13
アールさんは取締役員ではなかった。その辞令は何年も前にあった。当の本人が辞令を突っぱねたらしい。辞令を突っぱねる社員なんて初めて聞いた。できるのかそんなこと。通夜の席で葬儀委員長――喪主を務める常務から話を聞くと「還暦まで現場にいたい」そんなアールさんの意思が尊重されたとのことだった。アールさんの社葬が大きなレンタルホールではなくて本人の自宅で執り行われることになったのは「ここまで会社に多大な貢献をした社員ではあるが、あくまで彼女は取締役員ではなかったから」そんな社長の意向があったからだとかだ。語る言葉のニュアンスを聞いていると、どうも、常務は今の社長が気に食わないように思える。
「役員フロアで、また一緒に仕事ができると思っていたのになあ。まさか、若いアールちゃんが老いぼれたわしより先に――」
常務はアールさんの棺桶の近くに座ったまま、めそめそ泣いていた。この常務は元経営企画本部の本部長だったという。アールさんはそのときから今まで常務の懐刀だった。その昔は、ものすごい美人でもあったらしい。それは俺も例の写真で知った。
常務やアールさんが若かった頃は日本経済がブイブイ言わしていた。誰もかれもが毎年毎年昇給して、生活を支える科学技術も目まぐるしく進歩していた時代だった。今日よりも明日は必ず状況が上を向いている。そんな時代で戦ったサラリーマンたちは、労働者諸君は、経済戦争敗戦後の時代を生きる俺たちとは仕事に対する意欲がまったく違っていたのだろう。二次大戦後の日本の
§
葬式当日の朝に判明した。
アールさんには身寄りが一人いた。弟さんだ。一応は喪服姿だけど、見るからにガラの悪い男二人――手下Aと手下Bを引きつれて斎場へやってきた弟さんは、除き窓からアールさんの死に顔を一瞥すると、その場で大胡坐をかいた。
「あのう、そのう――粗茶ですが、よろしかったらどうぞ――」
総務部の若い女の子がおっかなびっくりの態度でお茶を出した。
「灰皿」
弟さんは煙草をくわえた。
「あ、はい?」
きょとんと総務の女の子が返すと、
「は・い・ざ・ら。灰皿だよ。田舎会社の受付嬢は気が利かねえな――」
手下Aの手で煙草に火を点けさせた弟さんを、総務部の連中と葬儀屋の連中が遠巻きに囲んでいる。
「若先生、お手数ですが、お願いします」
常務が声を掛けると、沈黙した喪服の円から男が一人進み出た。
こざっぱりとした顔が白く喪服に生える若者だ。
若者は弟さんと灰皿の前で正座をすると、
「貴方が故人の――アールさんの弟さんですか?」
「おうよ、この俺がそこの棺桶に入ってる姉貴の弟だ」
「この度は、ご愁傷様でした。私は故人から代理人に指名されている、こういう者です――」
若者は両手で自分の名刺を差し出して、
「――ふーん、あっそ。田舎の弁護士先生ねえ。俺はこういうモンだ。ま、片田舎でシノいでる弁護士先生は花の都にある会社の名前なんてご存知ねえかなあ?」
弟さんは片手で自分の名刺を突き付けた。
「T興業の代表取締役さん、ですか――」
若者――弁護士の若先生は弟さんのスーツの左胸を見やって目を細めた。バッジがついている。弟さんの言葉通りなら社章のバッジだ。本当は組の代紋のバッジだろう。これはヤクザの証だ。弁護士の若先生もスーツの左胸に
「そうだよ、俺がT興業の代表だ。俺の会社はジャリタレ(※砂利+タレント。若年層の芸能人の蔑称)の派遣なんかを主にやっていてな――ま、お互い時間が惜しいだろ。これ以上の無駄話は無しで頼むぜ。義理のお袋も俺の親父もとうの昔にあの世へ逝ったし、姉貴には配偶者も子供もいない。そうなると一人残った肉親――弟の俺が姉貴の遺産の相続人だよな。手始めに姉貴の実印と身分証明書関係を寄越せ。次は家と土地の登記済証とその関係の書類、現金も通帳も保険絡みも、金目のモン洗いざらい全部だ。名義変更の手続きは俺の会社のほうでやってやる。手数料は取らないぜ。面倒なお役所の手続きをこっちでやるのは俺のサービスになる。そこらは俺に感謝をしてくれや」
「ええ、弟さん。私がこちらの斎場へ出向いたのは、遺産相続のお話をするためなんですよ」
「おぉう、この弁護士の若先生は話が早い! それ、いいことだぜ。俺は若い頃から気が短くて短くてなあ。自分でも嫌になるんだが今でもそうだ――ちっと俺は家と土地を見て回ってくるから、それまでに出せるモンは出しておいてくれよ」
弟さんは膝をぱんと叩いて立ち上がった。
「待ってください。まだ、こちらの話が終わっていません」
弟さんは弁護士の若先生を無視して、乱暴に扉を開けたり閉めたり、軒先から庭を眺め回したりしながら、
「姉貴は一応、偉い役職にいた――なんだったか。企画部の部長だったか? とにかく、姉貴のいた田舎会社の連中からそんな話を聞いたけどな。それがおっ
「そうっすね、手間賃にはなりそうですね、代表」
「そうっすね、手間賃くらいにはなりそうですね、代表」
座ったまま手下Aと手下Bが頷いた。
「そうですね、故人の遺言が無かった場合は、弟さんに故人の全財産を相続する権利がありましたね」
座ったまま弁護士の若先生も頷いた。
「――おい、弁護士の若先生よ。今、聞き捨てならねえことを言ったよな。一晩こっきりで、しかも、誰にも看取られず死んだ姉貴に遺言があるだと?」
弟さんが弁護士の若先生の前でまた大胡坐をかいた。
「ええ、故人の遺言で遺産は慈善事業団体へすべて寄付することになっております。こちらが公正証書遺言の写しです。弟さん、ここで内容を確認してください」
弁護士の若先生が鞄から公正証書遺言の写しを取り出して弟さんの前に置いた。
「おおーっ!」
喪服の観衆が揃って低い歓声を上げた。
俺は声を出さずに笑った。
死せる孔明、生けるヤクザを走らす、だよな。
「あの女、公正役場の遺言書を作ってあったのかっ!」
遺言を手に取った弟さんの顔が真っ赤になった。公正役場を通した遺言書には、ヤクザも顔を赤らめるほどの強力な法執行力があるということだ。
「それは
弁護士の若先生は遺言を引き裂く弟さんを淡々と眺めていた。
「――あのなあ、田舎弁護士の若先生よ。義理のお袋の連れ子だった姉貴に学費を出したのは俺の親父だ。こうなると、あの女へ大枚の投資をした親父の一人息子へ何の見返りもねえって話になる。田舎の弁護士は物事のスジと人情ってえものがわからないのか。一人残った身内へ車代の一つも出すつもりがねえってのか。おい、そこはどうなんだっ!」
弟さんが金色の指輪を並べた拳で床をドンッとやった。
これぞ、本職がする本物のイキリドン太郎だ。
士業の若者は、イキリドン太郎風情に動じない。
「おっしゃる通り、私ども弁護士は物事のスジも人情を持ち合わせておりません。持ち合わせているのは依頼者への義務と法律の知識です。公正証書遺言が作成された時点で弟さんの相続権は失効しています。兄弟姉妹に遺留分(※相続人が故人の遺産へ最低限請求できる相続分)を請求する権利はありません。ですから、弟さんが故人から相続できる財産は何も無いということになります」
「するってえと、てめえは花の都から、このど田舎まですっ飛んできた俺へ、まるっきり無駄足でございましたねえと言いてえのか?」
「ええ、遺産相続の件に関しては無駄足に終わったようですね。故人の遺産はすべて私どもの事務所の管理下にあります。弟さんは故人の自宅の万年筆一本も持っていくことができません。それを無理にした時点で刑事事件として取り扱われるでしょう。これで、私の話は終わりです。貴方の話も終わりです。これから、弟さんは故人を丁重に弔ってやってください。それが一人残された身内のスジと人情というものですよね」
弁護士の若先生の言葉尻が皮肉っぽくなった。人情などはないと自分で言っていたけど、さすがにイラついてきたらしい。
俺もイラついている。
「この田舎弁護士野郎、
ここで、とうとう弟さんがヤクザの本性を現した。仁義だ任侠だとイキりたったところで結局は他人の金が無償で欲しい怠け者の貧乏人。これがあらゆるヤクザ者に共通する正体だ。俺の死んだ親父方の近い親戚筋はこの手のクズが多いからよく知ってる。俺のDNAも半分くらいそんな感じだよ。
「やっちゃいますか、代表!」
「やっちゃいましょう、代表!」
手下Aと手下Bが片膝を立てた。
「おいおい、てめえら、弁護士先生に暴力を振るうのはやめておけ、後々が面倒だぞ――とかなあ。俺が必死で止めてもなあ。弱ったことに、こいつら二人は勝手に後をついてきた赤の他人なんだよ。おい、てめえら、そうだよなあ?」
「はい。俺は代表と何ら関係がない赤の他人です。自分の意思でここにきました」
「はい。右に同じです。俺は代表と何ら関係がない赤の他人です。自分の意思でここにいます」
「おう、よく聞こえただろ。こいつらは俺の会社の社員じゃねえ。親兄弟でもねえ。義理の兄弟分でもないんだぜ。その赤の他人が自分の意思で行動を起こすのを、俺のほうとしては、これ以上、止めようがねえからなあ。こいつは俺のうろ覚えなんだがよ。法律ってえのは確かそうなっているよなあ――おい、田舎弁護士。ここまでおちょくられるとな、こっちだって銭金だけの問題じゃなくなってくるんだぜ。だからなあ、姉貴の遺産の行き先へちらあっとこっちの話を通してくれるとかな、そこらへんを、ちょっとばかり考え直してくれる気持ちになってはこねえかなあ?」
弟さんはヤクザの顔で笑った。
「弟さんは私を恐喝しているようですね」
弁護士の若先生は内ポケットからボイスレコーダーを引き抜いた。
白い眉間が吹雪いている。
「そ、そんなこと、俺は一度もやってねえだろ――」
弟さんの腰が引けたところで、
「ちょっと、ちょっと、弟さん。そろそろ参列者が来る時間ですから――」
「故人の前ですよ。その話は一旦、終わりにしてくれませんか――」
ここぞとばかり勇敢な総務部の男二人が割って入った。腹いせに暴れて祭壇をめちゃくちゃにすることくらい平気でやりそうな連中だ。社葬を取り仕切る総務部の連中は、やきもきしているようだった。
「家庭の問題に他人が口を挟むんじゃねえ!」
弟さんが総務部のヒョロガリ君のほうを突き飛ばした。もう片方はとんでもないデブなので突き飛ばしたところで動きそうにない。
「あ、これ暴力だ。これって暴力だよね?」
尻もちをついた総務のヒョロガリ君がきょろきょろして同意を求めた。
総務部の連中は黙ったまま頷いた。
俺も頷いた。
「――うあぁあっ! 僕はたった今、このヤクザから暴力を振るわれたぞおぉおっ!」
総務部のヒョロガリ君が向こう脛を両手で抑えて床を転げまわった。ちょっとしたファウルで死ぬほど痛がるサッカー選手みたいな感じだった。
「若先生の話は済んだ。そいつらを斎場から追い出せっ!」
常務が吠えた。
「常務、本当に手荒な真似をしていいんですか。このひとは一応、アールさんの身内の方ですが――?」
激高する常務へすっと身を寄せたのは総務部長だ。
「喪主はこのわしだ。追い出せっ!」
常務の決意は変わらなかった。
「弟さん、聞こえましたよね、すぐここから出て行ってください!」
「弟さんは葬儀の迷惑です!」
今度は総務部の若い女の子二人が弟さんと弁護士の若先生の間へ割って入った。
若い女の子から上から目線で意見されるとヤクザはすぐキレる。
「うるせえ、このスベタどもが!」
ほら、キレた。
弟さんは総務部の女の子二人の肩を続けて小突いた。
「きゃああっ!」
「いやああっ!」
それだけで女の子は二人とも大袈裟な悲鳴を上げて床に倒れ込んだ。どっちがヤクザなんだかわからないほど手慣れた様子だ。
「この野郎、
総務部長が突撃して弟さんの胸倉を掴んだ。修羅場で背中を見せないと部下はついてこない。この小太りの総務部長は社畜の鏡と言っていいだろう。ドスか何かで突き殺されたら大損なのにね。よくやるよね。
「応っ!」
総務部の男衆が続いて掴みかかった。弟さんと手下Aと手下Bは抵抗を始めた。殴り合いとまではいかない。弟さんたちは斎場に居残って嫌がらせをする作戦に変更したようだ。超険悪なムードでやるおしくらまんじゅうみたいな感じになった。押されて泣く奴はまだいないけど、刺されて泣く奴は出るかも知れないね。
「あーあ、大騒ぎだ。ほれ、金髪とデブも手を貸してやれよ」
俺が声を掛けると、
「うっス!」
「おっしゃ!」
「ウチに任せときなっ!」
俺の後ろでうずうずしていた様子の金髪とデブとヤン子が飛び出した。
「あ、ヤン子はいいから。女の子がそういうことをしちゃダメ」
俺はヤン子の背中を抱き止めた。猪突猛進する猪の背へタックルを決めたような感じだった。俺は軽々と引きずられている。このまま無抵抗はマズいよな。俺は刃物がでるかも知れないおしくらまんじゅうに参加したくない――。
「――くふぅ――どっ、どこを掴んでんだよ、課長代理はっ!」
非常手段に訴えるとヤン子の力が抜けた。挨拶代わりにお尻を触ったり、何となくの気分でおっぱいをモミモミしても本気で怒らないのがヤン子の最大の長所だ。怒ったフリはする。そこがまたいい。興奮する。これはあくまで俺がやるとだ。他の男が同じことをやったらどうなるかは知らん。その場で殺されるかも知れない。近くでチマ子が俺と俺の腕のなかでくねくねするヤン子を見つめている。不気味なほど無表情だ。
あー、普段は、こいつの目を盗んでやっているコミュニケーションだからね――。
「――うん。チマ子がヤン子を捕まえておいて」
俺はヤン子をチマ子へ引き渡した。
「えー、ヤン子ちゃんは、すごく力が強いし、女の子の私一人じゃとても無理ですよぅ」
チマ子はヤン子が女の子じゃないような発言をした。ヤン子は至近距離でチマ子を睨み始めた。チマ子は益々怯えている。
「チマ子、一人でやるのが無理な仕事はすぐ他人の手を借りなさい。時間の無駄だから」
俺は上司らしいアドバイスをした。
「あ、総務部の女の子たちはちょっと手を貸してくれる?」
チマ子が声を掛けると、祭壇を守っていた総務の女の子の何人かが、ヤン子を取り押さえた。暴れていた弟さんは、どうにか常務に掴みかかったところで、ぽいんと庭へ投げ飛ばされた。葬儀の都合で窓を外してあるので何も壊れない。被害は庭に並んだパイプ椅子がいくつか倒れたくらいだった。
「このジジイ――誰を相手に喧嘩をしているのかわかってるのかっ!」
「ジジイではない。わしはK社グループの常務だ。喧嘩ならいつでも受けて立つ」
常務は軒先から大見得を切った。この総入れ歯の爺さんは合気道か何かの古武術を健康のために嗜んでいるらしい。弟さんを投げ飛ばした様子がそんな感じだった。
「うっス、うっス――!」
金髪は庭先でシャドーボクシングをやっている。こいつは低い身長が理由で相手から舐められるのは嫌だと言い張って、学生時代からボクシングジムに通っているような奴だ。それでも金髪は堅気だから顔は殴らなかった。ボディを徹底的に攻められた手下Aは腹をかかえて丸まっている。
「まだ、やるつもりか、このサンピンヤクザ野郎どもっ!」
吠えたデブに庭まで投げ飛ばされた手下Bの喪服が派手に破れていた。このデブは今でも休日は地元の高校だとか大学の道場へ講師として駆けつける稽古熱心な奴だから、素手で取っ組み合いをすると、たいていの人間は敵わない。
「仲良くしている弁護士先生を通して訴えてやる。友人がいる出版社と、テレビ屋のプロデューサーをやっている知人にも垂れ込んでやる。もうてめえらの会社がまともに商売をできると思うなよっ!」
弟さんは友人知人頼みの捨て台詞と一緒に背を向けた。手下Aと手下Bはよろよろ上司の後ろをついていく。
俺たちは表まで出て彼らを見送った。
「あいつら歩いて最終駅へ向かったぞ」
俺は呟いた。
「喧嘩をしたうちの会社の電車を使って帰るんスか?」
金髪がシャドーボクシングをやめた。
「いくら落ちぶれても、ああまではなりたくねえよなあ――」
デブがうなだれた。
他の同僚は無言だった。
戦いの後はいつだって空しいものだ――。
「――くっそ、もう喧嘩は終わったのかよ。つっまんねーの!」
ヤン子がチマ子と総務部の女の子の何人かを引きずったまま表へ出てきた。信じられないパワーだ。金髪とデブがドン引きしている。俺だってドン引きだ。
「ヤン子ちゃんは、そういうことを言わないのっ!」
チマ子がヤン子を叱りつけた。
「常務、うちの会社を訴えてやるとか言っていましたけど」
俺は常務へ話を振った。
「自分の身内の葬式に金をムシりにくるような貧乏ヤクザが、うちの顧問の弁護士事務所と法律で喧嘩ができるわけなかろ。そもそも、あの弟はアールちゃんと血が繋がっているかどうかだって怪しいものだ。わしはずっとアールちゃんの身の上が不憫でな。あの
常務は肩と視線を落として祭壇のある部屋へ戻っていった。
「はい――」
俺も視線を落とした。アールさんは会社にとって超一等級の人材だった。東の都の超一流大学の卒業生でもある。たぶん、実家も東の都にあるのだろう。そういうひとが今まで片田舎の企業で働いていたということは、ヤクザな身内と距離を置いて生きたかったからに違いない。アールさんがここまで取締役員の辞令を断っていたのも、この件が関係していると思う。あるていどの規模の会社になると役員への昇進が経済紙で報じられたりする。取締役は社会的な地位が高いし、公的な書類へ個人の連絡先を記載する義務も背負わされる。それをかぎつけて、あの弟さんが金をムシり取りにきても不思議ではない。
俺が空しい気分のまま祭壇の部屋へ戻ると、
「朝早くから、ご足労様でした。わしのところの総務部が余計な連絡をしたばっかりに手を煩わせて本当に申し訳ない。この通りだ――」
常務が床に手をついて弁護士の若先生へ頭を下げていた。その横で総務部長もへこへこ頭を下げている。この様子を見ると、総務部長が例の弟さんと電話で話をしているうちに面倒事の気配を察知して葬儀委員長――常務へ相談、相談を受けた常務は保険で弁護士の若先生を斎場へ呼び寄せた、こんな流れになるのだろう。ホウレンソウも侮れないものだよね。
「これが私の仕事ですから気にしないでください。むしろ今回は楽をさせてもらいました。喫茶店で先方とトラブルになると、警察に通報をしてくれるひとはいても、手までは貸してくれませんからね」
「粗茶ですけど、良かったらどうぞ!」
総務の女の子の一人が正座のまま滑り込むような感じで弁護士の若先生へお茶を出した。常務と総務部長のほうは顔も向けずに黙ってお茶を置いた。常務も総務部長も不服そうだけど総務部の女の子がそれを気にしている様子は無い。お茶を出す競争に負けたらしい総務部の女の子の一団が廊下から恨みがましい目つきでこちらの様子を窺っている。
弁護士の若先生は涼やかに微笑んで、
「有難く頂きます。やはり、これは喫茶店でやるより仕事が楽ですね」
「あのう、あのう! 弁護士の若先生の手に結婚指輪が見当たりませんけど、もしかして、まだ、ご結婚をなされていな――」
総務部の女の子の頬にパアアと赤みが差した。
「――あのう、弁護士の若先生、ちょっと質問をしていいですか?」
俺は腰を屈めて話に割り込んだ。婚活を邪魔された総務の女の子が俺を厳しく睨んでいるけど気にしない。若くて凛々しいパワーエリートを前に高ぶる婚活意欲はわからんでもないけど、お前は時と場所をわきまえろ。常務も総務部長もお茶を飲みながら無言で頷いた。
弁護士の若先生は茶碗を茶托(※コースター)へ戻して、
「あ、また反社会勢力の――今度は若頭あたりですかね。公正証書遺言の写しは――ああ、さっき破かれちゃったな。それでは口頭で説明をさせていただきます。若頭さん、故人の遺言の内容は――」
「それ違います。自分の女が選んでくるスーツは、いつもいつもそんな感じのデザインなんで――あ、自分は故人の部下をやっていた――」
俺は両膝を落として自分の名刺を突き出した。
「肩書はK社グループの課長代理さん、ですか――あ、エスさんは専業の若頭さんではなくて兼業の若頭さんなんですね。そうなると、さっき追い払ったチンピラは敵対勢力側の――これは早とちりをして申し訳ない。この度は、ご愁傷様でした。私は御社の企業法務を請け負っている弁護士事務所の――」
弁護士の若先生も自分の名刺を返してくれた。
しかし、この若先生は、どうしても俺を反社会勢力側の人間だということにしたいようだけど――。
気にせず話を進める。
身の内から滲み出る、うらぶれた気配というものは口先だけで誤魔化し切れないものがあるからね。
「所属は弁護士事務所。先生の事務所は、うちの会社の専属になるんですか? そういう仕事をする弁護士を企業法務弁護士と言いましたよね」
「いえ、専属とまではいきません。私どもの事務所は御社の法務部の外注先。そのくらいの立ち位置になります。そのご縁で遺言書を作成して今日まで預かっておりました」
「そうなると、アールさんの遺産の処分は先生ご自身が担当を?」
「ええ、私が担当する予定ですよ」
「ふみー、ふみー、ふみみー」
「ふみゃあ、ふみゃあ」
「それで、こいつらのことなんですが――」
俺は左右からすり寄ってきたチャトラちゃんとキジトラちゃんを右の腕と左の腕で抱き上げた。
「猫ちゃんが二匹。両方とも人懐っこい美人ですね」
弁護士の若先生は身を乗り出してチャトラちゃんとキジトラちゃんを眺めている。
「そうです、人懐っこい美人です。両方とも雄なんですけどね――こら、じっとしていなさい」
チャトラちゃんは俺の顔をふんふんぺろぺろして、キジトラちゃんは俺のネクタイへ猫パンチをくれている。
「これで、両方とも雄なんですか?」
「ええ、両方とも、ふぐりがついてますよ」
チャトラちゃんとキジトラちゃんを仰向けにして見せた。
「ほんとうだ。これは、なかなか立派なふぐりですね」
「それで、ですね。この猫ちゃん二匹は、アールさんの――故人の飼い猫だったんですよ。確か、ペットも財産のうちに入るんでしょう。そうなると、こいつらも慈善事業団体へ寄付されちゃうんですか?」
「エスさんは、よくご存知ですね。民法でも刑法でも、ペットは個人が私有する物品と定義されています。ですから、厳密に言えば、ペットだって遺産になるのでしょうが――ただ、猫ちゃんはナマモノの物品ですからね。ナマモノを寄付だと言い張って先方へ送りつけても困惑するでしょう。換金するにしても――見たところ、ごく普通の猫ちゃん二匹だし――」
弁護士の若先生の発言が、チャトラちゃんとキジトラちゃんを見つめたまま止まった。
「先生、こいつらの引き取り先を、俺のほうで探しても問題は無いでしょうか?」
「ええ、それでいいでしょう。いえ、私のほうからも、エスさんへお願いできますか?」
「任せてください」
俺は頷いた。
弁護士の若先生も笑顔で頷いた。
通夜も参列者は多かったのだけど、葬式も東から西から地元からお偉いさんの参列者が来るわ来るわだ。受付をやる総務部の女の子がてんやわんやしていた。生前のアールさんは男性のファンが多かったらしい。西の都の大企業の営業本部長――例の魚釣りが大好きで下品な関西弁を駆使するデブ親父だ――その彼までやってきて棺の前で泣き喚いていた。アールさんは、これまで言い寄ってきた男を、ことごとく袖にしてきたのだろう。たぶん、うちの常務も袖にされた側だと思う。こういうのを罪作りな女というけれど、アールさんに罪は無い。一つだって無い筈だ。
俺は焼き場で最後のお別れをしたとき、例の写真をアールさんの棺へ忍ばせた。この写真はアールさんが天国まで持っていくべきものだ。もちろん、アールさんは天国へ行くに決まってる。あの罪深い遠縁のおじさんが、そっちでアールさんは待っているかどうかはわからない。閻魔様が女たらしへ地獄行きの判決を下したかも知れないからね。でも、できるなら、天国のほうでアールさんを待っていて欲しいものだ。
平日に行われた社葬の参列者は、スマホの呼び鈴を鳴らしっぱなしだったし、口から出るのは仕事の話ばかりだった。名刺の交換もおおっぴらにやっていた。通して俗世の話題で賑やかな葬式だ。これは葬式のマナー違反ではあるらしい。
でも、俺は、これでいいだろうと思った。
きっと、アールさんは嫌な顔を一つだって、しないだろうから――。
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