15

 生き仏先輩の仕事が終わる気配を察知すると、部署に残っている同僚は揃って後をついていく。人望のあるひとだし、今の部署はガタガタだから余計そうなる。同僚どもはどいつもこいつも好きな上司が奢る酒の力で仕事の不平不満をぶちまけたくてたまらないような面持ちだ。俺はスマホの通信アプリを使って生き仏先輩のアフターの予約を取り付けた。待ち合わせ場所は会社の裏手にする。男同士でこそこそするのは気持ち悪いけど、連れ添って部署を出ると同僚の追跡を振り切れない。

 金曜日の夜九時半過ぎだ。

 会社の裏手で生き仏先輩と落ち合った俺は、近所にある古ぼけたラーメン屋で仕事の昔話をしながらお互いの小腹を満たした。俺は昔のほうが良かったと思えないのだけど、現状の仕事を話題にするとお互い愚痴しか出てこないから仕方がないだろ。

 この後、俺は生き仏先輩を、あのバーへ連れていった。


「『BAR Blinded With Love』――『愛は盲目』、か――」

 生き仏先輩は出入口の看板を見上げて長い溜息を吐いた。

「先輩は、このお店を知っていましたか?」

 俺はバーの扉を開けた。

「いやあ、今夜、初めて知った。会社のすぐ裏手に正統派オーセンティックなバーがあったのか。こんないい店を今まで隠していたなんて、エス君は酷いなあ」

 批難されてはいるけど、生き仏先輩の反応は上々のようだ。

「隠していたわけじゃないですよ。部下だった頃は、よく飲みに連れていってもらいましたけど、最近はご無沙汰でしたから。このお店はアールさんが教えてくれました。つい最近ですよ。三か月くらい前だったかな――」

 俺が笑いながら正統派へ足を踏み入れようとしたところで、

「エス君、ちょっと待て」

 生き仏先輩から怖い声で呼び止められた。

「はあ、何ですか?」

 振り返ると生き仏先輩の眉間がうっすらビキビキしている。

「アールさんとエス君は、プライベートで一緒にこのバーへ来たのか?」

「ええ、来ましたよ」

「二人きりで酒を飲みにか?」

「バーで酒は当然、飲みますよね。そのときの会話は、俺へのお説教みたいなものでしたけど。あまり楽しいものではなかったですよ」

「はぁあ、そうか、やっぱり、そうだったのか。そうかもなあと勘繰ってはいたんだが――」

 生き仏先輩がカクンとうなだれた。

「先輩、どうかしました?」

 俺はこう訊くしかない。

「ふはぁあぁあ――」

 生き仏先輩からは溜息しか返ってこなかった。

「いらっしゃい、エスちゃん」

 マスターに声を掛けられた。相変わらず唇の端っこに微笑みを湛えた表情だ。私はいつだって少しだけ本当にハッピーです。ここのマスターはそんな羨ましい生き方をしている男なのだ。

 俺も俺の笑顔を返して、

「マスター、一か月半振りだね」

「近頃は顔を見せてくれないから、嫌われたのかと心配をしていましたよ」

「そんなことはないよ。仕事が無暗に忙しくて――あ、ホモカップルの常連さん。元気にしてた?」

「いよう、エスちゃんか。ま、相変わらずだぜ。ふーん、今夜は彼氏連れかよ。お盛んだな」

「やほー、おひさー。へえ、エスちゃんってフケ専だったのね。なかなか渋い趣味してるじゃないの」

 野獣のようなホモ野郎と、細身の彼氏君が笑顔で挨拶を返してくれた。

 余計なことも言いやがった。

「エス君はホモ趣味もあったのか。器用なちんぽで羨ましいね」

 ほら、生き仏先輩が不適当な台詞を口走ったぞ。

「いえ、それはちょっと違うと思います。あの彼らは何度かこのバーで顔を合わせているうちに仲良くなった常連さんです。友人以上の関係ではありません。奴らみたいな当事者の口から出ればセクシャル・マイノリティへの差別発言には該当しないだろ大丈夫だよなみたいな、キワどい冗談を真に受けないでくださいよ、マジで。あいつら口を開くたび、そんな感じなんで――あ、マスター。このおじさん、俺があの会社で尊敬している数少ない大先輩なんだよ」

「エスちゃんの先輩となると――お連れ様も、アールさんの同僚だった方ですか?」

 マスターが目を見開いた。

「マスターはアールさんを、よくご存知なんですか?」

 生き仏先輩も目を見開いた。

 マスターは頷いて、

「はい、私は東の都で大学生をやっていた時分、アールさんと同じゼミナールにいました」

「先輩、このマスターは昔、東の都のでっかい商社で働いていたんですよ」

 俺は横やりを入れた。

「おお、花の都の元商社マン。元エリートサラリーマンのなかの、元エリートサラリーマンですなあ!」

 生き仏先輩は褒め殺しだ。

「そのエリートの最後は出世競争から脱落して窓際族でしたよ。商社から出た退職金を元手に、ずっと夢だったバーの経営を生まれ故郷で始めたんです。どうぞ、ゆっくりしていってください。ここは、ゆっくり時間をやり過ごせることだけが取り柄の酒場ですから」

 マスターは苦笑いだった。

「なるほど。マスターは、アールさんと同じ大学で同じゼミ生で、元は首都の商社マンで、引退後は、ご自身の夢を見事に実現されたと。それは、同じ元サラリーマンとして、お羨ましい限りの人生ですなあ――」

 生き仏先輩がまた溜息を吐いた。定年間近まで勤めてきた職場へ退職届を出すくらいだからな。生き仏の二つ名を持つ男と言えども、かなりナーバスになっているみたいだね。

「そうでしょうか。アールさんの下にいると大変でしたよ。特に私は一年後輩でしたからね。当時のアールさんはゼミ長で、それがゼミ生へ次から次へ、思い返しただけでも寒気がするような厳しい要求を――あ、いつまでもお待たせをしてすいませんでした。お飲み物は何になさいますか?」

 マスターも珍しくナーバスな表情で注文を訊いた。生き仏先輩はモヒートを注文した。俺もそうした。先輩はどうだかよく知らないけど、俺には酒の好みというものがない。酔うと舌が馬鹿になるから、どんな酒を飲んでいても最後は似たような味になる。

「うん、とても、おいしい。まさしく正統派のモヒートだ――しかし、エス君はすごいね」

 生き仏先輩は一息で半分にしたモヒートのグラスへ頷いて見せた。

「急に何なんですか?」

 俺はモヒートをちびちび飲んでいる。

 生き仏先輩はグラスを一気に空にして、

「エス君は若い頃の私がアールさんへ何度アタックしたと思っているんだね?」

 生き仏先輩は酒豪だ。何度も何度も一緒に酒を飲んだけど、俺はこのひとが酔いつぶれるところを一度も見たことがない。

「アタックって――攻撃ですよね。ああ、喧嘩ですか。アールさんと真正面から喧嘩をするなんて、先輩も若い頃は尖っていたんですね。命が惜しくなかったんですか?」

「エス君は何を言っているんだ。アタックと言ったら愛の告白だろう。あー、そうか。最近の若いひとはこれを『告白コクる』と言うらしいね。うん、かつての私はアールさんへ何度も何度もしつこくコクったんだよ」

「でも、先輩には嫁さんが――あ、申し訳ない――」

 俺は顔をしかめた。

「ああ、気にしなくていいよ。恋に破れた私を慰めてくれたのが亡くなった妻だった。妻も妻で本当に愛していたし――いや、これは、どうでもいいんだ。アールさんとエス君の話題に戻ろうか」

 俺へ向いた生き仏の顔が真剣そのものだ。

「いえ、そっちの話題には戻らなくていいです」

 俺は話題をすり替えたい。

「エス君は入社してすぐ、アールさんとセックスをしたのか。会社の外でか。それとも、社内でなのか。その内容は、どんな感じだったんだ。できる限りで詳しく教えてくれないか?」

 今夜は生き仏先輩がクソほどしつこいし下品だ。

 何なんだよもう、俺のほうの話が進まねェだろ、いい加減にしてくれよ――。

「――先輩、あのですね。アールさんと俺は親子でもおかしくないほど年齢の差がありましたよ」

「エス君は何を言っているんだ。愛し合うのに年齢は関係ないだろう」

「あのぅ――」

 俺が視線を落としたところで、

「と、ところで、エス君。アールさんは、このバーでどんなものを飲んでいたのかなあ?」

 生き仏先輩の声が甲高くなった。

「アールさんと二人きりで飲んだのは、あの夜の一回こっきりでしたから――」

「あの夜の一回こっきりだと。君はそれだけしかアールさんとしていないのか。エス君、それは女性に対して失礼だ!」

「ええと、マスター。あのときのアールさんは確か、マンハッタンを立て続けに飲んでいたよね」

 対応に困った俺はマスターへ話を振ってみた。

「ええ、アールさんが一番好んだカクテルはマンハッタンでしたね」

 いつもより笑顔が大きいマスターだ。

「マスター、次はマンハッタンをください」

 生き仏先輩は即決した。

「アールさんのお好みレシピでお作りしましょうか?」

「必ずそのレシピでお願いします」

「かしこまりました」

 生き仏先輩は出てきたマンハッタンのグラスを目線まで掲げて、

「永遠の想い人を忍んで――」

「じゃあ、俺もマンハッ――あ、やっぱり、俺はジンリッキーで」

 俺のほうは気が変わった。ここで俺がマンハッタンを注文すると、この面倒くさい話題が延々ループしそうな予感がする。

「しかし、私はエス君が羨ましいよ。アールさんと二人きりの時間を、そんなにも共有していたのか――クソが――」

 無駄だった。

 辛気臭い顔の生き仏先輩はアールさんの話題を無限ループさせる選択肢しか選ばない。

 マジでしつこいなあ、もう――。

「――ええと、先輩。アールさんと俺はそういう関係――男と女の関係ではなかったですよ。最初から最後まで賢い主人と駄犬の間柄でした。それだけは間違いないです。俺はアールさんから人間として認識されていなかった可能性すらありますからね」

「うーん、駄犬かあ。確かに、エス君もアールさんからよく怒られていたね」

「そうですね。いつも怒られていました」

「私も若い頃は実によく怒られたよ。懐かしいなあ――」

「先輩もですか?」

「そうだよ。立ち上げた企画を実働で空回りさせて取締役全員が青ざめるような損益を計上したり、気に食わない同僚を便所へ引きずり込んで殴りつけたり、経費のために経理課へ怒鳴り込んだりするたびにね――特に本部長の判子を盗んで使ったときのアールさんは、もの凄い怒りっぷりだったなあ――ふふふ――」

「ぶっ、部署で一番偉いひとの判子を盗んで使うとか――ええと、先輩が同僚と喧嘩ですか?」

 俺は動揺して一番無難だろうと個人的に判断した話題を選択した。

「うん、若い頃の私はチンピラそのものだったからね」

 生き仏先輩は遠くを見やっているような顔つきだ。

「えぇえ?」

 俺が呻き声で話を促すと、生き仏先輩は頷いて、

「私は大学だって出ていないよ。最終学歴は工業高卒なんだ。それも私の地元では最底辺の高校でね。『公立ヤクザ予備校』なんて地元の住民から蔑まれていたくらいのだよ」

「それ、マジですか」

「本当に、マジなんだよ」

「初めて聞きました。これは驚いたなあ――」

「工業高卒だからね。若い頃の私は自動車整備工見習いとして、K社グループ系列下の子会社に就職をしたんだ」

「自動車の整備工――ああ、うちのバスだとか自動車販売代理店の自動車だとか営業車の整備を請け負っている子会社に就職したんですね」

「うん、そうなんだ。その職場も、私の喧嘩が原因で追い出されてね」

「え?」

「私がその職場で気に食わない先輩を殴っていたら、お忍びで現場へ視察に来ていた今の常務――当時は経営企画本部の課長代理だった常務とアールさんから見咎められたんだ。タコ殴りにした先輩は私の足元で血塗れだったから、隠しようも言い訳のしようもなかったよね」

「――ええと、それで、その喧嘩の顛末はどうなったんですか?」

 俺はどういう経緯で喧嘩が殺人未遂まで発展したのか気になったけど、とりあえず話を進めることにした。

「常務は私をクビにしろと整備工場長へ怒鳴ったよ。整備工場長も怒り心頭でね。私へすぐここから出ていけと叫んだ」

「まあ、それが普通の対応でしょうね」

「アールさんからは直接、怒られた。それが、もう、ものすごい剣幕でね。まるで、カミソリがびゅんびゅん飛んでくるような――ふふふ――」

 生き仏先輩は耳の後ろあたりに片手をやってデレデレしている。

 これって、どういう心境なんだろうなあ。

 俺は怪訝に思いながら、

「ええと――子会社で整備工をやっていた先輩へ、本社のアールさんが、その場で訓戒ですか?」

「怒るだけじゃなかった。アールさんは私の言い分も聞いてくれたんだ。その後すぐ本社から監査部の社員が何人も派遣されてきた。内部監査の結果、私が半殺しにした先輩は職場でやっていた悪事が発覚してクビになった。あれは悪い同僚とツルんで仕事の手を抜いたり、後輩へ暴力を振るっていた。その上、会社の備品をチョロまかして中古屋へ売り払ったり、気の弱い同僚の財布から金を抜くことまでやっていた犯罪者だった。整備工場長は監督責任を問われて別の子会社へ異動させられた。当時、工場では整備不良が頻発していたんだよ。工場側ではその問題をどうしても解決できなかった。この問題が現場で解決できなかった理由は、くだんの犯罪者が整備工場長の一人息子だったからだ。整備工場長はずっと自分の息子の悪事を見て見ぬ振りだった。結果だけ見れば、私の暴行がきっかけで本社の経営企画本部まで上がっていた問題が解決された形になった」

「それって、先輩は何も悪くないじゃないですか」

 自分ではチンピラだと言っているけど、若い頃の生き仏先輩はムキムキの熱血漢だったらしいね。今だって大柄で肩幅が広くて、ムキムキのおじさんだ。昔、ジム通いが唯一、趣味らしい趣味だと聞いたことがある。

「いやいや、暴力はよくなかった。暴力は行使される理由がどのようなものであれ、人間のするうちで最も卑劣な行為なんだ。あの頃の私には若気の至りもあったのだろうけどね。それでも、許されることではない――」

 生き仏先輩は頭を振った後、マンハッタンを飲み干した。

 俺のほうはジンリッキーをちびちびやりながら、

「まあ、それは、その通りなのかも知れませんが――その一件が、経営企画本部へ異動するところまで繋がったんですか?」

「うん、最終的にはそうなった。その後の私は本社から自動車販売代理店の営業部へ異動を命じられて、営業の仕事を覚えながら、会社の金で大学の夜学へ通った。やったのは経営の勉強だった。細かく言うと企業形態の理屈やら統計学やら会計学やらだね。どうも、これはアールさんの手配だったらしいんだ。後で本人へ問い詰めても、この件に関しては何も教えてくれなかったけどね――」

「会社の金で大学へ通ったって――そんなこと、あるものなんですか?」

 俺が驚いて目を向けると、

「昔は、よくある話だったんだ。今も少子高齢化で若手の人材不足が叫ばれているけれど、それ以前だって若い人材が貴重だった時期は何度もあったからね。昨今の日本企業の風潮はおかしいと思うよ。人材不足を自分の口で叫んでいるのに、企業自体が若い人材へ投資することはほとんどやらなくなった。いつだって募集するのは即戦力、即戦力だ。至らなければ自己責任だと言いがかりをつけて、どんどん切り捨てる。これは企業側の身勝手が過ぎると思わないか?」

 生き仏先輩は酒で和んだ視線を俺へ返した。

「先輩は家庭の事情で大学へ進学できなかったんですか?」

 俺は首を捻った。

 仕事が抜群にできる生き仏先輩は、当然、学生時代から優等生側にいたものだと思い込んでいたけど――。

「――それは、違うね」

 生き仏先輩はカウンターテーブルに両肘を乗せて、

「実家は大田舎にあるけど裕福ではあった。私は上に三人の兄がいる。その全員が大卒で、卒業後は首都の企業へ就職した。若い頃の私がグレて腐っていただけなんだ。私の出身は北陸でね。とにかく見渡す限り田んぼしかない。それが冬は見渡す限りの雪景色になる。若いひとが楽しく遊ぶところなんて、これっぽっちもないような土地柄なんだよ。私は職工の仕事を理由に太平洋側へ逃げ出して、そのまま、こちらに居ついていた――マスター、『雪国』はできますか?」

「ええ、もちろん、できますよ」

「では、雪国をお願いします」

 マスターが振ったシェイカーから出てきた『雪国』は乳白色の色合いで、カクテルグラスの底に緑色のチェリーが一つ沈んでいる。これは吹雪く雪と、その下に潜む春の息吹を想わせるカクテルだ。

「そうだったんですか――」

 俺は故郷の景色が注がれたグラスを見つめる生き仏先輩を横目に頷いた。

「夜学で二年間だ。経営の勉強を終えると、私は本社の経営企画本部へ異動しろと辞令を受けた」

「そこから、先輩は、アールさんの部下になったと」

「そうなんだ。当時のアールさんは、もう課長代理に昇進していてね。部署で一番仕事ができる女だった。よく怒られたなあ。あの頃の私は、アールさんから怒られるのが仕事のようなものだった――アールさんから怒られているとだね。これはちょっと恥ずかしい話なんだけど、私はいつも我慢ができなくて、ものすごい勃起をしてしまってね。それを誤魔化すのに苦労を――ふふふ――」

「――えっ?」

 俺は顔を向けた。

「エス君も、あれには痛いほど勃起しただろ。若いと特別に大変だよね。よくわかるよ」

 生き仏先輩が俺に顔を寄せてこそっと告げた。

 俺はできる限り平静な様子を装いながら、

「そういう偏執的な欲情に駆られたことは一度もありませんよ」

「エ、エス君は若いのに、もうインポテンツなのか――いやいや、最近は、いい薬があるらしいからね。諦めるのはまだ早い。市販のものでも亜鉛サプリは効果てきめんで――」

「いえ、薬無しでも現役です。アールさんの訓戒中、泣き出しそうになったことは何度もありますが、頬の内側を噛んで堪えました。大の男が説教で泣いたら、さすがに、みっともないでしょう?」

「えー、エス君はそういう対応だったのお?」

「その件に関しては俺のほうが一般的な対応だと思いますよ」

 ここで会話が途切れた。

 俺はしばらくの間、酒の棚を眺めるフリをしているマスターの背中を眺めていた。

 マスターの肩が細かく震えてる。

 考え事をしている様子だった生き仏先輩は、一息で雪国のグラスを空にして、

「――話題を変えようか?」

「そうしてください」

 俺は力強く頷いた。

「エス君は本部長か補佐のどちらかに、退職する私を引き留めろと言われたみたいだね。うーん、ナメクジ君がそれを指図すると思えない。あれは私を部署から追い出したいと考えている筈なんだ。いずれ自分の寝首をかくつもりだろう。そんな警戒心からだね。そうなると、補佐の差し金になる。あの補佐は今いる場所の居心地さえ良ければ他の物事はすべてどうでもいいという感じの風見鶏だからね。違うかな?」

 ようやく、ここで本題に入った。長かった。俺は生き仏の残留交渉を八方美人補佐から依頼された。あのクソミソ上司の指図で動くのはマジで気に食わないけど、生き仏先輩の退職の件を放っておくと、俺にまで被害が及ぶのは間違いない。依頼を引き受けるしかなかった。

「まあ、バレていますよね。言われた通り、俺はこれから先輩の退職を阻止するつもりですよ――マスター、ジンリッキーをもう一杯」

「これは見損なった。エス君は風見鶏のアゴで使われるようになったのか。昔の君はもっとずっと尖った男だったよ。抜き身のナイフのようにギラギラとね。ほんのちょっとでも気に食わないと拳を使って相手へ不満を訴える。私は君のそんな男気を買っていたのだが――」

 生き仏先輩がわざとらしい溜息を吐いた。

「それは傷つくなあ。俺はまだ錆びたナイフと言われるまで鈍っていないですよ」

 俺は笑って返した。

「うん、冗談半分だよ」

 生き仏先輩も小さく笑って、

「それでも、若い頃に比べると、エス君は丸くなった。年齢を重ねると、たいていの人間は、そうなるものだ。生まれ持った性格は生涯を通して変わらない。それでも性格にある角は――尖った部分は経年の軋轢あつれきで摩耗する。その点、アールさんは特別な女性だった。天国へ逝くまで、すべて鋭く尖ったままで――」

「先輩、補佐の意向を抜きにしてもです。定年まであの部署にいてもらえませんか。俺個人が部署にいて欲しいんですよ。もっと、ぶっちゃけて言います。先輩がいなくなると、業務の負担が俺へ一極集中して対応しきれません」

「うーん――」

 生き仏先輩は気の無い返事だけど、俺のほうは畳みかけるしかない。

「あのナメクジ野郎が本部長へ昇進してムカついているのはよくわかります。部署の同僚だって、みんな不愉快に思っていますよ。そこを何とか堪えてもらえませんか。それに、今のガタガタした状況が続けば、本部長の椅子は自然と先輩の尻の下へ転がりこんでくる筈です。本部長に昇進すれば役員の肩書だって目の前だ。おそらく取締役になるでしょう。取締役は、サラリーマンにとっての『あがり』ですよね。先輩は長年、K社グループへ多大な貢献をしてきたし犠牲だって払ってきた。『あがり』を手にする資格が十分あります。今、辞めるのは絶対に損ですよ」

「まあ、私だって人間だからね。昇進の件に関しては多少のわだかまりがあるよ。あのナメクジ君の汚い尻が、よりにもよって、アールさんのいた椅子に――?」

 これは珍しい。

 生き仏先輩が鼻で笑った。

 俺は脈ありと見て、

「そうですよ。俺は本部長の椅子へ先輩が座るべきだと思ってます。将棋さんもそう言ってたし、常務だって――」

「――でも、エス君。それは見当違いだよ。私にとって昇進云々は些末の問題なんだ」

 生き仏先輩は俺の説得を遮った。

「昇進が些末の問題なんですか?」

「うん、問題は、そっちじゃないんだよな――」

 カウンターテーブルに視線を置いた生き仏の横顔がひどく疲れている。

「そうなると、現状の仕事が忙しすぎるとかですか。それなら、俺へいつでもヘルプを要請してくださいよ。先輩は何でいつもいつも自分一人で全部背負いこもうとするんですか。俺が部下だった頃からそうだ!」

 俺の言葉尻が熱くなった。

「どうやら、私も年齢としみたいだ。マスター、とうとう元部下から叱られてしまったよ」

 力無く笑った生き仏先輩はマスターへ目を向けた。

 マスターはグラスを磨きながら少し笑うだけの返答をした。

「いや、そんなつもりでは――」

「いやいや、エス君は頼もしくなったなという話だ。私の息子と娘は何年も前に独立して、それぞれ立派にやっている。今年で妻の十三回忌だ。そろそろ、逝った妻に許して貰えると思ってね。もう一度チャレンジをしてみようと思っていた矢先だった」

「チャレンジって言うと――転職とか、起業ですか?」

「エス君は何を言ってるんだ?」

 また見当違いらしい。

 今夜の俺は外しっぱなしだ。

「違うんですか?」

「私は、アールさんへ、求婚するつもりだったんだ」

「えぇえ――」

 俺は視線を惑わせた。

「愛の告白を保留にすると死ぬまで後悔するだろう?」

「――でも、先輩は何度も何度もアールさんから拒絶されたって自分で言っていましたよね――たぶん、ですけど、けんもほろろな形で――」

 あのときはこう突き放されたとか、

 そのときはこう交わされただとか、

 一直線に「お前という異性は気持ち悪いから生理的に受け付けない」と断言されただとか。

 すごく世話になったし、尊敬もしている生き仏先輩へ過酷な失恋の遍歴を根掘り葉掘り訊くのは気が引ける。当人の性癖にマゾのきらいがあるっぽいので、もしかしたら訊くと喜ぶのかも知れないけど、俺のほうがそれを耳に入れたくないというか、知らないほうがいいというか、知りたくないというか――だよな?

 俺が次の言葉に迷っていると、

「妻に先立たれた。子供はもう手がかからない。生涯を賭けて憧れたマドンナも先に逝った。私があの部署から去るのは、これが理由なんだ。出社をしたくないんだ。私からは出社する動機が一つも無くなってしまったから――」

 生き仏先輩はうつむいて、

「――あの会社にいるのは、もう辛い」

 生き仏の横顔に目もくらむような影がよぎった。

 俺自身もその経験があるからわかる。

 この不穏な感情は、自殺願望――。

「――マスター!」

 俺は助けを呼んだ。

「はい、何でしょうか?」

 マスターが真剣な表情で頷いた。

「アールさんは、ライウィスキーのダブルも好みだったよな?」

「ええ、アールさんは機嫌が悪かったり、考え事があると、それ一本鎗でした。強い酒は悩み事の薬ですからね」

 マスターが生き仏から即身仏になりかかっている先輩へ顔を向けた。

「――マスター、次は、それを――ライウィスキーのダブルを。ロックで、もらおう」

 生き仏先輩は呻き声で注文を伝えた。

「マスター、俺にも同じものを」

 俺も注文した。

「かしこまりました」

 いつもは、ゆったり仕事をするマスターが、このとき最高速で動いてくれた。

「――エス君。これから、私のつまらなくて長い身の上話を聞いてくれるか?」

 生き仏先輩がライウィスキーのグラスを傾けた。

「ええ、聞かせてください」

 俺もライウィスキーのグラスを傾けた。

「私の両親は田んぼを山ほど持っていてね。両親が逝ってから、そこで米を作っていたのは、私の一番上の兄だった――」

 三人の兄は、それぞれ一流の大学を出て都会の企業に就職した。両親は勉強熱心ではなかった末の息子へ農業をやらせるつもりだったらしい。その末の息子――生き仏先輩は農業が嫌で故郷を逃げ出した。逃亡者の生き仏先輩にとって兄三人が働いている都会は何となく居心地が悪い。そんな理由で太平洋側の中途半端な田舎街で腰を落ち着ける決心をした。その後は本人が語った通りだ。紆余曲折あったけど、生き仏先輩は地方のサラリーマンとして身を立てた。今から十三年前、年老いた両親が揃って自動車事故で急逝したとき、両親の後を継いで農家へ転身したのは長男――一番上のお兄さんだった。そのお兄さんが最近になって脳梗塞で倒れたという。一命は取り留めたものの、元通り動けるようになるかどうかわからない。

 その一報を受けて、生き仏先輩は――。


「――一番上の兄の子供は二人とも都会の企業に勤めているから、すぐ田舎へ帰るのは難しい。他の兄弟も、みんな似たような状況でね。身内で自由が利く身なのは私だけなんだ。だから、これから私は故郷で百姓になる。米を作るんだよ。山ほどね」

 生き仏先輩は始発駅のプラットホームで大きく笑った。その笑顔に、あの目もくらむような影はもう見当たらない。バーでゆっくり話をしていたかったのだけど、先輩は電車通勤をしている。終電の時間が迫っていた。先輩は若くない。朝まで飲み明かすのは難しい。俺だって明日も明後日も仕事の付き合いがある。流す企画がことごとくガタガタしているので事業部の連中に呼び出されるのだ。最近の土日は毎週そうなってしまった。

「先輩は楽隠居しても許される年齢から、新しい仕事を始めるんですか?」

 見送りにきた俺は自分の足元を見つめていた。

 恥ずかしくて、恥ずかしくて、顔を上げることができなかった。

 どうして、こんなにも恥ずかしい気分なのかを、俺は上手く説明することができない――。

「――エス君、侮らないでくれ。私は腐っても百姓の小倅こせがれだ。兄と兄嫁も農業の指導をすると約束してくれた。何の心配もない。いやいや、これは少し違うな――私の血は、今、騒いでいる」

 生き仏先輩の宣誓と同時に終電がプラットホームへ到着した。

 うちの会社が運営する私鉄のボディカラーは赤で統一されている。

 生き仏先輩のそれ同様、たぎる血潮の色合いだ。

 今ここから、生き仏の男は馬鹿みたいに大きいサイズの赤いコンバインに乗って、北陸の秋を染める黄金の海を――稲穂の海を駆け抜ける。

 麦わら帽子の下にある、その目をできる限界まで細め――。

 俺は無理やり顔を引き上げて、

「先輩、新天地での活躍を祈っています」

「うん、エス君、ありがとう」

 生き仏先輩は終電のなかで振り返って会釈をしながら敬礼した。照れ笑いが酒で赤らんでいる。どうしようもなく恰好の悪い敬礼だ。俺は声を上げて笑った。週末の夜の駅は酔っ払いの乗客も数多い。サラリーマンのおじさん二人が酔い任せに戯れたところで、他の乗客が気にする様子はない。

 終電は北へ消え、涙で滲むプラットフォームの階段へ俺の革靴の先が向く。

「男の一大決心を止めるのは、どうやったって無理だよな――」

 古強者が、また一人、田舎ビジネスの戦場から立ち去った。

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