炙り出そうとしたので、

「確かに、俺と彼女がすぐ籍を入れるのは無理かも知れませんねっ!」

 大声でその発言を止めておく。

 良かれと思って隠してあることを無理に知ったところで双方が不幸になるだけだと思うよ。

 マジで。

 アールさんは俺を不満気に眺めながら、

「そうなると、やはり、こっちか。エスは双方の家庭が同意した上での入籍にこだわりがある」

「ええ、それをしないと、男としてのケジメがつかないでしょう?」

「なるほど、エスは、その女個人よりも世間体を優先したいということだな。それなら、すぐ他の女へ鞍替えしろ。面倒が省ける」

 アールさんは空のロックグラスのなかへその台詞を吐き捨てた。

 俺の頭に血が上った。

 目の前が真っ赤になった。

「いえ、俺は結婚をするなら今の彼女の他を考えられません。彼女に嫌われたら死ぬまで独身を通します。先のことは誰にもわからない。だから、これは俺の漠然とした予感です。アールさんからまた叱られるかも知れません。俺たちのやっている経営企画という仕事はたいていの予測に数値の根拠が必要です。それでも――俺のハートは数値にできない。絶対にだ!」

 アールさんはイキった俺を淡々と眺めている。

「あ、すいません。今のは少々言葉が過ぎたようです」

 俺がしょぼんとうつむいたのと、アールさんが身体を丸めたのは同時だった。

「そ、そうか、そうか。エスは、その女に、そこまで入れ込んでいるのか――!」

 俺の上司の笑い声がバーにころころ響いた。

 アールさんは女子中高生のように笑っている。

 俺はそれを見つめた。

 このひとが笑うところを初めて見た――。

「――久々に笑った。危うく死ぬところだ。ああ、エス、こっちを見るな、見るなと言っている! お前は私を殺す気なのか――マスター、すぐ水をくれ」

 そう言われたけど盗み見た。アールさんは涙を人差し指で掬いながら、マスターから水のグラスを受け取った。笑いの残った横顔が若く見える。昔はきっとすごい美人だったんだろうな。俺はそう思った。

「ん、エスの彼女は果報者のようだな」

 アールさんは頷いて顔から笑みを消した。稲妻のようなシワが眉間にあるいつもの厳めしい顔つきだ。

「いや、俺は見ての通り甲斐性の無い男ですからね。それは、どうでしょうか?」

 俺は苦笑いだ。

「エスは自己評価が低すぎる。以後、自分自身をもっと客観的に観察しろ」

「あ、アールさんから初めて褒められた――」

「この、馬鹿め。私は叱責したのだ。エスの悩みはよくわかった。この場合、私から提示できる解決策は一つだけだ。エスはそのグラスを空にしたら彼女のところへまっすぐ帰れ」

 アールさんは水のグラスを空にして席を立った。

「これは多すぎですよ」

 俺は顔をしかめた。アールさんがカウンターに置いたのは抜き身の諭吉三枚だ。俺の部署も年末年始に飲み会がある。アールさんが飲み会に同席するのはいつでも始まって一時間前後だ。部下からの挨拶を一通り受けると、宴会の幹事へ「二次会はこれでやれ」と諭吉の束を手渡して、すっと一人で帰ってしまう――。

「――ああ、その釣りで甘いものでも手土産にするといい」

 そのときのアールさんは俺へそう言った。

「駅までお送りします」

 上司から酒を奢られてお小遣いまで貰った俺のほうは席を立ってこう言うしかないだろうが。アールさんは電車通勤をしている。この電車も俺の会社がやっている事業だ。アールさんは、どこまでも会社至上主義のひとだった。

「席へ戻れ」

 アールさんは飼い犬にお座りを命じるような態度で言った。

「あ、そうします」

 飼い犬の俺はお座りをするしかない。

「私はまだ部下に夜道を送られるほど老いぼれていないよ」

 アールさんは背中を向けて言った。

 笑っているような声だった。

「はい。おやすみなさい」

 俺も笑って上司の背を見送った。

「アールさん、またお越しください」

「マスター、次に来るときまで元気でいろ」

 マスターとアールさんが交わした挨拶は、バーの扉が閉まるのと同じタイミングだった。


 溜息と一緒に胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、

「どうぞ」

 何も言わなくても、マスターの手でぴかぴかのガラスの灰皿が出てくる。

 これぞ、正統派の接客だ。

 俺は煙草を吸いながら空にしたジンリッキーのグラスを眺めた後、

「マスター?」

「はい、何でしょうか」

「ライウィスキーのロックをダブルで。ライウィスキーの銘柄は、えぇと――正直なところ、俺はライウィスキーの銘柄をよく知らないんだ。マスターにまかせるよ」

 アールさんの指示に初めて逆らった。このバーで俺の初体験が二度あった。三度やっておかないとゲンが悪い。それに、俺はこのバーもこのマスターも大好きになりつつある。

「かしこまりました。アールさんは学生時代から大変な女傑でしてね。あのひとの部下をやっていると気苦労が絶えないでしょう?」

 マスターが棚から取ったライウィスキーの瓶は、アールさんへ出したものと同じ銘柄だった。

 俺は嬉しくなって、

「確かに大変だけど、いざというときの頼りがいはうんとある上司だから、苦までにはならないよ。ところで、マスター。このバーはいつまで店を開けているの?」

 マスターが俺の前へロックグラスを突き出したところで動きを止めた。

 俺はライウィスキーのグラスを傾けながら、

「マスター、どうした?」

「十一年前に、この店を開けてから今日まで、それを考えたことがなかったので――年中無休で夜が明けるまで、ですかね」

「うわ、サラリーマンよりも、ずっと大変だ――」

「いえいえ、勤め人と違って私どもの商売が店を開くのは夕方からですよ。それに、私はこの仕事を好きで始めました。今でもこの仕事が大好きです。何の苦にもなりません」

 そう思える仕事をしているひとの人生は生きながら天国にいるのも同然なのだろう。

 この意見は、かつて、寒い国に生きた文豪の受け売りだ。

 俺のほうは、どうなんだろうな――?

 考え始めたところで腹がぐうぐう鳴った。今夜はカップ蕎麦しか食っていない。考え事をすると余計に腹が減ってくるものだ。

 マスターがカウンターの向こうの冷蔵庫を開けて、

「ああ、軽食を作りましょうか。大したものはお出しできませんが――今夜はパスタ数種類、それに――ピザトーストくらいですね。軽食のお代は要りませんよ。私の店はチャージ(※チャージ料金。日本独特のバー文化。場所代みたいなもの。値段は店によってまちまち)を頂いておりますから」

「ピザトースト大好き。うーん、どうしようか――」

 俺は腕時計へ目を向けた。エヌから貰った腕時計だ。あの夜に突っ返し損ねたまま俺の人生の一部になってしまった。エヌもそうなった。改めて考えると、この腕時計の針が俺とエヌの時間を――お互いの関係を進めてくれた――。

「――そうだった。エヌから腕時計を貰ったのは一年前の今日この日だ!」

 俺は立ち上がった。

 椅子がひっくり返るところだった。

「おや、どうかなさいましたか?」

 マスターは冷蔵庫を覗き込む体勢のまま顔だけ俺へ向けている。

「マスター、俺と彼女の大事な記念日を忘れていた。それが今日なんだ」

 マスターは内ポケットから懐中時計を取り出して、

「あ、エスさん、大変ですよ。あと二時間ちょっとで今日は終わりだ」

 正統派のバーは客から見えるところに時計を置かないものなのだ。

「アールさんはいつだって正しい。今日の俺はすぐ彼女のところへ帰らなきゃいけなかった。俺はあのひとが本当に怖いよ――マスター、この界隈に遅い時間まで店を開けているケーキ屋さんはあるかな。それでなくても、手土産にできるような甘味を売っている店は?」

「酒が商売の私には難題ですね。酒飲みドリンカーは甘味を好まないことが多いですから。うーん、この時間帯まで店を開けている甘味の専門店ですか――」

 マスターの視線が真上を彷徨っている。

「それは、そうだよなあ――スマホと自分の足で探すしかなさそうだ。こいつ二枚で払いは足りる? 足りる。あ、釣りは取っておいて」

 マスターへ諭吉二枚を押し付けてバーから飛び出る寸前、

「待て、そこの男前野郎っ!」

「待って、そこのイケてるお兄さん!」

 ホモカップルに大声で呼び止められた。

「えっ――?」

 困惑で俺の足が止まった。女受けはどうだかよくわからん。俺はホモ受けが結構いいらしい。へえ、彼ら目線だと俺はそうなんだ。このバーで初めて知ったよ。

「おい、男前野郎。甘味のことなら、俺の横にいる男女郎おとこじょろうに訊いてみな」

 ホモカップルの片割れが低く唸った。まくりあげたワイシャツの袖から飛び出た腕が丸太ン棒のようで、青髭にまみれたケツ顎もたくましい、野獣のようなホモ野郎だ。

 その横で細身の彼氏君がくねくねしながら、

「やだ、あんた、ただのお愛想よ。何を妬いてるの――ねえ、イケてるお兄さん。このバーの北にある洒落た喫茶店はね、夜半過ぎまでお店を開けていてね――」

 バーに面した十字路を北に行って繁華街の通りを東へ。そこにある喫茶店は夜半まで店を開けていて、ケーキの持ち帰り販売もやっている。ただ、ケーキが品切れになると時間前でも閉店になってしまう。

 週末だし、若い女の子に人気のあるお店だから急がないと――。

「――マジで助かった、お二人さん。このバーでまた会おう。そのときは一杯づつ、奢らせてくれよ」

 俺は改めて外へ飛び出した。

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