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「コヒュウ――事前に連絡もせず押し掛けて申し分も無い。貴方がエス君の御母さんですかな。儂はエヌの祖父です」
「そ、そんな、エヌちゃんって、こんなにも偉いひとのお孫さんで――ひあぁあ!」
「昔の家は上がり
「ここを、こう?」
「そうそう」
「あのう、お手伝いしましょうか?」
「あ、お母さん、大丈夫ですよー」
「私たち、こういうの慣れていますから――いくよ、せーのっせ!」
ガッタンガタンやった後、生命維持装置でフル武装した車椅子が応接間へ入ってきた。車椅子を押しているのは会社で雇っているらしい看護師の女の子が二人だった。両方ともポールダンサーをやっていたほうがしっくりとくるような派手な美人だ。前に見たときも美人で若い看護師が付き添っていた。車椅子の上も前に見たときと同じK社グループの会長が乗っていた。
「コヒュウ、やれやれ、死ぬかと思ったわ――それで、貴様ら。話は円満に終えたのか――?」
会長が配下へ唸った。
大自然の節理に牙を剥く、過剰に老いた顔がおぞましい。
とうの昔に天寿を全うしているべき肉体へ、強欲の鎖で魂をくくり付けた有様だ。
これは、まさしく、亡者そのものだと強く思う。
「会長、夜遅くに、ご足労様です!」
亡者の配下が一斉に首を垂れた。
「コヒュウ――何を考えているのだ、この馬鹿どもめ。先方のお宅で儂へ頭を下げたら失礼だろう。儂の質問に、ひとつも答えんしな――!」
会長が下がった頭を代わる代わる睨みつけた。
それでも、頭は一つも上がってこなかった。
「お爺ちゃん、遅い」
エヌは頭を下げていない。
不貞腐れた態度だ。
俺だって頭を下げていないし不貞腐れた態度だと思う。
「いや、エヌちゃん、その――すまんかった。これでも連合の会合から無理を言って抜け出してきたのだ。そう怒らんでくれんか。おうおう、陽にうんと焼けて――貧乏暮らしでやせ細っていないかと心配しとったが、どうやら元気そうじゃなあ」
これは意外だった。
会長はエヌへ好々爺の表情を見せている。
エヌは不貞腐れた態度のままだ。
「大親分まで来たのか。遅れて来たところで、俺の話はもう何も無いぜ」
俺は冷めたお茶を飲み干した。
「あ、あの、会長さん、粗茶ですけど――」
お袋が茶碗を置く場所に困っている。会長の身体は車椅子から寿命を無理に引き延ばすための管がいくつも連結されているので下手に降りると死にそうだ。車椅子に座ったままでは和室の背の低いテーブルに置かれたお茶へ手が届かない。そもそも、この生きる屍のような老体に茶碗を持ち上げる力が残っているかどうかだって怪しいものだ。
会長は自分の鼻の穴につっこまれたチューブへ震える指先を向けて、
「コヒュ――エス君の御母さん、御覧の通りだ。この儂は口からものを入れるのが億劫になっているような老いぼれでしてな。どうぞ、おかまいなく。それよりも、今回は息子さんへ、儂の会社の馬鹿どもと、わがまま放題の孫娘が、大変なご迷惑をお掛けしたようで、お詫びのしようもない」
「エヌちゃんが迷惑だなんて滅相もない! うちの畜生風情には、もったいのない、よく出来たお嬢さんで――本日は、こちらからご挨拶へ出向かなければいけないところを、わざわざ足を向けて頂いて申し訳が――」
「所帯染みた挨拶はもういいから、ババアはさっさとここから出てけ」
俺が吐き捨てると、お袋がまた取り乱してこっちへ突っ込んできそうになったけど、エヌが素早く頭を振って見せたので、それはどうにか免れることができた。
どいつもこいつもエヌには甘いよな。
まあ、この俺だって、そうなのかも知れないけど――。
「――コヒュウゥゥゥ――エス君がこの不機嫌な様だと、まだ話は終わっておらんのか。まったくもって使えん部下どもだ。貴様らは儂が死ぬまでにあと何度、親に自分の汚れた尻を拭わせるつもりなのだ――ええい、いつまでも頭を下げておらんで、さっさと場所を空けんかあっ!」
会長が吠えて、また、ああでもないこうでもないと席替えをやった後だ。
会長の車椅子が卓を挟んで俺の対面に落ち着いた。
「まったく、この馬鹿どもめ、いつまでたっても仕事の段取りが悪い――コヒュウ――それで、エス君。話はあらかた聞いとるだろう。悪いようにはせん。すぐ儂の会社へ戻って来い」
「へえ、そうなると、大親分が直々に俺という一人の男を買いに来たってことでいいのか?」
俺は空の茶碗を眺めていた。
「コヒュウゥゥゥゥ――まあ、そうなるかな」
会長はおもむろに頷いた。
「あんたは俺へ頭を下げさせて、また御社様のお世話にならせていただきます、そう言わせたいんだろ。世間が言うお偉いさんってのは御多分に漏れず、そんな生き物なんだよな」
「コヒュ――エス君は、まるっきりの馬鹿ではないようだ。自分の立場とやるべきことが、よくわかっておるではないか。さあ、やってもらうぞ」
会長は笑いを堪えた。
「勘違いをするな、この、死に損ないがっ!」
俺の怒りは爆発する。
「エス――!」
エヌが声を上げた。
会社の連中は目配せで長い会話をした後、
「かっ、会長に何という口の利き方を!」
社長が代表して抗議した。
「社長、儂は貴様に口を開いていいと言ったかあっ!」
会長がぎゃっと吠えた。
「はい、出すぎた真似をして申し訳ありませんっ!」
社長は亀みたいに首を縮めた。それでも、社長がその場で抗議しなかったら、事後に会長から雷を落とされていただろう。会社員なんて雇われ階級にいる奴隷どもは、いくら出世をしてみたところで、その出世先でまた窮屈な生き方を強いられるものなのだ。
俺は大人社会の窮屈さを大いにせせら笑いながら、
「俺の嫁はともかくだぜ。使えねェ子分どもは大人らしくすっこんでろ。いいか、てめェら、これをよく知っておけ。この俺は男前が自慢の建売住宅だ。来た客が、あの柱が気に食わねえ、この間取りが気に食わねえと勝手に改装したら、俺の家は傾いて売り物にならなくなる。どうしても俺という男の家を買いたいなら、客のほうが頭を下げろ。揃って土下座で頼み込め。ほれ、すぐやってみせろよ」
「コヒュ、ヒュ――これは、面白い。なるほどな、儂のほうが貴様へ土下座か――?」
会長はギシリと錆びた音が聞こえてきそうな笑顔を返してきた。
余裕を見せているけど、会長が俺に土下座なんてできっこない。
仮に俺がK社グループへ戻ったら立場は一社員だ。
最高権力者が社員へ頭を下げたら権力の序列が壊れて組織は機能不全に陥る。
そんなこと百も承知だった。
俺はK社グループへ戻る気が毛頭無い、そういうことだ。
こいつらと、こいつらの会社は、マジで不愉快だろ。
不愉快へ、へいこら頭を下げて生きていくよりも、野垂れ死をしたほうが、ずっと清々しい人生だろうぜ。
俺は、絶対に、こいつらを手ぶらで帰らせる。
お互い悪意の笑顔で睨み合っていると、会長のほうがふっと眉を寄せて、
「コヒュ? おぅい、スマホ、スマホ――」
「えーと、こっちのカバンは仕事の書類とお薬だけだね。会長のスマホ、どこにしまったっけ?」
金髪の看護師は車椅子にぶら下がっていたカバンをごそごそやっている。
「あ、スマホ、こっちのカバンに入ってる――はい、会長、お待たせしました」
黒髪の看護師が反対側にぶらさがっていたカバンからスマホを取り出して会長へ手渡した。
「うむ、ご苦労。コヒュウ、コヒュウ――ヒュウゥゥアァァ――?」
スマホをいじっていた会長の指先が動きを止めた。呼吸まで止まった。今まさに天へ召されたのかも知れない。ああ、この強欲ジジイの場合は地獄行きのほうが濃厚だよな。会長のスマホは天気予報を音声で伝えている。老人の衰えた聴力に最適な音量だ。
音が馬鹿でけえ。
「会長、通信アプリを使いたいなら、こっちのアイコンね。何度も教えたでしょ」
「ここを、こうして、こうですよー」
看護師の二人が身を屈めて会長のスマホの看護をした。
「そうだった、そうだった。余計な手間を取らせてすまんなあ――ふぅむ。エス君、少し待っていろ。肝心の本部長が遅れておる」
「本部長だと? 経営企画本部の本部長のことか? ナメクジを呼んだところで、俺を余計に苛立たせるだけだぜ」
俺は笑ってやったのだけど――。
「――あー、夜分遅くに押し掛けて申し訳がない! 私はエス君の元同僚で、K社グループのこういうものでして――ついでに、これつまらないものなんですが、受け取ってください」
「まあ、まあ、名刺に菓子折りまでつけて、ご丁寧に――私はエスの母親です。さ、さ、上がってください」
「やはり、貴方がエス君のお母さんですか。なるほど、目元に息子さんの面影がありますなあ!」
最後の来客は、ナメクジではなかった。
玄関から響く、この朗らかで、でっかい声――。
「――やあやあ、一年半振りくらいかな。エス君は元気にやって――うん、訊くまでもないみたいだ。見るからに元気そうで何よりだ!」
「どうして、会社を辞めた先輩が本部長の椅子に――!」
笑顔で、悠然と、大股で。
俺の家の敷居を跨いで来たのは生き仏の男だった。
生き仏先輩は笑顔のまま、絶句した俺へ頷いて見せると、
「お集まりの皆さん。到着が遅くなって申し訳がない」
「コヒュウ――事故でもあったのかと心配したぞ。今、貴様が倒れると、会社は傾きかねん。また儂の寿命が縮んだわ」
会長が生き仏先輩を睨んだ。
生き仏先輩は笑顔のまま、
「いやはや、面目無い。夕方に部署へ戻ったところで、どうしても私の同席が必要な打ち合わせが飛び込んできまして、今まで対応に追われていました。あ、そうだ、そうだ。その件で、また会長のご判断を御仰ぎしたいのですが――先日の役員会でも議題に上っていた新規事業――太陽光発電所の立ち上げ計画です。協賛他社様に加え、行政やら行政がこさえた条例やら環境保護テロリスト団体やらが頻繁に口を挟んでくるので、なかなかこちらの思うように話が進まず、社内外に問題が山積しておりまして――」
「また、あの件で面倒事があったのか。構わん、すぐ言え!」
「ありがとうございます。まずは行政側の要求からです。これが朝令暮改でして――先んず、この書面に目を通していただけますか。これ、先日に行われた県議会の議決書の写しなのですがね」
生き仏先輩は仕事の話を始めた。
出会ったときから、ずっと、ものすごくマイペースな性格ではある。
それは、まあ、よく知っているけど――。
「――本部長、業務報告は後でいいから、この場を先に収集してくれんかな!」
社長がたまりかねた様子で悲鳴を上げた。
「た、頼む、本部長――」
エヌのパパは消え入るような声だった。
「あ、それもそうでしたな」
生き仏先輩は自分のカバンから取り出しかけた書類を戻した。会長の手は空を切った。会長はお気に入りの玩具を突然取り上げられた幼児みたいな様子であうあう言っている。仕事の話に未練たらたらだ。どこどこまでも強欲で自分の会社と仕事が大好きな爺さんだよな。
生き仏先輩はあうあう抗議する会長を無視して、お袋が追加した座布団の上に腰を下ろした。
「あの、先輩は確かに会社を辞めて故郷へ帰って――いや、まさか、今回は違うのですか?」
俺の尋ねる声が震えていた。
「エス君、今回は違う、と言うと?」
生き仏先輩はずいと身を乗り出した。
「あ、いえ、それはその――」
俺は奇跡の虹の力で一年間に二年間分の異なる経験をした。それを他人に説明したところで頭がおかしくなったと思われるだけだろうから口篭るしかない。まさか、今回は生き仏先輩の運命まで変わっているのか。俺が異世界の門で遭遇した奇跡は、ローレンツ博士(※故人。アメリカの気象学者)が提唱したバタフライ効果の寓話における『地球の裏側で蝶がはばたく程度の錯乱』だったのだろうか。俺個人から遠く離れたところにある事象へも、予測不可能な影響力を及ぼしてしまうような――?
「――あ、そうか、そうか、そうか。エス君は丸一年、会社にいなかったから、私の事情を知らないのは当然だね」
生き仏先輩は三回も頷いて、
「田舎へは一旦、帰ったんだよ。その後が私の想定と少し違っていたんだ。そのうち、会社から戻って来いと声を掛けられた。そんな経緯で、私は恥を忍んで元の鞘へ戻って、だね――ま、お互いの
生き仏先輩は座布団から尻を外して畳に両手をつけた。
「駄目です。今はそれをやってはいけません。先輩が俺に頭を下げる必要は何も無い!」
俺は叫んだ。
「いや、エス君、この通りだ。経営企画本部へ戻って来てくれ」
衆生が叫んだところで、生き仏の男は止まらない。
一度やると言ったら断固として必ず最後までやり遂げる。
このひとは、出会ったときから、そういう男だった。
頭を地へ擦りつけている。
それでも、怖気も、悪気も、怯みも、一切が無い。
巨大だ。
闘牛の横綱格が、その頭と角を下げて、取組相手に突撃する寸前の圧力だ。
一息で俺の蚤の
これが、あの部署で伝説になっていた生き仏の土下座姿だった。
「――ひ、卑怯だぞ。先輩を呼びつけて、こんな真似までさせやがって――この、クソジジイが――」
俺の蚊の鳴くような抗議なんて、まるっきり意に介さない。
「何をぼやぼやしておるのだ。貴様らも、さっさとエス君へ頭を下げんかあっ!」
会長が配下を
「エス君、ここは何とぞ、何とぞ――」
社長の土下座だ。
「ここらで穏便に事を収めてはひゅれんと、こっちの身が持たんひゃろ――」
専務の土下座だ。
「見ての通りだよ。我々には退路が無いんだよね――」
将棋さんの土下座だ。
「エス君の一件は社運が絡む話になってしまったのだ。潔く泣いてくれんか――」
常務の土下座だ。
「わ、私からも頼む――」
エヌのパパまで土下座をしている。
「コヒュ、ヒュ――ヒュ、ヒュ、ヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュエーアッ!」
すべての配下を足元へかしずかせ、車椅子にふんぞり返って高笑いする田舎ビジネスの大魔王を、俺は子犬のように震えながら見つめた。
俺の考えが、俺という人間が、甘かった。
道化の勇者と百戦錬磨の大魔王では別次元に格が違うのだ。
喉から何も言葉が出てこない――。
「――わたしは、エスの決めたことに必ず賛成するから返事をしてあげて」
エヌが俺を促した。
「まさか、この筋書きを作ったのは――?」
まさかと言ったけど、この筋書きを作ったのは、エヌしかいない。
エヌの実の母親は会長の何人目かの妾が産んだ子だという。
その妾の娘を娶ったのが、エヌのパパだ。
エヌのパパは会長と血が繋がっていない。
エヌとは繋がっている。
思い通りにならないパパへ、ドギツイお灸をすえるため、エヌが話を通したのは血の繋がりがある自分にうんと甘い会長のほうだったのだ。
俺の嫁さんは馬鹿ではない。
それどころか、今、俺を黙って見つめるエヌは、大魔王の血を受け継ぐ者の風格まで漂わせて――。
「――クソうっ!」
俺はへろへろ座布団から尻を外して、
「先輩、皆さんも、顔を上げてください。俺のほうがこの通りです。生き恥を百も承知で、また、K社グループのお世話にならせていただきます――」
生き仏先輩の土下座と俺の土下座を傍から見比べたら、たぶん、象と蟻んこくらいの格差があったと思う。
これだけは不幸中の幸いだ。
寿司は多少の時間を置いたところで味が落ちるものではない。
会社の連中が帰った後、俺とエヌはビールを飲みながら寿司を食べた。本来なら、エヌのパパもこの辛気臭い酒宴に参加している予定だった。俺とエヌはもちろんだ。無神経で空気が読めない俺のお袋も、社長と専務の肩を借りないと歩けないほど憔悴したエヌのパパを引き留めなかった。そのお袋は仏壇に寿司を何貫か供えて、親父の位牌へ俺の再就職を報告している。めそめそ泣いているけど喜んではいるらしいな。
何しろ、仏壇へ寿司だからよ。
「お袋、仏壇に寿司はゲンが悪い。すぐ、ひっこめろ」
俺は溜息と一緒に空のコップを卓へ置いた。
「今夜のエスは、すごく恰好よかったよ」
エヌがぐいぐい身体を寄せて俺のコップへビールを注ぐ。
「あのな、エヌ――?」
ビールの泡を見つめる俺の声はどんより暗い。
表情だってどんより暗かったと思う。
「エス、なぁに?」
エヌの声は上機嫌そのものだ。
のろのろ目を向けると、エヌは少女のような笑顔を俺へ向けている。
「――うん、おいしい。本物のビールを飲むのは久しぶりだな」
俺は諦めて、また嘘を吐いた。
本物のビールは安酒慣れした舌に苦い。
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