12
本社ビルに横付けされている立体駐車場だ。
「金髪、デブ、さっさと乗れ」
俺が営業車のドアを開けると、
「パイセン、早く乗るっス!」
金髪が先に運転席へ飛び込んで叫んだ。
「何を勘違いしてやがる。てめェは助手席だ、馬鹿野郎!」
金髪をどすどす蹴っとばして助手席へ動かした。
「うわあっ! やっぱり、また、左足でブレーキを使う(※ラリーカーレースで使われる運転技術)、あのアナーキーなパイセンの運転なんスかあっ!」
金髪は泣きそうだ。
「南無三!」
デブは後部座席で段ボール箱の間へ、でかい尻をねじ込んだ。
「シートベルトをしろ」
俺は言ったのと同時にアクセルを踏み抜いた。営業車は立体駐車場のなかで何回かケツを振って、公道へ出たところでスピンしそうになった。タイヤが減っていやがるな。
かまうものか。
アールさんの自宅は会社で運営している電車の最終駅の北にある。普通乗用車でおおむね一時間半の道のりだ。二十分でパトカーを引き連れずにアールさんの自宅へ到着した。商用車は市販車よりボディ剛性が頑強で、荷を積む前提の足回りは硬い。乗り心地はイマイチだけど案外とよく走る。アールさんの自宅は、低い山の麓にある辺鄙な土地に突っ立った、平屋建ての一軒家だった。敷地に営業車を乗り入れた。庭は箱型の花壇がたくさんあって、そこに青と赤のサルビアが咲いている。窓はすべて雨戸で覆われていた。
引き戸の玄関口で男が一人うろちょろしている。
ドクターコートを着て往診鞄を手からぶら下げた老人――。
「――アールさんのかかりつけ医の方ですか!」
俺は運転席から飛び出て声を掛けた。
「うん。おれはそのかかりつけ医なんだが、玄関の鍵がかかっていてなあ――鉢植えの下だとか郵便受けに家の鍵がないか探してるんだよなあ――呼び鈴を鳴らしても、大声で呼びかけても応答が無いんだよ。アールちゃん、一人暮らしだったからなあ。これはちょっと嫌な予感がするんだよなあ――」
医者の先生が近くの植木鉢をひっくり返した。そこにいたのはダンゴムシだ。家の鍵は無い。
「デブ、裏口の様子を見てきてくれ」
俺は玄関に手をかけてガタガタやった。古い家だけど引き戸は新しい。リフォームで付け替えたもののようだ。アルミ製で分厚く重い。素手で壊すのは難しいだろう。デブが家の裏手まで走ってすぐ戻ってきた。
「駄目だ。裏口も鍵がかかってたぜ。そっちの周辺に家の鍵を置いてある気配もねえっ!」
「ふみー、ふみー!」
「ふみゃあみゃあ、ふみゃあみゃあ!」
引き戸の向こう側から鳴き声がする。
「アールさん、猫を飼ってたんスねぇえ――」
庭の端っこでゲロを吐いていた金髪がふらふら戻ってきた。
「――これは餌を欲しがっている鳴き声だ」
アールさん飼い猫ちゃんたちは今朝の餌をもらっていないらしい。
考えられる可能性はこの三つくらいか。
飼い主が家にいない。
飼い主が寝過ごしている。
飼い主が起床できない状況下にある。
「課長代理は猫の言葉がわかるのかよお?」
俺は怪訝な顔のデブを無視して、
「金髪とデブは表の雨戸を外してくれ」
「了解っス!」
「おう、ここは強行突破だよな!」
「おいおい、君たち、
医者の先生が目を丸くした。
「必要なら後で家主に弁償しますよ――AEDだ。デブ、使えるな?」
「任せとけ!」
俺が営業車から持ってきたのは、軍手とダクトテープと緊急脱出用ハンマー(※強化ガラスを割るための専用金槌)、それに、
「なるほどなあ。君らの商売は空き巣狙いだったのかあ――」
医者の先生が何度も頷いた。
「金髪、医者の先生に名刺を渡しておけ」
俺はガラス戸に丸く空いた穴から手を突っ込んで内鍵を外した。
「あ、うっス。俺らはこういうものっス」
「あー、君らはアールちゃんの会社の――」
「アールさんっ!」
俺は土足でアールさんの自宅へ上がり込んだ。
「アールさんっ!」
続いてデブだ。
「アールさんっ!」
次に金髪。
「アールさん――」
北の奥の小部屋だ。
アールさんは布団のなかにいた。
まだ眠っているような様子だった。
でも、これだけバタバタやっても覚めないほど深い眠りって――。
「――先生、北の奥の部屋だ。アールさんを診てやってくれっ!」
部屋の出入口で強張った俺の横を医者の先生がシュッと抜けて、
「おぅいっ、アールちゃん、アールちゃんっ!」
医者の先生はアールさんの耳元で怒鳴った。
アールさんは目を開けない。
「先生、救命処置ならデブを使うっス!」
「おう、道場で何度もやったからな、自信はあるぜっ!」
「待て、ここは、その道のプロに任せておくんだ!」
俺は金髪とデブを抱え込むようにして食い止めた。
先生は聴診器を外して、ペンライトを胸ポケットへ戻すと、自分の腕時計へ目を向けて、
「――呼吸、心音、瞳孔の対抗反射、すべて無し。これは救命処置をしても無駄だろうなあ。時刻は――午前九時四十七分」
「無駄、ですか――?」
俺は呻いた。
「アールちゃんは、ご臨終だ」
医者の先生は、アールさんの死に顔へ頷いて見せた。
「ファックゥ――!」
「マジかよお――!」
金髪とデブがへなへなと崩れ落ちた。
「アールさん、アールさんっ!」
俺はアールさんの枕元に飛びついて呼び掛けた。
返事は無い――。
「――とりあえず、靴は脱いでおこう」
俺は言った。みんなで玄関に行って靴を並べた。玄関収納の上に猫ちゃんのキーホルダーがついた鍵があった。これが家の鍵だろう。金髪とデブが残った雨戸を開けて回った。何となくの行動だ。陽が昇っているのに雨戸が閉まった家へアールさんの亡骸を置いておくのは忍びない。そうだよな。俺もそう思って雨戸を開けた。
秋の陽射しで明るくなった家のなかで、アールさんの亡骸の枕元を囲んで座った。
「――君たちの責任者は誰になるのかなあ?」
医者の先生が最初に口を開いた。
「俺はエスと言います。アールさん直属の部下でした」
「君はエス君というのか。エス君、アールちゃんの死因は急性心不全になる。これはヤブ医者の大雑把な診立てだがね」
「いつもと変わらない様子で就寝したのに、朝になっても起きてこない――そんな感じになるんですか?」
「まさしく、それなんだよなあ。中高年になるとなあ、この逝き方が結構あるんだよ」
医者の先生が往診鞄から白い布を取り出した。アールさんの死に顔が隠れる。死者に手慣れた様子だけど、事務的な対応ではない。年齢を見ると、大ベテランのお医者さんだ。きっと、患者をたくさん看取ってきたのだろう。
「誰かと一緒に暮らしていれば、アールさん、助かったんスかね――」
金髪が呟いた。
「一緒に暮らしていたのが猫二匹じゃなあ。猫の手も借りたいとは言うけどよお――」
デブが廊下からこちらの様子を窺っていた猫ちゃん二匹へ目を向けた。
「にゃー!」
「にゃ、にゃ!」
猫ちゃん二匹が抗議の声を上げた。チャトラとキジトラの猫ちゃんだ。双方スマートな美人で毛並みもいい。
「いや、エス君が言った通りなんだなあ。就寝中の心肺停止は家族でも気づかないことが多いんだ。こういう症例は前兆も無いんだよ。周囲が気づいたときには、どうにもならんことがほとんどでなあ。救命処置が有効なのは心肺停止してから、だいたい、四分以内だからなあ。しかし、アールちゃんは、おれよりも若かったのに悔しいよなあ――」
先生がくしゃっと顔を歪めた。
「先生、アールさんは何か持病があったんですか?」
俺が訊くと、
「いやいや、アールちゃんは健康そのものだった。少なくとも、おれはそう判断していた。だからこそ、おれもアールちゃんもこの結果を予見ができなかったわけだ。医者から患者へ不健康だぞと伝えれば、患者も自覚をして生活を見直すし、警戒もするからなあ――これは、おれの仕事の
話を聞いていると、アールさんは若い頃から、この医者の先生のところへ、インフルエンザの予防接種を受けに通院していたとのこと。年に一度か二度の付き合いだったけど、それが三十年以上も続いていたらしい。
俺はスマホで部署へ連絡した。
アールさんの訃報を受けた生き仏先輩は絶句した後、
『――状況はわかった。エス君は会社の引継ぎが行くまで待機してくれ。私のほうは、もう一度、役員と総務部へ話をしてみる』
生き仏の声が震えている。
「はい、待機します」
スマホの通話はそこで終わった。
「家具や飾り物がほとんど無い家っスね。テレビも見当たらないっス――」
手持ち無沙汰になった金髪が家の様子を見て回っている。
「台所も使っていた気配がほとんど無いしよう。ほれ、見ろよ。冷蔵庫はでっかいけど、なかはミネラルウォーターとトマトジュースの倉庫だぜえ。それに、チーズとかサラミとか――酒のつまみがちょっとあるだけ――」
デブは台所で冷蔵庫のなかを眺めている。
「リビングは家具が多少ある。リビングというよりも書斎かな。立派な本棚があっても、そこにある本は旧約聖書が一冊だけか。アールさんらしいけど、これだと本棚だっていらないだろ――?」
俺は苦笑した。アールさんのカバン持ちをやっていた頃の話だ。役員会でやるアールさんのプレゼンテーションに何度か付き添った。アールさんはプレゼンを何も見ずにやるひとだった。どんな面倒な資料も全部暗記してしまう。「このひとは頭のなかにスパコンでも仕込んであるのかな?」俺は疑いつつ戦慄したものだった。そんなアールさんのプレゼンを普段はど偉そうにしている役員どもが揃って神妙な顔つきで聞き入っていた。各事業部のリーダーは戦々恐々の態度だった。あれは地表の九割を支配し終えた独裁者の演説のようだった。
胸に風穴が開いたような気分のまま、デスクへ目を向けると、PCのモニタとキーボードと、アールさんの黒いスマホ、それに万年筆が一本ある。モニタには、メモがいくつか貼ってあった。内容は例外無く仕事のことだ。デスクにある仕事と関係の無いものは、半分内容が残ったライウィスキーの瓶が一本。それに水がツーフィンガー入ったオールドファッショングラス。水にはウィスキーの色が薄く残っている。入れた氷が解けた水だろうね。
「あとは写真立てが一つだけ、か――」
俺はモニタの脇に置かれた写真立てへ目を向けて、
「――ぅあぁあっ!」
「パイセン、大声でどうしたんスか?」
「そっちの部屋で虎とかライオンでも飼ってたのかあ?」
金髪とデブが書斎へ入ってきた。
「いや、何でもねェぜ!」
俺は慌てて写真立てから写真を引き抜いた。
「それで、パイセン、これからどうするっス?」
「マジでどうすんだあ?」
「こ、この様子だと、アールさんに身寄りは無かったみたいだし――そうなると、社葬になるのか。そこらは役員とか総務部の仕事なんだろ。俺たちにできることはもう何も――」
引き抜いた写真を収めた内ポケットの近くで心臓がバクバク鳴っている。
「ファック――」
「くっそお――」
金髪とデブがうつむいた。
「ふみゃあーん、ふみゃあーん!」
「みゃあ、みゃあ!」
チャトラちゃんとキジトラちゃんがトコトコやってきて俺の足元に絡みついた。
「ああ、一つだけ俺たちにできることがあった。この猫ちゃんらへ餌をやろう」
書斎の片隅に猫ちゃんの餌の皿が二つと猫ちゃん用給水機、それにドライフードの給仕機が置いてあった。本棚の脇に大きめの収納箱が一つ。猫ちゃんは手が届くところに餌があると必ず盗む。叱っても叱っても絶対にやめない。賢い生き物だから飼い主から駄目と言われたことは理解をしている。それでも一度やると決めたら飼い主の目を盗んで必ずやる。これが、たいていの猫ちゃんの生き様だ。収納箱の蓋を空けるとやっぱり猫ちゃんの餌が詰まっていた。高級な猫缶がほとんどだ。ドライフードの袋もあった。ドライフードのほうは、どうしてもアールさんが長く家を空けないといけないとき使っていたものだろうね。
あ、そうだったのか。
アールさんが飲み会からすぐ帰っていたのは、この猫ちゃんたちへ缶詰の餌をやるためか――。
「――お前ら、愛されていたんだな」
猫缶を開けたところで涙がこぼれそうになった。ウェットフードを食べる猫ちゃんらを見つめるフリで部下から涙を隠しておく。チャトラちゃんとキジトラちゃんは餌を食べ終えると、アールさんの亡骸の枕元に並んで座った。飼い主と似て賢い猫ちゃんたちだ。それを見た金髪とデブが泣きそうな顔になっている。
「家の表で会社の引継ぎを待とうぜ」
俺は玄関へ向かった。これ以上、アールさんの自宅のなかにいると男が三人も揃って泣き出してしまいそうで怖かった。金髪とデブは返事をせずについてきた。
玄関の内鍵を開けて外へ出たところで、
「全員、そこから一歩も動くな。両手を上へ上げろぉい!」
表で待ち構えていた若い巡査から銃口を突き付けられた。
「あ、はあ――そうします」
「超ファック。何よ、こいつ――」
「何ってよお、どう見ても、この恰好は犬のおまわりさんだろお――」
俺も金髪もデブも不承不承の態度で両手を上げた。
「おーい、巡査君、巡査君なあ」
医者の先生が奥の部屋から顔を出した。
「あ、医者の先生が、どうして犯行の現場に――?」
巡査も医者の先生の顔を知っているようだ。
「その彼らね、ここの家主の――アールちゃんの会社の部下だぞ。家主は亡くなった。死因は急性心不全だ。事件性は何も無い。おれが死亡診断書を出すよ。だから、巡査君の仕事は何も無いよなあ」
「会社って――ヤクザのフロント企業のことですかあ?」
「いやいや、K社グループは堅気の会社だと思うぞ。この近所にもK社グループのスーパーマーケットや、電車の駅があるよなあ」
「このガラの悪さで押し込み強盗だとか、ヤクザの組長とその子分じゃない?」
「そうなんだ。そんなナリで彼らは強盗トリオでもヤクザでもないんだなあ」
「えー、でもお、表のガラス戸が如何にもな手口で割られていたからあ――」
スネた口調の巡査はどうしても俺たちを端から撃ち殺したいようだった。
俺は内ポケットからゆっくりと名刺入れを取り出して、
「巡査さん、これ、俺の名刺」
「えーと、K社グループ本社経営企画本部の課長代理さん――うああっ、これは、たいへんな失礼をしました!」
ここでようやく、巡査の拳銃が腰のホルスターへ帰った。
「女の手で刃物は何度かあるけどな。男から銃口を突き付けられたのは生まれて初めての体験だったぜ」
俺は溜息を吐いた。
「この腐れポリ公がよ、マジでファッキン勘弁してくれよなっ!」
「おい、犬のおまわり、この野郎! 死人が増えるところだっただろっ!」
金髪とデブの抗議に巡査は恐縮することしきりの様子だ。確かに、一番遅く現場へやってきて、気まぐれに
「巡査さん、もう逃げられねェぞ。言い訳は署の査問委員会でするんだな――!」
俺は内ポケットからスマホを引き抜いた。
「あ、それだけは、やめて!」
巡査が顔を真っ青にしたところで、
「ぬああああっ、アールちゃぁぁぁん、無事なのかあぁあっ!」
見るからに不審な男が巡査を押しのけて突っ込んできた。ワイシャツにネクタイにズボンに革靴とそこまではサラリーマンのスタイルだけど、こいつはその上からワッペンがいっぱいついたボロボロの革ジャンを羽織って、フルフェイスのヘルメットをかぶっている。ヘルメットの色はライムグリーンだ。こいつこそ警官に撃ち殺されても文句を言えない恰好だと思う。
今の巡査はボケっと突っ立っているだけだけど――。
「――今度は何なんだよ。あんた誰?」
俺が訊くと、不審者がヘルメットをすぽっと取って、
「そういう君は誰だね?」
「えぇえ、常務ぅ?」
うちの会社の常務でした。
「あー、君は確か――アールちゃんの部下のエス君だ。確か――課長代理の!」
「はあ、俺の顔を覚えていてもらえましたか」
「それより、エス君。アールちゃんだ。アールちゃんは無事なのか。もちろん、無事だよな?」
「いえ、それが――常務、アールさんは北の奥の部屋です。見てやってください」
「見てやってって――ま、まさか――」
常務の手からヘルメットがごとんと落っこちた。
「常務?」
常務は返事をせずに奥の部屋へ消えて、
「アールちゃん、アールちゃん! 返事をしてっ、ねえ、お返事はっ!」
「きゅ、救急車を、すぐ救急車を――え? もうそれは必要無い?」
「そ、そんな――医者の先生、アールちゃんは何とかならんのですか。そ、そこを何とか、何とか――もうできることは何も無いって――あんた、医者なんだろ、すぐ何とかしろっ!」
常務はひと悶着を終えてふらふら戻ってきた。
医者の先生も大変だよな。
「常務?」
声を掛けると、
「うっふぅあああああああああ、アールちゃん、わしを置いて逝くなんひゃれひろいらろっ!」
常務は土下座をするような体勢で泣き出した。
「あーあー、入れ歯が飛び出して――」
納豆みたいな糸を引いてるしマジで汚ねェ目が汚れる、とまではさすがに言えない。この入れ歯のジジイは、俺の会社でたぶん四番目か五番目くらいに偉いひとだ。俺は会社で専務のほうが偉いのか常務のほうが偉いのか未だによくわからん。その上、うちの会社には副社長までいる。専務って社長の代役みたいな役回りなんだろ。副社長だって社長の代理みたいな役割だ。そうなると、専務と副社長って、どっちのほうが偉いんだよ?
「ひゅが、もごっ――何てこった、わしの永遠のマドンナが――我が社の至宝が――!」
入れ歯を戻した常務はライダーグローブをはめたままの拳で床をドンドンやり始めた。
「あのう、常務?」
「常務?」
「常務!」
何度か声を掛けると、
「――んー、何だね、エス君?」
常務が重役らしい台詞回しと一緒に顔を上げた。
うわあ、これ以上なく汚ねェ泣き顔だよなあ!
それは心に留めておいて、
「この後のことは常務にお願いできますか。その、アールさんの――」
「――社葬だな。わかっておる。彼女は我が社に多大な貢献をした社員だ。若社長も嫌と言わんだろう。いや、このわしがそれを嫌だと言わせはせんよ」
「よろしくお願いします」
「うん、すぐに段取りをつけんとな――」
うつむいてスマホをいじる常務の肩がまた震えている。業績のことで嫌味を垂れるところしか見たことがないけど、私生活では案外と人間臭い爺さんみたいだね。俺は「やれやれ」と呟きながら玄関を出たところで目を見開いた。ライムグリーン色のカウルが付いた大型バイクが巡査の自転車の横に並んでいる。
「KW社の
「これはまたゴツゴツと厳ついバイクっスねえ」
「あの
金髪とデブは怪訝な顔だ。
「こいつは、ただのスーパースポーツじゃない。兄貴分の競技専用モデルは最高速度が時速四百キロに達する現状で世界最速の怪物だ。いかんせん、怪物の兄貴は走りの性能がヤバすぎて公道を走れるパーツがついてねェ。常務はその弟分をぶっ飛ばしてきたんだな。道理で到着が早かったわけだ」
「あ、スピード狂と言えば――会社へ帰るなら俺が運転するっス。パイセンのアナーキーな運転中に事故ったら、ファッキン即死っス。俺らみたいな木っ端社員が死んだところで会社は葬式代を出してくれないっスよ」
「課長代理、頼むから帰りは金髪に運転をさせてやってくれよお」
「表で煙草を吸いながら、たぶん、泣く。ついてくるな」
俺は敷地の外へ出た。
「うっス――」
「おう――」
このときの部下は上司の命令を素直に聞いてくれた。
「アールさんが、マドンナか――」
俺は表札の横で煙草に火を点けて、写真立てから抜いてきた写真を眺めた。
写真の日付は今から四十年前。当時にデジカメはない。ネガフィルムから現像したカラー写真だ。セピア色に近いほど色あせている。赤レンガの立派な校舎を背景に学生三十人前後が並んでいた。大学のゼミ生を揃えた面子だろう。学生の列の真ん中で若かりし頃の遠縁のおじさんが微笑んでいる。銀幕の大スター顔負けのイケメン教授だ。その遠縁のおじさんの左から若いアールさんが身を寄せていた。触れたら切れるような美貌が女子中高生のように笑っている。たいていの男は、この笑顔を見せるだけでイチコロだったと思う。そのくらい稀有な美女だった。遠縁のおじさんへ右から身を寄せているのも女子大生だ。その顔が黒いサインペンで乱暴に塗りつぶされていた。口元だけは黒い
奥さんの顔を黒く塗りつぶしたのは――。
「――アールさん」
俺は煙草の煙と一緒に溜息を吐いた。
遠縁のおじさんの通夜の席だ。奥さんは涙を見せなかった。悲しむ素振りすら無かった気がする。出会って初めての印象は当たらずとも遠からずが多い。遠縁のおじさんは女癖がよくなかった。生涯を通して全国津々浦々に新旧の愛人がいるような男だった。アールさんも愛人の一人だった。これが夫の通夜の席で、その奥さんに涙も悲しみも無かった理由だ。アールさんが慕っていた――おそらくは、生涯を賭けて愛した男の通夜へ参列できなかった理由でもある。
「くそっ、どうして、そこまで――」
俺は遠縁のおじさんが少し嫌いになった。
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