11
第二月曜日の朝礼は最初から最後までおかしな雰囲気だった。
「――あえー、私からは以上。解散だぞ」
本部長補佐の締まらない号令で部署の空気は益々妙なものになった。同僚はみんな首を捻って視線を交換している。誰もデスクへ座ろうとしない。
本部長補佐だけは自分のデスクへ戻って経済新聞を広げると、
「おーい、新人。早く珈琲を持ってこい。何をモタモタしてるんだ――?」
「あ、はい。すぐに煎れてきます」
新人君は首を捻ったまま給湯室へ向かった。
「あのう、本部長補佐。お時間をよろしいですか?」
俺は補佐のデスクにそろっと寄ってそろっと声をかけた。補佐は整髪料でぬめぬめとした髪をオールバックにして、金縁の眼鏡をかけた、あばた面の五十絡みの男だ。俺はこいつが大嫌いだから滅多に自分から声を掛けない。それでも一応、提出する書類には毎回判子をもらっている。たまたま書面上のミスを見つけると必ず嫌味を並べ立てるからマジでイラつく。分厚い資料付きの企画書を提出すればすぐわかることだ。こいつが見つけるミスは最初の数ページだけ。あとは集中力が切れて流し見をしてやがる。だから、毎度毎度、後半の指摘はまったく無い。書面上の不手際や企画が実働に移った際に予想される不具合を、ガミガミ的確に指摘してくれるのは、いつだってアールさんだ。
必ずしもそうではないと先に断っておく。
たいてい、副だの補佐だの代理だのがつく会社の役職は、出世争いで敗北した社員の気休めに用意されているものだ。窓際の役職だ。窓際役職の肩書がついた社員は仕事への熱意がとうの昔に尽きていて、部下や同僚へ不機嫌と怠慢をまき散らす。下から上げる書類のチェックが補佐と本部長で二度手間になるのも面倒だ。最近はこの手の窓際役職を廃止する企業も多くなったらしい。出世争いなんて一度もした覚えが無いのに課長代理という本来なら窓際の肩書をつけられて、ボロ雑巾のようにコキ使われている俺みたいな社員は特殊も特殊だ。相変わらず部署に課長はいない。それなのに課長代理の同僚は三人もいるんだぞ。こんなの絶対におかしいだろ。本来なら、俺の役職は本部長代理あたりになる筈なんだよな。この大嫌いな補佐がいるから、こいつより権限の強い役職を作れないという会社の事情なのだろうけど――。
「――エス、何だよ?」
補佐は新人君の手で珈琲がデスクへ届いてから返事をした。経済新聞から目を上げない。こいつはいつだってこんな態度だ。同僚のほぼ全員から煙たがられている。だから、俺が交渉するしかない。俺は嫌な役回りから絶対に逃げることができない。
何故なら、この俺は部署一番の汚れ役で、汚れ仕事を飯の種にしているからだ。
「補佐、アールさんは月曜から出張なんですか?」
「そんな話は聞いてないぞ――」
「役員に呼ばれているんですかね。それとも、身内の葬式ができたとか。あ、通勤に使っている電車が人身事故で止まったとかはありませんか?」
「そんな連絡も受けてないぞ――」
「では、アールさんはまだ出社していないんですか?」
「姿が見えないってことは出社していないんだろうなあ――」
「月曜にアールさんが出社してこないなんて絶対におかしいですよ」
「エスなあ。あれだって一応は女だぞ。そういう日だってあるんだろ。生理は――もう干上がってるだろうからな――ああ、ズル休み、とかな――」
「補佐はアールさんの予定を把握していないんですか?」
「あの女の予定なら、ホワイトボードに書いてあるぞ。いちいち俺に訊くなよ」
「アールさんの月曜の予定には、休暇とも出張とも書いてありませんが?」
「あのなあ、エスはあの女がどういう立場にいると思っているんだ?」
補佐がようやく経済新聞から顔を上げた。
「あ、はあ。アールさんは、この経営企画本部の本部長ですが――?」
「そうだぞ。それもK社グループ本社の経営企画本部の本部長様だぞ」
「そんなことは自分も知っています」
「いや、エスはなぁんにもわかってないよなあ。あの女は実質的にK社グループの現場最高責任者なんだぞ。それが好き勝手に会社を休んだところで、補佐の俺にどうこう言えるか? よく考えてから上司に物を言えよなあ――」
補佐は鼻を鳴らしながら珈琲をすすった。こんな応対でも俺は怒ることができなかった。苛立ちより嫌な予感のほうが大きい。感情の芯が熱を失っていくような感覚だ。
俺はスマホでアールさんのスマホの呼び鈴を鳴らした。
呼び出し音が一分――二分――二分以上――。
「――通話中でもないのに、アールさんのスマホの応答が三秒以上も無い。メールも通信アプリも返信無し。こんなの初めてだ――金髪、緊急連絡簿を確認しろ。アールさんの自宅の電話へ連絡するんだ。繋がらなかったら自宅の他の緊急連絡先も試してくれ」
「うっス!」
金髪が自分のデスクへ走った。
俺はアールさんのスマホの呼び鈴をもう一度鳴らした。課長代理の肩書がついた当初は、出先で判断に迷ってアールさんのスマホへ頻繁に連絡した。第一声で必ず怒られる。その次には必ず適格な指示をくれた。今はアールさんへ緊急で連絡することがほとんど無くなった――。
周辺の同僚が口を開きかけたところで、
「おーい、あの女の自宅へ連絡しても無駄だぞ――」
補佐が面倒そうに言った。
「補佐はさっきからどういう対応なんですか。アールさんの身に何かあったのかも知れないでしょう!」
俺が怒鳴ると、
「あー、エス君、エス君。それが君の一番悪いところだよ。腹に怒りの気配を感じたら、深呼吸しながら六秒待つ。アンガーマネジメントの研修で教えられただろ。ここは補佐の意見が正しい。本部長のスマホの応答が無いなら、家へ連絡しても無駄だよね。落ち着いて考えればすぐわかることだよ」
八方美人先輩が横からシュバッと話に割り込んできた。
「だから、どうして無駄なんですか。考えたくはないですが、もし仮にですよ。アールさんの身に何かあったなら、家族の誰かしらに連絡をつければ状況を把握できる。今は会社側が積極的に行動して当然でしょう」
「はぁあ? エスは今まで知らなかったのか?」
「ええ? エス君は今まで知らなかったの?」
補佐と八方美人先輩が同時に言った。
「え――?」
俺は次の言葉が出てこなかった。
「エス、あの女は、ずっと独身で、ずっと一人暮らしだぞ。戸籍には×の字の一つもついてないぞ、と――おーい、新人、無駄話で珈琲がぬるくなったぞ。すぐ煎れ直してこい」
補佐は冷めた珈琲を面倒そうに眺めている。
八方美人先輩が補佐の横へさっと身を寄せて、
「補佐、あのひとはきっと会社と結婚をしたんでしょうねえ?」
「ああ、君、それだそれ。俺はそれを言いたかった。エスと違って、君は気の回る男だなあ」
補佐はにやにやしながら自分の結婚指輪を指で擦った。
「てっへへ!」
八方美人先輩はへらへら自分の結婚指輪を補佐へ見せている。
「いえ、アールさんも確かに結婚指輪をつけていましたが――?」
「あー、あの安っぽい指輪を見てわからなかったのか。エスは本当に馬鹿なんだな。それで
珈琲で舌を火傷した補佐が新人君を怒鳴りつけた。
「アールさんは何でそんなことを!」
俺は八方美人先輩を押しのけて補佐に詰め寄った。
「あのなあ、エス――あの女が結婚しているフリをしていたところで、ババアになるまで独身を貫き通したところで、仮に一人寂しく暮らしていた一軒家で孤独死をしたところで、だぞ。そんなもの、あの女の私生活の範疇だぞ。私生活は仕事にも会社にも関係が無いぞ。当然、あの女の部下をやっている俺が考慮するようなことでもないぞ。エスは入社したときからずっと物分かりが悪くてしつこいぞ。もうあの女の話はいいから、仕事を始めろよ――」
補佐は経済新聞へ目を戻した。
「アールさんが孤独死って、そんな――」
俺は呻いた。
喉から氷の塊が飛び出てきたような感じだった。
「――ファッキンファック! パイセン、だめっス。アールさんの自宅の電話は誰も出ないっス。自宅の他、緊急連絡先の記載は無いっス!」
金髪のほうも収穫無しだ。
「話はわかった。私が常務へ連絡してみよう。長生きの功名はこういうときに使うものだからね」
近場のデスクから受話器を取った大ベテランの男の綽名を生き仏という。これは生き仏先輩だ。若い頃の俺は生き仏先輩のチームで働いていた。今は同じ課長代理の肩書でも、汚れで駄目社員の俺と違って、生き仏先輩は本物のエースマネージャーでエースプレイヤーだ。デスクに座ったまま電話の口頭指示だけで実働に移った複数企画の不具合を矢継ぎ早に修正するキレッキレの企画屋だ。部下だった頃も今の俺も反発した記憶が無いほど温厚な人柄でもある。今考えると恥ずかしくなるほど甘えもした。言うまでもないだろう。生き仏先輩は同僚の人望がうんと厚い。この点でも俺は駄目だ。よく同僚と拳で喧嘩をするので嫌われている。狂犬呼ばわりだ。人望が無いどころか人間扱いされてない。
補佐は生き仏先輩を一瞥しただけで何も言わなかった。補佐を黙らせているのは生き仏先輩の人望ではないと思う。この話に取締役員が――常務が関わってきたからだ。
他の同僚も一斉に動きだした。
「不動産事業部へ連絡した。今朝も電車は時刻表通りに動いているらしい。これでアールさんが通勤中のトラブルに巻き込まれたという可能性はほぼ消えた」
「だいたい、電車で通勤中に何か面倒事に巻き込まれたのなら、すぐこっちの部署へ連絡がくるだろうし――」
「不動産事業部へ連絡したのは念のためだ。他に何か、アールさんの安否を確認する手段はないのか?」
「アールさんの自宅の近所にある派出所へ連絡したらどう?」
「犬のおまわりさんか。お役所関係は仕事が遅いからな――」
「一時間や二時間、本人と連絡がつかないってだけで、すぐ警官が様子を見に行ってくれる? それくらいは誰にでもあることだろ。何日も連絡がつかないなら事件性を考慮して動くんだろうけど――」
「やめとけ、やめとけ、警察に相談しても民事不介入だって返されるのがオチだろ」
「それでも一応、派出所へ連絡はしておきましょうよ」
「補佐も言ってたよな。アールさんは休暇を取ったのかもよ?」
「アールさんが休暇だって?」
「私、この部署へ異動して今年で五年目になりますけど、アールさんが会社を休むのを一度も見たことがないですよ」
「あ、そう言われてみると、俺もないなあ――」
「――俺たちの上司は本物の仕事の鬼だからな」
「やっぱり、アールさんが出社してこないなんておかしいぞ」
「うん、おかしい――」
「――緊急連絡簿に、アールさんのかかりつけ医の連絡先がありますっ!」
声を上げたのはチマ子だ。
「近所の開業医か」
「アールさんは身体の具合が悪くなって医者にかかっているとかは――?」
「それだ、それなら、あり得る」
「チマ子、そのかかりつけ医へ連絡をしてみろ」
チマ子がアールさんのかかりつけ医と電話で話をつけて、
「アールさんは連絡先にいませんでした。でも、先方のお医者さんはすぐ、アールさんの自宅まで行ってくれるそうです。話がわかるひとで良かった――」
「――俺もアールさんの自宅へ様子を見に行く。金髪とデブはついて来い」
俺は踵を返した。これは補佐の言う通りだと思う。一個人が私生活の上で困っていたところで、会社としてはどうでもいいことなのだろう。だが、俺という一人の男は、アールさんが窮地にいるなら最優先で駆けつける必要がある。
絶対にだ。
「うっス!」
「もちろん行くぜ!」
「私も出向に同行します!」
「ウチも行くよ!」
「私も行きます!」
「メガネとヤン子とチマ子もついて来るのか――?」
俺が愛用している営業車は五人乗りまでできる商用バンタイプだけど、仕事で使う小道具が荷台から溢れて後部座席を占領しているので六人も乗れない。荷物を抜いても定員オーバーだ。そもそも俺が声を掛けたのは金髪とデブだ。メガネとヤン子とチマ子へは言ってない。
上司の言うことを全然、聞いてくれない部下どもだよな――。
「あー、エスはちょっと待て。あー、そうだ、そうだった。これを言い忘れてたぞっ!」
補佐が怒鳴った。
「補佐、何の用ですか?」
振り返った俺の背へ、
「課長代理っ!」
部下が一斉に呼びかけた。
今は
そう言いたいのだろう。
「部下はすっこんでろ。こいつは、お前ら直属の上司の仕事だ」
俺は背で唸って部下の暴走をけん制した。
「そうだぞ。これは上役の仕事だぞ」
補佐は経済新聞へ目を落としたまま頷くと、
「エスが担当しているスーパーマーケット事業再編提案な。あれを先週の役員会でちらっと報告したら大いにウケたぞ。上から提案書の提出を急かされてるぞ。これは役員会の指示だぞ。当然、締め切りは前倒しになるぞ。本日の定時前までに提案書を俺へ提出しろ。ほら、エス、すぐ仕事に取り掛かれ。提出が遅れると、お前の上司の仕事が間に合わないぞ――」
俺は自分の部下に向き直って、
「メガネ、ヤン子、チマ子は部署に残ってスーパーマーケット事業再編提案を完成させろ。先週末、俺がまとめた荒書きがチームの共有フォルダに入ってる。今のお前らなら造作もなく仕上げる筈だ。メガネが主導してくれ。できるな?」
「いえ、課長代理。私どもも一緒に出向を――!」
メガネの顔から血の気が失せていた。愛用の眼鏡が斜めになっている。こいつはビジネスエリートの大先輩――アールさんを信奉すること、なまやかではなかった。部署にいるたいていの同僚もそうだった。この俺はエリートに憧れを抱くような経歴でも柄でもない。元はFラン大卒で、クズニートのチンピラ同様で、しかも、それがコネ入社の駄目社員だ。
それでも、だ――。
「――その気持ちはわかる。でも、アールさんは
メガネはうつむくと眼鏡のツルに片手をやって、
「――課長代理。その案件、是非とも、この私めに一任してください」
顔を上げたときには冷血なビジネスサイボーグの態度を取り戻していた。こいつは仕事のプレッシャーに絶対負けない男だ。どんな異常な状況下でも任された仕事は必ず遂行する。実際、もうメガネは自分のデスクに座ってキーボードをバチバチ叩いている。
「ヤン子とチマ子は耳を貸せ」
俺は補佐を睨んでいたヤン子とチマ子の肩を両方の腕で抱き寄せて、
「これは、いつも金髪とデブに任せている仕事だ。他の部署や課、外部関係者との遣り取りはヤン子とチマ子で代行しろ。メガネに交渉させると端から先方を言い負かしちまうからな。先方がへそを曲げると渋滞している仕事が益々滞る。今日のメガネは気負ってるから余計に心配だ。出来る限りでフォローして提案書作成へ集中させておけ。もう一つ。再編提案の骨子はチームで決定した既定路線で問題無いと思う。それでも、メガネが行き詰まったら、先方の営業本部長へお前ら二人で泣きついてこい。ちょっと前、一緒にゴルフクラブを振り回しながら根回しをしておいた。ここで白状すると、俺が最初に見せた素案は、ほとんどが先方の事業部から出てきたアイディアなんだよ。あの営業本部長はゲスもいいところのゲス野郎だけどな、自分の
「わかった。課長代理は早く行きなっ!」
「わかりました。課長代理は急いでくださいっ!」
ヤン子もチマ子も耳元で返事が馬鹿でけえ。
俺は耳鳴りを覚えながら可愛い部下の女二人を解放して、
「本部長補佐!」
「エス、大声を出さなくても聞こえるぞ。今度は何だあ?」
「スーパーマーケット事業再編提案の件はメガネに一任させます。そのサポートにヤン子とチマ子。これで、了承して頂けますか?」
「あはぁあ――?」
補佐は俺へ向けた目をすぐ経済新聞へ戻して、
「おい、エス。お前の上司は、お前にやれと言ったんだぞ。これは上司命令だぞ。何だよ、聞こえてないのか。もういっぺん言ってやるから、今度はちゃあんと聞くんだぞ。エス、これは、上・司・命・令だぞ」
「もういっぺん言ってみろ、このナメクジ野郎っ!」
俺は補佐のデスクを蹴っ飛ばした。デスクの脚を固定していた金具が弾け飛び、モニタだの珈琲カップだの筆記用具だの書類だのが宙を舞う。
ドゴオッ、だ。
「ぼぐえっ!」
補佐が横滑りしたデスクで胸を打って悲鳴を上げた。
「げふっ、げふっ――エ、エス、正気なのか、おま――うあぁあっ!」
俺はまたドゴオッをしてやった。何回か繰り返すと補佐は口を閉じた。死んだわけではない。上司の偉そうな椅子の肘掛けが、デスクの殺人スライディングタックルを食い止めている。俺はデスクで殺すことを諦めて補佐の襟首を引っ掴んだ。
この手で絞め殺してやる。
「てめェは何をモゴモゴ言っていやがる。声が小さくて全然、聞こえねェなあっ!」
補佐の頭をシェイカー代わりにした。このシェイカーの口から出てくるのはカクテルではなくてゲロか血だろうが、そんなことはもう俺の知ったことかっ!
「わ、わ、わかったあ! エスの意見に賛成だ。メガネ君はその案件の適任者だ。メガネ君へ一任しろ。そ、それでいいぞ。それでいいって――言って、えぐえぇえ――も、もう、やめろ、やめろ、頼むからやめてくれ、や、やめろぉぉぉぉぉぉぉおっ――えひゅぅぅぅぅ――」
補佐の顔色がヨードチンキみたいになった。
マジで笑える。
「この顔色で、まだ死んでいねェのかよ。人間と違って、サイコパスってのは随分と頑丈にできているモンなんだな。いい勉強になったぜ――」
俺は笑いながら補佐を上司の椅子へ投げて戻して、
「――本部長補佐。自分のわがままを聞いて頂き痛く感謝を致します」
「おげえっ! げっほ、げっほぉ、げっふぅ――エ、エス、お前は一体、な、何なんだ。何なんだよ、な、何者なんだよ――?」
補佐は違う次元から来た生き物を見る目つきで俺を見上げた。
その顔から感情という感情がすっぽ抜けている。
「今になって俺が何者だって訊かれてもな――」
俺は言った。
「――元々の俺はクズニートのチンピラだった。今だって俺のハートはクズニートのチンピラそのものだ。だがな、俺はそれで上等だ何が悪いと常々思ってる。俺は俺を誇ってる。俺は俺を確信してる。俺は俺に惚れている。今、てめェの目の前にいる、このエスという男はな。世間に負けた自己嫌悪の憂さ晴らしに嫌味や陰口を舐め舐めしながら生きている、ナメクジ野郎どもとは覚悟も気概もまるで違うんだ。ところで、へえ――その様子だと、てめェはてめェの部下の矜持を、人間の矜持を、男の矜持を、今の今まで知らなかったのか。そんなので、よくここまで仮にも上司の役職が務まったモンだよな。マジで呆れたぜ」
補佐は何も応えなかった。
同僚の発言もない。
補佐のデスクから落ちた電話が俺の足元で鳴り始めた。
「――金髪、デブ。上司の許可が出た。行くぜ」
俺が踵を返すと、
「あ――はいっ、課長代理!」
金髪とデブがついてきた。
「エス、待て、行かせはしないぞおっ!」
また邪魔が入った。
俺の前にシュバッと八方美人先輩が立ちふさがって、
「エス君ねえ、エス君はねえ。そうやってキレるのは一番よくないんだ。その上、上司へ暴力まで振るうなんて。君は今、人事委員会にかけられても文句を言えない行動をしたんだぞ。その自覚があるのか。いや、またその自覚がないんだろ。いつも君はそうだよな。いつも反省しない、いつも反省できない――このままだと、エスはいつまでたっても猿回しの猿以下なんだぞっ!」
こんな
後ろにいる金髪とデブの殺気が揺れる空気でわかった。八方美人先輩も俺と同じ課長代理の肩書がついている。こいつは自分が発案した綺麗な仕事で自分と自分のチームのスケジュールを埋め尽くし、面倒な汚れ仕事は他のチームへ横流しするのを常套手段にしているクソ野郎だ。当人の部下には人当たりが良くて頼れる上司。汚れ仕事の横流しを受け続ける俺と俺のチームの評価は言うまでもなく最悪になる。
金髪とデブが日頃の鬱憤を暴力で晴らす前に、
「てめェと俺の、どっちが猿以下だって?」
俺の両腕が八方美人先輩の胸倉を引っ掴んで持ち上げた。八方美人先輩の両足がフロアから浮いている。これには自分でも驚いた。沸点を超えた怒りが腕力を暴走させているらしい。
「だっ、だだ、だだだだだあっ! だ、だいたい、新人の研修で一番最初に教えられることだろ。いついかなるときもサラリーマンは先方へ怒った態度を見せたらダメなんだ。君はダメなんだ。なあ、みんな、エスってダメな奴だよな、そうじゃないのかあーっ!」
八方美人先輩は足をバタバタさせながら喚き散らした。
「あ、はいはい、よくわかりました。先輩ヅラ、毎度毎度、ご苦労さん。俺はもう満腹だ。胸焼けで、げっぷが出そうだぜ。でもなあ、先輩ヅラさんよ。それは今、お呼びじゃない態度だと思うぜ。てめェのオツムで考えてもわからないなら、俺の他の同僚に訊いてみなよ」
俺の呆れた気分が八方美人先輩の両足をフロアへ戻した。
生き仏先輩が進み出て、
「エス君。君のチームの仕事は残った全員でフォローする。部署を代表してアールさんの自宅へ行ってくれ」
「行け、エスっ!」
同僚の声が揃った。
「えっ、ちょっと、待って、待ってよ。部署のみんなは、そんな非常識な見解で一致をしていたの――?」
きょろきょろしている八方美人先輩へ、
「おい、猿以下。さっさとそこを退いてくれ」
俺は言った。
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