第24話 「彼女」3
「彼女」の家の中を、近所の人たちが世話しなく動いている。
襖はすべて外され、いつもは息が詰まるほど狭い「彼女」の家が、不自然なほど広く、不自然なほどに騒がしい。
世話しなく動く大人たちを横目に、制服を着た「彼女」と久美子が、うつ向き項垂れ、居間の奥で、静かに並んで座っている。
何も話さず、ジッと下を向いている「彼女」の左側で、久美子が寄り添うようにちょこんと座り、久美子もまたジッと下を向き、話さない。
いつも顔を合わせれば、とりとめのない話題を永遠と話している二人が、今日は静かに並んで座っている。
その理由は、祖母が静かに眠れるように。
「彼女」の右側で、顔に白い布をかけた祖母の小さな体が、布団の中で冷たくなって眠っている。
ゆらりゆらりと焚かれた線香が、三人の居る居間で寂しげに漂い揺れていた。
「彼女」は右手に巻いた包帯を隠すように、左手を上に置く。
「ここか。佐伯のばあさんが、倒れてたっていう場所は?」
佐々木のおじさんが、くわえタバコで、勝手口のドアを開け、話す。
「そうです。そこの下に倒れてたのを美樹ちゃんが朝、発見したそうですよ。」
横で食器を洗っていた若い女性が、佐々木のおじさんの質問に答えた。
「ここからじゃ、まず、助からねぇな。」
勝手口から一歩、足を踏み出し、下を覗き込むと、急な斜面に作られた、古ぼけた石階段が七段続き、その高さは、降りるのに苦労するほどの高さだった。
その石段を降りると、家々の間から細く長く伸びた道が、その先で小さく見える海と繋がっている。
「大方、昨日の嵐で、佐伯のじいさんの船を見に行こうとしたんだろ。」
「昔、よく見に行ってたものね。」
台所のテーブルで、おにぎりを作っていた佐々木のおばさんが、昔を思い出しながら会話に入る。
「美樹ちゃんも、さぞかし驚いただろ。」
そう言って、佐々木のおじさんは勝手口のドアを閉めると、
「朝まで気が付かなかったって言ってましたよ。美樹ちゃんが。」
食器を洗っていた若い女性が、手を止めずに話しをする。
「あの風じゃあ、気付かないよ。」
佐々木のおばさんが、「彼女」のことを思い、ポツリと呟く。
佐々木のおじさんが、くわえていた煙草をテーブルに置いてある灰皿でもみ消すと、「佐伯のばあさんには悪いが、これでよかったんじゃねぇのかな。」と本音を小さく、煙と共に吐き出した。
「そうだね。美樹ちゃんには荷が重すぎたからね。今までよく頑張ったきたよ。」
「彼女」の苦労を近くで見続けて来た佐々木のおばさんは、「彼女」の気持ちを推し量り、涙ぐんだ声は震えていた。
「それで、美樹ちゃん、これからどうするんだって?」
佐々木のおじさんが、若い女性の背中に問いかけると、女性は食器を洗う手を止め、クルリと佐々木のおじさんの方を向き
「とりあえず、江口さんのところで厄介になるみたいですよ。」と伝えた。
「そうかい。まっ、久美子ちゃんもいるし、そっちの方が、美樹ちゃんも安心するだろうしな。それで、そのあとは、どうするって?」
「何でも、東京に遠い親戚がいるので、そっちで暮らすって、江口さんに言ったみたいですよ。」
「へぇー、東京に親戚がいたのかい。初耳だね。オマエ、知ってかい?」
「いや、アタシも聞いたことなかったね。」
おにぎりを作る手を止め、佐々木のおばさんが答える。
「向こうで、働きながら学校へ行くって。」
そう言い終わると、また女性は食器を洗い出した。
「まぁ、その方がいいよ。こんな寂れた町に居てもしょうがねぇし、若いからな、東京に行った方が、いいだろ。」
「そうだね。美樹ちゃんは、お母さんに似て器量よしだから、東京の方が向いている
かのしれないね。」
「あぁ。その方がいい。あれだけ苦労したんだ、楽しく暮らしたって、バチは当たる
まい。」
「ホント、そうだね。」
「美樹ちゃん。ずっと家に居ていいんだよ。」
祖母の横で、小さくなっている「彼女」の手を握り、久美子の母が、「彼女」の行く末を案じていた。
「そうだよ!一緒に暮らそうよ!美樹ちゃん、東京行かないって言ってたでしょ?」
「ありがとうクミちゃん。おばさん。…でも、もう…決めたことだから…。」
静かに、そして優しく二人に話しかけ、「彼女」は思いを告げた。
「彼女」の言葉から強い意志を感じ、もうそれ以上、引き留める言葉が、久美子の母からは出て来ない。
久美子の母は、スッと「彼女」の手を放す。
「なんで!一緒に暮らそうよ!ずっと、一緒に居ようよ!美樹ちゃん。」
十七年分の涙が、とめどなく久美子の
「やめなさい。久美子。」
この中で一人、大人に成り切れない久美子を母は諭す。
「なんで!このままだったら、美樹ちゃんが居なくなっちゃうんだよ!」
聞き分けのない子供のように泣きじゃくる久美子の手を強く握り、真っ赤になった
「いい、久美子。これは美樹ちゃんが、考えて出した答えなの。美樹ちゃんが選んだ道なの。だから、久美子も賛成してあげないと。」
「ヤダ!絶対にヤダ!」
この現実を振り払うかのように、久美子は首を大きく横に振り、駄々をこねる。
「久美子より少し、大人になるのが早く来ただけなの。これで一生、会えないってワケじゃない。またすぐ会えるから。ねっ、久美子。美樹ちゃんのことを応援してあげよう。」
母の言葉が、久美子の気持ちを、「彼女」の気持ちを、優しく包む。
頭ではわかっていても、心が追いついて行かず、久美子は下を向き、大粒の涙をポロポロと流すだけだった。
「ゴメンね。クミちゃん。」
久美子の母の手の上に、「彼女」の手が重なる。
その暖かさと重さを知った時、久美子は「彼女」との別れが本当なのだと実感し、ボロボロと涙が零れ落ち、声を出して泣いた。
祖母の眠るすぐ側で、「彼女」と母に囲まれ、久美子は泣き崩れる。
十日後 「彼女」と久美子は、早朝の駅のホーム居た。
春間近の空に、白々と日が昇りはじめ、止まっていた時がゆっくりではあるが、静かに動き出そうとしいた。
しかしまだ、うつらうつらと寝ボケ眼の町は寒く、春が来るのを拒んでいるかのように風が冷たい。微かに白い息が出るホームで、二人はベンチに座り、黙っている。
久美子は拗ねたように下を向き、足をブラブラとさせ、「彼女」を見ようとしない。
姉妹とも言うべき幼馴染みの旅立ちを受け止められず、黙っている。
言葉にしたら、すべてが終わってしまうようで、久美子は怖かった。いつもお喋りな久美子が無口なまま、この非情な現実を耐えていた。
“どうか、嘘であって欲しい”と願っていた。
「おばさんに、お弁当ありがとうって、伝えといて。」
久美子の母が作ってくれたお弁当を見せ、「彼女」は最後の言付けを久美子に頼んだ。
お弁当はまだ暖かく、包んだ布から久美子の母の優しさが伝わって来る。
久美子はチラリとお弁当を見たあと、すぐにまた下を向き、
「途中で食べてって…。」と、壊れそうな小さな声で話した。
「うん。わかった。」
笑顔で「彼女」は答えたが、久美子は下を向いたまま、「彼女」を見ない。
「ゴメンね。クミちゃん。」
「彼女」は拗ねる久美子の背中に、左手をそっと添えて、謝った。
その手の温もりに反応して、久美子は「彼女」の顔を見る。言葉をよりも先に、久美子の
「なんで、そんな、急なの?」
溢れ出る涙とは裏腹に、言葉が詰まり出て来ない。
「…初七日も終わったし…もう、行かないと。」
「彼女」も言葉が詰まり出て来ない。
「卒業してからでもいいじゃない!すっと一緒に居ようよ!」
縋りつくように久美子は、「彼女」にしがみつき、お願いするが、この状況が決して変わらないことは久美子もわかっている。
しがみつかずにはいられなかった。
「…もう、これ以上、甘えられないから…ゴメンね…クミちゃん…。」
残酷な言葉が、久美子の耳に届く。
聴きたくなかった言葉が、大好きな人の声に乗って、久美子の耳に届いて来た。
押さえられない感情が、涙となって、久美子の頬をとめどなく伝い、流れ落ちる。
「…ゴメンね。本当に、ゴメンね。」
それしか言えなかった。
右側から、冷たい朝の空気を切りながら、電車がやって来た。
小さく光る電車のライトが、少しずつ大きくなり、近づいて来る。
二人の待つホームに、近づいて来る。
さよならが、近づいて来る。
二両しかない古びた電車が、冷たい空気と共に静かなホームに滑り込む。
そして、二人の前で、ゆっくりとドアが開く。
「…じゃあ、行くね。」
「…。」
何も答えない久美子を見ながら、「彼女」は電車に乗り込む。
その姿を見て、久美子は立ち上がり、「彼女」に駆け寄った。
「東京に着いたら、連絡ちょうだいね!美樹ちゃん!」
「うん。連絡する!」
「絶対だよ!」
「うん。絶対!」
「絶対に絶対だよ!美樹ちゃん!」
「絶対に連絡する!クミちゃん!」
遮るように、ドアが非情な音を立て閉まり、二人の間に境界線ができた。
物心ついた時から、一緒に流れていた時間が、この駅で止まる。
この小さな町の、小さな駅で、朝、人知れず、幕を閉じた。
「彼女」を乗せ、電車が走り出す。二人を引き剝がすように走り出し、それと同じようにして、久美子が電車の後を追う。「彼女」の消え行く姿を、見失わないように、久美子は、一生懸命に後を追う。
「美樹ちゃん!元気でねー!」
手を振りながら、久美子は一生懸命に走る。
「クミちゃんも、元気でねー!」
窓を開け、速度が出始めた車両から身を乗り出して、「彼女」も手を振り、久美子の姿を
あっという間に二両の電車が、ホームから離れて行く。
久美子はホームの端、ギリギリまで立ち、落ちそうなりながら、ありったけの力で手を振り、ありったけの力で叫んだ。
「美樹ちゃーん!ずっと一緒だよー!」
久美子の体の半分が、朝の景色へと消えて行く。
やがて「彼女」も窓を閉め、誰もいない車両で一人、小さく背中を丸め、うずくまり、久美子の母から貰ったお弁当を口に当て、肩を震わせ、「彼女」は、笑った。
やっと「彼女」は解放された。
祖母からも、この町からも、ようやく解放されたのだ。
「彼女」の行く道の前に、障害物は何もない。
将来への煩わしさがなくなった綺麗な道。
その喜びが、心の芯から溢れ出し、笑いが止まらない。
久美子の母の想いを唇で感じながら、「彼女」は笑う。
どうしようもなく、心の底から湧き上がって来る幸せを抑えられず、口元が緩む。
初めて手に入れた自由。
手放す気など毛頭なかった。
もう二度と、町には帰らないと「彼女」は決めていた。
すべてを捨てて、「彼女」は東京へと向かう。
もう、振り返ることは決してない。
たとえあの町に、体の半分を置いて来たとしても。
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