第29話  亡霊(完)

十一時を少し過ぎた頃、社長室のドアがゆっくりと開き、開くと同時に廊下の明かりが、城の中へと滑り込む。


「こんばんは。」


明かりに紛れて、江口の顔がニュッと現れる。


「…あれ?暗い。」


滑り込んできた廊下の明かりだけでは、中の様子はよく見えず、仄暗い部屋がぼんやりと映るだけ。

呼吸の止まったこの空間。

廊下の明かりだけでは頼りなく、何も見えない。


「お留守ですか…?」


江口は、この異様な状況に躊躇することもなく、明かりを飲み干す、闇夜の空間に、自ら足を踏み入れた。


ドアがパタンと閉まると、無音という静寂が、江口の周りを取り囲む。


辛うじて部屋が見えるだけで、ほとんど見えない。

暗闇に慣れない江口は、しきりに目を細め、辺りの様子を窺う。


「そこに座って。」


「女王」の声が、暗闇の中、静かに響く。江口は貴婦人の机の方角に目を向ける。


ぼんやりとだが、イスに座っている人影が見える。


「社長ですか?」


江口は暗闇をかき分けながら、目を凝らし、「女王」の姿を探す。


「いいから、座って。」


無機質な言葉で、淡々と江口に「女王」は話しかける。


「どうしたんですか。電気も点けないで。」


「女王」に言われるがまま、江口はソファーに座ろうとするが、その言葉には、不安や恐れ、そう言った類の感情は一切見られない。

この闇夜に飲み込まれることも、「女王」に支配されている様子もなく、人の神経を逆なでするような口調で話す江口が、そこに居た。


それは態度でも見て取れる。


窓際のソファーには座らず、あろうことか「女王」の特等席にドカッと腰掛け、背もたれの上に両腕を大きく伸ばし、足を組む。


「女王」に対し、挑発行為にも等しい態度。すべてがバレたというのに、江口の顔には反省の色などまったくなく、悪びれた様子もない。


江口は重々しく重なる夜の雲を見つめ

「絵は描きませんよ。それはあなた方の問題なんですから。いちいち私を絡ませないで下さ…。」


話しながら、貴婦人の机に目を向けたその瞬間、突然、目の前に、「女王」が姿が現れ、幽霊のように暗闇の中、立っている。


さすがの江口は驚き、最後の言葉を飲み込んだ。


いつからそこに立っていたのかわからない。足音も気配も感じなかった。暗闇の中から、フッと「女王」の姿が浮かび上がってきた。。


江口は反射的に身構えた。そして、何やら得体の知れない恐怖が背筋を凍らせ走り抜ける。


「クラウドは、どこにいるの?」


暗闇の中、消えて行くような小さな声で、「女王」は江口に語りかける。

驚きと小さな声で、よく聞き取れない。


「えっ?」


と、江口が聞き直した瞬間、十本の指が、江口の首に巻き付いた。


「ぐゎ。」


不意をつかれた江口は声も出ず、息も出来ない。

細く綺麗な十本の指が、白い蛇のように江口の首にまとわりつき、ロープのように締めつける。


「どこ!クラウドはどこ!」


五十代の女性とは思えないほどの力が、江口の首を圧迫し、折れんばかりに絞り上げる。

上から首を絞められては、男の江口と言えども抵抗は難しい。その上、後ろの背もたれが壁になり、すべての重さが、首に集中する。


「ごぉ、ぐぅ、げぇ、」


「言いなさい!言え!」


両手を使い「女王」の手を振り払おうとするが、この態勢では力が入らない。必死に逃げようとするのだが、背もたれがジャマをして動けない。

必死に逃げようとすると、滑るように体が背もたれからソファーへと流れ、江口の体が横になる。皮肉なことに、逃げようとすればするほど、逃げられず、馬乗りになって「女王」が江口の首を絞めつける。


「女王」の体重が、さらに江口の首にのしかかる。


江口から見た「女王」の顔は、いつもと同じで、美しく、とても人を殺そうとしているようには思えなかった。そのアンバランスな状況が、ゾッとするほど冷たくて、戦慄を覚えた。

その冷たさが、「女王」の中にある“殺意”だと本能的に感じ取った江口は、生きるために、無我夢中で暴れもがく。


それは人間と言うよりも、生き物としての逃走本能。

生命の危機を感じ取った。


「アンタみたいな人間に構ってなんていられないのよ。ジャマなのよ。ねぇ、言っている意味わかるでしょ?。」


冷静な口調とは真逆の怒りが、「女王」の指を通して、江口の首に伝わる。


「がぁ、げぉ、ずぅ、」


息をするのがやっとで、言葉が音にならない。

江口の顔色が赤から青。紫がかった土色にへと変化していく。


そんな苦痛に歪む江口の顔に、「女王」はゆっくりと近づき、「アナタは、非常に不愉快。」と、冷たい独り言を投げかけた。


“殺される!”

江口の頭の中を、その言葉が支配し、全身に恐怖が走る。


江口は必死になって、体を動かし、「女王」から逃れようと抵抗するのだが、思うように動かない。

もがけばもがくほど、指が首に食い込み、息が出来ない。息が出来ないからもがく。もがけば、さらに指が首に食い込む。

死への悪循環が、容赦なく、江口に襲いかかる。


それでも江口は生きるため暴れもがく。もがかなければ本当に殺されてしまう。

暴れもがいているうちに、江口はそのまま床にズリ落ちた。


今度は床が壁となり、江口の逃げ道を塞ぐ。ソファーの時より最悪な状況。

江口にまたがり、「女王」がグッと下に力を入れると、細くて白い枝のような両腕から、一気に力が流れ込み、江口の気道を強く押し潰す。


「ぐㇸっ、」


呼吸が「女王」の両手で塞がれる。


「言え!クラウドはどこにいる!言わなきゃ殺す!」


雑巾を絞るように、江口の首が締まっていく。


江口は薄れそうな意識の中で、残った力を振り絞り、「女王」のピンと伸びた肘の関節を叩く。

すると力がカクンと逃げ、首に余裕ができた。そのことにより、ようやく酸素が肺の中に入り込み、江口は少しだけ生き返る。


そして、力が抜けたことにより、躰のバランスが崩れ、前のめりに「女王」が倒れ込んで来た。

すかさず江口は、右脚を「女王」の躰の下に潜り込ませ、思いっきり腹部を蹴り上げた。


「女王」も一人の女性。男の力には敵わない。

「女王」の躰は、軽々と後ろに飛ばされた。


息を吹き返した江口は、咳き込みながらも、両肘を使い後ろへと逃げよとするが、焦りと恐怖で思うように体が動かず、まるで水の中で溺れているかのように足をバタバタとさせ、死に物狂いで「女王」から離れようとしていた。


それでも何とか、江口の上半身がソファーから出ることができた。あとは右側にあるドアに向かって走ればいいだけなのだが、その距離が遠い。

さっき歩いて来た道が果たしなく遠い。体が思うように動ない今の江口にとって、数歩で届くドアでも、遥か彼方に感じる。


それでも行かなくてはいかない。行かなくては「女王」のになる。


手を伸ばし、ドアへと向かおうとしたその時、またも突然、暗闇から「女王」の姿が現れ、江口の上に降って来た。


再び、江口の首に白い蛇が巻き付く。


「がぁっ、」


江口は振り出しに戻った。

苦しみと痛みが、休む間も与えず、江口の首を絞め上げる。


「クラウドはどこ!早く言いなさい!」


「女王」の顔は、鬼神そのもの。今にでも江口の顔を喰らいつくさんばかりに睨み、唸っている。


暗闇に見えた「女王」の素顔。


「ここまで来るのに、どれだけ時間がかかったと思ってるの。こんなところで終わるわけにはいかないのよ。アンタみたいな人間にジャマされるわけにはいかないのよ。」


冷静な言葉とは裏腹に、白い蛇は江口の首に強く巻き付き離れない。

ジリジリと江口の呼吸が浅くなり、ジワジワと江口の意識が遠くなる。


江口が死ぬまで、この拷問は続く。


「言え!クラウドはどこだー‼」


次の瞬間、「女王」の後頭部に鈍い衝撃が走る。


それと同時に、「女王」の躰から力が抜け、糸の切れた操り人形のようにバタリと江口の体の上に倒れ込む。


「女王」はひどく困惑した。意識があるのに躰が言うことを聞いてくれず、まったく力が入らない。どこかに躰が行ってしまったような感覚。一体、なにが起こったのか「女王」自身にもわからない。


力が抜けダランと上に覆いかぶさる「女王」の躰を、江口は布団から這い出るようにして、逃げ出す。


激しくせき込む江口の声が、遠くに、近くに聴こえる。


それでも「女王」は何とかして立ち上がろうと、両腕に渾身の力を込め、床を押し、上半身を持ち上げた

すると、ポタポタと頭から雫のようなものが落ちて来た。

暗くてよく見えないが、ポタポタと落ちた雫が、赤い絨毯に吸い込まれて行くのがわかる。


「…雨?」


一瞬、「女王」は錯乱した。きっと、この鈍い衝撃のせいだろう。


重力に引き付けられるように、「女王」はまた床に倒れる。


倒れた拍子に「女王」の顔が右側を向く。


「女王」の視線に見えたのは、開いたドアと廊下の明かり。廊下の明かりが「女王」の城の中に少しだけ入り、辺りを照らしている。


そして、「女王」の目の前には鷹のトロフィーが無造作に転がり、トロフィーの台座の角には赤い付着していた。


それを「女王」は、ただ茫然と見つめている。

苔が空を見つめるように、郵便ポストが行き交う車を見つめるように、ただただ茫然と見ている。


誰かの声が、遠くに、近くに聴こえる。


開いたドアとトロフィーの間に人影が見える。廊下の明かりに照らされて、二つの人影が、ぼやけた「女王」の視界に現れた。


ぼんやりと、二組の足が見えた。


「…ちゃん。大丈…。」


微かに遠くで、近くで聴こえる声。人影を辿り、目に入ってきた二組の足。

「女王」は目線をゆっくりと上に上げた。


「⁉」


「女王」は自分の目を疑った。


江口の横に立っていたのは、秘書の田中だった。


苦しく咳をしている江口の背中をさすり、締められた首を心配そうに見ていた。


「お兄ちゃん、大丈夫?」


「⁉」


「女王」は自分の耳を疑った。


江口の顔を見て、田中はと言った。

遠くに、近くに聴こえる声だが、「女王」の耳にハッキリと聴こえた。


それとも躰と頭が動かないせいで、幻覚、幻聴、夢うつつになってしまったのか。

「女王」は、ただただ茫然と二人のことを見ていた。


「平気?」


田中はしきりに江口の首元を見て、心配している。

声が出ないほど激しく咳き込んでいた江口だったが、少し経つと咳も収まり、背中をさすっていた田中に左手を見せ、“大丈夫”のサインを送った。


「この女、アタマ、オカシイぞ!本気で絞めてきやがった!」


咳が収まると、江口は堰を切ったように「女王」を罵倒し始めた。


「馬鹿じゃねぇのコイツ!マジで殺されるかと思った!」


江口の怒りが絨毯の上で寝そべる「女王」に容赦なく浴びせられる。


「だから、気を付けてって、言ったのに。」


田中が江口を心配そうに注意する。


「油断した。未来が来てくれてよかった。助かった。」


首元を触りながら、江口は田中に礼を言うと、目の前で倒れている「女王」に近づき、しゃがみ込んだ。

意識があっても「女王」は動けない。植物のように、江口の顔をただ茫然と見るだけ。

そんな「女王」の顔をマジマジと見て、「コイツ、ホントわかってないんだな。」

江口は、呆れるように呟いた。


「そりゃあ、そうでしょ。」


吐き捨てるように田中が答えた。


「しょうがねぇ女。」


ニヤリと江口が笑う。


江口は左の人差し指をピンと立て、「女王」の目の前に差し出し、その人差し指をゆっくりと後ろへと動かす。


それに釣られ「女王」の目線も、江口の後ろへと移動する。


ゆっくりと動く江口の人差し指は、後ろに立っている田中のところでピタリと止まる。


「女王」と田中の目が合う。


「あの子は、二十五年前、江口久美子の家に置いていった、アンタの娘だよ!」


「⁉」


声も出ず、表情も変わってはいないが、驚いていることは「女王」のを見れば、それは一目瞭然。すぐにわかった。


すっと側に居ながら「女王」はまったく気が付かなかった。

二十五年前の古い記憶など、娘のことなど、もうすっかり忘れていた。


捨てたはずの思い出。

「彼女」の古ぼけた記憶。


そんな「女王」に、江口は心底呆れていた。

それは声や表情に出なくても、江口のを見れば、一目瞭然。すぐにわかった。


軽蔑の眼差しで、江口は「女王」を見ている。


「涙のご対面だな。」


「やめてよ。気持ち悪い。」


皮肉めいた江口の言葉に、田中が即座に反応し、唾を吐くように否定する。


「あの時のことは、よーく覚えてるよ。アンタ、未来をお袋に渡したら、すぐ、いなくなったよな。」


久美子にはあの時、一人、子供がいた。もちろん、その当時の「彼女」が知るわけもなく、「女王」にとっては青天の霹靂。捨てたはずの過去が、突然、今、目の前に亡霊となって現れた。


その亡霊は、「彼女」が久美子の元にやって来た時、一番奥の廊下の角から隠れるようにして見ていたのだ。誰も知ることのない「女王」の素顔を見ていた者がいたなんて、はやりこれは、亡霊としか言いようがなく、「彼女」の犯した禍が、時雨のように、一気に「女王」の上に降りかかって来た。


「あの時、俺は幼心に思ったよ。」と言うと、江口は「女王」の顔に近づき、「コイツ、クソだなって。」と、唾を吐きかけるように言い放った。


唾のように吐きかけらても「女王」の顔が変わることはなかったが、動揺がありありとに映っていた。


「それ以来、アンタ、一回も会いに来なかったなよな。酷い女だよ。お腹を痛めて産んだ子を、そうも簡単に忘れられるかね。まっ、そのおかげで、未来はウチの家族になれたんだけどな。それは感謝してるよ。いや、ホント。」


「女王」は黙って、江口を見るだけだった。


「しかし、“江口”って名前を出したら思い出すかと思ったけど、全然。」


呆れて笑うしかなかった江口に、「当たり前でしょ。この女、自分以外、興味ないんだもの。」と、田中が追い打ちをかけるように話す。


江口はそのまま立ち上がり、正面の壁へと歩き出した。


二人きりになった「女王」と田中。


静かに呻き声を上げ、「女王」が田中に向かって、右手を伸ばした。

それは赦しを乞う母の手か?それとも部下に助けを求める上司の手か?震える右手が田中に何かを訴えようとしていた。


それを感じ取ったのか、田中は、ゆっくりと「女王」の元に近づき、その伸ばした右手の甲を静かに踏みつけた。

真っ赤な毛足の長い絨毯に、「女王」の手が、田中のパンプスと共に沈んで行く。


そして、小枝が折れる音がした。


「うっ!」


思わず「女王」から声が零れ出る。

しかし田中は、ただ黙って「女王」を見下ろしていた。その顔には、一片の罪悪感もなく、そのには、血のつながりを感じさせる暖かなものは、一切なかった。


ただ虫を踏み潰すように、田中は「女王」の手を踏み潰した。


そこへ江口が、壁にかけてあったクラウドの絵を持ち出し、苦しみに歪む「女王」の顔の前に立てかける。


「もう一つのご対面だ。」


江口は、ニヤリと笑う。


「アンタが恋焦がれ、俺の首を絞めてでも会いたかった画家。」


そういうと江口は、またも左の人差し指をゆっくりと後ろへと動かし、「紹介するよ。彼女がクラウドだ。」と、田中を指す。


「⁉」


「女王」の瞳は《め》は、またも驚き、そして、激しく動揺していることが、江口には手に取るようにわかった。


それが、可笑しくて堪らない。


自分の一番近くに居た人物が、娘でもあり、クラウドでもあったのだから、さすがの「女王」と言えども驚く、動揺する。


「お袋に聞いたら、アンタ、子供の頃から絵が上手かったんだろ?未来はその才能を受け継いだ。アンタから貰った唯一の才能だ。」


「女王」は田中をジッと見ている。

田中は汚いものを見るようなで、「女王」を見ている。


「アンタが以前、言ったように、このクラウドの絵のテーマは恨みや憎しみ。そう、アンタを思って描いた絵だ。未来が、クラウドが、アンタに捨てられ、アンタだけ何もなかったように「女王」ぶって、偉そうにしているその顔を思い描き、描いた絵だ。」


無言のまま「女王」は聞いている。


「この意味わかるか? アンタは、自分の過去を自分で世の中に広めたんだ!」


今まで心の奥に溜まっていたドロっとした感情を、江口は硬直している「女王」の顔にぶちまけた。


「捨てられた娘が、アンタを恨み描いた絵を、捨てたアンタがその恨み・憎しみを大絶賛し、率先して世の中に広めてくれた。それも世界中にだ!アンタの影響力はスゴイよ。ホント、スゴイ。正直、俺はここまでとは思っていなかった。想像以上だ。あっという間に広がった。これは兄として礼を言うよ。ホント、ありがとう。そのおかげで、アンタの過去が未来永劫、世界中で飾られることになった。こんなマヌケで、最高の復讐はないだろ。なっ、そう思うだろ?」


そこにはいつもの飄々とした江口はいなかった。復讐を楽しみ、燃えている一人の男が、「女王」の目の前で笑っていた。


その後ろで、田中が冷めたで、「女王」を見ている。


「まっ、この先、アンタが “実は、この絵を描いたのは、私が捨てた娘なんです。私を恨み、憎み描いた絵なんです!” と言って、マスコミに出るのもいいさ。アンタ、そういうの好きだろ? でもさ、そんな薄情な女、世間からどう思われるだろ?同じ女性が、これからもアンタを慕ってくれるかな? 今までと同じように扱ってくれるかな?アンタ、そういうの嫌いだろ?プライドが許さないだろ?まっ、好きな方を選べばいいさ。アンタなら上手くやるだろうからさ。」


報いだ。これは過去からの報いだ。


「彼女」が捨てた過去が、今、報いとなって「女王」の背中にのしかかる。

身動き一つとれず、「女王」は、ただジッと報いの重さを感じていた。


「だが、言っとくぞ!自分で絵を描いて、クラウドのフリはするなよ!もし、それをしたら、またあの女性記者に記事を書いてもらうからな!」


江口は「女王」の顔を指さし、厳しい顔で忠告する。


「もし、アンタがそんな手を使えば、アンタは贋作を描いて売りさばいていたと、あの女性記者に言うよ。あの女性記者なら、面白おかしく書いてくれるだろ。そうなれば、騒ぎを大きくなり、今度こそアンタを破滅だ。なにせ、それは詐欺だからな。立派な犯罪だ!」


江口は後ろに立っている田中を見ながら、「こっちには本物のクラウドがいるんだ。アンタが偽物と言うことは、すぐに証明できる。まっ、やるだけ無駄というものだ。」


完璧だった。


江口と田中は用意周到、真綿で首を締めるように、ゆっくりと少しずつ、「女王」の息の根を止めにかかっていた。

綿密に計画した見えない糸が、静かに「女王」の躰に巻きつき、気付かれないように悟られないように、徐々に、徐々に、締上げ、気が付いた時には、後の祭り。どうしようもない状態になっていた。

二人が張り巡らしたこの蜘蛛の巣は、田中が「女王」の前に現れた時から、すでに始まり、江口がこの城に入って来た時には、もうすべてが整っていたのだ。

何も知らない哀れな一匹の美しい蝶が、まんまとその罠に嵌り、すべてを絡め獲られ、その美しい輝きさえ、今、失おうとしている。


最初から根こそぎ奪う気で、「女王」の前に現れた田中と江口。

捨てられた娘の恨み、憎しみは深く、底が見えない。


これも過去を捨て、何もなかったかのように人生を謳歌し、好き勝手に生きて来た女に対しての報いなのか。


はねをもぎ獲られ、すべてを失い、ただ虚しく床に倒れている悲しいだけの女。


「女王」の城から、「女王」が消えた。


地に墜ち、息も絶え絶えのみすぼらしい一匹の蝶を見ながら、江口は立ち上がり、未来の横へと近づき、「しかし、こんなに上手くいくとは。」と、少し呆れた口調で話しかけた。


「だって、この女、興味あるのは自分のことだけ。この会社のことなんて全然、興味なんだもの。こっちが言えば、すぐに何でも信じたし、簡単だった。」


自分を捨てた女を嘲笑いながら、未来は言った。


「でも…。」


そういうと、未来は悲しそうにうつ向いた。


「どうした?」


妹に兄は、優しく声をかける。


「…遠藤さんには悪いことしちゃった…。」


その時、はじめて未来の表情に後悔の色が見えた。その色はひどく落ち込んだ色だった。

未来にとっては、秘書としての仕事を時には厳しく、時には優しく指導してくれた恩人。いくら計画のためとは言え、遠藤を巻き込み、その上、あんな無様な姿で、このビルから追い出してしまったことに心を痛め、未来は苦しんでいた。


「じゃあ、退職金代わりに。」


「女王」から奪い返したクラウドの絵を妹に見せ、兄は優しく妹を気遣った。


「…そうね。」


兄の優しさで、心が少し軽くなり、暗く落ち込んだ妹の表情に微笑みが戻って来た。

妹の微笑んだ顔を見て、兄はホッとし、兄もまた微笑む。


そして、倒れている「女王」に、また二人が目をやると


「今日をもって、クラウドは忽然とこの世の中から消え去る。まるで幽霊だったかのように。そして、もうクラウドの絵が手に入らないとわかれば、人はクラウドの絵を求めずにはいられない。喉の渇きのように、欲しくて欲しくて堪らなくなり、そこに正体不明、謎の天才画家という付加価値が付く。そうなれば、ますますクラウドの価値は上がる。ドンドン上がる。

アンタが作ってくれた相場で、市場が動く。そして、アンタの過去が、文字通り消えない過去となって、永遠と残る。」


この時を待っていたかのように、江口は得意満面な顔を「女王」に見せ、話す。

「女王」はもちろん黙ったまま。何を見て、何を感じているのかはわからない。ただ黙って、江口の顔を傍観者のように見ていた。


「明日の記者会見、楽しみにしてますよ。…でも、この様子じゃ、無理かな…。まっ、どっちにしろ時間の問題だけどな。」


大量ではないが、「女王」の頭から血が流れている。

しかし、「女王」を心配する者も助ける者も誰もいない。「女王」は「女王」の城で孤立無援となり、罰を受けている。


倒れている「女王」を楽しそうに見ている男と、まるで使い古したボロ雑巾を見るように「女王」を蔑む女が、目の前に立っている。


「好きな道を選べばいい。アンタ、そういうの得意だろ。今までも好き勝手やってきたんだから。」


過去の亡霊が、「彼女」の犯した過ちを正しに来たのだ。


もし、「女王」が話せたとしても、きっと返す言葉がないだろう。


「未来も最後に何か言ってやれよ。」


これも兄の優しさか。

二十五年間、「女王」に対し、積りに積もった妹の想い。それをぶちまける時間を作ってあげたのだ。


最初で最後の“親子の時間”


その兄の優しさを察し、妹は倒れている「女王」へとゆっくりと近づく。


“恐怖”が「女王」のに、ありありと映し出される。

指を折ったパンプスが、「女王」の顔の前で止まる。


「女王」は何も出来ない。逃げることも、声を上げることも出来ない。


暗闇に怯え、震える子供のようだ。


暗闇の中で、亡霊を見てしまった。決して見てはいけない亡霊。

怯え、震える女を、その亡霊は見下すように見ている。


女の呼吸が恐怖で荒くなる。


亡霊は静かにしゃがむと、女の髪を鷲掴みにし、上へと持ち上げた。

低い声と共に、女の顔が亡霊の顔に近づく。


亡霊は怯え、震える女の顔をマジマジと見ながら、「母親じゃなくて、ホントよかった。アンタみたいなバカな女。」


そう言い放ち、亡霊は女を思いっきり床に叩きつけた。


またも低い声が聴こえた。


「やだー、血が付いたじゃない!汚ったない!お兄ちゃん行こう。」


未来はハンカチを取り出し、手に付いた女の血を拭きながら、振り返ることもなく、部屋を後にした。


「さて、時間も深くなってきたことですし、私たちはこの辺で失礼致します。今後のご活躍を楽しみにしていますので。それでは、おやすみなさいませ。女王様。」


いつもの芝居がかったクサイ台詞を残し、江口が部屋を去る。


ドアがバタンと閉まると、夜の静寂さが城の中に漂いはじめる。


江口が来る前と同じ、夜の静寂。

しかし、その城にはもう「女王」はいない。クラウドの絵と共に消え去った。


そこにはただの女が横たわっていた。

見るも無残なほど、破滅した女。


その女は、暗闇をジッと見ている。


夢なのか? それとも悪夢なのか? 


今、起こった出来事を、女は走馬灯のように思い出し、ジッと暗闇を見続けている。


そんな女の目頭に流れ、落ちて行く。


それは、捨てた娘に殴られた自分の血か?  

それとも懺悔の涙か?


それはこの場所からでは、暗くてよくわからない。


頬を伝うそのを、女はただ黙って感じていた


あるじをなくした城の中を、あの日の風が吹き荒れる。


あの日の風の音が、遠くに、近くに聴こえて来る。



               =クラウドについて、誰か私に教えてほしい 完=

















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クラウドについて、誰か私に教えてほしい。 つねあり @tuneari

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