14

 社葬を終えた後だ。

 俺は一旦、チャトラちゃんとキジトラちゃんをマンションへ連れて帰った。うちのマンションも犬猫ペット禁止だから大家に内緒だ。ま、バレたところで事情を説明すれば、二日三日くらい大目に見てくれるだろう。エヌはチャトラちゃんを抱っこしたり、キジトラちゃんから猫パンチを浴びながら大いにはしゃいだ。彼女の実家は父親が猫アレルギーで飼うことが許されなかったという。

 さて、俺はこれから、チャトラちゃんとキジトラちゃんの引き取り先を探さないといけない。総務部の女の子たちへ相談しようかなと考えていたのだけど、ちょっと思い当たるフシがあって、先にそっちへ打診することにした。声を掛けたのは最終駅の駅長さんだ。アニメのキャラのシールを貼っつけた電車を走らせるイベントの調整会議をやったときだったと思う。会議室にやってきた最終駅の駅長さんの制帽に動物の毛らしきものがいっぱいついていた。

「駅長さん、それは猫の毛ですか?」

 俺が訊くと、

「あー、まだついてた。俺の自宅は猫屋敷なんだよ」

 年配の駅長さんは笑って応えた。その駅長さんから二つ返事でOKが出た。先方へチャトラちゃんとキジトラちゃんを引き渡すときはエヌに超泣かれた。

 ああもう面倒だなあ。

 俺だって猫ちゃんらとのお別れが寂しいんだぞ。

 泣くほどじゃないけどな――。

 そんな流れで、チャトラちゃんとキジトラちゃんは揃って最終駅の猫の駅長さんになった。今も制帽をかぶって駅員室から電車に乗り降りするひとを見守っている。最終駅から会社へ通っていたアールさんも喜んでくれるだろう。この猫の駅長さんは、女子高生や地元民の口コミで人気が出て、ローカル新聞や地方放送局のニュースにまでなった。

『双子の猫の駅長さん。急逝した上司の愛猫へ部下がイキな計らい!』

 こんな内容のニュースだ。広報が俺の部署までテレビの取材クルーや新聞の記者を連れてきた。その取材に応じたのは、何とあのナメクジ補佐だった。

 俺が部署へ戻ってみるとだ。

 役員どもの間では、アールさんが逝った日、ナメクジ補佐の指示で部下――俺が対応に奔走したということになっていた。最高責任者不在の部署を回し続けたのは生き仏先輩だったけど、それは全部ナメクジの尽力だったということにもなっていた。猫の駅長さんの一件も、ナメクジの発案だったということになっていた。広報へ根回ししたのは八方美人先輩だ。葬儀に出ずっぱりだった俺が留守にしている間、大半の時間帯で会社に残っていたナメクジと八方美人が功績をねつ造したらしい。これは部下や同僚の話で後から知った。

 猫の駅長さんの役職をこさえたところで会社の業績が目に見えて上がるわけでもない。しかし、明るいニュースを振りまくと会社のイメージアップには貢献する。K社グループは地元の評価に神経質な企業体質でもある。しかも今回は広告費が無料タダも同然だ。この一件で取締役員どもから評価されたナメクジ上司の尻は、おそらく本人念願だった経営企画本部の本部長の椅子へ収まって、ナメクジ補佐からナメクジ本部長へ昇進した。空いた本部長補佐の椅子には八方美人先輩の尻が収まって、八方美人課長代理から八方美人本部長補佐へ昇進した。俺はあの日、ナメクジ本部長を殺しかけたのだけど、殺人未遂は不問になった。ナメクジ本部長は俺の暴行を訴え出なかったのだ。八方美人補佐もその件に関しては沈黙している。その理由は一つだけだ。俺の凶行を訴え出ると役員どもへあの日の内実が露呈する。

 サイコパスは呼吸をするように嘘を吐く。

 ナメクジも八方美人も悪い意味で本物だった。俺は吐き気を覚えたけど、それを役員へ訴えることが難しい。表にある役員の窓口はナメクジ本部長と八方美人補佐が封鎖している。俺自身、殺人未遂をやらかした負い目もある。

 これは、一応だ。

 俺には役員への裏相談窓口が一つある。

 例の将棋が大好きな執行役員の老人――通称で将棋さんだ。


 §


 役員室で将棋さんが奢ってくれたのは松竹梅あるうちで松のうな重だった。近年はうなぎの稚魚が不足しているとか何とかで、すごく高価な食べ物になってしまったよね。こんなのを平日の昼間に出前で取るのだから、役員ってやっぱり贅沢な生活をしているんだろうな。

 俺は週一、二回ある将棋さんとの将棋の対局を楽しみにしているわけではないけど、苦痛にしているわけでもない。将棋さんはフランクな人柄だし、いつも馬鹿高い値段の昼飯を気前良く奢ってくれるし、シガレットホルダー(※紙巻タバコの吸い口につける道具)を使うほどの愛煙家でもある。俺もここなら煙草を吸いたい放題だ。他のフロアは核シェルターみたいな扉がついた狭い喫煙室で他の社員と肩を寄せ合って吸うしかない。

 静かな役員室で男が二人、うな重を頬張りつつ対局すると、将棋のタイトル戦みたいな雰囲気だけど、肝心のゲーム内容はショボいものだと思う。将棋さんは下手の横好きだし、俺は下手の横好きが相手なら勝ったり負けたりするくらいの腕前だ。元々はアールさんが将棋さんと対局をしながら仕事の話をしていた。一度、アールさんの都合が悪くなって代行を頼まれて以来、俺のやる仕事にすり替わってしまった。そんな感じになる。

 今日の昼休みの俺は、将棋さんの役員室のソファでうな重を食いながら、一枚板のテーブルの上の将棋盤を眺めている。

 俺はうな重を平らげて、

「確か将棋さんは人事課にいたんですよね。アールさんから課長だったと聞いていましたけど――」

「これは珍しい。エス君は私と将棋ではなくて仕事の話をしたいのかね?」

 将棋さんが将棋盤から顔を上げて、シガレットホルダーへ紙巻煙草を差し込んだ。将棋さんは早飯自慢だ。重箱は俺より先に空だった。まあ、さっさと昼めしを片づけて将棋に集中したいだけなのかも知れないね。

「ええ、たまには将棋さんと仕事の話もしておかないと――」

 俺は身を乗り出して将棋さんの煙草へオイルライターで火を点けた。そのついでに自分の煙草にも火を点けた。

 将棋さんは鼻の穴から煙草の煙を噴いて、

「エス君が私に仕事の相談かあ。人事と言ったな。そうなると、時節柄、アールちゃんの後任――ナメクジ君のことになるよね。うーん、その件に関しては、私にできることがあると思えんが――一応、エス君の話を聞くだけは聞いてみようか」

「俺の部署は全員、まだ首を捻っています。本部長の椅子は他に適任者がいますよね」

「うん。どう考えても生き仏君が適任だよね。あれの元は常務が可愛がっていた部下の一人でもあるし、仕事は申し分なくできるし、『今は』大変な人格者でもあるしでね――」

「え? それって『今は』になるんですか?」

 俺は怪訝な思いで将棋さんの顔を見つめた。

「うん、今は、だね――」

 将棋さんは難しい顔つきを崩さない。

「――まあ、今は、その話を置いておきましょうか」

 会話が途切れたので、俺は無理に話を進めた。

「生き仏先輩なら部署の長として申し分ないでしょう。アールさんに比べると性格が少々甘いのかも知れませんが――葬儀のとき、常務だって生き仏先輩の昇進を話の節々に匂わせていましたよ」

「でも、ナメクジ君は直近でちょっとした功績を上げたよね」

「猫の駅長さんの件ですか。あの程度の仕事が何故、経営企画本部の本部長みたいな重要な役職への昇進に繋がるのか、俺にはさっぱりわからんのです。ナメクジ自身も言っていましたけどね。うちの経営企画は社内の権限が異常に強い。本部長ともなると実質的にK社グループの現場最高責任者ですよ。ナメクジはこれまで、現場最高責任者としての能力が不足していると判断されて、うちの部署の窓際にいた男ですよね」

「それはね。ナメクジ君は若社長が卒業した大学の後輩だからね。アールちゃんは今の若社長が社長へ就任する前に本部長へ昇進した。あのときは会長の鶴の一声で昇進が決まってね。女だからという理由だけで昇進に反対する意見もあったから――ま、大きな声では言えないが、会長とアールちゃんの出身大学は同じなんだよね」

「何十年も働いてきた社員の昇進を判断する材料が大昔の学歴って――それは考えが稚拙すぎないですか?」

 俺は顔をしかめた。

「まあ、そう考えると笑い話だよね――」

 将棋さんは苦笑いだ。

「では、ナメクジが昇進したのは学閥人事なんですか?」

「ざっくばらんにそうなるね。うちの会社の規模だと学閥ごとに出世先のポストが振り分けられているほど厳密なものではない。それでも、あることはあるんだよ。たいていの会社員は社会人になっても学生時代のお仲間気分が抜けんものだろう。ノスタルジイというやつになるのかな。同じ大学出身の同僚をないがしろにすると、自分の経歴とノスタルジイへ泥を塗ることになる。過去の蓄積が人生だよね。誰しも自分の過去が――我が身が可愛いものだからね」

「将棋さんは執行役員ですよね。それも総務部の執行役員だ。うちの会社の場合、総務部の系列下に人事課がある」

 俺は話をしながらずっと将棋盤を眺めていた。将棋さんの戦術は穴熊だ。将棋マニアだから色々と最新の戦術を研究して導入するけれど、そのたび俺にヒネられて、結局、この一番得意な穴熊戦術へ戻ってくる。将棋さんは穴熊戦術のうちでも完成すると面倒なビッグ4の布陣を狙う駒の動きだった。対する俺はノーマル四間飛車。これは守って良し攻めて良しのスタンダードな戦術になる。俺の戦術は将棋を習い始めたときからずっとこれ一本鎗だ。そもそも俺は将棋が好きじゃないもん。相手の手筋を読んでいるうちに、脳みそのシワからじわじわ脂汗が滲み出てくるような感覚が、どうしても好きになれない。それでも、やるとなれば真剣にやる。これも俺の仕事のうちだからね。

 俺は2八にいる自分の玉の前の歩を進めた。

「一応、私は総務部の執行役員ということになっているけどね――」

 将棋さんは薄い唇をうずうずさせながら、将棋盤の端っこにいる自分の玉を手駒で囲っていく。すごく楽しそうだ。

「今からでも、将棋さんのほうからナメクジの昇進に口を挟めませんか。ナメクジは本部長に不適格です。少なくとも、アールさんの後釜が務まる器じゃない。実際、俺の部署はガタガタですよ。今日も朝から子会社のクレームで電話が鳴りっぱなしでした」

「ふぅむ。ナメクジ君がアールちゃんと出世争いしていた時分は、相当に仕事のできる男だったよ」

「それも長年の窓際暮らしで鈍っています。それに、たぶん、ナメクジが上げてきた業績のほとんどは――」

「――昔から、ナメクジ君は同僚の業績を横からかっさらうのが、お手のものだった。大方、猫の駅長さんの一件だって、他の誰かがした仕事を盗んだのだろう」

 ここで将棋さんが穴熊のビック4を完成させた。

「将棋さん、知っていたんですか?」

 俺は将棋盤から顔を上げた。

「私は長い間、人事課にいたからね」

 頷いた将棋さんが、

「エス君が入社する前の話になる。ナメクジ君の悪評を何度も聞いた。それでもね、ある程度以上の社員を抱える会社は、そういうズル賢くて要領のいい人間が出世してしまうものなんだ。ここから残酷なことを言うよ。社員は経営陣のリクエストに応え続けていればそれだけでいい。業績の良し悪しは無視される。結果に至ったプロセスも注視しない。経営陣がプロセスに存在する社員の情に絡み取られると経営は成り立たないからね。だから今回、経営陣側が望んでいた結果を一番先に上まで持ってきたナメクジ君は、やはり優秀な社員だったのだなと、そんな評価だけに落ち着いてしまったわけだ」

「確かに、アールさんも、そんな内容のことを言っていましたね――」

 俺は将棋さんの飛車に歩をつめた。歩の後ろには俺の飛車がいる。将棋さんの飛車の後ろには桂馬が控えている。

 ほーれ、交換したくなる、交換したくなる――。

「――うーん、エス君。人情的にはどうにかしてあげたいところだけどね。私は執行役員だから、役員会の発言権は無いも同然なんだ。言うなれば私は役員のなかの窓際族なんだよ。管理職の昇進は原則、取締役が決定するものだ。人事の仕事は取締役の判断に必要な資料データを提供することだけでね――この飛車の交換は応じようかねえ。これで歩を一枚得して私の桂馬が前へ進むよねえ。エス君はそれでいいのかなあ?」

 将棋さんはにんまり笑顔で飛車の交換に応じてくれた。

「やっぱり、将棋さんが動くのは難しいですか?」

「動くのが難しいは違うねえ。執行役員の私は経営に関係する決定権を持たされていないが正しい。エス君は、実質的に何の権限も持たされていない私が、こうして役員フロアで遊んでいるのを、一度も不思議に思ったことはないのかね?」

「ああ、いえ、それは、その――」

 自陣の歩に伸びていた俺の手が止まった。

「種明かしをすれば拍子抜けするだろうね。私の家内は創業者一族の身内なんだ。会長の従兄の娘になるね」

「あ――」

「出世を狙って家内をめとったわけでもないがね。家内は人事課の元同僚だ。一緒に働いているうち、いつの間にか、お互い好き合っていてね。私が還暦を迎えたときには、この役員室が用意されていた。私のほうから、これを望んだ覚えは一度だってないのだけどね――」

 将棋さんは自分の役員室を見回した。無垢材の高級家具と白いカーテンで構成された一室は職場と言うより書斎と言ったほうが近い印象だ。大きな本棚は、ビジネス書が半分、将棋の指南書が半分で埋まっていた。

「なるほど、それで人事一筋だった将棋さんが役員まで出世を――」

 俺は頷いた。一般的にはだ。人事をやる社員は出世コースから外れる。出世街道の真ん中を走るのは、外部から金になる案件をかっぱいでくる営業だとか、錬金術的な企画をこさえる社員だ。営業や企画は業務の最前線でもあるからね。もちろん、いいことばかりではない。最前線の仕事は討ち死にも多いからハイリスクハイリターンだ。本音を言うと、俺は営業とか企画を一生の仕事にしたくない。いくら給料が高くても、出世を期待できても、その道の半ばで討ち死にしたら大損だよな。

 常々そう考えていたところで、俺は忙しさにかまけて十年以上も、企画の仕事をやっているけど――。

「――うん、そうなんだ。定年後、私は地元の将棋倶楽部へ通い詰めて余生を過ごすつもりだった。年に何回か家内と旅行でもして、ご機嫌を取りながらだよね。エス君、厚生年金と老い先短い人生は、贅沢に使うものだろう?」

「えっと、それは――俺の死んだ親父も最後のほうは厚生年金で暮らしていたけど、いつもいつも余裕の無い生活でしたよ――毎日毎日、パチンコ屋へ通い詰めてですね――」

 俺は視線を惑わせた。

 将棋さんは掠れた声で長く笑った後、

「そっかあ、エス君の親父さんはパチンコが趣味で貧乏に興じていたのか。それはそれで羨ましいよ。正直なところだ。私は昔から仕事よりも将棋のほうがずっとずっと好きでねえ――」

「――はい。雇われで働く人間の大半は似たようなものだと思いますよ。この俺だって本音を言えばそんな感じですから――手持ちの飛車をこうだ」

 俺は飛車を将棋さんの穴熊に横付けした。

「エス君、その一手を受け切るのは厳しいかもねえ!」

 目を丸くした将棋さんは「おい、上役に気を使って、その手を引っ込めろ」そんな感じの態度だったけど、

「俺の彼女はもっと強いですよ」

 俺は笑い飛ばしてやった。ゲームは本気でやらないとお互い面白くない。手加減は無用だろう。

「エス君の彼女のほうが強い。それは本当かね?」

 将棋さんの目の色が変わった。仕事を語っているときの暗雲のような目つきと違う。小学生の男子のように強い輝きだ。真夏の太陽を直視しても、まだ怯まない輝きだ。

 俺は笑いながら頷いて、

「あれは本当に強いです。俺では、まるっきり敵いません」

「ほほう、エス君の彼女は女流棋士なのかね?」

「今から女流棋士を目指すのは年齢的に厳しいかな――でも、真剣師(※賭け将棋や賭け麻雀で生計を立てる勝負師)にはなれるかも知れませんよ。あれは負けると死ぬほど悔しがって腕前の研鑽を始める性格ですから。俺の彼女は連盟公認オンライン将棋の月間勝利数ランキングで十位内に入ったこともあるんですよ」

「女性が月間勝利数ランキング十位内だって――エス君の彼女がネットで使っている名前を教えてもらないかね。す、すごいよね、それは女性永世名人になりかねない逸材だよ――!」

 スマホを引っ張り出した将棋さんの手が震えている。

「えっと、ネットの名前は、あくまで彼女のプライベートで使うものですから、俺のほうからそれを伝えるのは勘弁してください。それに彼女はオンライン将棋から引退したんですよ。どこぞのネット掲示板で自分の快進撃が話題になっているのを知った途端、すごく怯えだして――」

 エヌはどんなゲームをするときも『エヌ』という自分の名前をハンドルネームに使っている。彼女はうちの会社の社員だ。身元がバレたら、将棋さんから毎日のように将棋接待へお呼ばれをされる羽目になるだろう。それをエヌは望んでいないと思うんだよなあ。

「そうかあ、それは残念だ。それでも、一手ご教授をお願いしたいものだよね――うん、悔しいが、この一局は私の詰み――ああ、いやいや、待てよ待て。ここは、封じ手にしておくか――あ、エス君、こっち見ちゃダメ。君も結構、ズルいよね。それだと、ナメクジ君を悪く言えないよ?」

 俺の顔は横を向いているけど、横目で将棋さんの封じ手を眺めていた。

 見事にバレた。

「この続きは来週ですか?」

「うん、そういうことになるね」

「それでは、今日は、これで失礼します。うな重、ごちそうになりました。こんなにも高額で旨いものを食ったのは久々ですよ」

 俺は頭を下げながらまた嘘を吐いた。エヌは贅沢が過ぎるので毎日のように高級な旨いものを食っている。最近は体重がだいぶ増えた。このままだと俺はデブリーマンになる。エヌのほうもちょっと心配だ。あれもお腹がもちもちしてきた。この前、戯れにもちもちしつつ指摘したら真っ青な顔でプルプルしてた。

 ソファから立ち上がると、

「ああ、待ちなさい。ナメクジ君の件の解決策が一つだけあったよ」

 将棋さんが俺を呼び止めた。

「おお、起死回生の一手が見つかりましたか?」

「うん、虎の子の一手が残っていた。エス君はさっさと出世して、あのナメクジ男を追い落とせ。仕事の上で真正面から奴を殺し切るんだ。生き仏君は能力があっても自身の甘い性格に足をすくわれて出世し損ねた。エス君が二の轍を踏むことはない」

 この一瞬、将棋さんが重役の気配を取り戻した。

「いえ、俺に、そんな力量は――」

 俺は口篭った。労使(※労働者と雇用者)の関係は本質的に敵対関係であるという。窓際だ仕事が嫌いだと口では言っても、やっぱり、将棋さんは重役で経営陣側のひとなんだよな――。

「――三十年以上、人事課にいたサラリーマンから言わせてもらうとね。エス君は自分がやってきた仕事を過小評価していると思うよ。これまで残した業績を見直してみなさい。すぐわかることだ」

 将棋さんが自分の煙草に火を点けて笑った。

「はあ、そうですかね――?」

 ここまでの俺はアールさんの背を追っていただけだ。次から次へ飛んでくるカミソリのような指示とエグい仕事を処理するのに精一杯で、その他のことを考えている余裕は一切無かった。それに、他人の助力で得た能力や功績を、すべて自分のものだと言い張るのは居座り強盗と同じ理屈だと思う。そんなものを男が誇ったら恥ずかしい。少なくとも、俺は誇れない。

「私から出せる知恵はこのくらいだ。力になれなくてすまないね。昼はたいていこの部屋にいるから、相談があるときはいつでも来なさい」

 将棋さんがまたふへへと笑った。

「はい。また為になる話を聞かせてください」

 俺はもう一度頭を下げて役員室を退出した。


 部署へ戻ると昼休みをとっくに過ぎていた。ナメクジ本部長はデスクにいない。ホワイトボードへ目を向けると出張の予定は無い。最近のナメクジは取締役員どもと四六時中外へ出ているから部署にいないことのほうが多い。ナメクジは部署の仕事よりも上役のご機嫌伺いのほうを熱心にやっているということだよね。

 そこらじゅうのデスクで電話が鳴り響いていた。

 アールさんが去ってから、実働に移った企画の不具合がぐんと増え、各事業部からの問い合わせも激増した。部署の仕事をチェックする上司が二人も揃っていい加減だから当然の結果だ。

 企画推進課が白旗を上げた今、俺の部署で黙示録アポカリプスが進行している。

 生き仏先輩が両肩に受話器を挟んで先方からの質問や苦情に右の耳と左の耳で対応しながら手元でスマホをいじりつつ、自分の部下に加え、企画推進課の敗残兵や元八方美人先輩の部下へも次々と指示を飛ばしていた。部署で半ば伝説になっていた生き仏の三刀流クレーム対応術だ。俺はここで初めて伝説を目撃した。無茶苦茶な働き方だと思った。

 八方美人先輩の後を継いで課長代理へ不覚にも昇進した若い同僚は、電話の呼び出し音が鳴り続ける自分のデスクへ座ったまま、プチプチ(※梱包材)を真剣な態度で潰している。近いうちに奴は精神の限界を迎えるだろう。こっちは部署で何度も何度も見てきた光景だ。

 しかし、生き仏先輩は、よくあの年齢まで過労死をせずに、精神崩壊も起こさずに生き抜いたものだよな。

 今年で五十六歳くらいだったか――。

 俺が古強者ふるつわものに感心しながら自分のデスクへ座ろうとしたところで、

「あ、エス君、エス君、ちょっと、ちょっと!」

 デスクにいた八方美人補佐から大声で呼ばれた。

 何だよ、面倒くせェな――。

「――補佐、何の用ですか?」

「これ、見て、見て!」

 八方美人補佐は白い封筒を振り回している。

「へえ、退職届だ。また部署の誰かが辞めるんですか。最近は珍しくないですよね。最近というか、この部署ってずっとそんな感じでしょ。補佐は本社で離職率二十年連続ナンバーワンの部署ってどこだか知っていますか。パンパカパーン。それはズバリ俺たちがいるこの経営企画本部です。追い込み部屋より高打率で人事課も白目を剥いています。これ全部、上司のてめェらが悪いんだぞっと――さーあ、お仕事、お仕事。おーい、メガネ。北区に新設する予定の老人ホームの企画ね。マーケティングリサーチ課へ、どんな要請を出したの。週末までにリサーチ資料は上がりそう?」

 俺は八方美人補佐へ背を向けた。背中に「ばーか!」と大きく書いた紙でも貼っておけばよかったね。

「そのリサーチなら終わりました。口頭で内容を報告しましょうか?」

 デスクにいたメガネが俺へ顔を向けた。

「へえ、それを課へ要請したのが昨日の今日で、それがもう終わったの。いーや、それは仕事が早すぎるよな――お前はまたあの課へ無理な注文を通してきたな。そうだよな?」

「――新人君。例のリサーチ資料を十部ほどプリントアウトしてくれたまえ。この後の打ち合わせに使いたい。大至急だ」

「はい、メガネ主任」

 冷血な返事をしたのは、メガネの横のデスクにいる新人ちゃんだ。フォックス型のメガネをかけて初めて顔を合わせたときから今の今までニコリともしない女の子だ。仕事熱心でメガネとは息がぴったり合う。それで主任へ昇進したメガネのサポートを担当させている。

「メガネ、上司への返事がまだないんだけどな。お前がイジメた課へ頭を下げ倒すのは、この俺だぞ。何でお前はいつもいつも勝手な判断でそういうことをやっちゃうの。他のみんなが仕事をやり辛くなるだろ。企画推進課のタスクを倍増させてぶっ壊したのはお前だっていう噂もちらほら聞いたんだけど――おーい、上司の話をちゃんと聞けよ、おーいっ!」

 耳元で喚いてやったけど、メガネに無視された。

「おい、エス君、僕だって君の上司だぞ。話をちゃんと聞いてくれよ!」

 八方美人補佐がうるさい。

「いや、なんちゃって管理職の俺に社員の進退問題を相談されても――そもそも、それは職業選択の自由ですよ。義務教育で教えられるほど有名な権利の行使です。退職届を提出された時点で、もう打つ手はありません。退職届を破り捨てて受理してやらねェぞと言い張ったところで、えーと、民法だったかな――とにかく、法律の規定で二週間後、会社の契約だと一か月後に当の本人が出社してこなければ、そこで会社側ができることは何もありません。俺と補佐の話はこれで終わり。あんたとは、もう二度と話をしたくねェ――おい、メガネ、逃げるんじゃねェ。戻ってこい、こらっ!」

 メガネに逃げられた。新人ちゃんと不動産事業部へ打ち合わせに行くらしい。ホワイトボードに目を向けたらそう書き加えてあった。さっきは予定になかったぞ。あのクソメガネコンビめ――。

「僕は君の上司。これ上司命令。エス君、僕の話を聞けえ!」

 八方美人補佐がまたうるさい。

 俺が向き直ると、八方美人補佐は耳を貸せみたいなジェスチャーをやっていた。

「こいつと内緒話とか本当に気持ちが悪いなあ――」

 嫌々の気分で腰を曲げて補佐の口へ耳を寄せると、

「エス君、この退職届は生き仏先輩のものだ――!」

「た、たあっ、例えそうだとしても、当人の意志が尊重されるべきで――」

 こう言ったけど、俺も自分の心音が自分の耳で聞こえそうなほど焦った。それは最悪にマズイいだろ。生き仏先輩はガッタガタになった部署を支えている大黒柱だよ。いつ過労でぶっ倒れても不思議じゃない柱だけどね。

「全体の非常事態中に一個人の自由意思は尊重できなぁいっ!」

「つっ! 耳元で怒鳴りやがって――!」

「エス君だってわかっているだろ。今、生き仏先輩に抜けられたら、この部署は壊滅だ!」

「俺はそれをやりたくありません」

「僕はまだ何も言ってないだろうっ!」

「補佐は俺へ何をどうしろと言いたいのですか?」

 最終的には俺のほうから嫌々訊いた。

 補佐が何をさせたいのかは察しがついている。

 この、クソミソ上司野郎がよ――。

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