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その日は奇跡的に地雷案件処理とクソ案件処理の間が空いて、そのちょっとできた隙間へ面倒なリサーチが必要な仕事を強引にねじこんでくる悪鬼羅刹のようなアールさんも出張でいなかった。昼休み、俺は後をついてこようとする後輩どもを怒鳴って追い払いつつ、本社ビル最上階の社員食堂へ足を向けた。普段はのんびり一人で昼めしを食っている暇なんぞ無い。昼めし自体を食う暇が無いことも多い。
トレイの天ぷら蕎麦と一緒に空席を探していると、
「エス先輩、エス先輩!」
「んー?」
総務部の女子集団が俺を呼び止めた。配属する女の子は容姿最優先で選んでいる。総務部はそんな噂がある部署で、実際、俺が見下ろしているのは綺麗で若い女の子ばかりだった。各々の前には花嫁修業の成果をアピールするお弁当箱が並んでいる。
そっちのほうから呼び止めた癖に、お互い「お前がどうぞ、あんたがどうぞ」をやった後、
「エス先輩、今日は私たちと一緒にランチをしませんか?」
女子集団のなかの一人が頬の血色を良くして言った。態度や年齢から見ると入社して三、四年目。自然な睫毛で飾られた大きな瞳が、酒疲れした俺の顔をキラキラ映している。それが可能な男なら誰でも「今すぐ一発ヤリたい。愚息が許すなら二回戦へ突入だ」へ分類分けをするであろう健康的で可愛い女子だ。
「――ああ、それは今度、二人きりで夜にやろう。ウチの系列のホテルの一番いい部屋へ予約を入れておくから――あ、ちょっと、待て。社割(※社員割引)ってこういう場合、二人分が効くのかな。君たちのうちで誰か知っている
幸いなことにだ。
総務部のアイドルたちは俺のセクハラに近い冗談を、きゃあきゃあ喜んでくれた。
本当はホテルの予約なんて必要ない。この頃の俺は実家を出て、本社の近所にある結構いいマンションの一室を借りていた。本来は格安で一人暮らしの環境が手に入る独身寮が希望だった。それは職場が実家に近すぎて抽選から漏れた。どうしても他の地域から出てきた若い社員が優先される。
俺のマンションは高級こどおじ部屋みたいな有様になっていた。社内や外部関係者との付き合いで嗜んでいるゴルフのセットだの、釣り道具だの、登山道具だの、スキューバ―ダイビングのセットだの、スキーのセットだの、ボウリングのマイボールだの、ロードバイクだの、野球のグラブやバットだの、サッカーボールだの、テニスのラケットだの、雀卓だの、将棋盤や碁盤やビリヤード台だの、茶道具だの、電子ピアノだのだのが所狭しと詰め込まれている。このうちのどれ一つをとっても俺の趣味ではない。全部、仕事への投資だ。
以前、仕事の接待で使う遊び道具や、そのレッスン料に使った金を会社から脅し取ってやろうと――いや、経費として請求しようと経理課へしつこくかけあったのだけど、その件で苦情を受けたアールさんから「エス、次に同じことをやったら殺すぞ」そう脅されて泣く泣く諦めた。叱られるのはもう慣れっこだけど、殺すぞとまで言われたのはあれが初めてだ。女の殺す宣言はマジで怖い。直後に刃物が出てくることも結構ある。ともあれ、俺自身は子供の頃からテレビゲームが趣味なのだ。レーシングゲームをやるのが特に好きなのだ。持ち帰り残業に使うPCデスクの近くには、大きなテレビと最新のゲーム機数台、それに、ふかふかのソファがセットしてある。だけど、入社してからずっと、そこで使う時間はほとんど無い――。
そんな仕事用の遊び道具で溢れ返っている俺のマンションへ、デリヘル嬢を呼び込んで性欲処理をしてもらうことはたまにあっても、社員の女を連れ込んだことは一度も無い。俺は莫大なストレスを抱え込んでいる。早朝から午前様まで地雷原を歩くのが俺の仕事のようなものだから当然だ。最近は腹のなかへ小石を貯め込んでいるような感覚が常にある。この上で社内恋愛なんて面倒な案件を抱え込んだら、さすがに俺はぶっ壊れてしまうだろ。
つーかな。
昼めしをランチだなんて平然とのたまうキラキラ女子は、ビジネス戦争の塹壕戦で汚泥のなかを這いずり回っている俺のような男から見ると、ちょっと面倒くさい気配なんだよね。
俺の本音は以上だ。
笑顔で会社のアイドルグループへ別れを告げた俺が、その女子社員に自分から声を掛けた理由は、彼女の左隣しか一人で座れそうな席が空いていなかったからだった。
「隣、いいか?」
窓際の長机の右隅に一人で座って、お弁当をのろのろ食べていた、その女子社員がエヌだった。
「あっ! あ、あ――はぃい――」
顔を上げたエヌは、不自然に長い前髪の間から見える目を、怯えたように丸くすると、小さな返事と一緒に頷いた。女子が昼休みに独りでお弁当は珍しい。女子は必ず群れる生き物だ。まあ、たいていの男だって似たようなものだろう。この娘は職場でイジメでも受けているのかなと考えた。小中学生の時分は想像もできなかった。実際、どの学年にいても、担任の先生方は「イジメ、ダメ、絶対」そうしつこく生徒へ言い含めていた。だから、大人は絶対にイジメをしない生き物だと思い込んでいた。しかし、実際は社会人になってもそんなことがよくあるのだ。日本人は大人になっても児童性が抜けないのか、それとも人間という生き物は、みんな弱いものイジメが大好きなのか。俺にはよくわからない。しかし、エヌへ「ねえねえ、君ってもしかして職場でイジメられてるの?」そう単刀直入に訊いたところで、俺にできることは何もない。
「どこかのIT大手企業の社食をマネて作ったんだろうな。地方の企業にしては気取った社員食堂だけど、どう頑張ったところで、この窓から見えるのはニューヨークのマンハッタンじゃない。中途半端な田舎の街並みだ」
結局、俺は窓の外を眺めながら当たり障りのないことを言った。
エヌは俺へ目を向けると、
「――ん――うぅ――」
同意したいのか否定したいのかわからない反応をした。
俺は控えめな笑顔だけを返した。
ちょっと不思議だ。俺を飼っているこの会社は田舎の企業だけど、それでも、こんな対人能力が低そうな子を雇うと仕事に差し支えが出る。ひょっとすると障害者雇用枠なのかなと考えたけど、見ている限りでそういう気配も無い。俺はこの会社で何もかもかなぐり捨てて仕事に当たらなければ生きていけないけれど、エヌのような感じでも給料を貰っている奴だって結構いるということなのだろう。元々の俺は、このエヌのような生き方が希望だった。きっと、エヌは本来の自分を保ったまま生きてきた女の子だと思う。一方、俺は生きるために本来の自分を欺き続けるしかない――。
ここで俺は入社してから初めての経験をした。
会社のなかにいても肩の力が抜けている。
これ以降、社食で昼めしを食うときはエヌの左隣が俺の指定席になった。昼時ならいつでもエヌは窓際の一番右隅の席にいたし、左隣の席も空いていた。自分をほとんど言葉で主張しないエヌが、俺のために席をとってあるとは思えない。だから、エヌは会社に隣人がいない――職場で孤立しているということだけは間違いなさそうだ。そのうち、エヌは俺が隣に座っても緊張する様子が無くなった。何を話しかけても返ってくる言葉がほとんど無いのは変わらなかった。エヌが何を考えているのかはよくわからないけど、俺のほうは喋らない女の子のほうが気楽だった。少なくとも、昼めしの最中に仕事の話をされるより気が休まる。
このエヌとの奇妙なランチ生活が始まって、二か月くらい過ぎた頃だったと思う。
「エス先輩」
「ぬぅあっ!」
とろろ蕎麦を食い終わって、窓の外をぼけえっと眺めていた俺は、横でエヌが大声を出したので驚いた。大声と表現しても、エヌの場合、それでようやく一般的なひとが喋っているくらいの音量だ。
「エヌちゃん、突然、どうした?」
「――あの――これぇ――」
エヌがトートバッグから取り出したのは黒い包装紙に包まれた箱だった。
「それ俺にくれるのか。うーん、バレンタインデイは来年だよな――?」
俺はエヌが突き出した箱ではなく、エヌのトートバッグを眺めていた。今まで気づかなかった。有名なブランドマークがついた高級品だ。エヌもここらは普通のOLらしい。俺が呆れたり安心したりしていると、箱のほうがプルプル震えだした。
「ああ、エヌちゃん、無視していたわけじゃないからな。泣かなくていいんだぞ。おい、やめろ。頼むから、こんな
箱のなかの小箱から出てきたのは、クロノグラフ機能がついたスポーツウォッチだった。俺の時間がわかればそれで十分を主張する安っぽい腕時計と見比べると、明らかに高級品のオーラを放っている。洒落たフォントのアルファベットが並んだ保証カードや、ベルト調整用のツールも箱から出てきた。メーカー名は俺の記憶に無いものだった。
外国の製品ということだけは間違いなさそうだけど――。
「――これは貰えそうにない。値段、かなり高いんじゃないか?」
そう言った途端、真下へうつむいたエヌがガクンガクン震え始めた。
この娘が本格的に泣き出すまで三十秒もかからないだろう。
俺は布張りで高級感を演出する空箱へ、元からつけていた腕時計を叩き込み、エヌからもらったスポーツウォッチを左の手首へガチャガチャ巻き付けた。ああもう、ツールでベルトを調整する時間がまどろっこしい。空き巣狙いが金庫破りをしているときは、たぶん、こんな心境なんだろうな。
「――あふう。ま、まあ、ありがたく使わせてもらおうじゃないか。ありがとう、ありがとう――この腕時計、本当にいいものみたいだ。重厚なデザインだけど、存外ふわりと手首に収まる。スポーツウォッチの高級品って、こういうものなのか――ああ、今度、俺のほうからも何か送ろう。いつもいつも、昼めしを無理につき合ってもらってるしな。エヌちゃんは何か欲しいものあるか?」
「あの――エス先輩の――」
エヌの泣き声だ。おっかなびっくり目を向けると、エヌは自分のスマホを両手で持って俺へ突き付けていた。極端に臆病な新入社員が名刺交換の練習をやっているような感じだ。エヌの視線が斜め下へ向いている。
俺はちょっと考えてから、
「俺の連絡先を知りたい?」
エヌは赤くした顔をコクコク縦に振った。今はエヌの胸元にあるスマホの裏側に、猫ちゃんのシールが貼ってある。
「ほら、もってけ。この泥棒猫ちゃんめ」
俺は笑いながら内ポケットからスマホを取り出して、通信アプリのQRコードを見せた。
§
「何だよ、お前ら。時間の無駄だから、俺には言いたいことを、言いたいときに、はっきりと言え。いつも、そう言ってるだろ」
社食から部署のデスクへ戻った俺を部下が無言で取り囲んだ。
全部で五人。
馬鹿な俺のチームにいる救いようがないほど馬鹿な部下どもだ。
「パイセン、すごいっスね、それって、マジっスか!」
そのうちの金髪が言った。
染色してこさえたど金髪を整髪剤でおっ立てて、耳どころか鼻ピアスまでしている入社三年目の男だ。こいつは「俺の生涯のモットーは、パンク・イズ・ノーデッド・フォーエバーっス!」そんな
「金髪、俺はマジですごい先輩なんだ。ようやく、理解できたのか」
「いや、パイセンは全然、違うっス。その腕時計のことっスよ」
金髪は俺の腕時計を熱心に眺めている。
俺は金髪を睨んでいる。
「おお、ショボい役職でも、平の俺たちとは給料が全然違うんだなっ!」
デブが言った。
この固太りのデブの大男は金髪の同期で学歴は俺よりかなり上だ。新卒一年目から部長以下の社員には敬語をまったく使わないので煙たがられ、ほうぼうたらいまわしにされた挙句、俺が面倒を見ることになった。面の皮が分厚くて何を言っても蛙の面に小便だ。胸倉を掴んで態度を矯正するのも無理だと思う。こいつは柔道の有段者で耳が潰れている。ヒョロガリか、ただのデブ。働いているうちに体形はこの二択へ絞られがちな運動不足のリーマンどもが束になって襲い掛かったところで返り討ちにされるのがオチだろう。
「どう考慮しても地方の低級ビジネスマンには分不相応な品――ああ、課長代理は日本語でいうところの『万引き』をしてきたのですか?」
メガネが言った。
エリートヤクザが好きそうな形のメガネをトレードマークにしている入社二年目の男だ。ここまで先輩社員三名と上司一名を、メンタル系の病気に罹患させて休職へ追い込んだサイコ野郎でもある。両親共に首都のエリート官僚。海外留学帰りで冗談だとしか思えないような高学歴。外国語を複数種類べらべら喋る。この会社へは「母国の地方にある企業経営の実態を体験するため」に入社したらしい。海外や日本の首都にある大企業の大まかな業務内容は在学中のインターン制度を活用してほぼ把握済みなんだって。凄いね。こういう親のコネも学歴のコネも本人の意識も超一等級の新卒は、人格異常者でも絶対に追い返せないのが、コネクション頼みのビジネス展開をしている企業の泣き所だ。「次はエスがあのサイコ眼鏡の面倒を見てくれ。俺の課も俺も精神の限界――!」そんな感じで、部署系列下の課長から俺へ直接泣きが入った。この課長は部署の元先輩だ。俺は入社当時、こいつから嫌味を一つ二つ聞かされた覚えがある。放っておいた。その課長は鬱に罹患して出社できなくなった。ざまあみろ。そんな経緯で、このサイコ眼鏡野郎は俺のチームにいる。
「ウチも若い頃は相当ヤンチャしたけどさ、そんな高価なものをパクッたことは一度もないよ。課長代理の手癖、悪すぎんじゃね!」
ヤン子が言った。
入社三年目の女子社員。ヤンはヤンキーのヤンだ。自分の犯罪履歴をひけらかしながらギャハハと笑ってる。こんなのでもそれなりに偏差値の高い国公立大卒。こいつが俺のチームにいる理由? ここまでの流れで細かく説明しなくてもわかってもらえると思う。
「まさか、また嘘を並べ立てて、ありもしない経費の請求を――課長代理、それ立派な詐欺罪なんですよ。何度、言ったら、わかるん、ですかっ!」
チマ子が言った。
東の都にある有名な私立女子大卒で入社二年目。チマチマっとした容姿が愛らしい女の子だ。この五人のなかでは比較的にマトモな人間性だと思う。それも、すぐカッとなって誰彼構わずつっかかる、このきっつい性格を矯正できればねという話だ。その上でフェミ傾向が強いから始末が悪い。こいつも元いた課の課長から煙たがられて俺のチームへ異動した。
乱暴にまとめる。
俺のチームは会社のゴミ置き場だ。
「――この腕時計は貰いもの」
俺は無理に溜息を呑み込んで言った。最近の俺はアールさんから「エスのチームは仕事に対する態度が荒すぎる。改善が見られないようなら、私が直々に粛清するぞ。貴様自身も含めてだ」そんな恫喝を――いや、説教をされることが多くなった。確かに事業部を統括管理する部署全体でこの薄汚い雰囲気が常態化したら会社は潰れる。アールさんの意見に反論できない。あのひとは怖くて怖くて、いつも反論なんてとてもできないけど――。
「おおーっ!」
俺より馬鹿五人衆が揃って声を上げた。
「なるほど、またパイセンは、ハメて騙して風呂(※ソープランドのこと)へ沈めた女から、上がりを徴収したんスねえ」
金髪だ。
「金髪、堅気の社会人がそんなに嬉しそうな顔でヤクザの仕事を語るな。お前は頭の中身までチンピラなのか?」
俺は上司だぞ。
「おっと、ピンときた。会社の若い女を何人も何人も泣かせて積み立てきた預金の賜物だろっ!」
デブだ。
「デブ、適当な冗談を言ってるようで核心に近い発言をすると先方は困惑する。嫌がられもする。あと、声がでかすぎる。以後、言葉の運用には細心の注意を払え」
俺は上司だぞ。
「課長代理はどちらもやりかねない。そうなると、両方ですね」
メガネだ。
「メガネ、上司へ向かってゴミを見下げるような目つきをするな。何度も何度も言っているだろう」
俺は上司だぞ。
「チッ! あー、この上司野郎はマジモンのクズだわ!」
ヤン子だ。
「ヤン子、上司への舌打ちと罵倒を当人の真正面から聞かせるのは得策と言えない。それは同期の社員と一緒にトイレの洗面台へ向かってやれ」
俺は上司だぞ。
「モラルハザードの体現者! セクハラの権化! 女の天敵!」
最後にチマ子だ。
「チマ子は、他人の鼻面に人差し指を突きつけて非難する癖をいい加減に直しなさい。あのな、そんなんじゃねェから。俺は昔から警戒心の強い野良猫だとか、ガラの悪い野良犬に懐かれる体質なんだ。今、俺の目の前にいるお前らみたいな、だぞ――ところで、この腕時計って、そんな高級品なのか?」
俺は上司の態度を諦めて訊いた。実際、今も俺はアールさんから「エス、あれやれこれやれこっちもやれ。すぐやれ」そう命令されて駆け回っている。平社員とやっていることはあまり変わらない。うちの会社の場合、本部配属で課長代理の肩書がついている社員は、そのていどの立場になる。何でも代理屋だ。本部に課長いないもん。
「パイセーン、マジでその腕時計の値段を知らないんスか?」
金髪は呆れている様子だ。
「知らん。興味も無い。だいたい、腕時計の値段なんて今やっている仕事に関係ねェだろ。現行の案件は『K社グループ主催、年末恒例、冬のわくわく!大物産展』の企画作成だ――それで、部下どもよ。分担した各部署との調整、共催他社への打診と根回しは順調に進んでいるのか。明日は週末だぞ。プレミアムフライデイだぞ。だらだら仕事をしていると、お前らまで土曜出勤する羽目になるぞ。それとも、したいのかよ、土曜出勤。俺は入社以来、ほぼ毎週やっているけど、それを一度だって楽しいと思ったことはない。みんなが遊んでいるなか、一人だけ仕事をしていると惨めな気持ちになるだけだ。疲労だって平日勤務の倍返しだっ!」
俺は声を張り上げた。
昼休みはもうとっくに過ぎている。
「これこれ、パイセン、このメーカーの腕時計っス」
金髪が上司のマウスを断りもなく使って、モニタへ腕時計のカタログを呼び出した。俺はアールさんのデスクを盗み見た。本日は朝から出張で空席だ。夕方まで帰ってこない。知っているけど定期的に確認しないと落ち着かない。アールさんがいないと俺の部下は遊びたがる。まあ、俺だって似たようなものだ。クソ馬鹿の癖に口うるさいから俺は大嫌いだし、たいていの同僚からも嫌われている本部長補佐も、まだ経済新聞を眺めている。部署全体の空気も極端にゆるい。
「その腕時計、ワールドクラスのセレヴリティ御用達の超高級品スよ。パイセーン、パイセーン、どこ見てんスか?」
金髪がしつこい。
俺は嫌々モニターへ目を向けて、
「ん、なになに、一十百千万十万、百万と――へえ、この腕時計って二百万円近くするお値段なんだ。あらやだっ、お隣の奥さん、聞いて聞いて。これってすごくお買い得――なわけねェだろ。おい、上司を担ぐのは二百万円早いぜ。てめェらは、まとめてアールさんから再教育されるのが希望なのか。嫌なら、さっさと仕事へ戻れ!」
二百万円のところを百年と言いたかった。そのくらい動揺した。仕事の上ではもっと桁の大きい金額を眺めているけど、それはあくまで右から左へ飛んでいく数字だ。昼休みの最中に俺の左手首へ巻き付けられた三桁の諭吉の現物は、いくらなんでも重すぎる。
俺のチームの馬鹿どもは、アールさんの影に怯えて各自のデスクへ散った。アールさんはひと睨みで俺の部下五人を完全に沈黙させる。あれは、ひとの形をした修羅だ。
各腕時計メーカーのサイトを隅から隅まで検索した後、
「くっそ、この腕時計、マジでこんなにヤバい値段なのか――!」
頭を抱えた俺は通信アプリ経由でエヌを食事に誘った。めしを奢るついで、この呪われたように高額な腕時計を突っ返してやろうと考えたのだ。エヌから何となくもらった腕時計は、一般的なうちの社員の夏と冬のボーナスを足して三倍以上の値段だった。たいていの既婚者が指につけている結婚指輪よりも、ずっと値段が高いだろ。会社から渡されたスマホに入っている、ほとんどは仕事の連絡に使う通信アプリのアドレスを知りたいというだけで、こんなにもヤバい私ブツをほいっと寄越すエヌの考えがまったくわからん。そこらを詳しく訊き出してやろうとも思っていた。
このときの俺の気持ちを占めていたのは、エヌに対する好感よりも好奇心のほうが強かった。
このときまでは――。
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