第13話  裏切り

遠藤 海外視察 一日目


午前十時四十二分


田中と「女王」はホテルのラウンジでお茶を飲んでいた。


このホテルで、一つ商談をまとめ、城に帰還する前に休憩を取った。

ラウンジは、とても静かで、空気に重みがあり、歴史を肌で感じることができる。

一流ホテルに相応しいクラッシックで上品な空間。


その中で「女王」は慣れたようにウバの紅茶を一口飲み、香りを楽しんでいる。


今日も「女王」は機嫌がいい。


商談中も聞かれるのはクラウドのこと。

その入り口に並ばしてくれと、名のある経営者が懇願してくる。それが何より気持ちいい。すべてを掌握しているこの快感。世界で一人、「女王」しか持つことのできない力。

その力をチラつかせ、地位のある者たちと戯れる。記者を釣って遊んでいるのと変わらない。

「女王」から見れば、どちらも餓鬼の群れ。

腹を空かし、喉の渇きに苦しむ餓鬼たちを右往左往と弄び、面白がっている。


ただの戯言。次にオモチャを見つけるための暇つぶし。


田中は歴史の重みに押しつぶされそうになりながら、聞き慣れない紅茶を飲む。しかし、緊張で味がよくわからない。

それも仕方のない話。

格式のあるホテルなど来たこともなければ、泊まったこともなく、ましてやラウンジで、お茶を飲んだこなどあるわけもない。そこに遠藤のいない心細さも相まって、ずっと、張りつめた気持ちでいる。紅茶を味わう余裕なんて、田中にはない。


ふと、「女王」は気付く。


「あれ? 遠藤はどうしたの? 今日、会ってないわね。」


田中は呆れた。


「女王」の自己中心的な性格を、遠藤から幾度となく聞いてはいたが、ここまで人に無関心だったとは。

常日頃、傍で支えてくれる大事な懐刀の存在を忘れ、今、ようやく気が付くなんてことがあるだろうか。

確かに思い返してみれば、「女王」は朝から遠藤の話をしていない。

田中はもちろん「女王」が、海外視察に今日から行ったことを理解して、話さないのだろうと思っていたが、どうやらそれは、田中の勘違い。「女王」を買い被っていたようだ。


想像絶するほどの自己中心的な「女王」に、田中は言葉を失くしながらも、「室長は今日からパリに視察に行かれました。」


それでも秘書として、田中は必死に言葉を絞り出し答えた。


「あ、今日からなのね。」


やっと思い出し、悪びれることもなく、「女王」は優雅に紅茶を飲む。


「それで、いつ帰って来るの?」


まさか、いくら人に興味のない「女王」でも、パリがどこにあるかぐらい知っているだろう。

しかし、「女王」の顔を見ていると、それすら疑いたくなる。


「…二週間です。」


田中は恐る恐る勇気を絞り出して答えた。


「ふ~ん。そう。」


「女王」は、その素っ気ない一言を言い放ったあと、外の景色を見つめながら、また紅茶を一口飲んだ。


田中にとって、この静けさが、やけに怖かった。

ここまで人に興味にない人間を見るのは初めてだ。そして、改めて、遠藤の偉大さを知る。

この世で、「女王」を制御できるのは、懐刀の遠藤しかいない。


果たして、その懐刀がいない状態で、二週間、やって行けるのか?


田中は大丈夫でないことを思い知り、二週間が、二十年のように感じる。



遠藤 海外視察 二日目


午後二時十五分


「女王」は城に帰り、書類に目を通していた。


二日前まで「女王」詣でをしていたとは思えないほど、静かで平穏。午後の日差しが、大きな窓ガラスから入り込み、ゆっくりと時間を進める。


長閑だ。とても平和な午後。


しかし、「女王」には物足りない。暇で息が詰まる。


どうして、遠藤は「女王」詣でを止めてしまったのか?あれほど面白く、機嫌よくなれる時間はなかったのに、それをナゼ、止めたのか?


「女王」には理解できなかった。


遠藤が居なくても、「女王」が居れば成立する話。みんな「女王」に拝謁したくて、列を作るというのに…。舞台と主役が揃っているというのに…。

「女王」は遠藤が取材を止めた理由がわからず、悶々としていた。


退屈で、刺激のない時間。


「女王」は後悔していた。

こんなにも、つまらないとわかっていたら、遠藤の提案など聞かなかった。拒否すればよかった。

遠藤の提案を簡単に聞き入れてしまったことを深く反省し、今からでも、取材を受け入れようかと、「女王」は真剣に考えていた。


二十年間、思っていたことだが、遠藤は真面目過ぎる。有能な秘書ではあるが、どうにも融通が利かない。遊び心がなさすぎる。

「女王」は遠藤に対し、時折、無味乾燥・無味無臭な味気なさを感じることがある。

そつなく業務をこなしてくれるのはいいのだが、なんだかツマラナイ。眠くなる。「女王」の感性を強く揺るがし、目を覚ますような刺激が欲しいのだが、遠藤には届かない。芸術家肌ではない遠藤とは、根本的に考え方が違う。理解し合えない。遠藤は実務を執り行ているのだから、堅実さがなくては困る。だがしかし、「女王」にとって、そんなこと知ったことではない。

「女王」が退屈と言ったら退屈で、ツマラナイと言ったらツマラナイ。それがすべて。ただ、それだけ。


とろけるように間延びした平凡な時間。

「女王」は完全に飽きていた。欠伸も出ないほど飽きていた。





午後二時二十一分


「女王」は、ふと廊下側の壁を見る。


今、何か聞こえたような気がした。

ここは空に一番近い部屋。いつも静かな場所ではあるが、退屈過ぎる平穏な時間の中では、些細な音でさえ、余計に響く。


「女王」は廊下側をジッと見つめている。


確かに、何かの音がする。

しかし、何の音かはわからない。物音のような。人の声のような。

何だか、ゴニョニョと聞こえるだけで、一向に正体が掴めない。


はっきりと聞き取れず、「女王」は耳を澄ます。


すると、その音はさざ波のように、少しずつ、こちらへと近づいて来るのがわかった。


「…アポ…さい…」


女の声だ。

ヒドく、大きな声を上げている。


「うる…そんな…ったことか…」


今度は男の声だ。

声を荒げているようだ。


その二人の声は徐々に大きく、鮮明に聞こえ、「女王」に近づいて来た。


「急に来られても困ります!アポを取ってもらわないと!」


田中の声だ。

必死に何かを止めようとしてる田中の声に「女王」は、不穏なものを感じ取る。


「ウルサイ!何、吞気なこと言ってんだ!こんなことされて、黙っていられるか!」


男のその声で、すぐそこまで来ていることがわかった。


いくら、人に興味のない「女王」でも、この声のやり取りを聞けば、ただならぬことが起こっているということは想像がつく。

ドア一枚、隔てた廊下で何かが起こっている。途轍もなく、恐ろしい何かが廊下に存在している。


「女王」は身構える。


ドアが勢いよく開く、現れたのは、江口だった。


いつも、ニヤニヤとニュルりと部屋に入って来る江口の顔が、眉間に皺を寄せ、鬼のような鋭い目つきで怒鳴り込み、「女王」を睨んだ。


今にでも「女王」に噛みつきそうな江口の顔。

野犬が一匹、迷い込んで来たような恐怖。


「スイマセン。お止めしたんですけれど…。」


江口の左肩の後ろから、申し訳なさそうな田中の顔がチラリと見えた。


「女王」は動けない。


動けば何をされるかわからない。この状況がわからない。そして何より、江口の怒りの理由がわからない。


恐怖が「女王」の躰を縛り付ける。


恐怖で躰を縛られ動けない「女王」の元へ、江口がゆっくりと歩いて来る。


近づいて来る江口に「女王」は逃げることも、声を出すこともできない。

江口が近づけば、近づくほど、恐怖の鎖が「女王」の躰を締め付ける。


江口は「女王」の顔をキッと見つめ。


「誰が、こんなこと頼んだ!」


「…。」


訳が分からなかった。


それは「女王」だけではない。田中もそうだ。ナゼ、江口が鬼の形相で、この部屋に怒鳴り込んで来たのか、誰もその理由を知らない。

そこへ来て、江口の発した言葉の意味もわからず、二人はますます混乱して、返す言葉が思いつかない。


固まり、何も言えない「女王」に代わり、田中が意を決して、江口に話し出す。


「いっ、一体、何のお話でしょうか?」


江口は振り返り、ギロリと田中を見た後、スーツの内ポケットから四つ折りにした紙を出し、「このことだよ!」と言い、貴婦人の机に、その紙を叩きつけた。


紙が机に叩きつけられたと同時に「女王」は驚き、ビックと動く。その間も、江口は「女王」を睨みつけたまま、視線を離さない。

「女王」は、江口の野良犬のように鋭く尖った視線を感じながら、恐る恐る紙を開く。


「女王」は目を丸くした。


それはクラウドに関する記事をプリントアウトしたものだった。


“クラウドの新作発表か?”

“五十嵐社長 緊急記者会見 決定‼”


その文字が「女王」の目に飛び込んで来た。


「なに、コレ?」


「女王」は絶句した。


その顔色を見て、田中は江口に気が付かれないように、ゆっくりと「女王」に近づき、横から覗く。


「⁉」


田中にも理由がわかった。


「あっ、ココ見て下さい。」


田中が指をさす。


記事の一番最後に “文/志田いずみ”の文字。


遠藤の予感は的中した。


また、志田いずみが「女王」にちょっかいを出して来た。しかし、今度は、今までとは明らかに違う。記者会見が開かれることが最早、決定のように書かれ、文章が踊っていたが、もちろん、そんな話はない。

記者会見の予定どころか、新作の予定すらない。


「女王」と田中にとっては、寝耳に水。青天の霹靂。しかし、それは江口も同じ。いや、寝耳に水。青天の霹靂具合から言えば、江口の方が上だ。怒るのも無理はない。


「調子に乗るなよ!」


江口は呆然としている「女王」に目掛け、指をさす。その顔を修羅の面を被っているのかと思うほど厳しく、まさに怒髪天を衝く顔だった。


「俺はアンタにクラウドの絵のバイヤーを頼んだが、絵の発注を頼んだ覚えはないぞ!絵を描くかどうかは、アンタじゃない。俺が決めるんだ!」


「…私じゃ…。」


「黙れ!」


「女王」が何とか言葉を返そうとするが、江口の怒りは収まらない。「女王」の言葉を切るように遮り、一喝する。


またも「女王」の動きが止まる。


「いい気になって取材を受けていたようだが、取材ぐらいなら別にいい。そう思って、黙認してきた。しかし、アンタは俺を裏切った!」


「えっ?」


「いいかよく聞け。アンタは一線を越えた。自分の出来る範囲を見誤った。アンタはただ、絵の買い手を見つければよかったんだ。クラウドに絵を描かせる権限なんてアンタにはないんだよ!うぬぼれるな!」


「わっ、私は、そんなこと言ってない!」


「女王」も必死になって、江口に抵抗する。だが、その抵抗が却って、江口の怒りに火を注いだ。


「しらばっくれるな!」


「本当よ!私は何も言ってない!」


「嘘をつくな!」


「本当よ!私は、」


「じゃあ、これは何だ!」


江口は、右ポケットから何かを取り出し、またも「女王」の前に叩きつけた。


「女王」の前に数枚の写真がばら撒かれ、その写真を手に取って見てみると、そこに映っていたのは、遠藤と志田が話している写真。


外から隠し撮りをしている写真のようだ。


「これが証拠だ!」


「女王」は状況が飲み込めていない。

この写真が意味することと、江口の怒りの理由が見つからない。


「何で、アンタの秘書と雑誌記者が仲良く話しをてるんだ?この女だろ?いつもスクープする記者は?今回も、この二人が会ったあと、その記事が、すぐ出たのはなぜだ?偶然とでも言うのか?それとも、俺が気付いていないと思ったか?」


展開が早く、「女王」はついて行けず、声も出ない。


「ど、どうして、この写真を思っているのですか?」


思考停止の「女王」に代わり、田中が江口に話しかけた。


「探偵を雇ったんだよ。」


「探偵?」


「何も驚くことはないだろ。アンタたちと同じことをしたまでだよ。」


江口はニヤリと笑った。


その顔は今まで見て来た二ヤケ顔とはまったく違う顔だった。

優しく包まれた真綿の中から一瞬、ギラリとナイフのように、鋭く光る危険な顔がチラリと見えた。ゾッとするぐらい気味の悪い顔。


江口の本性が垣間見えた。


そして、遠藤は大きなミスをした。


尾行失敗のあと、江口が何も言ってこなかったので、すっかり油断していた。事の真相を明らかにし、突き止めることを忘れていた。


詰めが甘かった。


田中も返す言葉がない。形勢が悪い。


「でも、これが、どうして、理由になるのですか?ただ、会って話しをしただけじゃないですか。こんなこと、よくある話しじゃないですか。」


形勢が悪い中でも、田中は必死に応戦する。


またも江口はニヤリと笑う。


「探偵が聞いてたんだよ。隣の席で。アンタたちが、この記事を書こうと話し合っているのを。ちゃんと、その時の会話も録音してある。」


「えっ。」


「女王」は小さく絶句した。


その絶句した「女王」を見て、田中はまたも必死に江口に応戦する。


「たとえ、そうだったとしても、社長が指示した証拠にはなりません。室長が、遠藤が言っていたのですか? 社長の命令で記事を書けと言っていたのですか?」


田中は震える体を江口にバレないように一生懸命隠し、対峙する。


「そこまでは、言ってなかったが…。」


先程まで、荒れ狂う鬼神のごとく、吹き続けていた嵐が突然、勢いを失くし、弱まる。

田中の震えながらの一手が、功を奏したようだ。


「そうよ。それだけでは、私が指示したという証拠にはならないわ!」


勢いを失くし、弱くなった江口を見て、今度は「女王」の方が息を吹き返し、反撃に出た。

 

「どっちにしろ、この記事が出たということは、アンタの落ち度だろうが!」


「女王」の言い方が気に食わなかったのか。消えかけていた江口の怒りが、一気に燃え上がり、火を噴く。

石炭をくべられた機関車のように頭から煙を出しながら、江口は「女王」の方に向かって、詰め寄る。


「女王」はまたも躰が鎖で締め付けられ、動けない。


「二人とも落ち着いてください!」


田中が、二人の中に割って入る。


田中の声で、今度は江口の動きが止まる。


田中は冷静だった。ここで、江口だけを非難していたら、きっと江口は逆上して、何をしたかわからない。数的有利と言っても、女が二人。男の江口には敵わない。

そこで田中は、仲裁役として、どちらにつくこともせず、冷静な立場で判断しようと瞬時に考え、実行した。

しかし、“実行した”といっても、無我夢中から生まれた行動であって、田中自身も深く考えず、半ば、反射的に体が動いたようなものだ。


でも、そのおかげで、江口の動きを止めることができた。


「お互い、冷静になりましょう。」


田中は、できるだけ声を荒げず、二人の間に生まれた危うい均衡を崩さないように、そっと、そっと、ゆっくりと話しをする。


「江口様のお気持ちもわかります。しかし、弊社としては、そのような発表をしておりません。何かの手違いで、誤解が生じたものと思います。事の真相が明らかになるまで、どうか、ここは冷静になって下さい。」


田中は江口から目線を逸らさず、説得するように話しかけた。


「…まぁ、そうだな…。」


烈火の如く、燃え上がった炎は、一気に沈静化する。

江口は振りあげた拳を田中の機転によって、降ろすことができ、田中も最悪の事態を回避することができた。


「社長を落ち着いて下さい。きっと、これは何かの間違いです。室長に連絡を取れば、すぐわかります。」


今度は「女王」のをジッと見つめて、諭すように話す。


「そうね。これは、きっと、何かの間違いよ。」


「女王」も田中の冷静な行動によって、本来の「女王」に戻るつつあった。


「室長と連絡が取れれば、問題は解決すると思います。」


「そうね。それじゃあ、遠藤に早速、連絡を取ってちょうだい。」


「えぇ。そうしたいのですが…。」


そう言いながら、田中は、江口の顔を注意深く覗く。


遠藤と連絡を取るには、一度、隣の部屋の秘書室に帰らなければならない。しかし、この状況で「女王」を一人にしておくのは危険すぎる。

野良犬とカナリアを一緒の部屋にさせておくわけにはいかない。どちらも冷静になったとは言え、やはり、危うい均衡をなんとか保っているのは事実。いつ崩れるかわからない。油断はできない。


それを察した江口は、両手の平を顔の位置まで上げ、田中に見せながら

「OK。大丈夫。もう、何もしない。さっきは、ついカッとなって、大きな声を出してしまった。それは、謝る。もう、何もしないから、連絡を取りに行ってくれ。」


両手の平を見せたまま、江口は後ろへと下がり出す。


「今度、俺が何かしたら、警備員でも警察でも呼んでくれて構わない。」


そして、いつものソファーの定位置にドサッと座り

「俺は、ここから動かない。約束する。だから、どうぞ、連絡を取りに行ってくれ。大丈夫だから。ほら、早く、行って。」


こんな状況下でも、江口は鼻につく言い方や仕草を忘れない。


「それでは、行って参ります。」


田中は「女王」に小さく語りかけ、江口をけん制するかのように視線を離さず、ジワリジワリと奥の秘書室へと近づく。

江口はそれをよそめに、ソファーの背もたれに両手を思いっきり伸ばし、足を組み、天井を見ている。

動く気配はないようで、田中はひとまず安心をする。


「女王」にアイコンタクトを送り、田中は秘書室へと消えて行く。


突然、「女王」の城に静寂が訪れた。


江口は、ずっと天井を見続け、「女王」は、江口がばら撒いた写真を穴が開くほど見つめている。


気味の悪い沈黙が続く。




「いつから、なんでしょうね?」


沈黙を破り、江口が天井を見続けたまま、「女王」に話しかけた。


「えっ?」


「女王」も写真から目を逸らさず、江口の問いに答える。


「二人ですよ。いつからグルだったんでしょうね。」


「グル?」


「女王」が写真から目を離し、江口を見た。


「遠藤さんと、その記事を書いた記者のことですよ。」


江口も「女王」の顔を見る。


「二人はグルだったんですよ。最初から。」


「グル?遠藤が?」


「女王」の表情は、困惑というよりも、どちらかと言えば、嘲笑に近い表情だった。


「鈍いな社長。あたなを落とし入れるためですよ。」


江口は背もたれに預けていた体を起こし、嘲笑の言葉で、「女王」を見つめた。


「いいですか社長。この件で社長が関与してないことはわかったとしても、じゃあ、誰がこの記事を書かせたのか?内部を良く知る者でなければ、この記事は書けませんよ。」


「女王」の表情が徐々に訝しげになっていく。


「その社長を良く知る人物とは一体、誰なのか? 自ずと答えは出てくるでしょう。それに、確か、私がクラウドの絵をはじめ持って来た日、私の前に来ていたのが、その記者ですよね。あまりにも出来過ぎている。偶然とは思えない。」


「女王」は思わず失笑してしまった。


何を言うかと思えば、真剣な顔して、三文小説さながらの陳腐な推理を言い出したのだから、思わず失笑してしまった。


「遠藤が裏切る?私のことを?ナゼ?」


何もわかっていない「女王」に、江口がひとつ大きなため息をつく。


「この世にない作品を売ろうとしているんですよ。詐欺に近い行為じゃないですか。今のクラウドの人気なら行列を作り、欲しいという人間が並ぶでしょう。でも、この件が明るみになったらどうなりますか? 人気が一気に怒りへと変わり、批判の声があがりますよ。その矛先はどこへ向かいますか?」


江口は「女王」を指さし、「社長!あなたのところへ向かうんですよ!」と、いつになく、真面目な顔で江口が話す。


それでもやっぱり、「女王」は失笑するしかなかった。


なぜなら、そんなことは決してありえないからだ。


二十年来の右腕で、「女王」の影となり、支えとなり尽くしてきた遠藤が「女王」を裏切ることなんて、万にひとつもない。いや、億にひとつもない与太話。

例え明日、日本にアメリカ人の総理大臣が誕生しようとも、例え、ライヘンバッハの滝からモリアーティーが蘇ったとしても、遠藤が「女王」を裏切ることなど、兆にひとつもない話。


だから、「女王」は失笑する。失笑するしかないのだ。


「あり得ないわ。そんなこと。」


「女王」は一蹴する。


「それは、どうですかね。」


江口は「女王」の一蹴する仕草を見ても、感情を搔き乱されることもなく、冷静に淡々と語りかける。


「人に言えない秘密なんて、誰しも一つや二つ持っているものでしょう。わかった気でいるのは社長だけじゃないんですか?」


江口の表情は冷たい。

淡々と語りかけてくる冷淡な言葉。凍てつく。諦念的な感情。そのどれもが、「女王」の甘い考えをことごとく否定する。

すべてを見透かされ、答えを知っているような口ぶりが、「女王」にとって、不愉快だった。この上ない侮辱に思えた。


「社長にもあるでしょ。人に言えない秘密ぐらい。」


ギッと江口を「女王」が睨む。


「まっ、そのうち、わかりますよ。」


江口は意に介することもなく、また両手を背もたれに広げ、天井を見つめる。


「女王」は、江口の何もかもが気に食わなかった。立場が逆転したような物言いが許せなかった。

江口は愚行を重ね過ぎた。一時の感情として許される範囲を超えてしまった。


この問題が解決したあとは、江口にどちらが上か、教える必要が出て来た。

あいにく「女王」には、仏のような三度の顔を持ち合わせていない。




程なくして、秘書室から田中が出て来た。そして、すぐに江口の居場所を確認する。

秘書室に戻る時と同じ場所に江口は座り、「女王」に危害を加えた様子もなく、「女王」自身もまた、貴婦人の机から動いておらず、均衡は保たれたままだとわかり、田中は胸を撫で下ろす。


「女王」は待ちわびていた顔で、帰って来る田中を見ている。


田中は「女王」に近づき、小さく首を横に振り、江口に聞こえないよう小さな声で報告する。


「ダメです。室長の携帯にかけてみましたが、連絡が取れません。」


「えっ⁉」


田中の口から予想外の報告を受け、「女王」の隠せない驚きが言葉として漏れ出す。


「何かあったら、何時でもいいから連絡を。と言っていたのですが…。」


「どうして?」


「わかりません。しかし、まだホテルの方に電話してないので、答えを出すのは時期尚早かと思います。」


「そうね。」


「女王」が取り乱した分、落ち着いたのか。田中はとても冷静だった。次に何をすればいいか状況を判断し、適切に対処できていた。


「それと、確かに super womanのサイトに、この記事が掲載されています。」


田中は机に散らばった記事に目線を落とし、江口の話しが本当であったことを「女王」に報告する。


「だから言ったでしょ。」


江口はソファーからすくっと立ち上がり、二人の方に歩む寄りる。


「女王」と田中は反射的に身構える。部屋に入って来た時の恐怖が、二人の脳裏を走る。

しかし、江口は先ほどとは違い、冷笑な表情で二人を見つめ、言い放つ。


「社長。いい加減、目を覚まして下さい。これは重大な裏切り行為なんですよ。わかっていますか?あなたを嵌めようと秘書が企んだ計画なんですよ!」


その言葉に反論しようと、「女王」が口を開こうとするが、「現に連絡とれてないんでしょ。」 またも江口が言葉を遮り、「女王」の口を塞ぐ。


江口に口を塞がれなくても、返す言葉など二人にはなかった。すべて事実、言い訳はできない。それに、返す言葉がなかったということは、江口の言っていることを暗に認めるということでもあった。


それを見透かすように、江口は嘲笑いながら

「いいですか。何度でも言いますよ。これは裏切りなんですよ。社長。認めたらどうですか。あなたは側近にまんまと嵌められて、今、窮地に陥っているんですよ。」


屈辱的な言葉を二人はジッと耐え聞いている。それしか方法がなかった。しかし、その聞いている「女王」のは、怒りよりも遥かに濃い殺意にも似た瞳で江口を見つめ、田中も「女王」と同じ瞳で嘲笑う江口を見ていた。

それでも江口は意気揚々と屈辱的な言葉を二人に投げかける。


「言っておきますが、私は一切、あなた方に協力はしません。だってそうでしょ?この状況はあなた方が勝手に招いて作ったものなんだから。仲間割れを助ける義理立てなんて、私にはありませんからね。好きにやってくださいよ。」


そういうと、江口はドアへと歩き出し、

「新作なんて、提供しませんから。当てにするのはやめてくださいね。謝罪するなり、秘書をクビにするなり、お好きにどうぞ。」


ドアを開け、黙って、この屈辱に耐えるしかない二人を見て、江口は

「あっ、それと社長。最後に老婆心ながら、一つご忠告を。この件は早めに対処した方がいいと思いますよ。ただでさえ過熱しているところに、この根も葉もない噂を軽くみて、何もぜず放置しとけば、火は、あっという間に燃え広がり、社長を火だるまにしますよ。自分で点けた火で焼身自殺はシャレにならないでしょ。まっ、部外者の私が言うことでもないんですけど。それじゃ、社長。次、会う時まで、どうかご無事で。それでは、ご機嫌よう、さようなら。」


と、言いたいことだけを言い、いつものように、芝居じみた台詞を吐き、ドアが閉まる。


いつものように、「女王」の城には江口の胡散臭い激臭だけが残り、二人の気持ちを不快にさせ、今回は “殺意” という新しい感情が芽吹いていた。


























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