3
週末の夜だ。
エヌがどう説得したのかよくわからないけど、エヌのパパが俺の実家へ顔を見せることになった。資産も無いのに脱サラをキメて綺麗な無職を維持したまま、決まった出掛け先も無い三十路男にとって実に滑稽な服装だと思う。それでも、俺はスーツに着替え、ネクタイを締めて来客を待った。お袋が勝手な判断で瓶のビールを買い込んで、寿司の出前まで取ってある。
こちらの準備は万端なのだけど、約束の夜七時は三十五分も過ぎていた。
「パパ、遅い」
俺の横でエヌが呟いた。
「仕事が忙しいんだろ」
俺も呟いて返した。古い家だから応接間は畳敷きだ。ふすまを外すとそれなりに広くなる。手持無沙汰の俺とエヌは、テレビのローカルニュース番組を眺めていた。目の大きな女の子のキャスターが、K社グループが中区のショッピングモールからの全面撤退を決めたというニュースを読み上げている。今はその空き地をどうするか問題になっているらしい。ちょっと前、人員整理が進んでいたショッピングモールの追い込み部屋で、社員が焼身自殺を慣行した。奇跡的に死人は出なかったそうだけど、ショッピングモールの一部がボヤ騒ぎになって、それを問題視した行政が営業停止処分を下した。それが事件から三か月経った今もまだローカルニュースのネタになっている。俺の片田舎では大事件だったんだぞという話だ。番組に呼ばれた地元の大学教授が、全国的にも地方を支える企業インフラ喪失が問題になりつつあってどうのこうの――少子高齢化による人手不足が顕著になって労働環境の悪化がうんたらかんたら――。
「――あ、来たみたいだ」
家の表で自動車のドアが開いたり閉まったりする音がした。最近は半分電気自動車が増えたから、エンジンの音や排気音はしないことも多くなったね。
「遅い」
眉を寄せて立ち上がったエヌより先に、台所と応接間を用も無いのに行ったり来たりしていたお袋が玄関口へすっ飛んでいった。
俺は座布団からのろのろ尻を上げた。
庭先へ車が二台も三台も乗り入れてきたような気配だったけどな――?
「遅くなってすいません。私はエヌの父親です。これは、つまらないものですが――」
「ご丁寧に、すいません。本来なら、こちらから顔を見せないといけないところ、わざわざ、お越しいただいて――」
軒先でエヌのパパをへこへこ出迎えていたお袋の背へ、
「やめろ、お袋。そんな奴に頭を下げる必要はねェ」
俺は唸り声を聞かせた。
「あんた、どういう態度なの。エヌちゃんのお父さんに失礼でしょう!」
お袋は振り返って叫んだ。
「こんなふざけた真似をされて友好的な態度でいられるか。プライベートの面会に、あの会社の連中を引き連れてきやがって。何を考えていやがるっ!」
K社グループの会社員どもが、エヌのパパの後ろへついてきている。
カバン持ちの若い社員以外は俺も顔を知っている重役だった。
「くっ、このチンピラが――!」
「やめんか、副社長っ!」
「散々、言ったれしょ、今夜は何があっても堪えてくだひゃい!」
俺へ詰め寄ろうとしたエヌのパパを、社長と専務が左右から挟んで止めた。
「事前に連絡をせず揃って押し掛けたら、エス君が不愉快な気分になるのも当然だよね」
「そこを我慢してもらえんか。今回のわしらは悪い話をしに来たわけではないのだ」
常務と将棋さんが応戦しようとした俺を食い止めた。
「常務、将棋さん、あんたら個人はともかくだ。あんたらの会社は十年以上、身を粉にして働いてきた俺の言い分を一つも聞かずに追い出したんだぜ。そんな会社、俺が信用できると思うのか?」
「エス君の気持ちはわかる、よくわかるのだけどね。ちょっとの辛抱をしてもらないかね?」
「わしからも頼む。副社長の話を聞くだけは聞いてやってくれ」
将棋さんと専務の苦しそうな笑顔から目を逸らすと、
「そうだよ、エス、子供の頃から、あんたはそういうところが一番ダメなんだよ。怒らずに他人の話をちゃんと――!」
視線の先でお袋が絶叫した。
「ババアはすっこんでろ!」
「ああ、この畜生は、
エヌが取り乱したお袋の両肩へ手を置いて、
「お母さん、泣かないで。エスはわたしが守るから」
まともな挨拶もない。
再会した直後に、お互い喧嘩腰だ。
どうも、俺とエヌのパパは、こういう宿命の下にあるらしい。
「あのな、エヌ、それって男の台詞――くそっ、話だけは聞いてやる。勝手に上がれよ」
俺は応接間に戻ると仏壇と床の間を背負って座った。
「皆さん、汚くて狭い家ですけど、どうぞ、どうぞ、上がってやってください――」
お袋が泣きそうな声で呼んでもいない来客の群れを呼び込んでいる。
お互いの顔色を盗み見るような態度で、俺の実家へ上がり込んで来たエヌのパパとその一行は、
「社長、社長がエス君の対面に座るのは、ひょっと――!」
「ん、ああ、そうだった。今夜は副社長が上座の対面にいないとな。商談と勝手違って、やり辛い――専務、こういう場合、社長の私はどこへ腰を落ち着ければいいと思う?」
「ええと、社長は上座から一番近い席、でしゅかな?」
「んー、いやいや、専務。上座に一番近い右へ常務、左へ将棋君を置こう。この両人は会社にいた時分のエス君と、それなりに付き合いが濃かったからな」
「では、私はこっちへ失礼を――」
「おいおい、将棋君、わしがその席だろ」
「社長は常務が右だと言っていたよ?」
「将棋君は何を言っておるのだ。どう見てもそっちは右の席だ。右はお箸を持つほうの手だよな?」
「いやあ、常務。こういう場合は上座のほうから見て右手になるのではないのかねえ――?」
「あー、そう言われると、わしが左の席になる――」
「あたしゅは――やはり社長の左隣かなあ?」
「いや、専務は副社長を挟んで向こうへ座りなさい。これは気の短い男だから、私たち二人の手が届く位置にいないと心配だ」
あっちじゃねえこっちでもないと席替えをやっている。
日本の会社員ってのは、こういう部分が幼稚園児と何も変わらねェよな。
誰がどこに座ったところで、これからお互い話す内容は同じだと思うぞ。
エヌは俺の隣に黙ったまま座った。
社長は部下全員の尻がお袋の手で追加された座布団の上に落ちついたのを確認してから、
「――ん、これで概ねはよし――それでは、副社長、話を進めてくれるか」
「エス君、今日の私は例の横領の一件の話をするために来た。会社の重大な案件だ。お互いのエビデンスを得るために、社長と重役へ同行を願い出た。本来なら事前に連絡をするべきだったのだろうが、おそらく、そうしたところで君は了承をしてくれなかっただろう。不意打ちのような形になってしまったが、気を悪くしないで欲しい」
エヌのパパは憤りを噛み潰しているような口調で言った。
「エビデンスとかな。この修羅場に来て、あんたって男は恰好をつけたいだけのアホが使いたがるビジネス用の英単語で体裁を取り繕うのか。おいおい、あまり笑わせるんじゃねェぞ――あの横領の話なんて、俺にとってはもうどうでもいいことなんだ。てめェらの会社だって、今となっては、どうでもいいことなんだぜ」
俺の返答はこうだ。
エヌのパパはぐぬぬっと顔を赤くしたけど、それでも声を低く抑えて、
「わ、私の会社としては、どうでもよくなくなったのだ。直近、あの横領の一件に関係する内部告発があった。監査部と役員会が内部告発を元に改めて横領事件の精査をした結果、そ、その――NSメルロース自動車販売株式会社と表にある君の車の売買契約書を取り交わしたのは、私の娘――エヌだったという真相が判明した。車や保険関係の名義は、私の娘の指示で代理店の馬鹿どもが工作を――」
「俺は前々からそれを知っていた。たぶん、あんただって当初からそれとなく知っていたんだろ。でも、俺のほうは、その件で嫁を責める気が無いんだ。あんたを責めるつもりだって無い。そんなどうでもいい話をしに来たならすぐ帰れ」
「ま、待て。お前の嫁だと?」
エヌのパパは俺の隣にいる自分の娘を凝視した。
「わたしたち、入籍しました」
エヌが言った。
「エヌ、お前は、また勝手な判断を――!」
エヌのパパの声が大きくなった。
「わ、わたし、もう大人です。自分のことは自分で決めます」
エヌの顔が真っ青だ。
お前の夫としてはな。
嫁の手を取って応援してやりたいところなんだ。
でも、ここだけは、エヌが一人で戦わないとダメな場面だと思う。
ここで、お前がダメだと、きっと、この先もずっとダメなままだ。
俺は歯を食いしばっただけで、何もしなかったし、何も言わなかった。
「お前は自分の父親の言うことをちゃんと――!」
座布団から浮いたエヌのパパの尻を、
「エフ君、その話をしに来たわけじゃないだろう!」
社長の怒鳴り声が引き戻した。
エヌのパパはゴキゴキと音がしそうなほど、ぎこちない動きで俺へ顔を向けて、
「ぐっぬうっ――と、とにかく、横領の一件は私の娘の犯行だった。エス君はあの件に一切関わっていない。あのときの監査部の判断は冤罪だったのだ。わ、私の娘が迷惑をかけて、すまなかった」
「そんなことを今更のように言われてもな。俺はどんな返事をすりゃいいんだ」
そんな謝罪は受け入れない。
実際、俺は嫁の親父へ、そんな要求を一度もしていないだろ。
「くっぬうっ、この腐れチンピラが、他人の弱みに付け込んで――!」
エヌのパパが血相を変えて立ち上がった。
俺はそのまま帰ってしまうのかなと思った。
それなら、それでもいいよ、とも思う。
「エフ君、いい加減にしないか、君の立場と役割を自覚しろっ!」
社長も血相を変えて腰を浮かせた。
お袋はお茶の盆を持ったまま廊下でおろおろしている。
「ぐぬぬぅっ――こ、これは会社と私からのせめてものお詫びだ。エス君はいつでも会社へ戻れるよう便宜を図ってある。エス君、K社グループへ戻って来るつもりは――!」
エヌのパパの言葉が止まった。
俺を見下ろしているのは、血の涙を流しても不思議ではないような形相だった。
社長がこれ以上なく渋い顔で溜息を吐いて、
「はあー、あー、将棋君?」
「エス君、エス君! エス君にはね、本社に前より一つ上の役職を用意してあるんだよ!」
将棋さんが話に割って入った。
「聞いて驚かんでくれ。用意した椅子は経営企画本部の本部長代理だ。給料だって、ぐぐっと上がるぞ!」
常務だ。
「経営企画本部は直近で、また改変があってられえ――!」
専務も参加した。
「いい大人が雁首を揃えて、ふざけてんじゃねェよ」
これが俺の返答だ。
こいつらは、あの会社が俺とエヌを、どれだけ過酷な状況に追い込んだのか、何もわかってねェ。
前回は俺もエヌもあの会社に殺されたのと同様だ。
今回は、そうさせない。
絶対にだ。
「そんなクソ同様の詫びの品は持って帰れ。代わりに、てめェらの会社とそのお仲間が裏で回している求職者ブラックリストから、俺の名前とねつ造した犯罪履歴を抹消しろ」
「お、お前、あのブラックリストを知って――?」
エヌのパパがカウンターパンチを鼻面へ叩き込まれたような顔になった。
「へえ、俺が知らないと思っていたのか。随分と甘く見られたモンだよな。俺のほうの身内にだって裏でコソコソと悪さをやるくらいのショボくれたコネはあるんだぜ。ああ、ここで手に入れたリストを披露してやるか?」
エヌが俺へちらっと視線を送ってきた。俺のハッタリをすぐ見抜いたらしい。俺の嫁さんはすっとぼけた性格をしているけど馬鹿ではない。俺が求職者ブラックリストの存在を知ったのは前回だ。今回は確証を得ていないし、当然、求職者ブラックリストが俺の手元にあるわけでもない。
さて、このハッタリは通用するものなのか――。
「――それは聞いていないよ。副社長はエス君の件で
将棋さんの叫び声が沈黙のゲームバランスを破壊した。
「な、何という面倒なことを――ショッピングモールの不祥事の収集中に、こんな醜聞が社外へ漏れたら――社長、この一件が明るみに出た場合、地域経済連合会や付き合いのある他社様へ――いや、日本社会全体へ、どのような釈明をなさるおつもりですかっ!」
常務が社長へにじり寄った。
「社長、社長、どうしまひゅか。この一件が表へ知れたら話が拗れるどころではしゅみましぇんよ、全国区のニュース、市長からの呼び出し、地域住民の不買運動、ネット炎上――さ、最悪、国会の証人喚問まであると思いましゅ!」
専務も社長へ詰め寄った。
俺のほうは、こんな展開、意外も意外だ。
無職透明の野良一匹が放ったラッキーパンチ一発で、大人社会のタイトルホルダー級の対戦相手が、全員KO敗け寸前の大混乱に陥っている。
でも、改めて冷静になって考えてみるとだよな。
地へ足が着いた実業の上澄みにいる、一般的な小市民の尊敬を一身に受ける本物の勝ち組が、自分たちの手でねつ造した赤の他人の個人情報を裏で回し合って、その回覧を元に人材の採用・不採用を決定しているという陰湿な事実が表へ出たら、日本の世論がひっくり返るような大騒ぎになってもおかしくはない。
エヌのパパが崩れ落ちるように座布団へ尻を戻した。良かれと思って会社の連中に助太刀を頼んだのが裏目に出たらしい。ここでエヌのパパは、地域社会から俺という個人を完全排除するため、会社にあった禁忌の手段へ訴え出ていたという
社長は切羽詰まった表情で俺とエヌのパパを何度も見比べた後、
「あー、エス君、まだ人権派の反社会的弁護士だとか労基だとかマスコミだとか共産党員の知人友人に求職者ブラックリストの一件の相談をしていたりは、ないよね、ないよな――後生だから、それだけはないと言ってくれ! だいたい、連合会員の経営者でもないエス君が、どのような手段で地域人材採用協定会の回覧を入手して――?」
ものすごい早口だ。
今になって泣きついたところでもう遅い。
前にも一度、読者諸君には言っておいた筈だよな。
他人のした悪事の証拠は、どんな細かいものでも保管して恐喝のネタにする。
これが、俺の生き方で、俺の仕事のスタイルだ。
「ピーチクパーチクうるせェぞ。ショウダウン(※ポーカー用語。勝負。プレイヤーがお互いの手札を見せること)の後だぜ。
俺は唸った。
「エスの再就職を邪魔していたの、パパなんでしょ。それも、ここでちゃんとわたしの夫に謝って」
エヌが俺を援護した。
「わ、わたしの夫って――エヌ、お前――」
今はエヌのパパの顔のほうが真っ青になった。
父親の目に血ではない涙が溜まっている。
これまでの俺は、エヌは脆い精神を抱えたまま大人になってしまったから、自分のパパや、自分の身内、それに、パパの勤める会社に依存しなければ生きてこれなかったのだろうなあと、そんなことを考えていた。
これが、とんだ見当違いだ。
パパのほうが子離れできていないのだ。
パパのほうがエヌに依存しているのだ。
このパパは自分の娘が、まだ可愛くて、可愛くて――。
俺の視線が卓の上に落ちたところで、
「あ、あのう――もしかして、お爺さんはK社グループの――?」
玄関から、お袋の声がする。
客が一人、遅れて来たようだ。
「まだ誰か来るのか、面倒くせェな――」
俺は舌打ちをした。
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