10
月初めにやる朝礼は、部署や課にそなえつけられた一番大きいモニタを通して、社長だの常務だの専務だの――取締役員どもが全社員へ挨拶をする。この挨拶の実質は訓戒だ。取締役員どもの訓戒は、どこかしらの事業部の収益が悪くなると、それに反比例する形で長くなる。話を長くする目的は社員への陰湿な嫌がらせの他ならない。今、総入れ歯を見せながら、チクチクだらだらイヤミったらしい訓戒を口から垂れ流しているのは、常務という肩書のクソオヤジだ。うちの会社も御多分に漏れずになるのだろう。本社と子会社の役員の椅子は創業者一族とその親戚、それに奴らの飼い犬で仲良く分け合っている。重役はどいつもこいつも天を貫く勢いで偉そうな態度だけど、その長弁舌をよくよく聞くと、性格が最悪なだけで頭はさほど良くなさそうに思える連中だ。馬鹿でもわかるよう短く言ってやる。話が長くてつまらない奴は漏れなく馬鹿だ。こんな馬鹿で邪悪な年寄りどもへ、毎日毎日へーこらするのがお仕事になるのなら、出世なんぞはしなくていい。見返りよりもデメリットのほうが多すぎる。俺は常々そう思ってる。
あーあ、サラリーマンなんてのは、マジでくだらねェ人生の選択肢だったんだなあっ!
会社員諸君は、たいてい、そう考えているんじゃないのかなあ。
少なくとも、うちの会社にいる連中はこんな感じだよ。
「うぜえ、早くそのくだらねえ話を終わらせろ」
「役員どもはずっと家にいろ、それが世のため会社のため」
「うっわ、専務のジジイ、まだ生きていやがった!」
「おーい、ジジイ、さっさとくたばれよう」
「早く向こうへ逝かないと椅子の順番待ちをしている奴が先に死んじまうぞ!」
「ばーか、ばーか、ばーか!」
取締役員どもの訓戒ローテ中、同僚から絶えず怨嗟の声が上がっていた。本部長補佐は決まって顔をしかめるけど、アールさんはいつも聞こえないフリをしてくれる。アールさんだって役員会からの指示を企画化するのには、いつもいつも苦労しているのだ。そんな企画は実働へ移行すると収益予想を大幅に下回ったり、現場の機能不全を引き起こす。元々の指示が明確な根拠の無いお偉いさんの思いつきだから当然だ。だから、やった仕事の結果が悪くても、アールさんの責任でも、俺たちの責任でも、現場の責任でもないと思う。それでも収益の数字が悪いとアールさんの機嫌はとびきり悪くなる。理不尽な不機嫌の下で働く俺たちはいい迷惑だ。普段なら同僚同士の口喧嘩で済む案件が、拳を使った大喧嘩にまで発展するのもしょうがない。そう言っても、俺たちは役員と運悪く鉢合わせると、立ったままフロアへ頭突きする勢いで頭を下げている。大人の世界は常に裏表があるものなのだ。嫌になるね。
ようやっとモニタ越しの訓戒が終わると、今度は部署のほうで本部長補佐のスピーチが始まった。
「んほえー、みなさん、おはようございます。みなさんもご存知の通り、先月も国際金融市場がまた大きく下振れで変動しました。これまでのところ、一昨年まで世界的な猛威を振るった新型ウィルスパンデミックの終息後も、我が国および欧米の実体経済は着実な衰退を続けており、当然ながら、今後の世界各国企業の収益見通しも非常に暗く――」
例によって、スケールはワールドクラスでも内容は薄めすぎたカ●ピスみたいな長話だった。経済新聞にありがちなコラムの受け売りともいう。暇を持て余している俺は同僚や部下を横目で眺めていた。月初めの朝礼中、どれだけ同僚が苛立っているか鑑賞するのは、職場における数少ない俺の楽しみの一つだ。
金髪は眉間を歪めてFワードの活用例を口のなかで反芻する。
デブは顔を真っ赤にして補佐を睨む。
メガネは補佐の一言一言をフンフンフンフンせせら笑う。
ヤン子は真横を向いて舌打ちを連発。
チマ子は――淡々としているな。
あ、目が合った。
ここは視線を外しておこう。
「――んえー、私からは以上です。おい、以上だぞ――新人、何をぼうっとしているんだ。お前が進行役だぞっ!」
補佐が新人君を怒鳴りつけた。朝礼の進行みたいな雑用は新人に任されることも多いよね。新人君は魂を奪われかけているような顔つきになっていた。職場で仕事と関係性が薄い行動を長時間強要されると退職意欲がもりもり湧いてくるものだ。会社勤めをしているひとなら誰でも一度くらいは経験することだと思う。十年以上この部署にいる俺だって、月始めの朝礼のたびに「俺たちって一体、何やってるんだろ?」そんな空しい気持ちになる。会社によっては、こういう人間心理を利用して不要になった社員を自己都合退職へ追い込むらしいね。俗にいう追い出し部屋ってやつだ。うちの人事課もやってるよ。
「――えっ、あ、はい。それでは最後に本部長の挨拶をお願いします」
新人君が気の抜けた声で告げた。
これまで上方四十五度にあったアールさんの視線が、俺たちの作る隊列を水平に捕らえる。
隊列は総員、直立不動。
フロアから物音が一気に消えた。
アールさんは頷くと、
「――ん。今月も各リーダーは数字で必ず私を満足させろ。以上だ。解散!」
「はいっ!」
部下の応答が重なって響いた。ぶったるんでいた空気がアールさんの激一発でヒリヒリしている。新人君の顔にも覇気が戻っていた。重役どもや本部長補佐のモチベを削る長い訓戒は何だったのかという話になる。アールさんはマジで怖いひとだ。生まれてきた場所と時代を完全に間違えているとしか思えねェ。
感心しながら回れ右をすると、
「課長代理!」
チマ子が俺の真後ろにいた。
「んー、何の用かね、チマ子君?」
焦った俺は重役のように尊大な態度で取り繕った。
「私、これからもっともっといい女になって、課長代理が私を捨てたこと、絶対に後悔させてやりますからっ!」
声がでけえ。
「ああ、そうかよ。まあ、せいぜい、頑張れよ――」
俺の返事はごく小さい。チマ子はきらきら笑いながら背を向けた。バブル経済時代に流行ったトレンディドラマのサブヒロイン退場シーンみたいだった。
俺にはチマ子を所有していた記憶が一瞬たりとも無いけどな――。
「あ、またエスが女絡みでやらかしたぞ!」
「わあ、今度は自分の部下に手を出したのかあ」
「そんなのトラブルになって当然だろ」
「脳みそおちんぽなのかよ」
「エスはチマ子に刺されろ」
「チマ子、遠慮するな、刃物と一緒に身体ごといくんだ!」
「エスのドス黒い腹を深く抉り取れ!」
「ここでエスを殺してしまえ!」
「ばーか、ばーか、ばーか!」
解散しかけていた同僚どもがみんな足を止めてプークスクスしている。
その対応は役員どもの訓戒よりも長く――。
俺は子犬のように震えながらアールさんのデスクへ視線を送った。我らのビッグボスがぶちギレて「貴様らは職場をトレンディドラマの収録現場だと勘違いしているのかあっ!」そんな感じのこと怒鳴り散らしてくれたら、俺にとって居心地の悪い空気は一変するだろう。そのアールさんがデスクにいない。ブラインドカーテンの隙間から外の景気を眺めていた。職場で仕事と関係の無い行動をするアールさんを初めて見た。黒いウーマンスーツで覆われた背中と肩が細かく震えてる。
ああ、これでもう部署に頼れる人間は一人もいなくなったな。
俺は俺への嘲笑に囲まれたデスクで、ただただうつむいて震えているしかなかった。
屈辱の朝礼直後に行われた部署内の会議中だ。
俺はノートPCのエンターキーを連打しながら、部下どもへ順繰りに視線を送り続けた。チマ子は鼻歌を歌いながら会議のメモを取っている。ヤン子は俺と視線がカチ合うたび顔を背けてぷるぷるした。デブは熱湯風呂に浸かった狛犬のような顔で視線を真上へ向けたまま微動だにしない。
ところで、部署内の会議でする答弁はメガネに任せることが多い。どういう手段を使っているのか未だにわからん。知らないほうがいい気もする。メガネは管理監督職にいるわけでもないのだけど、同僚全員のスケジュール、各々が現行で関わっている案件、その各案件の進行具合を、いつも完璧に把握している。同僚の仕事のアラ探しが大好きなサイコ野郎でもある。最近はメガネに言い負かされてタジタジになる同僚をにちゃにちゃ眺めているだけで部署内の会議は終わる。俺は楽でいい。一日に何回か殺意が芽生えるのを見過ごせば、メガネは本当に優秀な部下だ。こんな片田舎の企業に三年も務めているのが不思議なくらいだ。そのメガネは口にハンカチを当て「えっふぉ、えっふぉいっ!」と咳き込んでいる。呼吸器系感染症罹患者のような様相だけど、これはどう見ても、込み上げる笑いにむせているだけだ。今日のメガネは使い物にならん。こいつは仕事の外からくるプレッシャーに驚くほど弱い。笑いのツボを押されると特別に脆いようだ。それで、金髪に答弁の担当をさせている。
「ええ、はい。補佐からのご質問にあった、スーパーマーケット事業再編提案の件ですが――えー、ご承知の通り、我々のチームも他案件が非常に立て込んでおりまして、再編提案のストーリーは粗筋の状態をまだ脱しておりません。それを大前提に報告させて頂きます。えー、たった今、部署共有フォルダへ送った『エスチーム担当SM事業再編素案』というPDFファイルです。各自この参考資料をご覧ください。えー、資料を復唱するような形になりますが――我々のチームとしては、まず第一に既存の中期経営計画の一部見直しを――」
その金髪が、この気持ち悪い答弁だ。普段なら、会議中でもFワードを連発しながら、へらへら遣り取りする男だけどな――。
ああ、そうかよ、ここでようやくわかったぜ。
部下どもは先週末にやった飲み会で、チマ子へ入れ知恵をしやがったな。
この馬鹿どもはな、何ら罪のない俺をハメて大恥をかかせやがってな。
てめェらの若くて今後の希望に溢れる人生を、今この会議室で端から終わらせてやろうかよ?
クソが、クソが、クソが、クソが、クソが、クソどもが――!
「――俺の部下どもは待てっ!」
俺は会議が終わった直後に咆哮した。
「本日午後六時から、スーパーマーケット事業部編提案を議題にしてチーム会議を開始する。各自、俺がこさえてきた対象事業部のヒアリング資料へ目を通しておけ。これに加えてだ。業務の間隙を突き再編のネタを片っ端から調達してこい。お前らも知っての通り、事業再編や改善は面倒な性格の案件だ。この手の面倒な問題を俺のFラン大卒の足りないオツムで考えても答えは出てこねェ。それでも、手が無いわけじゃないんだぜ。足りない知恵は他人から盗めば
「そ、そういう仕返しの選択っスか。パイセンはマジでファッキングっス。俺はここでパイセンという男を完全に見損なったっス!」
「おいおい、課長代理よお。試合で上司の権限を使うのは反則だぜ。そいつは、アスリートとしてフェアな態度じゃねえだろっ!」
「驚いた。これは実に幼稚な復讐の手段を思いつく男だ。この際、児童教育のステージから人生をやり直してきたらどうですか。ああ、失礼。課長代理はオツムの発育が完全に手遅れだと自分で明言していましたね。再教育をしたところで時間の無駄だ。痛々しい」
「この上司野郎さー、いくらなんでも女々しすぎだろ。男が頭に血が上ったら正々堂々と拳を使って勝負しなっ!」
「課長代理、唐突に新しいタスクを追加されたら既存の業務を今週中に消化できません。そういう無茶苦茶な上司命令を、まさしくパワハラって言うんです。本当にコンプラ委員会へ訴え出ますよ。それでいいですかっ!」
部下が揃ってガタガタ言ったところで、どうにもならんのはいつものことだ。
「できませんじゃなくてやれ。すぐやれ」
俺は淡々と告げた。アールさんから俺へ俺から俺の部下へ俺の部下から新人どもへ一貫してこの命令は伝達される。そこまであった人間性と社会的通念を徹底的に破壊し、社畜から行動で思考する軍用犬へ生まれ変わるまで繰り返される。その後も延々続く。これがアールさんの社員教育方針――ビジネス軍隊方式だ。
いつもの調子を取り戻した俺のチームが、いつもの忙しい一週間をやり過ごした、次の週の始めの日だった。
アールさんは、出社をしてこなかった。
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