第20話 「彼女」1

鈍く重い鉛色の雲が、今日も空に広がる。


見慣れた風景。


雲が幾重にも重なり合い、上から蓋をして、この町を圧し潰す。


鬱屈とした気配が、この町の呼吸を止める。


ただ死んで行くだけの寂れた小さな町。


この町の特徴と言えるものは、港しかなく、しかし、港と言っても漁船が数隻、停泊しているだけの寂しい港。

町に高い建物はなく、潮風に晒され、錆びた低い屋根が肩を寄せ合うように立ち並び、その町並みからは、緩やかでありながら、確実に朽ち果てて行く“衰退”の匂いがしていた。


昼間でも人の往来は少なく、歩いているのは腰の曲がった人ばかり。子供の笑い声は聴こえて来ない。

聴こえて来るは、港から吹く強い風の音ばかり。


海から吹き込む強い風は、ビヨウビヨウと死者の悲鳴のような声を出しながら、小さな町を走り抜ける。

やがてその声は古びた家々にぶつかり、窓を激しく叩く。

自分の存在を教えるかのように何度も何度も窓を叩く。誰にも気付かれることのない死者の悲鳴が、狂ったように町の中を駆け巡る。


死者の悲鳴のような風が窓ガラスを強く叩いても、この町の住人にとっては子守歌。日常に溢れるただの音。


誰も気にしない。

何も聴こえない。


暮れ行く時間の中で、ストーブの前で、二人の少女が絵を描いている。

ノート一面、色鉛筆を使って絵を描いている。


テーブルの上には仲睦まじく、二人のランドセルが並んでいる。  


右側でうつ伏せになり、絵を描いている女の子は、おさげ髪をして、目がクリっとした愛嬌のある顔した女の子。上手くはないが、ヒマワリを描いている。その子の性格なのだろう。大きな大きな季節外れのヒマワリをノート一面に描いている。


そのおさげの女の子の左側で、正座をして、背中を丸めながら夢中になって絵を描いている女の子。鼻筋が通り、真剣な横顔がどこか大人びていて、とてもおさげの子と同じ年には見えない。

そして、その子は特別な感性を持っていた。おさげの子のように元気溢れる子供らしい絵は描かず、モナ・リザの絵を描いていた。

子供が描いたとは思えないほど繊細で、しなやかな色使い。そして、なにより構図をちゃんと理解して描いていた。おそらくこれは、この子の持って生まれた才能。いくら大人びているとは言え、まだ子供。考えて描けるものではなく、本能で理解し、描いている。そうとしか言いようのない絵だった。


おさげの子が、モナ・リザの絵を見る。


「ねぇ、美樹ちゃん。このオバさん、だれ?」


初めて見る絵に、おさげの子はキョトンとした顔で「彼女」に聞いてきた。


「これはモナリザって言う絵で、昨日、学校の図書館で見たの。世界で一番有名な絵なんだって!」


「彼女」は少し興奮しながら、おさげの子に話す。モナ・リザについて覚えた知識が言葉となって、溢れ出る。

昨日、ルーヴル美術館でモナ・リザを観て来たかのように「彼女」は生き生きと話し、その話し方に不思議とおさげの子は惹きつけられ、モナ・リザを知らないはずなのに夢中になって聞いている。


絵を描くことが大好きで、綺麗なものに対し、好奇心が抑えられない「彼女」の想いが、放つ言葉となって、キラキラとした光り出し、その話す笑顔は、おさげの子が描いたヒマワリよりも、ずっと、ずっと輝いていた。


「スゴイね!美樹ちゃん!物知りだねっ!」


おさげの子は、「彼女」の話しにすっかり夢中になり、興奮していた。


「そ、そうかな…。」


「彼女」は照れながら、少し、はにかんだ。


「美樹ちゃん、こんなに絵が上手なんだから、将来、漫画家さんになったら?」


おさげの子は身を乗り出し、興味津々で「彼女」に聞く。


「…私、画家になりたいの…。」


「彼女」は、オサゲの子のを見ることが出来ず、自信なさげに下を向き、小さくポツリと呟く。


「画家って、絵を描く人?」


静かに「彼女」は頷く。


「絶対なれるよー!」


「ホント?」


「彼女」のは、おさげの子のを真っ直ぐに見て、聞き返した。


「ホントに、そう思う。」


「うん。思う!」


おさげの子は大きく首を縦に動かし、答える。


その反応を見て、「彼女」は天にも昇る気持ちだった。


一番大好きな人に、一番大好きなものをわかってもらった嬉しさ。否定されなかった喜び。


ドキドキしながら伝えた想いが、ちゃんと届いた。


「…ありがとう…。」


顔を真っ赤にしながら「彼女」は、おさげの子のを見て、不器用に想いを伝えた。


「美樹ちゃんなら、絶対、さんのような有名な絵を描けるよ!」


「…うん…。」


褒められることに慣れていない「彼女」は、また下を向き、恥ずかしそうに答えた。


「将来、モザギザさんのような絵が描けたら、私に一枚、ちょうだい。」


「うん。いいよ…。」


「彼女」は小さく頷いた。


「ヤッター‼」


おさげの子が両手を挙げて大喜びする。


「彼女」は嬉しかった。泣きたくなるほど嬉しかった。

絵を描いて、大好きな人が喜んでくれている。ただそれだけで、「彼女」の心は救われた。


「ぜったいだよ!」


おさげの子が満面の笑みで「彼女」に話しかける。


「うん!ぜったい!」


おさげの子に釣られ、「彼女」も自然と笑みになる。


「約束だよ!」


「うん!約束!」


窓に叩きつける強い風も、二人のケラケラとした笑い声で掻き消され、聴こえない。


ストーブの上に置いたヤカンがカタカタと鳴っている。




オサゲの子が「彼女」の描いたモナ・リザを見て、ふと、質問をする。


「美樹ちゃん。なんで、モザリザさんは顔が半分、取れてるの?」


「彼女」の描いたモナ・リザは、右目から鼻にかけて直角に切り取られ、三センチほど右側にズレていた。


おさげの子は生まれて初めてモナ・リザの絵を見たので、モナ・リザの絵というものは、こういうものなのだと思った。

顔が半分、横にズレていることが普通だと思い、特段、不思議には思わなかった。思わなかったが、なぜ、横にズレているのか知りたかった。どんな理由があるのか知りたかった。


興味から来る純粋な質問。


「それ、私がズラしたの。」


「彼女」は、を輝かせ答える。


「美樹ちゃんが、ズラしたの?」


「うん。」


「彼女」のが、ますます輝く。


「なんで?なんで、ズラしたの?」


これもまた、興味から来る純粋なものだった。


「だって、こっちの方が綺麗なんだもん。」


「キレイ?」


「うん!綺麗!」


「キレイ…へぇ~。」


「彼女」は絵の才能と共に、「彼女」しか分からない独特な美的センスが備わっていた。それは感覚的要素が多分にあり、言葉では表現できない。「彼女」がおさげの子に言った “こっちの方が綺麗” その言葉が端的で、素直に「彼女」の気持ちを現わしている。


「美樹ちゃん!スゴーい!」


おさげの子も何が何だかさっぱりわかってはいなかたっが、「彼女」の描いた絵から発せられる才能の匂いを無意識に感じ取り、心揺さぶられ、興奮していた。


それは本能で感じたもの。


決して、デタラメに大騒ぎしているのワケでも、いい加減に話しを合わせているワケでもない。ただ純粋に喜び、興奮しているのだ。

それもすべて、「彼女」の絵から放たれる強い才能がそうさせている。


例えそれが、幼い子供であっても関係ない。


「彼女」の感性は伝播する。


それはおさげの子の表情を見れば、一目でわかる。


感受性を揺さぶらることに抗える者など一人もいない。

抗っても、気付かずに揺さぶられてしまうものが感受性であり、人というもの。

「彼女」の絵にはその力が強烈に宿っていた。見る者の感受性をいとも簡単に激しく揺さぶり、鷲掴みにする強烈な力。世代や国境をも軽々と越える見えない力が「彼女」の絵には含まれていた。



「久美子ーっ。」


キャッキャッとふざけ、遊んでいる二人の居間に女性の声が響く。


「なーにー?おかーさん。」


おさげの子、久美子が大声で返事をする。


「なーに?じゃないでしょ。」


居間に通じる廊下から久美子の母が顔を出し、久美子に話しかける。

久美子の母はクリっとした目をしていて、その表情は明るくて、柔らかい。それはまるでヒマワリのような雰囲気を持った女性で、久美子の愛嬌のある顔立ちは母譲りのようだ。


「お母さん、美樹ちゃん送って行くから、アンタは宿題しときなさい。」


「えー、もうちょっといいでしょ。」


久美子は母に駄々をこねて抵抗する。


「何言ってるの。もう四時過ぎたでしょ。暗くなる前に帰らないと佐伯さんのおばあちゃんも心配するから。美樹ちゃん支度しといて。」


「はい。」


嬉しそうに「彼女」は返事をする。


「あれ?稔はどうしたの?」


母は周りを見ながら久美子に尋ねた。


「稔?知らなーい。まだ学校じゃない?」


ストーブの前に散らかったノートや鉛筆を片付けながら久美子が答える。


「ったく。暗くなる前に帰って来いと言っているのに、ほっつき歩いて、あの子は!」


このどこにでもある些細な風景が「彼女」には羨ましくて堪らなかった。このありふれた日常が、なんでもない日々が、羨ましくて、羨ましくて仕方がなかった。そんな会話をしている久美子にジッと見つめてしまうほど、「彼女」はこの雰囲気に憧れていた。


この何気ない会話が好きだった。

一度でいいから加わってみたかった。


「お父さんも帰って来るから、早く片付けてちょうだい。」


せかすように母が久美子に言う。


「えー、まだいいでしょー。」


久美子はまだ諦めきれず、駄々をこね最後の抵抗を見せる。


「ダーメ!アンタは宿題!」


無慈悲な母の声が命令となって、久美子をピシャリと𠮟りつける。


「そうだ!美樹ちゃん、ごはん食べて行きなよ。ねっ、美樹ちゃんいいでしょ?」


「彼女」は困っていた。でも、嬉しかった。


「それじゃ、今日、泊まって行きなよ!ねっ?そうしょう!いいでしょ?美樹ちゃん⁉」


「彼女」のを見て、気持ちを読み取ったのか、久美子はグイグイと押し、「彼女」に“うん”と言わせようと必死だった。


「彼女」はやっぱり困る。でも、やっぱり嬉しかった。


「何言ってるの⁉明日も学校でしょ!美樹ちゃんも困ってるじゃない。ゴメンね美樹ちゃん。」


久美子の母は、優しく「彼女」に謝った。

嬉しさを悟られないように「彼女」は、大きく横に首を振り、無言で答える。


「さっ、帰ろう。おばちゃん送って行くから。」


今度は嬉しそうに首を縦に動かし、「彼女」は答えた。

久美子の母の笑顔は優しく、ぬくもりのある笑顔だった。毛布のように暖かく、ずっとくるまっていたいと「彼女」は願った。


「アンタは宿題!」


「…はーい。」


鬼のような顔で見る母を見て観念したらしく、久美子は抵抗をやめた。

久美子の浅はかな計画は、あっけなく終了した。




日が暮れ始めた町を久美子の母と「彼女」は手を繋ぎ楽しそうに歩く。二人の影が夕陽に照らされ長く伸び、親子のように寄り添う。


風が吹き荒れ、二人の背中を強く押す。しかし、「彼女」は平気だった。寒さも冷たさも感じなかった。

この帰り道の時間は、「彼女」にとって、かけがえのない時間。久美子から母を奪い、親子を疑似体験できる時間。


“もし、母親がいれば、きっと毎日、こんな話をするのだろう”

“この手のぬくもりを毎日感じていたい”


「彼女」は久美子の母と手を繋ぐ度、久美子に嫉妬していた。

母のぬくもりを独占できる久美子が羨ましかった。


どんなに身を切るような冷たい冬の風が「彼女」に襲いかかって来ても、久美子の母の手のぬくもりさえあれば、それで良かった。他は何もいらなかった。


例えそれが、偽りの時間であったとしても。




「はい。家に着いたよ。」


久美子の母は優しく、微笑みながら「彼女」に告げた。


「おばちゃん、ありがとう。」


微笑んで「彼女」も答えるが、そこに待っているものは、吐き気を催すほどの汚く、醜い現実。


久美子の母が建付けの悪い戸を開けると、すえた臭いが、プーンと「彼女」の鼻にまとわりつく。毎日嗅いでもなれない臭い。

久美子の家には無い臭いが、真っ暗な土間で漂っている。この臭いを久美子の母も嗅いでいるのだと思うと、「彼女」はいたたまれず、消えてしまいたい衝動にいつもかられる。


土間の先には、電気のついていない廊下が地の底へ向かうように真っ直ぐと伸び、死んでしまったかのように、家は静かだ。


「佐伯のおばあちゃーん。美樹ちゃん送ってきたわよー。」


数秒してから、右側にある手前の襖がゆっくりと開くと、部屋の明かりが廊下にまで漏れ出し、死んでいる家を鮮明に映し出す。

「彼女」にとっては堪え難き現実。久美子の母に、この死んでいる家を見せる度、「彼女」の心は悲鳴を上げ、苦しみ悶える。


部屋の明かりと共に、白髪の老婆が顔を出す。


死者のような顔。

枯れ木のように朽ちた指。

曲がった腰。

息をしているだけの屍。


「彼女」にとって、吐き気を催すほどの現実が、地の底へと向かう廊下にゆっくりと現れ、久美子の母と目が合う。


「おばちゃん。ありがとう。」


久美子の母の顔を見ることもなく、「彼女」は左奥にある自分の部屋に逃げ込んだ。


“みっともないところを見られてしまった” そう思うだけで「彼女」は死にたい気持ちになった。


食卓にハンバーグやオムライスも出て来ない家。

誕生日ケーキも、クリスマスプレゼントも、お年玉もない家。


こんなみすぼらしい家で、死んだような祖母と二人暮らしている現実が、「彼女」には耐えがたい苦痛でしかなく、それを大好きな久美子の母に見られていると思うと、恥ずかしくて、恥ずかしくて泣きたくなる。


祖母と同じ空気を吸うのも嫌なこの家で、久美子の母に同じ空気を吸わせている。


それは、拷問にも似た恥辱。


玄関先で楽しそうに話しをしている二人の会話を遠くで聴きながら、「彼女」は夢中になってノートに絵を描く。


絵を描いている時だけは、この家に住んでいることも、祖母のこともすべて忘れることができた。


「彼女」にとって “絵を描く” という行為は、この家で正気でいられるための“生命維持装置”  


すえた臭いも感じない。

窓を強く叩く風の音も聴こえない。


































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