16
部下とインターネット会議中にスマホがガタガタ震えた。
『わたし、暇(怒り狂う猫ちゃんのスタンプ付き)』
通信アプリにエヌからのメッセージが届いている。
『俺は忙しい』
俺の返答だ。
『エスは今どこにいるの?』
エヌがしつこい。
『どこって、会社の部署のデスクだけど』
今日は珍しく嘘を吐いてない。
メッセージ通り俺は部署のデスクにいる。
『土曜日なのに?』
エヌがしつこい。
『最近は本当に忙しいんだ。今朝もそう言っただろ』
俺は溜息を吐いた。
『わたし暇』
エヌがしつこい。
『俺の積みゲーでも消化してろ』
俺が突き放すと、
『一人でゲームやっても楽しくないもん』
エヌが嘘を吐いてスネた。敗けた俺が対戦を放り出した後、エヌはいつもネットで対戦相手を召喚して、黙々と色々なゲームをやっている。その対戦戦績は綺羅星のごとくだ。俺はエヌがゲームで負けたところをまだ一度も見たことがない。
『なるべく早く仕事を終えて帰るよ。会議に差し支えるから通信は終わりにするね』
それでも俺は相手への思いやりを十分滲ませた文章を仕上げたのに、
『ばか!』
エヌは容赦無しだ。
エヌの他者視線恐怖症はあいかわらず治っていない。俺と出会う前のエヌは精神科へ通っていたという。向精神薬を呑むとふにゃふにゃで何もできなくなるから、薬に頼ることは自主的にやめてしまったらしい。それでも、エヌだって一人で部屋にいると退屈なのだ。いつもテレビのチャリンコ旅の番組だとか、旅先でニャンコと遭遇する番組を食い入るように眺めているし、前に一度、夜の闇に紛れてあのバーへ――『BAR Blinded With Love』へ連れていったら大喜びをしていた。薄暗くて他人の視線が少ないからか、マスターの人柄の恩恵なのか、常連のホモカップルは女を値踏みするような視線で眺めないからなのか、どれが理由なのかはよくわからなかったけど、挙動不審な態度にならなかった。でも、エヌは酒に弱い。一時間もしないうちに、俺は酔い潰れたエヌをおぶって帰る羽目になった。
デスクへ積まれた書類の上には自動車のパンフレットが何種類かある。
旅行や外食が難しいエヌも、これなら外へ遊びにいけるかな。
思い当たったのがドライブだ。エヌは営業車の助手席に喜んで乗っている。でも彼女とのドライブに煙草臭くて仕事の小道具を満載した営業車を使い続けるのはちょっとねえ。ボディに社名がばっちり入っているしな。通勤はともかく私用で営業車を使っちゃダメですよと会社からしつこく言われてもいるし。だから、最近の俺は自家用車の購入を検討している。
もっとも、会社の近くで、お高いマンションの一室を借りている俺にとって、自家用車の購入と維持は贅沢な話なのだけど――。
『――パイセーン、これどうにかなんないんスか?』
今度はPCのスピーカーから金髪のライブ音声でメッセージだ。
俺は溜息と一緒にモニタのネット会議へ目を戻して、
「何だよ、うるせェな、どうにもならねェよ」
『おい、課長代理、この野郎! 家じゃ仕事がやり辛えだろっ!』
モニタのなかでデブが吠えると、その口の中にあったものが飛び散った。
汚ないなあ、もう――。
「――デブ、在宅勤務中に飲み食いするなとまでは言わん。だが、会議で肉まんを口に入れたまま発言するな」
『寮で残業とかマジだっるぅ――』
ヤン子の目つきが完全に座っている。視線を合わせたら、いつブン殴られても文句を言えない。そのくらい、ご機嫌斜めな態度だ。
「ヤン子、いくらだるくても缶酎ハイを飲みながらだと、いつまでたっても仕事は終わらないよ?」
俺はやんわり上司らしい忠告をしたのだけど、モニタのヤン子は缶酎ハイをぐいぐい呷って見せた。もう隠すつもりがないみたいだ。むしろ、見せつけている。俺だって昼間から酒を飲みたい気分なんだよ。本音を言えばね。
『土曜日にテレワークで無償の在宅勤務とか本っ当にありえないですっ!』
モニタのチマ子が絶叫した。
「そうだよな。ちょっと前の新型ウィルスパンデミック騒ぎ中、うちの会社も各自のノートPCへテレワーク用のアプリを導入しただろ。あのときから俺は嫌な予感がしてたんだ。『そうだ、テレワークを活用して残業を自主的に社員の自宅でやらせたら、会社は残業代を払わなくて済むんじゃねえの?』そんな邪悪な人件費削減計画を実行に移す経営者が多発するだろうなあとだぜ。おめでとう、案の定だ。やっぱりそうなった」
俺は溜息と一緒に伝えた。
『パイセーン、これマジでファッキンどうにかなんないんスか。残業を無償でやれって明らかにおかしいっスよ!』
いつもへらへらしている金髪がカリカリイライラした顔つきだ。
「同じことを何度も言わせるな。部署に出ている残業禁止令は会社じゃなくて労働基準監督署の指示だ。今回は法務部も外部の弁護士事務所も抵抗する前にさじを投げやがった。うちの部署が長い間、異常な労働環境にあったのは誤魔化しようがない事実だからな――」
気まずい俺の言葉に力は無い。
『残業を家に持ち帰ったら、俺たちは大損だろうがあっ!』
デブは力強く咆哮した。
「うん、大損だよな。でも今年のお前らへは残業代をほとんど出せないんだよ。これは労働基準監督署の話そのままだぜ。月に四十五時間を超える残業は年間で六か月までと労働基準法で決まっているらしい。しかも、これは通常の設定ではなくてサブロク協定――特別協定の設定時間だからな。簡単に言えば業務の繁忙期や緊急対応のための特別な残業時間ルールだ。お前らは通常勤務で特別ルールの天井を突き抜けてたから――」
俺はモニタから上司を睨むどの部下へも視線を返せない。
『チィイッ!』
ヤン子の舌打ちの音だ。
画面の外から戻ってきたヤン子がロング缶の酎ハイをプシュっとやった。
「あーあー、若い女の子がロング缶のストロングな酎ハイを昼間から三本も――」
『課長代理、こんな劣悪極まりない労働環境を強要していると、労働基準監督署へ、また誰かが駆け込みますよ?』
チマ子が画面の外から流れてきた煙草の煙で瞳を細くした。ヤン子が煙草をバカバカ吸っている。ヤン子とチマ子はどっちかの部屋で一緒に残業をやっているらしい。部屋の片隅に木刀とか釘バットが立てかけてある。たぶん、ヤン子の部屋にチマ子がいるのだろう。こいつらは本当に仲良しだ。
ちょっと前、うちの会社に労働基準監督署の連中が立ち入った。デスクでプチプチを潰していた新任の課長代理が労基へ駆け込み訴えをやったのだ。悪いことに、そいつはハッタリではなく、マジで弁護士の友人がいるような奴だった。普段は窓口へ直接訴え出ても忙しいとか何とか言ってのらりくらり動く労基の連中が、すぐさま本社ビルへ殺到して臨検(※労働基準監督署の職員がやる取り調べ。非常に強い執行力を法律で約束されていて、これを拒否すると刑事事件に発展することもある)を執行した。小うるさい弁護士が絡んでくるとお上だって顔色が変わるのだ。それで会社は是正勧告と指導を貰って部署はこのザマだ。残業ができなくなった同僚は週末までに仕事が終わらず、それぞれ自宅へ残業を持ち帰っている。俺は直属の部下にそれをしろと指示していない。労働基準監督署からそれを絶対にするなと強く警告をされたからだ。でも、残業無しだと俺たちの仕事は永遠に終わらない。タスクと面倒事が雪だるま式に増えていく。だから、俺の部下は自発的に泣く泣く持ち帰り残業をやっている。こいつらは上司への文句が極端に多いけど、自分の仕事が嫌いなわけじゃない。
正直なところ、俺は自分のやっている仕事が嫌いなんだけどね――。
「――ああ、もういいや。気に食わないなら、お前らも労働基準監督署へ駆け込め。そうしたら今度はネット会議で転職先を探そうぜ。これは俺の予想だけどな。この部署はじきに役員会の手で改変されるぞ。最近はナメクジの顔が変色してきただろ。この部署の機能不全で取締役員どもは堪忍袋の緒が切れかかってるんだ。俺たちは今まで事業部へ再編だの改善だのと迷惑な企画を散々流してきた。だから、これは因果応報だ。これから、どんな天変地異が起こっても、それを受け入れる心の準備をしておけよ」
部下は沈黙した。
「――まあ、今、俺の言ったことは聞こえなかったことにしろ。とにかく、資料が仕上がったら随時、俺のフォルダへ送ってくれ。ネット会議はこれで終わり。迷惑を掛けてすまんな。解散だ」
俺の歯切れが悪い発言を最後にネット会議は終わった。今は役員会に提出する提案書の製作中で、その資料を部下へ分担して作らせている。役員会への提案なんてやりたくてやっている仕事ではない。ナメクジ本部長の指示書に「それ、お前らがやれ」と書いてあったからやっているだけだ。俺も部下も現行案件を複数抱えている。役員会のご機嫌伺いをするための提案なんて部署の現状を考えれば後回しにしていい仕事だ。これは俺と俺の部下への嫌がらせみたいな指示だったけど、俺たちはそれを無視できないのだ。
すべての労働者は本質的に奴隷の階級である、と――。
「――それでだ。メガネは管理監督職でもないのに何で堂々と出社をしているの。お前はやっぱり頭がおかしいのか?」
俺は隣のデスクへ目を向けた。ここがメガネのデスクになる。こいつは仕事や法律の上で悪事に該当しないけど、それをやると関係者みんなが困るようなことを平然とやってのける。目が離せないので嫌でも近くに置くしかない。実際、今も俺にとって迷惑な行動を俺の真横でやっている。
「課長代理は何をおっしゃっているのですか。私は見ての通り会社へ遊びに来ているだけですが?」
メガネはキーボードを叩く手を止めずに返事をした。
「帰れっ!」
俺は怒鳴った。
「課長代理は私の恰好を見てもまだ理解ができないのですか?」
ようやくメガネが俺へ顔を向けた。その手はまだキーボードをカタカタ叩いている。これはブラインドタッチ&ブラインドモニタだ。すげえテクニックだな。
「ああ、わかってるよ。アロハシャツだよな。そんなので納得できるかよ。小馬鹿にされているとしか思えないだろ。いよいよマジでぶっ殺すぞ?」
俺は唸った。メガネはアロハシャツに短パン姿で出勤中だ。季節はもう冬だ。季節外れもいいところだ。マジでイライラする。
「ふぅむ。見ての通り私は会社へ来て、ネットサーフィンなどを楽しんでいるのですが、このアロハを着こなして――アロハシャツと言えばハワイ、ハワイと言えばサーフィンのメッカ。その昔、インターネットを使った情報収集を、ネットサーフィンなどと言ったそうですね――」
メガネはぶつぶつ言いながらモニタへ目を戻した。CTRL+Zキーを連打している。モニタを見ずに書類を作るのは、さすがにメガネでも無理だったらしい。
俺はメガネのデスクのモニタを覗き込んで、
「嘘を吐くな。資料を作ってるじゃねェか。あのな、今はタイムカード以外にも部署のPCのONとOFFで勤務時間が記録されるようになったの。この部署のPCへ、IT管理課が、そんな感じのウィルスを仕込んでいった。土日の週休二日制を採用している会社でも、土曜日は法定外休日だから出勤すると休日出勤じゃなくて残業扱いになるんだよ。休日出勤はもっとダメ。どうしても残業をしたいなら自宅でテレワークを悪用しつつやれ!」
俺の頭でモニタを隠して仕事の邪魔してやる。
「いえ、課長代理。私は今こうして職場でポルノムービーを楽しんでいるのですよ。これでも、私が会社で仕事をしていると?」
メガネはブラウザをモニタいっぱいに表示した。「オホゥ、イエス、オゥ、イエースッ!」とエロ動画の金髪ポルノ女優はメガネの発言に肯定的だけど、俺はメガネのふざけた態度と行動を絶対に否定したい。
「あ、セクハラ――!」
両方の手を自分の唇にやったのは、例のフォックス型メガネの新人ちゃんだ。ここまでずっと後ろで椅子に腰かけてメガネ先輩の仕事を見守っていた。新人が先輩の仕事を見て覚えるのも大事だけどな。何でお前らはいつ見ても一緒にいるんだ。やっぱりもうデキてるのか?
まあ、これは今、どうでもいいな――。
「――メガネも新人ちゃんもすぐ帰れえっ!」
俺はクソメガネコンビの首根っこを掴んで廊下へ放りだしてやった。こいつらは仕事が抜群にできても体力は貧弱だ。腕力を使えば簡単に追い出せる。また二人揃って部署へ戻ってきそうになったので何度か怒鳴って追い散らした。ようやく帰っていった。二人並んでしょんぼり肩を落としてだ。あのメガネコンビは会社と仕事が大好きすぎる。本当に頭がおかしいとしか思えない。
「それで、補佐。本部長は金曜からデスクに溜まっている書類をほっぽりだして、どこへ行ってるんすかあ?」
今は部署に八方美人補佐と俺しかいない。
「本部長のスマホに連絡してみたら?」
補佐は青い顔で書類の山をチェックをしている。ナメクジ本部長は書類のチェック漏れを補佐の責任にする。企画の不具合が出たら部下の責任だ。部署へ戻ってくると、まず補佐へ嫌味を並べ立て、仕事のミスがあった部下を呼び出して怒声を聞かせるのがナメクジの仕事になっている。俺は正しい。俺の上司は正しい。部下はどいつもこいつも馬鹿ばかりで使えない。ナメクジの理屈は常にこうだ。
「本部長はどこへ行っているんですかと訊いています」
俺は嫌がらせでまた訊いてやった。
「また、社長のところだろ――ゴルフか何かかな――」
適当な返事を繰り返す補佐を睨んでいると、
「エスちゃーん、エスちゃーん、来たよーん!」
来客だ。
「あー、スーパーマーケット事業部の営業本部長。もう来たんですか――」
俺は部署の時計へ目を向けた。午後一番に部署でこの彼と会う約束をしていたけど、今は午前十一時の五分前。昔からせっかちで時間を早めに守ってくれないひとだ。
「ひーえ、本当に閑散としてるのねーん。経営企画本部がほぼ無人になっているの、初めて見たよーん――」
営業本部長が目を丸くしている。
「わざわざ本社にお越しいただいてすいません。応接間で少し待ってもらえますか。部署は見ての通り、お茶くみをする新人もいないんで――部長は珈琲が好きでしたよね」
俺は給湯室で珈琲を煎れた。珈琲豆をミルで挽くから時間がかかる。新人の頃、お茶の煎れ方を一通り叩き込まれた。アールさんの考えでは「来客の舌へ好印象を与えると打ち合わせが多少はスムーズに進む」となる。アールさんは大の珈琲党だったから自分の嗜好もあったのだろうね。アールさんは去ったけど、「経営企画本部の応接間で出るお茶はとてもおいしい」という伝統だけはまだ生き残っている。
「そうそう、エスちゃんも俺も生粋の珈琲党だよねーん」
営業本部長は応接間でこう言っているけど、実のところ、俺にこだわりはない。何でもいいなら先方の好みに合わせておけ。これが俺の考え方だ。仕事の上ではだ。プライベートでは全然違う。
「来客へ珈琲を出すのが男の手ですいません。御覧の通り、俺の部署はマジでガタガタなんですよ」
「労基のガサ入れをくらったらそうなるのは仕方ないよねーん。
対面のソファにいる営業本部長は、俺が丁寧に煎れてきた珈琲へ砂糖をドバドバ入れて台無しにしながら苦笑いだ。
「どうでしょうか。だいたいは、ナメクジが悪いと思いますよ。アールさんが本部の椅子にいたときは、この部署の足並みが乱れたことなんて一度だってなかった」
俺が吐き捨てると、
「俺の口からそれを大きな声で言えないのねーん。ナメクジ君は社長とすごく仲良くしているのねーん――それはそうとよーん、中区にあるショッピングモールの空きテナント問題はどうするのーん?」
営業本部長は本題へ入ることで話題を逸らした。
「それは、そもそも、ですよ」
俺は身を乗り出した。
「ねーん?」
営業本部長が俺から目を逸らした。
俺は構わずに言った。
「ショッピングモールのテナントへ地元のドラッグストアチェーン店が長年入っていたのに、何でスーパーマーケット事業部は都会のドラッグストアチェーン店の下請けを始めたんですか。この双方は扱う商品がモロ被りのライバルですよね?」
「エスちゃん、それを俺に言われても困るのよーん。都会発のドラッグチェーン店の下請けは、社長が俺の事業部へ直接持ち込んできた話なんだよーん。社長にやれと言われたら、社員は黙ってやるしかないよねーん」
「ビジネスの筋としては、長年の取引があった地元のドラッグストアチェーンを優先するべきでしょう。うちの会社は創業時から地元密着型企業を謳っています。百年以上このスタイルで戦ってきたんですよ。ここで地元の外から入ってくる連中を優遇したら、うちの企業理念はダブルスタンダードになる。一度ぶち上げた企業理念からブレるのは、そこまで勝ち取ってきた顧客の信用をドブに捨てる行為です。失われた信用を取り戻すのに、どれだけの時間とコストと労力がかかると思っているんですか。それに、地元発のドラッグストアチェーン店はキーテナントとして、我が社のショッピングモールへ長年の貢献をしてくれていましたよね」
「だ、だから、エスちゃん。都会のドラッグストアチェーンと、うちの会社が提携したのは、俺も寝耳に水の話だったのよーん。何度も何度もそう言ってるじゃなーい!」
「ええ、それで、地元のドラッグストアチェーン店がぶちギレて、採算度外視でうちのショッピングモールからの撤退を決めちゃった」
「エスちゃん、その空きテナントをどうするのーん。あれはうちのスーパーマーケットがまるっと入っちゃうほどの面積なのよーん?」
「それは以前にも電話口で伝えたでしょう。今うちが下請けをやっている都会のドラッグストアチェーン店をテナントへ突っ込めば、それで済む話ですよ」
「本日のお悩み相談はそれなのよーん。向こうの本社はテナントへの出店を渋ってるんだよねーん」
営業本部長が口からクソを垂れ流しやがった。
「おい、先方がテナントへの出店を渋ってるだと、この野郎?」
俺の声が低くなる。
態度も悪くなった。
「そ、そうなのよーん、先方は渋ってるのねーん。あくまで向こうがやりたいのは独立した店舗のチェーン展開なんだよねーん。他社様が地方で運営するショッピングモールのテナントへ入るのは経営計画から外れているって話を延々されてねーん――」
「まさか、先方に出店を断られたんですか?」
「エスちゃん、ぶっちゃけると、ばっさりお断りをされたのよーん!」
営業本部長がにぱあと笑った。
五十歳を超えた薄らハゲのおっさんのにぱあは何も可愛くねェ。
「頭が痛ェな――」
こう言ったけど予想はしていた。電話口でも済む話を顔を合わせてしたいということは、俺へ何か無理な要求をしたいということだ。この営業本部長は毎度毎度こんな感じで俺へ事業部側の要求を押し通そうとする。
「ドラッグストアのチェーン展開は、うちが下請けの立場だからねーん。先方へ強いことを言えないのよーん。それに先方のご機嫌を損ねると社長から俺が睨まれるのは間違いないのねーん。だから、ねえねえ、エスちゃん。うちのショッピングモールのテナントを埋めてくれる会社とか業種に心当たりはないのーん。今のままだと本当にまずいでしょーん?」
「――わかりました。すぐマーケティングリサーチ課へ話を通します。件のショッピングモール近隣住民がどんな商品を通販で発注しているか、もしくは他店へ足を向けて購入しているかの調査が必要でしょう。そこから、ショッピングモールに求められている消費傾向を探ります。出てきた資料を元に、スーパーマーケット事業部のほうで、テナント誘致候補店を絞ってください」
俺の考えはこんな感じで落ち着いた。
「えー、エスちゃんが提供してくれるのは営業資料だけなのーん?」
営業本部長は唇を尖らせて不満気だ。
「
俺は顔をしかめてやった。
「うちの事業部だけで誘致候補店の絞り込みから新規開拓、集客や収益予想の計算諸々までやるのーん?」
営業本部長も顔をしかめた。
「それが事業部の仕事でしょ。大元の資料は用意しますから、後は泣いてください」
俺が突き放すと、
「深夜会議と飛び込み営業はいやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!」
営業本部長はソファに座ったまま子供みたいに暴れた。
「わがままだなもう――できるだけ早く対応できるよう頑張ります。ただ、部署系列下の課もすべて案件が渋滞中ですからね。上手く進んでも営業資料と提案が出るのは来週末です。それでいいですね?」
俺は子供へ諭すような感じで伝えた。
「できるだけ早く頼むよーん、これは緊急の案件だよーん。そうだ、先方へ交渉に行くときはエスちゃんも同行してよーん、一緒に説得してよーん。ねえ、ねえ、そうしてよーん。エスちゃんって見栄えだけはいいから、連れ回すとハクがつくのよーん!」
また無茶を言いやがる。確かに俺は若い頃、色々な事業部で業務を手伝った。それがアールさんの新人育成方針だったのだ。中途半端に多方面の仕事ができはする。実際、企画屋は多方面の分野に知識と興味がある中途半端な人材に向いている仕事でもあると思う。うちの経営企画の場合は事業部間横断ウルトラクイズみたいな仕事が多い。多種多様な業種の知識が必須になるけど、その道のスペシャリストである必要はない。ここで働く人間に求められるのは、そんな感じのフットワークだ。もっとも、経営企画は企業形態や経営トップ陣の考え方で、やる仕事の内容が違ってくる部門だ。俺のところの仕事は内容が全然違うぞという意見は多いかも知れないね。これ以上、詳しいことを知りたければインターネットで検索してみてください。仕事の細かい説明を始めると、つまらない話だらけになるから、俺からはここらでやめておく。
「それができればいいんですけどね。部署が見ての通りの状況ですから、俺はデスクから離れられませんよ」
本音を言う。
事業部の業務のお手伝いまではやりたくねェし、それをやっている暇もねェんだよ。
いい加減にしろ、この野郎。
「正直、中区のショッピングモールは、もう何をやっても焼石に水だと思うのよねーん」
営業本部長の顔がズンと暗くなった。
「あれがうちの会社でやる最初で最後のショッピングモールになるでしょうね。テナントは難しいですよ。入る店の経営は他所の会社ですから、こちらの自由にはならんですし。実際、うちは地元のドラッグストアチェーン店と喧嘩別れになりましたからねえ?」
俺は嫌味を言ってやった。
「元々あのショッピングモールは俺の事業部の提案で作られたのよーん」
嫌味を聞かされても営業本部長は気の抜けたような顔つきのままだった。
「へえ、それは初耳ですね」
俺が話を促すと、
「オープンしたのは、エスちゃんが入社するだいぶ前だったねーん。当時はお客さんがいっぱい来てくれたのよーん。周辺の道が大渋滞して問題になるくらいねーん。全国展開しているI社のでっかいショッピングモール相手とも互角にやりあっていたのーん。だから、俺はちょっと悔しいのねーん。海の向こうから来たスーパーマーケットチェーン店に、客をごっそり持っていかれるなんてねーん――」
「ええ、中区のショッピングモールの近くにも出店してきましたね」
俺の声のトーンと視線も落ちた。スーパーマーケット事業部にある最大の懸案はこれだ。前にやったスーパーマーケット事業再編提案の流れで面倒を見ることが多くなった俺も頭を悩ませている。近年、日本全国の生鮮食品小売店を大虐殺している外資系巨大スーパーマーケットチェーン店が、とうとう俺の地元へも進出してきた。海外にあるものを似せた形態の倉庫店は今までもあったのだけど、本国から来襲した本物の黒船艦隊は段違いに強力だった。
「正直、奴らが相手だと、お手上げなのねーん。資金力と商品の品揃えが別次元なのよねーん。奴らは元より世界中を網羅する仕入れルートを持っている上、端から札束で頬をひっぱたいて、日本国内の
「その上で、外敵は有料のメンバーシップ制度(※会費を支払う顧客だけに店舗を利用してもらう制度)で利ざやの底上げをしてますからね」
「うなるほどの資金を持っている上に、姑息な手段まで使って商品の値下げをしてるのねーん。でも、うちのスーパーマーケットへメンバーシップ制度を導入すると、もっと客が離れると思うのよーん。うちの主要客層の意識低い系シルバーエイジ世代は、あの手の消費者奴隷制度で拘束されるのが大っ嫌いなのーん――だから、なのねーん! 中区のショッピングモールへキーテナントになる店を早く誘致しないと、本当にマズイことになるのよーん!」
「ええ、俺もできる限りの対応を考えますから」
俺が心にもないことを言うと、
「そうだよーん、エスちゃん個人で対応してよーん。テナント店誘致の交渉はエスちゃんも同行してよーん。俺と一緒に先方を説得してよーん。ねえねえ、そうしてよーん!」
藪から蛇で無茶な要求がループした。
「そうですねー、それができればいいんですけどねー」
俺は自分の腕時計へ目を向けた。
これで話は終わりだから早く帰ってくれねェかなというアピールだ。
「しかし、困ったのねーん――」
営業本部長は帰れ帰れとアピールする俺を見つめた。
「うっへえ、まだ仕事のお悩み相談があるんですかあ?」
俺は自分の腕時計を眺めたままだ。
「細かいことを言い出したら腐るほどあるのねーん。そのなかでも一番のお悩みはこれなのーん。エスちゃんは昇進するでしょーん。そしたら、俺の便利なお悩み相談窓口が一つなくなっちゃうのよーん」
「えっ?」
今度は俺のほうが営業本部長の下膨れした顔を凝視した。
「あれえ? エスちゃん、まだ内示を受けてないのーん?」
「俺は何も聞いていませんよ」
「本社で課が新設されるって話だよーん」
「役員会で、そんな話が出ているんですか?」
「そうなんだよねーん。アールさんがあっちに逝ってから、経営企画本部は誰がどう見てもガタガタだよねーん。だから、役員会は経営企画調整課ってのを新設して、経営企画本部が事業部へ垂れ流してるガタピシ企画を修繕するつもりらしいんだよねーん」
「それは本来、企画推進課の仕事でしょう。そこの人材を補強したらどうですか?」
「エスちゃんは何を言ってるのーん。経営企画系列は使える人材が簡単に捕まる部門じゃないよねーん?」
「それは、そうですよねー」
ここは俺も営業本部長と同じ意見だ。うちの部署と系列下の課はドロドロと面倒な社内の人間関係や権力構造を八艘飛びで相手する上、融資関係やら会計の決まり事やら税金が絡む面倒な数字を取り扱う業務をやっているから、適合する人材はなかなか捕まらない。そもそも、人材市場に経営の経験者なんてほとんどいないのだ。経営ができるなら、自分で起業したほうが得だよなという話だろ。苛烈なブラック労働環境が社内で知れ渡っているから、好き好んで異動希望を出す社員もいない。最近は各企業の戦没者の恨み言が、ネットの匿名掲示板だとか就職情報裏サイトへすぐ流出する。俺のいるこの部署は『ブラック度MAXの職場』という判定を受けていた。実際、その通りだ。それで労基に怒られた。もう、おマヌケな新卒君を取っ捕まえて洗脳と育成をするのも難しいだろう。その上で昨今の人材市場の若手不足問題も重なっている。
改めて考えると、うちの部門は人材面でジリ貧もいいところだよなあ――。
営業本部長が深々と頷いて、
「だから、ぶっ壊れた企画推進課は現状の人材を保持しつつ営業推進課へ名称を変更して、タスクを半分に減らすことで立て直すんだよねーん」
「でも、経営企画調整課って――この部署の系列下の課が一つ増えるんですよね。それは仕事が余計に混乱すると思うんですが。営業本部長は業務フローチャートがどうなる予定なのか知っていますか?」
「これから新設される課に業務フローなんてものはいらないのねーん」
「はあ?」
俺の声が裏返った。
「新設される経営企画調整課は経営企画本部専属の特攻部隊なんだよねーん。だから、業務フローは『役員会-経営企画本部-経営企画調整課』これだけで済むんだよねーん。これでもうわかったよねーん、エスちゃんは新設される課の――」
「――もうやめて。それ以上は聞きたくないっ!」
俺は乙女のような反応をしてしまった。
「エスちゃん、一応は昇進だよーん。もっと喜ぶのねーん!」
営業本部長は「ウケケケケェーッ!」と怪鳥のようなゲス笑いを響かせた。
「あのナメクジ野郎、部署が流す企画のチェックと調整を俺へ全部丸投げするつもりで、今も取締役どもへ根回しを――!」
俺は拳を握り固めて部署を見回したけど、ナメクジ野郎はまだ帰ってこねェ。
「まあまあ、エスちゃん、今から昇進祝いの昼めしを奢ってやるよーん。土曜は社食、やってないでしょーん?」
営業本部長はゲスな笑顔のままソファから腰を上げた。
「では、ありがたく、ご馳走になりましょうか――」
腕時計へ目を向けると、もうお昼時をちょっと過ぎている。
「エスちゃんは何を食べたいのーん。うなぎでも焼肉でもすっぽんでも何でもいいよーん。これはエスちゃんの昇進祝いだからねーん」
営業本部長はまだ他人の不幸でにやにやしている。
本当にゲスな野郎だよな――。
「――蕎麦」
俺は要望を呟いた。
「エスちゃんは昇進祝いで蕎麦なのーん?」
営業本部長は目を丸くした。
全然めでたくねェ話だから蕎麦で十分だろ、この野郎。
行きつけの蕎麦屋で奢りのせいろ三枚を平らげて部署へ帰ってきた。ヤケ食いで腹がパンパンだ。さっきからずっとスマホがブンブン唸っている。嫌々の気分で着信を確認すると、部下が担当している細かい案件の先方からだ。部下どもは頭に来てスマホの電源を落としたらしい。そうされても今の俺は文句を言えない立場にいる。
溜息と一緒にテレワーク用のアプリへ部下を呼び出した。金髪とデブは離席中。離席理由に『昼めし』とだけあった。二人とも外へ食いにいっているようだ。もう午後の二時なのにまだ帰ってねェ。ヤン子とチマ子からは応答があった。ヤン子はもちろん、チマ子まで酔っぱらっていた。呂律の回らない二人から、担当させている案件の状況を何とか訊きだして先方の質問やクレームへ対応した。こんな感じで効率の悪い電話対応やメール対応を繰り返しながら、ネット越しに上がってくる資料のチェックと、自分の書類仕事をしているうちに日が暮れた。
「今すぐ死ね」
俺の上司への挨拶だ。逆上して殴り掛かってこないかな。それなら堂々と殴り殺してやれるのにな。そう考えた上での暴言だったけど、部署へ帰ってきたナメクジ本部長は、俺の死ね宣言を無視したまま自分のデスクへ向かった。これが典型的なサイコパスの対応だ。先天的に他人の感情に共感し、それを理解する能力が欠落している。他人への負い目という感情なんて当然ない。
「あ、本部長、お疲れ様でっす――」
補佐は書類を眺めたまま言った。
「おい、補佐。ようやく例の話が上へ通ったぞ」
ナメクジ本部長は大儀そうに上司の椅子へ腰を下ろした。
「そうですか、それは良かった――では、すぐエスを呼びます。今ちょうど部署に――」
立ち上がった補佐の顔に生気が戻った。
「お前は今から外でエスと話をつけて来るんだぞ」
本部長はビジネスバッグから銀行の封筒と滋養強壮ドリンク一本を取り出した。
「え――?」
また青ざめた補佐へ、
「おい、持ってけ」
本部長は銀行の封筒を突き付けた。
「え、え――?」
補佐は本部長と銀行の封筒を見比べている。
「足りなかったら後で言うんだぞ。今回の経費は特別だぞ。掛かった経費は俺が必ず全部落としてやるぞ。エスへ高いメシを食わせたら例の店で気が済むまで遊ぶんだぞ。俺は見ての通り忙しいぞ――書類が溜まってるな。いつになったら俺は家へ帰れるんだ――?」
本部長は書類の山を睨みながら滋養強壮ドリンクの蓋を開けた。
「あ、はい――エス君、エス君!」
補佐が覚悟を決めた様子で銀行の封筒を受け取った。
「おつかれっしたあー」
速攻でデスク周りを片づけた俺はビジネスバッグを片手に部署を出た。
振り返らない。
「エス君、待ていっ!」
補佐がエレベーターの前へシュバッと立ちはだかった。
「嫌だね、それは絶対にお断りだ」
階段を使って全力疾走で逃げればよかったね。
今、俺は痛恨の極みにある。
「僕はまだ何も言ってないだろうっ!」
八方美人補佐の青ざめた頬が痙攣している。
俺もこいつも家へ帰りたい。
それが、まだできそうにない――。
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