第27話 訪問者

またこの町に、春の嵐が訪れる。


時代に捨てられ、時が止まったこの町は、十年前よりも廃れ、錆びれ、死人すら歩かない寂しい町へと衰退し、病状はますます悪化。確実に死が近づいていた。


その滅び行く運命の中で、ただジッと風に耐え、町は健気にも生きようと抗う。

しかし、そんな抗いを嘲笑うかのように、海から吹く強い風が、みすぼらしい町の中を縦横無尽に吹き荒れ、命の灯を削り取る。


今日も強い風が、朽ち果てた家々の壁にぶつかり、錆びた音を町中に響かせていた。

喪に服したかのように、静まり返った夜の帳の中で、その音は不気味に木魂する。


それは死者に鞭打つ音にも、死神の笑い声にも聴こえる、風の音。

すべてを破壊し、亡き者にしようとする、風の音。


残酷なほど冷たく、憐れなほど厳しい風が、町の中を暴れ回り、町を風化させて行く。




「何年、住んでた?」


外で暴れている風の音を聴きながら、宏はお茶を一口飲み、隣で座る妻に話しかけた。


「…ん~、どれくらいだろ?おじいちゃん、おばあちゃんの時代だからね。」


クリっとしたを宏に向け、妻は答えた。


愛嬌たっぷりの顔立ちは、今も昔も変わらない。


久美子は結婚していた。


二十二の時、宏と出会い、この町で一緒に暮らしている。


「相当だな。よく、持ち堪えたよ。」


宏は部屋をグルリと見回し、海風に耐えた久美子の家を労った。


黒縁メガネをかけ、真面目を絵に描いたような顔をしている宏は、絵ではなく本当に真面目で、誠実な男。

久美子とは正反対の性格だったが、なぜか馬が合い、あれよあれよという間に結婚し、久美子の実家で暮らしている。


「でも、限界ね。あっちこっちガタがきてるし、そろそろ手狭になるし、いい機会だったんじゃない。」


お茶を一口飲み、久美子は答えた。


「だろ。俺が、ずっといい物件を探していたからね。」


自慢げに話す宏に、「お父さんと、お母さんのおかげじゃない。」と、すかさず久美子が伸びた宏の鼻をポキリと折り、話しの腰をボキリと折る。


「まぁ、そうなんだけどさー…。」


面目なさそうに宏は背中を丸め、しょんぼりとする。


「結婚した時から、この家売って、頭金にしろって言ってくれてたから、ホント、助かった。私と結婚して良かったでしょ。」


今度は久美子が自慢げに鼻を伸ばすが、宏は、ポキリもボキリも出来ないでいた。


「まぁ、そうなんでけどさ。…でも、いいのかい?実家、なくなっちゃうけど。」


突然、心配そうに話す宏に、「今になって、どうしたの?」と、吹き出すように久美子は笑った。


「そうなんだけど。寂しくないのかなって、さ。」


この何気ない一言に、宏の真面目さが窺える。


「私は全然、平気。もう充分、この町も、この家にも住んだし、それに、お父さんも、お母さんも都心に引っ越してから、こっち来てないしね。それに、もっと便利なところにやっぱり、住みたいし。」


その言葉は久美子らしく、カラっとしていて、この町にも、この家にも未練はなく、明るく前を向いていた。


「稔君は?」


宏は稔の気持ちも気にかけていた。


「稔は名古屋に今は住んでるけど、帰って来る気はないでしょ。不便だものここは。」


どうやら、久美子の家族には、家がなくなることに関して、過剰な思い入れはなく、それぞれが、それぞれの人生を歩み、進んでいた。


「?」


突然、久美子は玄関の方を向いた。


「どうした?」


宏は不思議そうに久美子を見て、尋ねる。


「いや、今、玄関で、音がしたような…。」


「風だろ。」


お茶をすすりながら、宏はさして気を止めず答えた。


「…そうね。」


「ようやく、この風ともお別れだ。やっと、解放される。」


宏は嬉しそうな声で両手を高々と伸ばし、解放される喜びを全身で表現した。


「大袈裟ね。」と久美子は笑って見せた。


「いやいや、大袈裟じゃないよ。久美子はこの町の人間だから当たり前かもしれないけど、俺にとっては、ホント、大変だったんだから。」


「どうして?」


「だって、こんなに風が吹くところなんて、そうそうないよ。」


「あるでしょ。」


宏の話をさして気にも止めず、久美子は、ススっとお茶を飲み、軽く受け流す。


「ないよ。ない。絶対、ないって。」


宏は大きく手を横に振り、久美子の話を否定する。

その姿が面白く、久美子の口元が微笑む。


「ホントに?」


「引っ越せばわかるよ。ここの風が、どれだけ普通じゃないか。ホント、普通じゃないんだから、この町の風は。」


宏が真剣な顔をすればするほど面白く、身振り手振りが大きくなる。久美子はそんな宏の姿を見ているだけで、笑いが込み上げ、心が温かくなる。


「どうかな? でも、まあ、一応、覚えておく。」


「ホントに、すごいんだから、ここの風は。」


久美子がまたも、ふと玄関の方を向く。


「どうした?」


身振り手振りをピタリと止め、宏が久美子に再び、尋ねる。


「やっぱり、音がするんだよね…。誰か来たのかな?」


そういうと久美子は立ち上がり、居間から出て行こうとする。


「こんな時間に?誰も来やしないよ。風。ただの風。」


今度は宏の方が、さして気を止めず、ススっとお茶を飲む。


「ならいいんだけど。確認してみる。」


襖を開け、久美子は左手にある玄関に目をやる。

玄関は無音で、薄暗く静かだ。

暖かった居間に、廊下の冷気がスッと忍び込み、宏の体にまとわりつく。


灯りのない玄関。

そのすりガラスに、白い人影が見えた。

久美子の予感通り、玄関に人が立っていた。


「あっ、やっぱり、人だ。誰か来ている。」


ポツリと久美子が呟く。


「えっ⁉ホントに?」


「うん。人影が見える。」


玄関を指さし、久美子は宏を見た。


「とか言って、からかってんじゃないのか?」


久美子の性格を知る宏は、自分を騙しているのではないかと疑い、突然、訪れた夜更けの訪問者よりも、久美子の言葉に身構えた。


「本当に居るんだって。」


久美子の顔が真剣になればなるほど、宏の警戒感が増す。


「こんな時間に、誰が来るって言うんだよ?」


気が付くと宏は、コタツから体を出し、中腰になっていた。その姿勢は、玄関に立っていると言う謎の訪問者に対してのものなのか。それとも、久美子に対してのものなのか、それはよくわからないが、反射的に体が動き、知らず知らずのうちに、臨戦態勢をとっていた


「わからない。とにかく行ってれば、わかるでしょ。」


無防備に玄関に行こうとする久美子を宏は止めた。


「俺が行くよ。」


「なんで?」


「いや、だって、俺は夫だし、男だし、こういう場合は、やっぱり、ねっ。」


勇ましい言葉と裏腹に、弱弱しい態勢をとる宏の姿を見て、久美子は、「ん~、それは、どうかな~。」と、愛嬌たっぷりに微笑み、玄関へと向かった。


「はいはい。そうですか。わかりましたよ。」


拗ねるように答え、宏はコタツに戻る。




「は~い。今、開けますから~。」


玄関の電気をつけると、やはり、人が立っていた。

白いコートのようなものを着た細いシルエットが、寒空の夜に、くっきりと浮かぶ。


「待って下さいね。」


久美子は鍵を開けながら、訪問者に話しかけるが、外からの応答はなにもなく、ただ訪問者は、ジッと立っていた。


「どちら様ですか?」


玄関の戸を開けると、そこには見知らぬ女性が立っていた。

とても綺麗で、美しい訪問者。

上品な香りが、久美子の周りで躍り出す

この町に咲くことのない可憐な薔薇が、久美子の玄関先で咲いていた。


「…み、き、ちゃん?」


氷のように凍てつく夜の風が、久美子の体をすり抜ける。


久しぶりの再会。久美子は「彼女」だとすぐにわかった。

どんなに時間が経っていようと、姉妹のように育った幼馴染みを忘れることはない。


いつも一緒だった、かけがえのない親友。

共に笑い、共に泣いた大切な宝物。

絶対に色褪せることのない存在。


何も変わらない。変わることのない二人。

たとえ、それが一輪の薔薇になったとしても。


「クミちゃん!」


すがるように「彼女」は、久美子に話しかける。


次の瞬間、久美子は懐かしい言葉をかけるよりも先に、「彼女」が抱いている毛布に目が行く。


「えっ⁉」


久美子は驚き、「彼女」の顔を見た。

「彼女」は何も言わないまま、久美子を見るだけだった。


「彼女」に抱かれた毛布の中で、小さな手が元気に動いていた。

風の音に驚くことも、寒さにも負けることもなく、その手は元気に動いていた。

















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