第28話 「女王」の生還

「社長、いらしたんですか?」


田中の声を聴き、「彼女」は「女王」へと戻される。


秘書室のドアの前、田中のシルエットが目に入る。


気が付くと、辺りは暗く、日はとっぷりと暮れていた。月明かりのない重々しい鉛色の空が、城の中まで入り込み、滲むように浸食していた。


境界線がなくなったこの空間に、秘書室の部屋の灯りが、そっと静かに流れ込み、

ほんの少しぼんやりと、貴婦人の机の陰影が浮かび上がる。


「どうしたんですか?真っ暗じゃないですか。」


灯りを点けようと、左の壁にあるスイッチに田中の指がかかった瞬間、「点けないで!」。突然、発した「女王」の言葉に田中は驚き、指が止まる。


「考えごとしているから…そのままで。」


「…あっ、はい…。わかりました。」


」の顔に戻っているかどうか、自信がなかった。

「女王」以外の顔を他人には見せられない。


見せたくない。見られたくなかった。


捨てたと思っていた古いガラクタの記憶。それが不意に見つかり、思わず拾ってしまった。

つまらない過去の思い出に、ズルズルと足を取られ、引きずられ、気が付けば、時間を飛び越え、闇の中。


顔はまだ「彼女」のままのようで、「女王」は何だか恐くなり、とっさに隠さなくてはと、焦ってしまった。


「女王」は、大好きなライトを拒んだ。


「それで、要件は何?」


顔が見えず、「女王」の声だけが聴こえる異様な状況に、少し戸惑いながらも、田中は話を続けた。


「江口ですが、どうやら観念したようです。すべて知っていると脅しをかけたら、あっさり白状しました。これからやって来ます。」


「何時?」


「十一時です。」


「女王」は腕時計を見る。


「あと三時間ね。」


「はい。」


「本当に来るの?」


「はい。大丈夫です。法的処置を取ると言っておいたので逃げることはないでしょう。それに、今も探偵に見張らせていますので、何かあれば、すぐに連絡が来ます。大丈夫です。抜かりはありません。」


よほどの自信があるのだろう。田中の力強い声が、暗い城に響き渡る。


「そう。わかったわ。ご苦労様。」


顔を見られたくなかった「女王」はそれ以上、田中が入って来ないように、冷淡に素っ気ない返事をし、この話を終わらせようとした。


「それでは、江口を部屋に通した後、私は、こちらの秘書室で待機していますので、何かあれば、すぐに仰って下さい。」


「いや、そこには居ない方がいいわ。」


またもや、突然、発した「女王」の言葉に、田中の動きが止まる。


「…いや、それは、あまりにも危険では…。」


さすがの田中も、その提案には黙っていられなかった。

追い詰められた江口が、何をするか予測がつかない。秘書として「女王」の身を案ずるのは当たり前のこと。


田中の体が、思わず「女王」の元へと近づく。


「相手を警戒させないためよ。そこに居るとわかれば、あの男のことだから何を言って来るかわからないから。」


一歩踏み出す前に、「女王」が答え、田中の動きがピタリと止める。


「…しかし、それでは…。」


そう言われても田中は、秘書として「女王」を守らなくてはいけない。相手がいくら不真面目な江口とは言え、男。「女王」が負けるとは思っていないが、やはり心配になる。


「女王」の考えであっても、そう簡単には引き下がれない。


「大丈夫よ。心配しないで。さすがにあの男も、ここまで来て問題を起こすことはしないでしょ。それこそ警察沙汰なれば、困るのはアッチ。私が困ることなんて何もないんだから。」


、「女王」の言葉には説得力があった。


「まっ、そもそも、そこまでする勇気も覚悟も、あの男にはないでしょ。」


ではないかと思うほど、実に冷静沈着な分析だ。


そこまで理路整然と言われると、田中も返す言葉がない。

これ以上の心配は無用のようだ。これ以上、反論すれば、却って、「女王」の機嫌を損ねてしまう。


少しだけ経験を積んだ秘書の勘が、田中の気持ちにブレーキをかける。


「…社長がそこまで仰るのなら、わかりました。」


「女王」の案を渋々、田中は飲み込んだ。


「でしたら私は、江口をここに通した後、下の会議室で、警備員と待機しています。社長、何かあったら、すぐに呼んでください。飛んできますから。」


やはり秘書として、最低限の約束をしておかなければならない。守られるかどうかわからない約束だが、「女王」を野放しには出来ない。ある程度、を付けておかなければ、江口よりも収拾のつかない事態になる可能性がある。


これも、遠藤の影響か。それとも、自由過ぎる「女王」の影響なのか、それはわからない。わからないが、とにかく、田中は「女王」に無茶をしないよう念を押し、さらにその上から釘を刺した。


「わかったわ。何かあれば、すぐ呼ぶから。」


冷静に「女王」は答えた。



いつもと違う空気が、城の中を漂う。





江口が来るまでの間、「女王」の顔に残っていた「」が、ゆっくりと蒸発しはじめ、暗い闇へと消えて行く。


いつもの「女王」が、少しずつ戻って来る。


その中で、獲物えぐちが来るのを、ただ静かに持っていた。


このバカげた茶番劇に終止符を打つため、息を潜め、暗闇の中、ジッと来るのを待っている。


準備は、もう出来ている。


鋭いが、暗闇の中で、鈍く光る。




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